9
燐光がシヴァの頬にふれる寸前――
軌道が変化した。
胸に。
一気に、押しつけられる。
シヴァの無表情な顔貌が、劇的に変化した。
目をむきだし、内臓が飛び出しそうな絶叫をわめき上げた。
光が触れたのは、ほんの一瞬に過ぎなかった。
それでも想像を絶する苦痛がシヴァの全身をしぼり上げているのを、フィローリアは知っていた。
思わず固く目をつぶる。
弾ける哄笑が耳をつんざく。
「顔は最後なんだ。顔は最後なんだよ、シヴァ。最初は胸からさ。フィローリアのときもそうだった。おまえには時間をかけられないから、あとで改めてフィローリアにも刻ませてもらうぜ。描き直しの機会を与えてもらえたと思えば、かえってありがたい気分になってきたよ。礼をいわせてもらうわシヴァ。これがその感謝の印だ」
いって、再び針先を押しつけた。
今度は、右の乳首。
苦痛がかたちになって破裂しそうな絶叫が再び響く。
かぶせるように哄笑が。
固く目を閉じたままのフィローリアの耳朶に――そのとき、もうひとつの異音が届けられた。
うっすらと目をひらく。
涙ににじんだ視界の端に――セイエドの姿が入った。
杖をついた手を前方に突きだし、半歩を踏み出した姿勢で飛び出るような凝視をシヴァのいる方角へ向けている。
半開きにした口もとから、荒い息がもれていた。
渇えた者が水を希求するがごとく、苦しみもがくシヴァに向けて身を乗り出している。
類は友を呼ぶ、のたぐいか。そのかたわらにたたずむ二人の側近が、まったくの無表情を保っているのも異常に見えた。シヴァの無表情とはまるで性質がちがう。機械のような無表情。
さらなる絶叫が響きわたる。少女は顔をそむける以外にすべはない。たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、だれかシヴァをたすけて、心のなかで呪文のようにくりかえす。想い人の絶叫をかき消そうとするかのごとく、一心に。
苦痛と狂気がふいにやんだ。
ぎくりと少女は目をひらいた。
最初に目についたのは、吊られた姿勢のまま、ぎろりと目をむいたシヴァの姿だった。
胸から腹にかけて、一見でたらめとも見える醜悪な傷跡が走りぬける。少女につけられていた刻印と同じ手順だった。思わずくちびるをかみしめる。
それから――シヴァの視線の先に目を移した。
壁に叩きつけられたかっこうで――タバータバーイーが呆然と目を見ひらいてシヴァを見つめ返している。
信じられぬものを見た顔つきだった。
それからようやく――視界の端にうごめくものに気がついた。
炎。
テーブル上のろうそくが倒れたのだろう。いちめんに炎が燃え広がっていた。
「火を消せ」
セイエドが重々しく命ずる声音が耳に入る。
呼応するごとく、盛大に燃え上がる火炎に向けて噴出する白い泡が浴びせかけられた。
鎮火は――しなかった。
ふりかかる消火物質に怒りを触発されたかのごとく、炎が爆発的に膨張した。
ふいに言葉が浮かぶ。
サイコバースト。
超能力(ティール)の暴発。
制御を失い暴走するシヴァの力が、タバータバーイーの人工的な能力を凌駕したのかもしれない、と思い当たる。
その触媒となったのが――炎か。
シヴァの最初の記憶は、炎のなかにたたずむ盗賊だったときかされたことを思い出した。
シヴァにとって、炎は恐怖の象徴――あるいはもしかしたら、欠落の象徴であるのかもしれない。
「お逃げください」
かたわらで言葉が発される。側近のひとりがセイエドの背を押して避難を促す光景がそこにあった。
タバータバーイーは呆然とシヴァを見つめるばかり。
そしてシヴァは――
むき出した目を、ふいに少女に向けた。
恐怖が先立った。自分の知っている恋人ではない、と。
だが、目はそらさなかった。
受け止めよう、と思った。
シヴァの苦痛。シヴァの空白。シヴァの狂気。シヴァの怒り。シヴァの恐怖。
愛だけでなく、シヴァのすべてを受け入れようと思った。
だから、目をそらさなかった。
答えるごとく――
金属が割れ弾ける鈍い音が、頭上に起こった。
同時に、固定された右手首が、ふいに解放される。
ついで、右足、左足とほぼ同時に枷が砕け散った。
最後に、左手首が。
支えを失い床に崩おれかける少女のからだを――何かが抱きしめた。
目に見えない何か。
だがなじみ深い感触。
われ知らず、想い人に視線を飛ばす。
「いけ」
怜悧な瞳が少女に告げた。
端正な美貌に、仮面の無表情が戻っていた。
見えない力が少女を正立させる。
呆然とたたずむだけのフィローリアに、シヴァはもう一度くりかえした。
「いけ。あとから合流する」
拒否しようとしたが、最後のセリフに逡巡する。
とどめは、シヴァの両手首を固定した鎖が砕け落ちるとともに訪れた。
「待ってるよシヴァ」万感の想いをこめて、少女は口にした。「ふたりで暮らそう。過去も未来もない、いまだけの時間を。だから待ってるよ、シヴァ」
無表情な美貌が、かすかに笑いながらうなずいたような気がした。
少女はうなずき返し、走りだした。
部屋を出ても燃え盛る炎はその手をあちこちに広げていた。
屋敷全体が燃えているのかもしれない、と少女は思った。
暴走するシヴァの力が、一瞬にして一帯に炎をもたらしたのか。
身を低くし、引き裂かれた衣服の一部をもぎとって口に当てた。
あとはただ走るだけだった。
だが火炎が燃え広がるいきおいのほうが遙かにはやかった。
またたくまに、炎に行く手を阻まれる。
戻ろうと踵を返しかけたが、背後にも逆まく炎がおしよせた。
くちびるをかみしめる。
シヴァの放った炎になら、灼かれてもいいかもしれない。
そんな想いは一瞬だけだった。最後に交わした約束の言葉を思い出し、なんとしても助かりたいと考えた。
「一気にかけぬければ、どうにかなるかな」
つぶやき、先に進むか後退するか逡巡して左右を見まわす。
自身で選択したなら、シヴァのいるはずの後退を選んだだろう。
わずかな差で、転機が到来した。
青い霧とともに。
噴出する気流のように、霧は炎の舌を吹き払い――わずかにいがらっぽさを伴う噴煙のなかから闇が出現した。
人型をした闇が。
黒髪に闇色のターバン。黒い風よけ(パトウ)に長身をすっぽりとつつみ、その下には赤を基調とした幅のひろい飾り帯に、ブラックメタルのブラスター。
「……ジルジス?」
考えるより先に、言葉が口をついて出る。
ターバンの下、鋭利なナイフのように鋭い視線が、少女に向けられた。
鋭利だが――不思議に安堵を誘う双の瞳が。
シヴァと似ているんだ、と気がついた。だからこわくはないのだと。
盗賊ジルジス・シャフルード。