8
きりきりきりと音を立てて鎖が引きしぼられる。
袋叩きにされ襤褸ぞうきんのように横たわっていたシヴァの裸体が、鎖でしばり上げられた両手首を支点に持ち上げられた。
薄汚れた煉瓦敷きの床、壁、鉄枠で武骨に仕切られた重厚な扉。ところどころどすぐろくくすんでいる。室内を照らし出しているのは、何本ものろうそくの灯り。ふるびた木製の机と椅子が数脚。集うた人数は、シヴァを除いて四人。
セイエドに二人の側近、鎖の上下をあやつるレバーを手にしたタバータバーイー。そして、壁にとりつけられた四つの枷に、衣服をつけたまま手足を固定されたフィローリア。
狭いとはいえない特別室だったが、それだけの人数が入ると窮屈な印象は否めない。
が、それよりはむしろ室内に立ちこめるすえた臭気のほうが、より息苦しさを助長していた。
セイエドの趣味で設置された拷問部屋だと、タバータバーイーが説明した。逆らった人間や逆鱗にふれた人間を、この部屋で思うさま苦しめたあげく死に至らしめてきたのだと。
そして――タバータバーイーがセイエドのスカウトを受けた理由も、用心棒としてのキャリアはもちろんだがそれ以上に、優秀な拷問吏としての腕をかわれてのことだったのだと。
「わかるか、シヴァ」いましもよだれをたらしそうな顔つきで、タバータバーイーはいった。「おれはもともと医者だったんだ。それも遺伝子治療専門のよ。最初はまっとうな医療活動ってやつもやってはいたんだぜ。難病と認定されていたいくつかの病の治療法も確立してきたし、その筋じゃ名前も知れている。後期にゃ美容整形にも手をだしててな。遺伝子をいじくることで、容貌や体格まで好きに変えることができるんだ。そりゃあ感謝もされたもんさ。だがなあ」
言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。
レバーを固定すると、ゆっくりとした足どりでシヴァに歩みよる。
仮面をつけていない男の顔に、恋人のように頬をよせた。
目をほそめる。
「きめの細かい肌じゃねえか」
いって、べろりとシヴァの頬に舌をはわせた。
フィローリアは目をそらす。
「おまえらのことはぜんぶモニターしてたから、知ってるぜ。てめえ、この人形みてえにきれいな顔が、気にくわねえんだってなあ」
五指をシヴァの頬にはわせた。
なめくじのように、顔中をなでまわす。
視線は、シヴァの瞳に固定したまま。
「どうした、マジュヌーン。自慢の超能力が使えずに焦ってるか? 安心しな。力が去ったわけじゃねえ。おまえより強いこのおれさまが、抑制してるだけさ」
もう一度、べろりと頬をなめずった。
シヴァは表情を変えぬまま、虚空に視線をやる。
ち、とタバータバーイーは舌をならし、
「おれがよ。アタルヴァンになったのも、自分で自分の遺伝子をいじくったからさ」
驚くべきことを口にした。
ちらりと、シヴァの視線が動く。
へへ、とタバータバーイーは笑った。
「理論はずいぶん前から完成してたんだ。けどよ、こっそり何人かの患者に試してみたんだが、うまくいかねえ。超能力が顕現しねえんならまだいいほうで、おまえみたいに出来損ないのマジュヌーンになっちまったり、ひでえときには発狂したりおかしな病気になったりして苦しみ悶えて死んじまったりしちまった。ま、原因不明で処理したんだが……そんときの患者の苦しむさまをみて、おれァすっかりいかれちまってなあ」
「安心しろ」シヴァが口をひらいた。「おまえは最初からいかれていた」
瞬間――
見えないハンマーが腹部を強襲したごとく、シヴァの裸身が背後の壁に叩きつけられた。
血泡が、口端に弾ける。
「シヴァ!」
叫び、フィローリアは身を乗り出す。むろん、捕縛を解くことなど不可能。
ちらりとタバータバーイーがふりかえった。
歯をむきだしにしていた。
悔しさと怒りに歯ぎしりしているようにも、あまりの歓喜に笑いを噴き出させているようにも見えた。
シヴァに視線を戻す。
「業を煮やしてよ」そうつづけた。「自分で実験してみたのさ」
「スタンダードなマッドサイエンティストのありようだな」
血泡をはじけさせながらシヴァがいう。
タバータバーイーはふたたびシヴァの頬にくちびるをはわせた。
端正な顔面を汚す血液を、ひとつひとつ、丹念にくちびるで吸いとっていく。
すべての赤をその舌でぬぐい終えると、満足げにシヴァの顔をながめやった。
「実験は成功だったよ。いまじゃ、おれさまは立派なアタルヴァンさ」
「いや、失敗だったな」シヴァはいう。「もともといかれていた頭を、治すどころか本格的に狂わせてしまった」
再び、超能力による癇癪が破裂するかとフィローリアは目をむいた。
が――あははあ、と、タバータバーイーは幼児がよろこんだときのような笑い声を立てた。
「そうかもしれねえな。おれは、だれかが苦しみもがくさまをながめてねえと満足できねえ人間になっちまったんだ」
視線が、少女に移動する。
腰がひけるべき場面だが――少女は瞳に怒りをこめて、にらみかえした。
ふふんとタバータバーイーは笑った。
「人形が、生意気に意志を持ちはじめやがった。恋は偉大だねえ」
いって――拳で、シヴァの腹部を思いきり打ちつけた。
ふたたび血を吐きながらシヴァのからだがくの字に折れ曲がる。
「まあそういうわけでよ」タバータバーイーは上機嫌につづける。「妙な風評も立ちはじめて、おれは医療の世界を追われちまった。たいして未練はなかったがな。かといって、遺伝子治療やその類似好意をつづけていく気にもなれなかった。自分が万能の力を得たことで、なんだかいろんなことがばからしくなっちまってなあ。極端な話、ひとが苦しみ悶えるさまを見る以外のことに、興味がわかなくなっちまったんだ。だから、そういう素材に困らないような場所をさがして、この世界におちついたんだよ」
ねっとりとした視線を、シヴァの全身にはわせる。
フィローリアは歯を食いしばった。
「わかったわ、タバータバーイー」
不思議そうに用心棒はふりかえった。
視線で挑みかかりつつ、少女はつづける。
「あんたがあたしを抱かなかったわけ。その狂った遺伝子治療で妙な能力を身につけたかわりに、あんたインポになっちゃったのよ。そうでしょ」
「おれはそういうことに興味をなくしただけだよ」
奇妙に淡々とした口調で、タバータバーイーはいった。
フィローリアは声を立てて嘲笑った。
「隠さなくてもいいわよ。あんたは女を抱きたくても抱けなくなっちゃったんだ。かわいそうに。だから女に対する憎しみが高じて、女が痛がるさまを見て歓ぶような変態になっちゃったんだ。かわいそうに。かわいそうに。あんた男として終わってるわ。ああかわいそう」
言葉を重ねるにつれ、タバータバーイーの表情が怒りに膨張しはじめた。
罵声が“力”とともに暴発する寸前――
「おまえは絵画に興味があるのか?」
シヴァが背後から呼びかけた。
タバータバーイーは瞬時、きょとんと目をむいたが、やがてにやりと笑った。
「なぜそう思う?」
「フィローリアのからだに刻まれた遺伝子の刻印を見たからだ。狂騒的で醜悪な刻印だが、それだけに背筋がふるえてくるほどの迫力があったことも事実だ。ジルジスが見たら、おそらく賛嘆するだろう。キャンバスをまともなものに変更すれば、表の世界でも天才と認識されるくらいだとおれは思った」
にたにたとタバータバーイーは笑う。
「あいにく、おれにそんなつもりはないね。自分でそれを楽しめればいいのさ。まっさらな、おれだけのキャンバスに、ゆっくりとゆっくりと像を結んでいく過程が楽しくてたまらんのでなあ。おまえのからだにも、刻んでやるよ。あいにく、危険すぎるんで時間をかけてってわけには、いきそうにないがなあ」
対してシヴァは――奇妙なセリフを口にした。
「すまなかったな」
タバータバーイーはくちびるをすぼめる。
視線にこめられた疑問をシヴァは無表情に受けとり、つづけた。
「丹誠こめてつくりあげたおまえの芸術を、台無しにしてしまって」
なおしばし、タバータバーイーは意味がわからずシヴァを凝視したままだった。
が、ふいに――ぎょっとしたようにフィローリアに向き直った。
一足飛びに近づいて、抗うまもなく少女が身につけた衣服を一気に引き裂いた。
煌々と照らされる灯火のもと、想い人の眼前で醜悪な裸身をさらされたことに少女は目を閉じ、くちびるをかみしめる。
だが――
氷結した沈黙に、おそるおそる目をひらいた。
呆然と自分を見つめるタバータバーイーの姿がそこにあった。
セイエドはなにごとかと眉間にしわをよせる。
その背後で、吊られた姿勢のままシヴァが、励ますように少女を見つめていた。
ごくりと喉をならし――目を落とした。
自分の裸身に。
傷ひとつない白い素肌があった。
狂った男におぞましい印をつけられる前の、無垢な素肌が。
「できるはずがない……」
魂のぬけた口調で、タバータバーイーがつぶやく。
「おれにも、いつでもできるというわけではない」その背後でシヴァがいった。「マジュヌーンであるという点をさしひいても、ヒーラー(治癒能力者)としてのおれは特に不安定なのでな。心から救いたい、と願う相手でなければ、その力は発揮できないらしい」
あ……と、われ知らず声が出る。
汚される前と変わらぬ自分の裸身から、愛した男へと視線を転じ――
涙で、視界が遮られた。
「シヴァ……」
ありがとう、と口にしようとして、それ以上は言葉にならなかった。
声を立てて泣いた。
四肢を固定されて涙をふくこともできぬまま、少女はただ歓喜と安堵とに涙を流しつづけた。
そのかたわらで――呆然とたたずむことしかできずにいた狂った男はふいに絶叫した。
絶叫しながら、壁にごん、と額を打ちつけた。
ごん、ごん、ごんと、幾度も幾度も打ちつけつづけた。
額が割れて鮮血が飛びちっても、タバータバーイーはその動作をやめようとはしなかった。自動玩具のように何度も何度も同じ動作をくりかえした。
もっとも悲惨な事実は、それをとめようとする者がどこにもいなかったことかもしれない。
そしてふいに、血まみれの鬼神のような容貌になったタバータバーイーが動作をやめて人形のようにぐるりとシヴァに向き直った。
笑っているとも、怒り狂っているともつかぬ歯をむき出しにした表情でひとしきりマジュヌーンを見つめたあと――がば、と壁の一角にとりついた。
狂ったように煉瓦壁のあちこちをまさぐりはじめる。完全におかしくなったともとれなくはない行動だが――セイエドと側近二人だけは、少なくともタバータバーイーの行為の意味は理解している様子だった。
理由はすぐに知れる。煉瓦の一枚がふいに、音もなく割れて前方に倒れこんだからだった。
その奥から、コントロールパネルがあらわれた。
それを見て反射的にフィローリアは悲鳴をあげる。
タバータバーイーの私室――ベッドわきの壁に内蔵された装置と同じだったからだ。
安っぽく黒光りするチューブの先端にトリガーと針のついた危惧を手にして、タバータバーイーがシヴァをふりかえる。
今度はまぎれもなく笑みを浮かべていた。狂気の笑みを。
「この蛮人めが」
笑いながらタバータバーイーはいった。
シヴァは無表情に見返す。
「この蛮人めが!」くりかえした。「価値のない人間だ。おまえは価値のない人間だ。この世界にごまんと存在する、死ぬ以外に役に立つすべのないゴミのような人間だ。だがこのおれさまが、きさまに価値を与えてやるぜ。偉大なる芸術の素体としての価値をよ」
よだれをたらしながら、トリガーをゆっくりと引いた。
針の先端に、蛍火のようにおぼろな紫色の燐光が浮かびあがる。
空間にうがたれた汚辱のような、燐光だった。
「これで刻印を受けた患者のひとりが、形容したことがあるぜ」つばを吐きちらしつつタバータバーイーはいった。「魂の芯を切り刻まれるような苦痛だ、とな。おまえにも、それを味わわせてやるよ」
ゆっくりと、トリガーにかけた指を前後させる。その動きにつれて、針の先端の燐光も脈動するごとく明滅した。
その明滅が、シヴァの端正な顔にゆっくりと近づく。
フィローリアは悲鳴を上げた。
ほかにできることはなかった。ただ声の限り、叫びつづけた。