6

「タトゥか?」
 シヴァは淡々とした口調できいた。
 少女は首を左右にふる。
「遺伝子変換」
「素人が遺伝子変換の道具を手に入れられるものではないが」
「タバータバーイーはもっているの」
 男は黙りこんだ。
 少女はつづける。
「あいつはあたしを抱かない。ただ日ごと夜ごと、こうしてあたしのからだに奇怪な模様を刻みこんでいくだけなの。――麻酔なしで」
 かすかに、男の眉間にしわが刻まれたような気がした。
 気のせいだったかもしれない。マスクは、つけられたままだ。
「終わったあとで、たいてい鎮痛剤がもらえるわ。だけど――」
 それ以上は、言葉にならなかった。
 男もまた、何もいわない。ただ無感情な視線で、無惨な少女の裸身に視線を注ぐだけ。
 少女もまた、つとめて表情を顔に出さないようにしてきた。
 それも限界だった。
 目頭がふるえる。
「ごめんなさい……」
 言葉とともに、涙が堰を切ってあふれ出す。
 顔を伏せ、肩をふるわせ、むせび泣いた。
 仮面の男はしばし無言のままたたずむばかりだった。
 が、やがて――風に飛ばされた衣服をひろいあげ、少女の裸身をつつみこんだ。
 そのまま、抱きよせる。
 折れるほど抱きしめられたかったが、それはかなわなかった。
 だから少女は――自分から、抱きついた。
 しばらくそのまま、泣いた。
 おえつが残るころあいに、静かにシヴァは少女のからだを押し戻した。背を向け、無言で歩きはじめる。
 その背中へ少女は、呼びかけた。
「シヴァ。愛してるわ」
「会って一日だ」
 背中から声だけが返る。
「一日でも、恋におちるのには充分じゃない?」
 涙を目じりにとどめたまま、微笑みながらいう。
「恋と愛とはちがう」
 似合わないセリフに少女はくすりと笑い、
「わたしには、そんな区別はわからないもの。でもあなたのことが好き。わたしの全身が、そう叫んでる。これは愛じゃない?」
 否定も肯定も返らない。
 かわりに、シヴァはいった。
「おれは記憶をなくしている」
 風が吹いた。少女はかけられた衣服の胸もとをあわせ、男の言葉を待つ。
「おまえを愛せたとしても、記憶を取り戻したときどうなるかがわからない」
 理解できた。彼には――シヴァではない、記憶をなくす以前のもうひとりの彼には、もしかしたら家族がいるかもしれない。恋人が。息子や娘が。帰るべき家が。ほんとうに愛していただれかが。
「だからこわい?」
 少女はきいた。
 シヴァが、ふりかえった。
 仮面の無表情。
 双の瞳だけが、静かに見つめる。
 おだやかな気分でその澄んだ瞳を見つめ返し、フィローリアはいった。
「わたしには、いまだけだもの」
 そのまま、闇に沈んでいく屋上で風に吹かれながら、ふたりはただ見つめあった。
 やがてシヴァが、無言のまま少女のかたわらに歩みよった。
 肩に手をかけ、そっと促す。
 抗わず、少女は男の腕につつまれたまま歩を踏み出した。

 抱いて欲しいとはいわなかった。ただ添い寝をしてくれればいい、と。
 暗闇のなかで少女は、裸のまま寝台のなかへもぐりこむ。
 さきにハンマームから上がっていたシヴァのからだに、すがりついた。
 男も、裸だった。仮面もつけてはいなかった。
 武骨な手指が、少女の素肌にふれる。
 それが静かにすべりはじめた。
 弾けあがる官能に、すすり泣きの声をあげる。
 否。
 官能だけではない。
 シヴァの指の感触は、何か熱いものを伴っていた。
 ふれた部分から放射状に、あたたかく広がる不思議な感覚。
 ピアニストのように繊細なタッチで、男の指先は少女の全身をくまなくはいまわった。
 遺伝子の奥底にまで暴虐に刻まれた獣の刻印を、なぞるかのように。
 めくるめく感覚の嵐に翻弄されながら、少女は哀しみと歓喜に幾度も声をあげた。
 貫かれる。
 喪失と背中あわせの至福に、少女はむせび泣いた。

「おまえはシャーイルだ」
 悲哀と幸福の入り混じった倦怠の深い静謐に全身でひたりながら、少女は男の胸が声音で響くのを耳にした。
 平穏な気分で、たくましい胸郭に頭をあずけたまま、どうして? と問いかける。
 答えなど返らなくてもよかったが、男はいった。
「おれの能力(ティール)はいま、全開状態になっている。おぼろげだが感応力も備わっているはずなのに、その力だけが働かない」
「だから、あたしがシャーイル?」
「そうだ。おまえの力が、おれの力を抑止している」
「そんなことないよ」おだやかにフィローリアは口にする。「あたし、シヴァのことが大好きだもの。あなたの邪魔なんか、したりしない」
「おまえの意志は無関係だ。ただそこに強力な力が働いている。その力が、超能力的な一種の騒音と化しておれの力の働きを阻害しているのだ」
「だって、あたし、ほかのひとがどんなこと考えてるのかなんてわからないよ」
「制御ができていないからだろう。ただ無意識に力の奔流を発散している状態だ」
 ふふ、とフィローリアは笑った。
「じゃあシヴァといっしょだね。あたしもマジュヌーンなんだ」
「そうだ」
 言葉とともにシヴァの横隔膜がふるえる感触を、フィローリアは楽しんだ。
 だから、もっと言葉をかわしていたかった。
「じゃあ、わたしはどうすればいいの?」
 男はしばし、無言だったがやがていった。
「おれは“千の顔のシヴァ”と呼ばれている」
「どうして?」
「変装が得意だからだろう。人工皮膚を使って、たいていの人間に化けることができる。おれより背の低い人間や痩せた人間にはむりだが」
「ばれたりしないの?」
「しない」
「指紋くらいならどうにかできるのかもしれないけど、声紋とか脳波はどうしてるの?」
「声紋に関しては、仲間が高性能なヴォイスチェンジャーを用意する。脳波は――模倣する相手のそれを、ほぼ再現できる」
 驚きに、フィローリアは思わず半身を起こした。
「どうしてそんなこと……」
「精神感応で相手の脳波を無意識に感知し、それを模倣しているらしい。くわしいことは自分ではよくわからない。ただ、その気になれば相手の精神構造まで真似ることができる、という程度に理解している」
「それじゃ、他人になっちゃわないの?」
 シヴァの顔の横に顔を落としながら、問いかける。
「芯には、おれのパーソナリティが残っている。ただよほど精密に行われないかぎりは、機械的にそれを区別することはできないようだ」
「便利なんだね」
 微光のもと男の瞳に映る反射に見とれながら少女はいった。
 男はつづける。
「当初は、その力を使って屋敷内の人間に変装してここに侵入するつもりだった」
「それができなかったんだ」
「そうだ」男は静かにいう。「屋敷内にシャーイルがいるかららしい、とは見当がついていた。だが、それがだれかがわからなかった」
「あたしなの?」
「まちがいなさそうだ」
「自覚はないな」
「自覚などないほうがいい」
 いって、男は少女の首すじに手をまわす。
 そっと抱きよせ、口づけた。
「力など、増して制御できない力など、もてあまして身を滅ぼす因になるだけだ。自覚がないならそれにこしたことはない」
「じゃあ、わたしこのままでいいんだ」
 男は無言でうなずいた。
 少女はため息をつく。
 よかった、と息だけで告げた。
 男の指が、いとおしげに少女の髪をなで上げる。
 目を閉じ、その感触を受け入れた。
「じゃあ、シヴァはやっぱり別の目的があってここにきたんだ」
「そうだ」
「じゃあ、わたしが邪魔なんだね」
 男は答えない。ただ無言で、少女の瞳をのぞきこむ。
「どうするの?」
 微笑みながら少女はいった。
「邪魔者は、必要なら排除する」
「じゃ、あたしを殺す?」
 殺されてもいい、と奇妙な安心感とともに感じながらきいた。
 男は首をかすかにふるう。
「じゃあどうするの?」
「これを期に、ジルジスとともに行動するのを終わりにしてもいい。過去をさがすのも、あきらめてもいいと考えている。――おまえさえよければ」
 

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