5

 黙りこんだフィローリアをシヴァは見つめ、やがていった。
「アルコールか?」
 なおしばし言葉をなくしていたが、やがて短くいった。
「お酒なら飲めるけど」
 答えになっていないと自分でもわかっていたが、それ以上説明できない。
 そうか、といって仮面の男はふたたび黙りこんだ。
「何かわかったの?」今度はフィローリアが問いかけた。「セイエドと話していたんでしょう?」
「何も。やつはおれの腹をさぐりにきただけだ」
「盗賊シャフルードがどうとかいう?」
「そうだ」
「疑ってるみたいね。あなたが実はシャフルードの斥候にきたんじゃないかって」
「当然、抱くべき懸念だな」
「ほんとうのところはどうなの?」
 シヴァは答えなかった。
 しかたなく、質問を変えた。
「ねえ、盗賊シャフルードって、どんなひと?」
 返ったのは沈黙だったが、雰囲気は変わっていた。視線を宙におよがせ、考えこむ。
 フィローリアは身を乗り出して待った。
 やがて仮面の男が口をひらく。
「奇妙な男だ」
「奇妙?」
「そうだ。やつの風評を知っているか?」
 首を左右にふる。
「名前くらいしか」
 そうか、とうなずき、
「凶悪、危険、暴虐。典型的なピカレスクヒーローを想起させるものがほとんどだ。実物は、まるでちがう」
 ふんふん、と少女はうなずく。
「いつも寝ている」
「え?」
「居眠りだ」
 奇妙な言葉に、フィローリアは声もなくただ目を見はるだけ。
 無表情にシヴァはつづけた。
「何もなければ、一日中うつらうつらしている。それだけ眠っておきながら、夜になってもちゃんと睡眠をとっているらしい。不思議な男だ」
 フィローリアはくすり、と笑った。シヴァ自身が不思議を体現している。その口から出るセリフではない、と思ったのだ。
 気にするふうもなく、男はつづける。
「性格も、伝説に謳われるような剣呑さは、ふだんはない。どちらかというと呑気だ」
「そんなひとが、どうして悪のヒーローになんかされちゃったのかしら」
 問いかけたのは、シャフルードのことに興味があったからではない。
 答えが返る。
「ひとたび事が起これば、伝説どおりの――いや、伝説など足もとにも及ばないほどの、切れ味を発揮するからだろうな」
「じゃあやっぱり伝説どおりなんじゃない」
「ギャップがありすぎる」
「そっか」笑いながら、納得してみせた。「仲いいんだね。そのひとと」
 白いマスクに、かすかな表情の変化。ほんの少しだけ、目を見ひらいたのだ。
 その視線が、虚空におよぐ。
「シヴァ」
 胸の内からこみあげるものを抑えることができなくなって、フィローリアは口にした。
 仮面の無表情が、目だけで先を促す。
「もし……もしね」
 そこまでいって、言葉をのみこんだ。
 シヴァは黙って先を待つ。
 逡巡をくりかえしたあげく、いいたかった質問とは微妙にずれた言葉を口にした。
「ここで何も見つからなかったら、シヴァはどうするの?」
「別の場所をさがす」
 至極ストレートな答えが返る。
 そうよね、と笑いながらいい、フィローリアはあいたシヴァのカップに手をのばした。
 キッチンに入る。インターフォンに手をのばした。邸内の仕入れを仕切るマネージャに告げる。
「ヘイルを注文してほしいの。そう。コーヒーに入れるヘイル。だいじょうぶ? ……そう。できるだけはやくね。お願いします」
 相手の口調は邪険で面倒くさげだった。いつものこと。それが哀しかったわけではない。
 ただ、涙があふれた。とまらなかった。キッチンで、シヴァが口をつけた空のカップを手にしたまま、少女は声をおしころして泣いた。

 タバータバーイーが再度踏みこんできたのは、陽も暮れてしばらくしてからのことだった。だれからも夕食への招待がかからず、ふたりですまそうかとフィローリアが相談しかけた矢先のこと。
 今度は、傍若無人に少女を強奪していくような真似はしなかった。かわりに、ついてきてくれないか、と口にした。
 どこへ、とのシヴァの問いに、タバータバーイーは無言で頭上を指さす。
 あまり考えるそぶりもみせず、あっさりと仮面の男が立ちあがる。
 とり残された気分で、フィローリアは胸前で指を組んだ。
 が――タバータバーイーはいった。
「おまえもこいよ。愛しいひとと、少しでもながくいたいだろう?」
 やさしげなものいいにふさわしからぬ、強い光を宿した双眸が少女をにらみつける。
 朝、陽光を締め出した暗い部屋でかけられた数々の言葉を、想起した。
 目をそらす。あらぬかたへ。シヴァの顔など、よけいに見られない。
「こいよ。な」
 肩に手をかけられた。――そっと、やさしく。
 乱暴に抱きよせられるより、数倍おぞましく感じた。
 だが抗うことなどもとよりできない。
 人形のような足どりで従うほかなかった。
 つれていかれたのは、屋敷の端に位置する塔だった。
 情報集積所としての機能を持った、最先端の科学で武装した塔だ。要塞、といってもかまうまい。
 高速エレヴェータに搭乗し、一気に最上階まで上昇する。
 丘上に建つ屋敷の、さらに天へと突出した塔の屋上へ出る。
 残照が、東の地平線を深い赤に染めあげていた。
 眼下に広がる街の灯。
 複雑な彫刻のほどこされた手すりによりかかり、タバータバーイーは気取ったしぐさで背後の夕景に手を広げてみせた。
「みろよ、シヴァ。豪勢なながめだろう」
「悪くはない」
 仮面の男はうっそりと答える。
「これがすべて、おれたちのものなんだぜ」
「興味はない」
 にべもない返答にも、色男はいささかも動じることなく言葉を重ねた。
「お宝以外にゃ、興味はないってか?」
「そういうたぐいのものに興味を持っているのは、ジルジスだ。おれはちがう」
「だが、あんたはそのジルジス・シャフルードの手先なんだろう?」
 挑発的なものいいに、フィローリアはぎくりと目をむく。
 シヴァの表情に変化はない。
 け、とタバータバーイーは吐き捨てた。
「いいかげん、白状しろよ」
「何をだ」
 淡々とした問いかけ。
 いらだたしげにタバータバーイーは言葉を重ねる。
「てめえの目的をだよ」
「すでに告げてある」
「おためごかしじゃねえ」
「どういうことだ」
 のれんに腕押しだった。色男はしばし黙りこんだあげく、切り口を変えた。
「何が欲しい?」
「なくした記憶だ」
「そういう意味じゃない。金か? いや、そういうタイプじゃないだろうな、あんたは。なら――」
 フィローリアに視線を向ける。
 不気味なほど静かな視線。
「女か?」
 くちびるをかみしめ、少女はシヴァを見た。
 仮面の無表情に、まるで変化は見られない。
 返答もない。
 風が吹いた。シヴァのディスダーシャが静かにふるえる。
「ここに留まるなら、この女をゆずってもいい――もしおれがそういったら、あんたはどうする?」
 タバータバーイーがいった。
 真剣な面もちで。
 なおながい沈黙の間をおいて――シヴァが答えた。
「欲しいものがあれば、恵んでもらう必要はない。その点では、おれとジルジスは共通している」
「そうかい。じゃ――おれとやるってのか?」
 色男の面貌に、こわいものが浮かび上がった。
 フィローリアはこのとき初めて、タバータバーイーに高名な用心棒の風評にふさわしい雰囲気を体感した。
 対してシヴァは――まるで動じない。
 ただ短く告げただけだった。
「そのつもりはない」
 ――と。
 フィローリアは表情を隠す。
 そしてタバータバーイーは、視線をつ、と細めて、白い仮面を見つめる。
 それからいった。
「信じていいのか?」
「好きにすればいい」
 にべもない返答。
 わかった、と短く告げて、タバータバーイーはくるりと背を向けた。
 闇に浮かび上がる街の灯を背に、シヴァとフィローリアだけが残される。
 しばし無言でたたずんでいた。
 やがてシヴァが「いこう」と告げて歩きかけた。
 その背中へ、少女は呼びかけた。
「シヴァ」
 白い仮面がふりかえる。
「みて」
 いって少女は――衣服を脱ぎ捨てた。
 布きれと化した衣装が風に飛ばされ、街の灯を背にして全裸に靴だけをつけた少女が残される。
 微光に、素肌が映えた。
 苦悶する獣の刻みこまれた素肌が。
 

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