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 朝食の準備を整え手をつけようとしたとき、暴虐が舞いこんできた。
 ノックもなしにひらかれた扉の向こうに立っていたのは、タバータバーイーだった。フィローリアは我知らず、顔をそむける。
「おはよう、シヴァ。気分のいい朝じゃないか。昨夜はよく眠れたか? 女はどうだった? ん?」
 上機嫌にまくしたて、少女の真横に腰をおろして無遠慮に肩に手をまわした。身体は逃げるが、拒否できなかった。
 仮面の男はあいかわらず感情を表にあらわさぬまま、無言で見返す。
「なんだなんだ、こんな場面でも仮面はつけたままなのか。驚いたな。まさかベッドのなかでもそのまま、ってこたないだろな」
 どうなんだフィローリア、と矛先を向ける。
 少女は顔を伏せたまま。答えようがない。
 なんだなんだあ? とタバータバーイーは目をむきながら、大仰に両手を広げてみせた。
「もしかして、ご高名なシヴァさまは女にはご興味がなかったってことなのか? こいつァ気のきかねえ真似しでかしちまったなあ。いってくれれば、若いのでも筋肉質でも、お望みどおりにとりそろえられたんだがなあ」
「必要ない」
 淡々と異相の男はいった。少女は心中ひそかに、安堵の息をつく。
 タバータバーイーはしばし目をまるくしたが、深くは考えずうなずいた。
「ところできのうの夜、あらためて“バラス”って名を検索してみたよ。ま、こんな程度のことァあんたもとっくに手をつけてるだろうが、念のためによ。帝国圏内あたりでときどきある名前だそうだなあ。ありふれてるってほどでもねえが、珍しいってわけでもねえ。まあ帝国領じゃさすがにおれも調べようがないが、近隣の知り合いに何人かあたってみた。おいおい報せもくるだろうが、とりあえず一件だけ、その名前の人間がヒットしたぜ」
 かすかに仮面上に表情らしきものがゆらめく。が、タバータバーイーのくわしい説明を受けて再び無表情の奥におしやられた。
「その男なら以前たずねたことがある。おれに見覚えはないし該当しそうな行方不明者の心当たりもないらしい。おれのほうも記憶を刺激するものは見つけられなかった」
「ああ、そうかい。残念だなあ」セイエドの用心棒は大げさにいう。「だがまあ、まだ何人か心当たりをあたってもらってる相手はいるし、今日ももう少し網を広げてみるつもりだ。ひとつここはじっくり腰をすえていこうぜ。な、兄弟」
 気安げにいいつつ、テーブル上の果物をつまんで口中に放りこむ。むろん、フィローリアの肩に手をまわしたままだ。
 そして、ふと気づいたように、
「てこたァ、別におれがこのフィローリアを借りていっても、あんたにゃ支障はないってことかい? それともやっぱり、この女が気に入ったか? なんならいつでも喜んでおゆずりしますがね」
 笑いながらいった。
 笑ってはいたが、目だけは不気味な光を宿していることに少女は気づいた。
 わたしを手駒にしてゲームをしているのかもしれない、とふと思った。
 自分の所有物を、自分より高名な相手にあえて預けわたし、その反応を楽しんでいるのではないかと。
 となれば――確認せずにはいられまい。
 どうだい? と色男は重ねて問う。
 拒否してシヴァ、と叫んだ。心の中だけで。表情はほとんど動いていない。
 そして気づく。シヴァを部屋に迎え入れてから、この男が傍若無人に乱入してくるまでのあいだ、無表情が定着していたはずの自分が、ひどく表情豊かに泣いたり笑ったりしていたことに。
 心は死んだと、自分でさえ思っていた。まちがっていたとわかって、うれしかった。
 つぎの言葉を、シヴァが口にするまでは。
「かまわない」
 淡々とした声音がいうのへ、少女は信じられぬ想いで目をむいた。
 そして、横からナイフのように見つめる視線を感じて、背筋をふるわせる。
「そうかい」
 タバータバーイーは愉快そうに手を打った。あいかわらず、目は笑っていない。
「じゃあ悪いが、しばらく借りていくぜ。なにしろこの女にゃ、おれはぞっこんでね、実は。ゆうべも手もとにおいておきたくて気が狂いそうになってたんだ」
 いって立ち上がる。
 少女の身体がついてこないのに気づき、肩にかけた指先に力をこめた。
 鎖骨に、尋常ならざる痛みが走る。苦鳴をおしころし、少女は従順に立ち上がった。
 それじゃちょっくら借りてくぜ、と引きずるようにフィローリアを歩かせながら、部屋をあとにする。
 扉が閉ざされる寸前、目を伏せた仮面の男が朝食に手をのばす姿が視界の端に映った。
 目を閉じ、くちびるをかみしめる。
 肩にかけられた手が、再び鎖骨をきつく握りしめた。
 思わず上げた眼前に、血走った双眸が迫る。
「どうだ、ゆうべは? 高名な伝説の男の手練はよかったか? じっくりきかせてもらうぜ――おまえのからだにな」
 狂気があふれてこぼれ落ちてきそうな目つきで、タバータバーイーはいった。そのあいだにも、ひきずられる。
 哀しみと絶望が胸奥からあふれ出す。まして、自分の恋心を自覚した朝なら。
 だれも助けてはくれない。いまさらながらに自覚した。力のぬけたからだを、狂気を内包した男が勝ちほこったようにひきずっていく。

 苦痛は尾をひかない。薬を与えられているからだ。
 だが魂に刻みこまれた傷からは、痛みは消えない。いつまでも鈍く、重くいすわって、澱のように層をなして固まっていく。
 いつものように、手すりに身をあずける。
 自分の居室に、気怠い視線を向けた。シヴァ、とくちびるだけでつぶやく。
 想いはとどかない。扉がひらいて男が姿をあらわすさまを夢想する。奇妙なことに、想像の中でもシヴァは仮面をつけたまま。
 かたちにならない想念に業を煮やし、重い足どりで歩き出す。
 しばし逡巡した後、扉をひらいた。
 空虚が少女を迎える。
 男の姿はどこにもない。思考を空白が占拠し、ついでわき上がった不安は一瞬にして恐怖へと成長した。
 視線を走らせる。吹きぬけになった階下に、セイエドの第三秘書の姿を見つけた。
 かけ降りる。
「シヴァは?」
「セイエドといっしょだ」
 冷たい声音で、第三秘書はいった。片手でぞんざいに、セイエド専用の食堂をさし示す。
 いきおいだけでかけよろうとして、たたらを踏んだ。
 セイエドと食事をともにしているところへ走りこむわけにもいかない。
 豪奢な扉はあけ放たれている。しばし逡巡し、その陰へ移動した。
 のぞきこみたかったが、初老の首魁と視線が合うのがこわかった。そのままたたずむ。
 声がきこえてきた。
「噂になっているが」
 重々しいしわがれた声音。セイエドだ。
 シヴァの声を待つ。が、返答はない。もう一度、セイエドがいった。
「あんたがここにきたのも、何か別の目的があるからなんじゃないか?」
「別の目的とは?」
「さあな」いって巨魁は空々しく笑い声を立てる。「あんたのほうがよく知ってる、ということはないのか?」
 返答はない。
 シヴァが相手だと一方的に口数が多くなるのは自分だけではないのだと知って、おかしくなった。声をころして笑う。
「盗賊シャフルードの狙っている獲物が、もしかしてここにあるのではないか、とでも踏んでいるんじゃあ、ないのか」
 セイエドが言葉を重ねた。
 またもや答えは返らない。
「きてるんだろう?」
「さあな」
 ようやくきこえたシヴァの声音も、ごく短いもの。
 セイエドが鼻白んで黙りこむ様子が、手にとるように想像できる。
 そのとき、ふと気づいた。咎める視線に。
 第三秘書だ。距離をおいてはいるが、おまえ何してるんだ、とでもいいたげにあからさまな非難の目つきを浴びせていた。
 フィローリアの分をわきまえない行動に、抑止をかけにきたのだろう。
 あわててその場を離れ、私室にかけ戻る。
 扉を後ろ手に閉ざして、ようやくため息をついた。
「シヴァ、戻ってくるかな」
 つぶやき、苦笑する。一方的に抱きしめただけの相手だ。心が通じた、と思っていたが、それも少女の思いこみにすぎないのかもしれない。事実、タバータバーイーが彼女を奪っていこうというのにためらうそぶりさえ見せなかった。
 別の部屋を用意させたとしても、何ら不思議はない。
 だめかな、とつぶやき、顔を伏せる。
 ほう、と息をついた。そのままドアにもたれかかって顔を上げ、目を閉じた。
 ふと――気配を感じる。背後に。
 考えるよりはやく、からだが反応する。
 扉をひらく。白い仮面が少女を見返した。心なしか、双の目を見ひらいている。
 声を出そうとして、言葉にならないことに気づいた。瞬時、口ごもり――
「おかえり」
 いって扉を大きくひらき、シヴァのために道をあける。
 無言で男は歩み入った。
「コーヒーを入れるわね。そうだ、ヘイルを注文しておくつもりだったんだけど、忘れてたわ。ごめんなさい、いまから頼むと明日の朝くらいになっちゃうんだけど」
「気を使う必要はない。きのうと同じもので充分だ」
 淡々とシヴァがいう。それだけで、気分が華やいだ。自分でも気づかぬうちに、微笑みが浮かぶ。
 トレーにカップをふたつならべて居間に戻った。シヴァに、ついで自分のカップに液体を注ぎ、相手にあわせて口もとに運ぶ。
 ふりだけだった。口はつけない。
 それでも、匂いをかいだだけで吐き気がこみ上げてきた。
 笑顔は崩さない。なんでもないふうを装って、カップをテーブルに降ろす。
 くちびるを湿しながら、ふいにシヴァが視線を投げかける。
 せいいっぱいの笑顔を浮かべて、フィローリアは「なに?」と小首をかしげてみせる。
「おまえはシャーイルか?」
 不可解なセリフが返った。
 意味がわからず、きょとんとする。
「シャーイル、という言葉の意味を知らないのか?」
 少女はうなずいた。
「どういう意味?」
「精神感応――つまり他人の思考を読んだり、逆に言葉を介することなく自分の思考を他人に伝えたりする力を持つ、超能力者(ティーラ)のことだ」
「まさか」フィローリアは笑った。「わたし、そんな便利な力もってないわ。そんな力があったら、ここでこんなことしてないと思う。どうして?」
「おれが扉の前に立った瞬間に、おまえがそれをひらいたからだ」
 ああ、と少女は笑った。
「なんか、気配を感じたの。音がきこえたのかもしれない」
「足音を立てた覚えはない」
「じゃあ恋する女の直感かな」
 いって、笑った。笑いながらシヴァの反応を観た。顕著な変化はまるで見られない。が、
「昼食はとったのか?」
 シヴァのほうから質問が飛んだ。
 初めてかもしれなかった。気分が異様に昂揚する。
 笑いながら首を左右にふるうと、男はなぜだ、と重ねて問うた。
「食欲がないの。だいじょうぶよ、きちんと栄養は補給してるから」
「薬でか」
 フィローリアはうなずいた。うなずきながら、食事はきちんと摂れ、といったたぐいの忠告を期待した。
 が、シヴァにそれを望むのは無理があったかもしれない。
 かわりに、男はこういった。
「いつから食事をしないようになった?」
「わからないわ。半年くらい前かな」
「なぜだ?」
「固形物とか刺激のあるものを、からだが受けつけなくなったの」
「原因は?」
 返答に窮する。わからないからではない。口にしたくなかったから。
 

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