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 さらなる奇怪な言葉のつらなりに、そむけた顔を思わず戻した。
 端正な男の顔が見つめ返す。
 あまりにも端正で、無機質なほどの美貌が。
「鏡をのぞきこむたびにおれは思う」シヴァはいった。「この男は、だれなのかと。自分の顔だという実感が、まるでわかないのだ」
「ああ――記憶をなくしたとかいう話だったかしら」
 呆けたようにフィローリアはいった。
 男がうなずく。
「だがそれだけではない。まるで見知らぬ他人の顔を移植されたみたいに、鏡の中の顔がよそよそしく見えるのだ」
 いって男は立ちあがり、静かに室内を横切った。
 もう何年も使っていない姿見の前に立つ。閉じられた鏡台を左右にひらき、三面の鏡に見入った。少女は思わず目をそらす。
 フィローリアの様子に気づいたのか気づかないのか、男はしばし鏡の中の像に見入っていたが、やがていった。
「おれにはある時点以前の記憶がまるでない。発見されたときは、炎の中だった。テロリズムにあって燃える宇宙ステーションでのことだ。そのときのことはかすかにしか覚えていない。だが確かにおまえのいうとおり、炎に焼かれておれの顔はずたずたになっていたらしい」
 じゃあ、と口にして、そのまま少女は黙りこんだ。
 男が鏡を再び折りたたむ気配に、フィローリアはため息をつきながら顔を上げる。
 もといた場所に腰を降ろして、再びシヴァはつづけた。
「だからこの顔は培養した皮膚を移植したものだ。その意味では、確かにおれ自身の顔とはいえないかもしれない。だが骨格に変化はないし、復元された顔がもとの顔と著しく異なっているはずはない。にもかかわらず、この顔が自分の顔だと感じることが、おれにはどうしてもできないのだ」
「なぜかな」
 思わず口にした。わかっている。答えなどない。
「おれがそのようにしか感じることができないのも、なくした記憶に関わりがあるのかもしれない。だから過去をさがしている」
「はやく見つかるといいね」
 少女はいった。いいながら、微笑んでくれるかな、と期待した。
 男は、無表情に見返すだけだった。
「記憶をなくすのは、防衛反応だということを知っているか?」
 落胆を押し隠し、少女は首を左右にふる。
「そのままでは耐えられないような精神的圧力から自分の身を守るために、記憶は失われるのだということだ。だから、なくした記憶をむりに取り戻さないほうがいい場合も往々にしてあるらしい。おれの場合もそうなのではないか、と知人にいわれたことがある」
「その知人って、女のひと?」
 考えるよりはやく、言葉が口をついて出た。
 男はしばし無言で少女を見つめ、そうだ、と答えた。
「だがおれは、自分がなにものであるのか知りたい」シヴァはつづけた。「かりそめにこの世界におかれただけのような、いまのこの状況は気に入らない。いまのままではおれは、おれという名の他人のからだを借りているだけの、世界の傍観者のようでしかいられない。そうではない確固とした己の存在を、確認したいのだ。だから、かりそめのこの顔を隠す。この顔は世界と正対すべき顔ではないからだ」
 そして男は沈黙した。
 そう、と目を伏せたままあいづちを打って、少女もだまりこんだ。
 しばらくしてフィローリアは「よし」と元気よく膝を打ちながら立ち上がった。
「じゃあ今夜はもう寝ましょうか。寝室はこっちよ」
 いって歩き出す。が――
「必要ない」
 言葉にふりかえった。
 予感がなかったわけではない。それでも、どうして、ときかないわけにはいかなかった。
「おれはここで眠る」
 男はいった。
 なぜ、という言葉をのみこむ。
 変わりに口にすべきセリフは見あたらなかった。想いだけが喉もとにこみあげる。
「わかったわ。おやすみ」
 心とは裏腹にそっけない言葉が投げ捨てられた。そのまま寝室に歩み入り、灯りもつけないまま寝台に身を投げだした。
 暗闇のなか、言葉もなく抱きよせられる感触を夢想する。求めても得られないのは自分の境遇が邪魔をしているからなのか。
 声をおしころして泣いた。

 目を覚ますと、あいかわらず闇のなかでひとりだった。気怠いからだを無理に起こして寝室をあとにする。灯火は消えていたが――居間のほうからかすかに光がもれていた。
 ナイトスタンドかと思ったが、そうではない。明滅していた。炎のように。
 火事か、と足をはやめる。
 信じられない光景がそこにあった。
 部屋の片隅に、ひざを抱えこんでうずくまる男の姿があった。
 光の中心に。
 蛍火のように、床にうずくまるシヴァ自身が明滅する光を放っているのだった。
「シヴァ……」
 なかばつぶやきのように呼びかけながら、フィローリアはおぼつかない足どりで輝く姿に歩みよる。
 しばし逡巡した後、おそるおそる、手をのばした。
 静電気と同じだった。
 パシ、と鋭い音が弾けて、指先に針で突かれたような衝撃が残る。
 思わず引いた手を胸もとに、少女は目を見はった。
 シヴァが顔を上げたのは、しばらくしてからだった。
 もとのように、魁偉な仮面をつけている。
 その眼窩の奥から、炯々と光る双眸を向けた。
「目を覚まさせてしまったか?」
 先と変わらぬ淡々とした声音で、男はいった。
 無言のまま少女は首を左右にふるう。
 言葉をかけたかったが、かけるべき言葉が見つからない。
 かわりに、もう一度手をのばしかけた。
「さわるな」
 抑揚のない、それでいてこの男にしては異様に強い口調で制止がかかった。びくりと、硬直する。
「この程度なら命に別状はないが、それでも痛みはあるだろう」
 シヴァは静かにいった。
「なんなの、これ」
 手を出しかけた姿勢のまま、少女は口にした。
「サイコバーストの一形態だ」
「サイコバースト?」
「マジュヌーンのことを知っているか?」
 無言で否定する。
 男はうなずき、つづけた。
「自己制御できない超能力者(ティーラ)のことだ。おれの場合は不定期に念動力が強く発現する。力がきているときは、ある程度コントロールすることができるが、突然その力が使えなくなる。それに、眠っているときは制御がきかなくなって――こういう状態になることもある」
 いっているうちに、明滅する光が徐々に薄らぎはじめた。ゆっくりと、ゆっくりと。
「制御不能の念動が暴発することを、サイコバーストという。規模はたいしたことがないが、おれのこれもサイコバーストの一種だ」
「だからいっしょに眠らなかったの?」
 そうだ、と答えが返るよりはやく、ばかね、と口にして――
 前進した。
 男が、目をむいた。
 光にふれると同時に、電気的な衝撃が全身を襲う。
 かまわず踏みこみ、男の首を抱きよせた。
 仮面をまとった顔を、胸におしつける。
「ばかね」
 もう一度いった。
 衝撃も苦痛も、最初の一瞬だけだった。あとはたゆたう光のなかに同化して、言葉もなく男を静かに抱きしめる。
 抗うことなく、男は少女の胸のなかで目を閉じた。
 夜が明けるまで、ただそうして過ごした。

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