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「すわって」
 ロココ調の椅子をさし示しながら少女はいった。豪奢な金の髪を束ねながらキッチンへ向かう。
「何か飲む? お酒? それとも、もっと別のもの?」
 ドラッグのたぐいを想定しながら声をかけた。
 意外な答えが返った。
「コーヒーをくれ。ヘイル入りで」
「ごめんなさい。ヘイルはないわ。砂糖は?」
「必要ない。クリームはあるか?」
「たっぷり入れてほしい?」
「頼む」
 思わず浮かんだ笑みを口もとに残し、ターミナルにコマンドを打ちこむ。コーヒーのオーダーはひさしぶりだった。しばし考え、自分用に同じものを用意した。ただし、こちらには酒棚のブランデーをたっぷりと注ぎ入れる。
 居間に戻ると、仮面の男は大仰な装飾の椅子にゆったりと腰かけていた。高級感あふれる調度にとり囲まれて、白い異相が異様に浮いている。
 好感が高まる。痛快だったからかもしれない。洒落た家具調度が、きらいだった。タバータバーイーがあらわれてからはこの私室に客を迎え入れることなど絶えてなかったが、セイエドは模様替えを肯んじなかった。フィローリア自身がセイエドの私物なのだ。
 男はマスクをしたまま、カップを口もとによせた。ひとくち含み、ため息をつく。
 フィローリアは形ばかり口をつけただけで、カップをおろした。胃の腑から何かがこみ上げてきそうな気がしたからだ。
 男がコーヒーを喫するさまを、じっとながめやった。
「ねえ、きいていい?」
 問いかける気になったのは、見かけほど剣呑な相手ではない、と判断したからだ。
 異相の男はちらりと視線を上げる。
「そのマスク、何の意味があるの?」
「素顔を隠すためだ」
「なぜ? 素顔を見られるとまずいわけでもあるから?」
「そうではない」
 いって男は、視線をそらした。つづく言葉を待ったが、それ以上答える気はないらしい。
 少女は、さらにきいた。
「火傷の跡でも残ってるとか」
 おだやかな視線が、しばし向けられる。あえて見つめ返すと、やがてそれた。
「おふろに入る?」白い横顔を呼び戻したい、という衝動にかられて話しかける。「よかったら背中を流しましょうか? ただちょっと驚かないでもらいたいことが――」
 刻まれた傷跡のことを思い出してあわててつけ加えかけ――
「必要ない。シャワーだけ浴びさせてもらえるか?」
「電子シャワーがいい? 湯もはれるけど」
 最後のセリフに、仮面の男の顔に初めて表情らしきものが浮かんだ。興味を覚えたらしい。
「めずらしいな」
「中央の一般レベルじゃ、そうかもしれないわね。ここみたいに上流を気取ったお屋敷じゃ、けっこう多いわよ。あなた、どこからきたの? 帝国? エル・エマド?」
「エル・エマド。ティバウスという名の惑星を知っているか?」
「きいたことないわね。どんなところ?」
「沙漠が多い」
 いって男はだまりこんだ。つづく言葉をしばし待ったが、沈黙だけが返る。ため息をついてフィローリアは立ち上がった。
「用意してくるわね」
 簡易ハンマーム(浴場)のゆったりとしたバスタブに湯をはる。
 考えてみれば、この浴場を使うのもずいぶんひさしぶりだった。タバータバーイーはフィローリアとの時間を、くつろぎのために割いたりはしない。だから――ことが終わったあとに、苦鳴まじりに泣きながら少女が居室をあとにしても、まったく意には介さない。
 むろん、フィローリアが自分のためだけにハンマームの準備をすることもなかった。
 そのせいかどうかはわからない。不思議に昂揚した気分だった。夜々くりかえされる悪夢の記憶も身に受けた痛みも、薄らいだような気がする。
 そしてふと――妙なことに気づいた。タバータバーイーがセイエドの傘下に加わってからの半年間、フィローリアはほかの男の相手をしたことがない。
 いつのまにか暗黙のうちに、かれの専属として扱われるようになっていた。彼女の知らないところで、その種の契約でも交わされたのかもしれない。
 にもかかわらず、シヴァの相手をするよう口にしたのはタバータバーイー自身だった。
「どういうつもりかしら」
 つぶやきがもれる。そして、別れぎわにタバータバーイーが浮かべた微笑を思い出し、背筋をふるわせた。
 首を左右にふるう。ため息をつきながら浴室をあとにし、居間に顔をだした。
 しばしためらい、
「シヴァ。準備ができたわ。いらっしゃい」
 名前を口にした。
 タオルを手に、音もなく仮面の男が歩み入るのをながめやる。
 脱衣に手を貸し、相手が望めば浴場までついていって世話をするつもりでいた。
 が、仮面の男はあいかわらず無表情なままいった。
「ひとりでだいじょうぶだ。出ていってくれ」
「マッサージは?」
「必要ない」
 簡素に断定し、あとは無言で少女を見つめる。
 抱きしめられたい、と少女は感じた。
 だから、見つめ返した。
 が、異相の男は少女に手を出すでもなく、ただいつまでも意味不明の凝視を投げかけるばかりだった。
 よりかかって吐息でもあててやろうか、と一瞬考えたが、にべもなく拒否されそうな気がしてやめた。変わりにため息をおきざりに、居間に戻る。
 コーヒーは飲みほされていた。今度は厨房にヘイルを仕入れておくよう進言しておこう、と考えながらキッチンへいき洗浄機にふたつのカップを放りこむ。
 そして、なぜ自分はこれほどあの男に惹かれるのだろうと考えた。
 答えは浮かばない。
 抱かれたい、とみずから感じたこと自体が、考えてみれば初めてだった。十三になったばかりのときに、セイエドにむりやりひらかれた。タバータバーイーの相手をするようになってからは、夜伽と苦痛はまったくの同義語に過ぎない。それでも、だれかに抱かれたいという衝動がわきあがることに深い驚きを感じた。
 寝室に足を向け、夜具を整える。わき上がる期待感の底に、疼痛にも似た恐怖がかすかに首をもたげた。タバータバーイーのような、あるいはもっと別の種類のよからぬ嗜好の持ち主であったらどうしよう、と。
 どうしようもない、と醒めた自分が冷笑しながら答える。どんな目にあわされようと、だまってそれを受け入れるしかないのだと。
 くちびるをかみしめる。
 考えるのはやめて、居間に戻った。いったんは腰を降ろすが、すぐに立ち上がり手持ち無沙汰に部屋をひとめぐりする。おちつかない。
 仮面の下の顔を見てやろうか、と思いついた。バスタブの中でまでマスクをつけたままということはあるまい。火傷のあとが残っているのではないかと踏んでいた。さきほど質問したときの反応を見て、何となくそう感じたのだ。それほど悲惨なものではないだろう、とも。エル・エマドは中央銀河連合圏に比べると科学の発達やその普及度はかなり低かったが、それでも皮膚移植手術ができないほど彼が窮乏しているようにも見えなかった。
 それよりも、あの無表情な仮面の下にどんな顔が隠されているのか興味があった。
 脱衣室でのやりとりを思いだし、拒否されるのではないかと瞬時ためらったが、意を決して立ち上がる。
 が、浴場を前にして、さらに逡巡した。今度は、拒否されることを危惧してではない。
 ガウンを身につけていくこともできる。だが自分の立場からすれば明らかに不自然だった。かといって、灯りの下で裸身をさらすつもりにはなれなかった。シヴァに好意を感じている、と自覚してからはなおのこと。
 彼も同じ気持ちなのかもしれない、と気づく。仮面の下の素顔を、他人には見られたくないのではないかと。
 居間に戻った。出てくるシヴァのためにコーヒーを用意し、椅子に腰を降ろして静かに待った。
 あらわれたシヴァに視線をやり――しばし呆然とする。
 仮面をつけていない。素顔だった。
 無意識に、まじまじと凝視してしまう。
 端正な顔つきだった。
 タバータバーイーのような、派手な美貌ではない。おしつけがましさのない、整った顔つき。予想していた火傷の跡はおろか、傷ひとつ見あたらない。彫像のごとき、完璧さ。
 その完璧な美が、静かに少女を見返す。
 まじまじと見つめていたことに初めて気づき、フィローリアはあわてて目をそらした。
「ごめんなさい」
 意味もなく謝罪の言葉が口をつく。返答はない。上気した肌をガウンにつつんだ男は、少女の眼前に腰を降ろす。
「あ……コーヒーはいかが?」
 少女はいいながらカップに手をのばし、テーブルに膝を当ててよろめいた。
 毛足のながい絨毯の上に音もなくカップが落下する。いけない、とあわてて手をのばした。
 重なる。
 かたちのいい、だがそれでいて思っていたよりもずっと大きい手。
 上げた視線に、視線が重なる。
 無表情に見つめ返す、おだやかな双の瞳。
 しばし見とれ、あわててそらしながらカップをひろいあげる。
 落ちたものはテーブルの端に伏せ、自分用にと一応用意していたもうひとつのカップにコーヒーを注いだ。どうせ自分には飲めない。ただかたちだけ、ならべてみたかっただけ。
 シヴァは、あいかわらず黙々とコーヒーを口にした。
「あの、ふつうの顔なんだね」
 全身が熱に浮かされたように火照るのを感じながら、少女はいった。
 返答はない。沈黙に耐えきれず、自分であとをつづける。
「あたしてっきり、火傷か何かの跡が残ってるんじゃないかと思ってたんだ。あの、そんなにきれいな顔してるとは思わなかったからびっくりしちゃった。ねえ、なぜわざわざマスクなんてつけるの?」
 立ち入った質問か、と危惧したがとまらなかった。
 男はなおしばし、黙りこんだまま。
 が、やがてカップをテーブルに戻すと、口にした。
「自分の顔を鏡で見たことがあるか?」
 奇妙な質問だった。
 だが、的を射てもいた。フィローリアにとっては。
 鏡のない世界の住人ででもない限り、自分の鏡像を見たことのない人間などいないだろう。まして女なら機会あるごとに見目を整えるべく、頻繁にのぞきこんで不思議はない。
 だが、フィローリアは別だった。少なくとも、この屋敷に封じこめられてからの三年間は。
 自分の顔を見るのが、いやだった。恐ろしくさえあった。
 ひとなみに、あるいはもしかしたらひとなみ以上に、自分の美しさには自信があった。だからこそ、こわかった。
 境遇が、自分の美貌に陰を投げかけるのを。
 囲いこまれていてもただの娼婦であることは自覚している。仲間も何人もいた。だれもが派手に着飾り、己の美貌に磨きをかけるのに躍起になっていた。もしかしたらそれは、見るもののためというよりは自分のためなのではないのかと少女は思っていた。その美貌に荒淫と心労が陰をさし、皮一枚隔てた下に隠された醜悪なる本性をさらけだすいつかを少しでも先のばしにするために、化粧という壁を日々塗り重ねているのではないかと。
 事実、あでやかな仲間たちの容貌に、つねに重い疲労がかげりを落としているのをフィローリアは知っていた。
 自分より年下の少女でさえ、ときおり老婆のような顔をすることがある。
 だから、自分の顔を見るのがこわくなったのだ。
 もちろん、最初はしていた化粧も、もうながいあいだしたことはなかった。肌のケアは怠らないが、それも鏡と向かいあうことはない。時折、窓ガラスなどに自分の姿が映しだされるのを目にしてしまうことがある。すぐに目をそらす。決して向かい合うことはない。
 明らかに神経を病んでいる、と自覚していた。仲間たちを見ていれば、否が応でもわかる。まして、自分の境遇なら。
 だからシヴァの奇妙な質問は、少女の核心を貫いていた。
 思わず視線をそむける。
 だが男は気づいたふうもなく、言葉をつづけた。
「おれのこの顔は、おれの顔ではないのだ」
 と。
 

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