見知らぬ男が見返してくる。無表情に。無感情に。無機質に。
 見知らぬ男。鏡の中の男。破壊者という名を冠せられた男。
 顎に手を当てれば、見知らぬ男も同じしぐさをする。まばたきをすれば、鏡像もまばたきをする。だが鏡の向こうにいるだれかが自分なのだとは思えない。
 やがて胸の奥底から、こみ上げる。得体の知れない何か。形すら定まらぬ、それでいてとてつもなく深く、おそろしく熱く逆まく何か。
 それが破壊者たるゆえんなんだ、と黒い盗賊はいう。自分に、破壊者という仮の名を与えた盗賊。伝説の盗賊。彼と巡りあったとき、すでに記憶はなくしていた。
 最初の記憶。炎のなかでの邂逅。
 燃え盛る火炎が乱舞する中、たたずむ盗賊の姿だけが鮮明に思い出せる。黒い髪。黒い瞳。黒いターバンに黒い風よけ(パトウ)。鈍く黒光りするブラックメタルのブラスター。黒ずくめの中で、幅広の腰帯だけが赤い。炎の赤。血の赤。
 荒れ狂う火焔の向こうで、不思議そうな顔をしてたたずむ伝説の盗賊は、そうと知らなかったあのときでさえ、物語のなかの情景のように映えていた。
 見知らぬ者たちが蔓延する世界の中で心許せる、数少ない知友のひとり。
 そう。記憶をなくした男にとって、鏡の中から見返す己の像ですら遙かに遠い。
 だから、さがしつづける。見知らぬ男の過去をつかみしめるために。
 シヴァ。それが見知らぬ男の名前。

 

 

盗賊シャフルード・シリーズ

 

『見知らぬ鏡像』

 

 

    1

 涙をぬぐいつくしても、心中は泣きぬれていた。背後で樫の扉が重々しく閉ざされる気配に安堵を浮かべつつ、フィローリアは張り出しの手すりに身をあずける。
 目を閉じ、深く深く嘆息した。苦鳴まじりの、嘆息。苦痛はすでにとぎれているはず。にもかかわらず、魂に刻みこまれた絶叫の烙印は、薄れることはない。手すりに両腕をあずけ、その上に額を重く乗せる。
 ふいに、騒乱が出現した。
 少女は視線を上げる。
 人群れがあった。正確には、ひとつの影を取り囲んだ人群れが。
 遠巻きに囲まれた、中心の人物が目についた。
 異様な相貌をしていた。
 顔面にぴたりとはりついた白いマスク。
 目の周囲に穴をうがっただけの簡素なマスクが、燃え盛る火炎を思わせるほど強烈なオーラをふりまいている。
 まったくの無表情。造作は非個性のきわみといってもいい。それだけに、発散される雰囲気の異様さが際だっている。
 紫のふちどりのディスダーシャを身にまとい、落ちついた足どりで近づいてきた。
 フィローリアには一瞥すらくれず、一室の前でぴたりと立ちどまる。
 たったいま、フィローリアが逃れてきた部屋。
「ここだな」
 異相の男が口にする。面貌どおりの、抑揚を欠いた声音。
 周囲を取り囲むうちの何人かが、あわててがくがくと顎をうなずかせた。男を畏怖する雰囲気が立ちこめている。制止すべきだがそれができない、といった風情だ。
 一団の背後には、少し距離をおいてセイエドの姿もあった。
 どすのきいた強面に、年齢相応のしわが刻みこまれている。手にした杖は飾りだが、何年か前から足を悪くしているのは事実だ。もっとも信頼する二人の側近を左右に、騒乱の様相を注意深くながめわたす。介入する気はないらしい。
 タバータバーイーにまかせるつもりなのだろう。つまり――眼前のマスクの男は、それほど剣呑な相手、ということか。
 男は、先刻閉ざされたばかりの樫の扉に手をかけ、静かにひらいた。
 照明を落とされた室内があらわれる。目をそむける一瞬、フィローリアはタバータバーイーが、飛び出したときとまったく変わらぬ姿でベッド上に裸体を横たえくつろいでいる様子を目にした。
 くちびるをかみしめる。心のなかで。顔には出さない。娼婦として売られてきた三年前から、喜びも哀しみも顔には出さないと決めてきた。もっとも、いつでもその決心どおりにこられたわけではない。
「だれだ、あんた」
 タバータバーイーの底響く声音がいった。女たちが口をそろえて、そそられる声だと表する甘い響きだ。
 そして必ずつけ加える。妙な嗜癖さえなければ、フィローリアと変わりたい、と。
「おれはシヴァという名で呼ばれている」
 仮面の男がいった。あいかわらず抑揚がない。
 何が自分の興味をひきつけたかはわからない。どうあれ、思わず伏せていた顔をフィローリアは上げた。
 マスクの男の背中ごしに、タバータバーイーの自堕落にくつろぐ姿が目に入る。今度はそらさない。ことのなりゆきを見たい、と感じたからだ。理由はわからない。
 甘い顔つきが、興味深げに仮面の男をながめやる。
「シヴァ? シヴァか。あのイフワナル・シャフルードの。驚いたな、ほんものか?」
 ついと身を起こし、軽やかな動作でベッドから降り立った。裸体を隠そうともせぬまま入口まで進んでくると、仮面の男と正対した。
「ほんものだ」
 感心したようにいった。じろじろと、白いマスクに無遠慮な凝視を投げかける。
 頓着するふうもなく、仮面の男はつづけた。
「おれは記憶を失っている。故郷をさがして、こうしてあちこち訪ね歩いている」
「知ってるぜ」興味津々の凝視を外さぬまま、タバータバーイーはうなずいた。「バラスという名の人物をさがしてるんだ。唯一覚えていた名前がそれなんだろう? おそらくその男は、おれたちのように暗黒街に生きる人間なんだってな。だからあちこちの裏街を訪ね歩いてる。世界が世界だから、トラブルになることも少なくない。むりもねえだろうなあ。その不気味な風貌で、こんなふうにうっそりと質問されちゃあ、だれだって恐くなって追い返したいと思うだろう。おれだって恐い」
「追い返すか?」
 男がいった。タバータバーイーはさわやかな笑みを浮かべる。
「安心してくれ。ここはそんな田舎じゃねえ。あんたの噂も、ちゃんとみんな耳にしてるさ。へたに刺激するやつァいねえ。何かされたか?」
「いや」
「だろ? ――で、おれに何の用?」
「セイエドにおまえのことをきいた。なかなか名の知れた用心棒だと。かなりあちこちをわたり歩き、半年前にスカウトされてここにきた。業界に顔も広いし、自分の知らないことでも知っているかもしれない、と」
「残念だなあ。悪いがバラスなんて名前にゃきき覚えがねえ。だが調べてみることはできるぜ」
「頼む」
 異相の男はいった。まかせとけ、と裸の色男が請け合うと、仮面の男はくるりと背を向ける。
 その背に、タバータバーイーは声をかけた。
「待ちなよ。この屋敷にゃ居心地のいい部屋がいくつもあるんだ。よかったら逗留していっちゃどうだい。なあ、セイエド。異論あるかい?」
 美貌の用心棒はいいながら一歩部屋から踏みだし、離れた位置からことの次第を見守る雇い主に呼びかけた。
「いいだろう」
 短くいって、暗黒街の巨魁が重々しくうなずいた。タバータバーイーはぱちりと片目を閉じてみせる。
「必要ない」
 仮面の男がいって、再び歩き出そうとする。あわててタバータバーイーがかけより、気安く肩を抱いた。
「待ってくれよ。このまま帰したんじゃ、おれの顔が立たない。よしわかった。ざっくばらんにいこう。別にどうあってもあんたを歓迎したいってわけじゃない。ただ噂に名高い“千の顔のシヴァ”と仲良くなりたいってだけなんだ。できりゃおれたちの仲間に引き入れる。おっと待った。あんたがそういうたぐいの誘いを受けない主義だって噂もちゃんときいてるさ。無理強いするつもりはない。ただ、その機会くらい、おれたちに与えてくれてもいいだろう? だめでもともと、これを機にちょっとでもあんたの知遇を得られりゃ、それだけで今後この世界でますますでかいツラもできねえことァねえ。それだけのことさ。どうだい?」
「必要ない」
 仮面の男はにべもなくくりかえした。
 瞬時、色男はだまりこむ。が、ちらりと周囲に視線を走らせ――手すりを背に事の次第を見守るフィローリアの姿をとらえた。
 反射的に目をそらす。それでもわかった。悪魔的な微笑を、タバータバーイーが浮かべたことに。
「それじゃ、女をあてがおう。どうだい。この屋敷にゃいい女がよりどりみどりだぜ? そこの女なんかどうだよ。この前十六になったばかりだ。見てのとおり無表情が玉に瑕だが、とびっきりのいい女だぜ。残念ながら手はついちゃいるが、そのかわり手練手管は最上級さ。興味ないか?」
 そのとき初めて――仮面の男の視線が、フィローリアに焦点を結んだ。
 マスクの眼窩からのぞく双の瞳が、静かに少女をながめやる。
 とくん、と心臓が高鳴った。
 それが不安のためか、それとももっと別の感情に触発されてのものだったのか、少女自身にも判然としなかった。どちらにしろ、傍目には無表情のまま気丈に異相の男の視線を受けとめていると見えただろう。
 しばし無言で少女を見つめていたが、やがてシヴァなる男は口をひらいた。
「無表情を玉に瑕とは、考えていないのだろう、おまえは」
 瞬時、タバータバーイーは驚いたように目を見ひらいて仮面の男を見つめたが、何もいわずにただにやりと笑って肩を抱く手に力をこめた。
「気に入ってくれたみてえだな」
 ぽんぽんと肩を叩くと、フィローリアにいった。
「きいてのとおりだフィローリア。こちらのご高名なお客様を、せいぜい歓待してやってくんな。粗相のねえようにな。シヴァ、あんたの過去については調べとくよ。何かわかったらまっさきに知らせる。まあ仲良くやっていこうぜ」
 ちらりとふりかえり、四囲をとりまいた男たちに一瞥をめぐらせた。
 なあ、と、初めてその本性を垣間見せて強圧的に同意を求める。
 いくつかの愛想笑いと、その陰でひそめられた眉。やや距離をおいた位置で、鷲のような視線で一部始終を見ていたセイエドが、ちらりとフィローリアに目を移す。
 路ばたの石くれをでも見るような目つきだった。
「頼んだぞ」
 短く告げるや、初老の統括者はくるりと背を向け、ゆっくりと通廊の向こうに消えていった。
 おうむのように似たような言葉をとりまきどもの幾人かが投げ捨てざま、雇い主を追って足早に立ち去る。眼前の不気味な男と同じ空気を、これ以上吸っているのが耐えられないとでもいいたげな様子だ。
 ま、ゆっくりやってくんな、とタバータバーイーはもう一度、仮面の男に気安げに手をかけていい――最後にちらりと、目を向けた。
 フィローリアに。
 ナイフのような視線に、無数の言葉がこめられる。
 耳をおおいながらわめき散らして、きくのを拒否したいたぐいの言葉。
 あいにく、声にはなっていない。
 ただ少女は人形のように表情を浮かべぬまま視線をそらし、気怠げにたたずむだけだった。
 樫の扉が静かに閉じられ、通廊に不気味な異相の男とただふたりで取り残される。
 助けて、と心中つぶやいた。
 もちろん、夢想のなかだけにしか存在しない騎士の援軍など、望むべくもない。
 かすかに身じろぎ、少女は意を決した。再び、仮面の奥の双眸と対峙する。
 不思議なことに気がついた。見返すのは、ひどくおだやかな光をたたえた瞳。
 気のせいかもしれない。
 それでも、感じていた怯懦や忌避感がぬぐうように消えていくのを少女は感じた。
「こっちよ。あたしの部屋でいいわね」
 いいながら背を向け歩きはじめる。
 音もなく男がついてくる気配を感じながら、少女はふたたび胸の昂なりを自覚した。
 

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