8

 

 瞬時、男は動きをとめる。
「なんのつもりだ」
 アルムルクは問いかけた。
「あんたのことはいまでも愛してる」
 あいかわらず淡々とした口調で、ラエラはいう。
 男はしばしだまりこみ――ゆっくりと、床に片膝をついた。
 ラエラと正面から向きあう姿勢になった。
 そのかたちのいい顎に手をかけ、上むかせる。
 つい、と女はその手に手をそえ――横にそらした。
 アルムルクは眉根をよせる。
「抱かれたい。そういう気持ちも狂おしくあるよ」ラエラは薄く笑いながらそういった。「だけど、あんたに縛られたくはない」
「結局、どうしたいんだ」
 男は静かにきいた。
「知るもんか」
 というのが、女のこたえだった。
「わたしにだって、わからない」
「いい女だ」アルムルクは、声を立てずに笑った。「おまえはあいかわらず、いい女だ。おれの鼻づらをふんづかまえて、こうして思うさま引きずりまわす。混乱したおれの頭は、おまえ一色に染めあげられていく」
 ふふん、とラエラは鼻をならす。
「奪ってるのは、わたしのほうだってわけ?」
「かもしれん」
 アルムルクの吐息が近づいた。
 たどりつく前に――ラエラのほうからくちびるをよせた。
 むさぼりあう。
 互いのくちびるの感触に、耽溺した。
 そして、女のほうから身をひく。
 とり残された男は、とほうに暮れたように宙に向けて手をさしだし――
 ためらいなく、ラエラは立ちあがった。
「いかせたくなければ、撃てばいい」
 きっぱりといい放ち、女王のように見おろした。
 片膝をついた姿勢のまま、アルムルクは夜の女王をながめあげる。
 陶然としていたのかもしれない。
 ラエラは、微光の下で薄く微笑んでみせ――歩をふみだした。
 セイフティを外したままの銃は燐光を発したまま床にころがる。
 そちらには手をのばさず、アルムルクはただ女の背中を見送る。
 その背が――ふいに停まった。

「油断したか」
 苦笑まじりに、ラエラがつぶやくのをアルムルクはきいた。
 夜の女神の背中が、向きをかえぬまま後ずさる。
 追うように、暗がりのなかから燐光があらわれた。エルフィード反応。
 アルムルクは、すかさず床上にころがる銃にとびつこうとした。
 敵の反応のほうがわずかにはやかった。
 熱線が闇を切り裂き、ころがる銃をはねとばした。
 燐光が飛びはね、遠ざかる。
「動かないでくださいよ、シフ・アルムルク」
 きき覚えのある下卑た声音がいった。にたにた笑いが目にうかぶようだった。
「マトラクチュか」
「ご明答」
 嘲弄のひびき。
 銃に飛びつきかけた姿勢のまま、アルムルクはすばやく状況を分析する。
 階段わきに隠れた非常用扉が、半開きになっていた。そこから入ってきたのだろう。銃を手にした者を含めて、新たに侵入してきた影は三つ。猫背はうしろの右側にいた。どうやら銃をかまえているのは、マトラクチュではないらしい。
 たしかにラエラのいうとおり、油断だった。
 自嘲の笑いが、無意識に頬をゆがませる。
「どうも、魅力的なひとときでありすぎたな」
「らしいね」
 軽口に、ラエラも笑いを含む口調でこたえた。
「私にとっては、ちとものたりないですなあ」下品に笑いながら、マトラクチュが割りこんだ。「お邪魔をしてはなんだと、最後までお待ちするつもりだったんですがねえ」
「ご期待にそえずにすまなかったな」
 アルムルクは皮肉にいい放つ。
 いやいや、と愉快そうに殺し屋は首を左右にふった。
「いまからでも遅くはありませんよ。ひとつ、濃厚なラブシーンを」
「ばか吐かしなさんな」
 言下にラエラが否定した。
「それは残念ですなあ」
「まったくだ」
 下品な殺し屋の慨嘆に、アルムルクも同調する。ぎろりと、ラエラがふりかえった。アルムルクはにやりと笑ってみせる。
 つ、と女によりそい、肩に両手をかける。
「おまえといっしょに死ねるなら、悪くはなさそうだ」
 ささやきかけた。
 苦笑の気配が返る。
「さて、そのへんは、ご期待にそえますかどうか」マトラクチュがいう。「そちらのお嬢さんは、特に殺せと指示されたわけでもありませんしねえ」
「シャフルードはどうした」
「ご安心を。いまごろは毒にやられて冷たくなっているはずですよ」
 きいて、ラエラが笑った。
 おや、とマトラクチュが首をかしげる。
「なにがおかしいんです、お嬢さん」
「どんな罠をしかけたのか知らないが、確認したわけじゃないんだろ?」
 笑いながらラエラはこたえた。
「……それはまあ、私どもはこちらにかかりっきりでしたので」
「だったら、あいつは死んじゃいないさ。ジルジスの勘は、人間の域を完全に凌駕してるんだ」
 三人は、顔を見あわせた。
「その勘を見こして、罠をかけさせてもらったんですがねえ」
「毒をしかけたんだろ? 絵の包みにガスでも仕込んだの? ひっかかりゃしないよ、あいつは。理屈じゃないんだ。そういう仕掛けを前にした瞬間に、あいつは勘だけでどうも妙だと首をかしげる。そして、自分じゃ絶対に手をださない。まわりにてきとうな代理人がいなけりゃ、たとえ銀河の至宝でも銃でぶちぬいて罠がないかどうか確認するだろう。あいつはそういうやつさ。ごくろうさま。無駄骨だったね」
 いい放ち、ふたたび笑いとばした。
 三人の人影は、いまや言葉もなくたたずむばかりだった。
 そして――アルムルクも。
 つい、とラエラが前進する。――肩にかけたアルムルクの手を、おきざりにして。
「撃つならとっとと撃ったほうがいい。わたしもアルムルクも、生かして道化を演じさせるのに安心できる種類の人間じゃない。罠にかからなかったジルジスの、反撃に備える時間だって惜しいんじゃないか?」
 いって、挑発的に胸をつきだす。
 三人はしばしとまどったようにたたずんでいたが、マトラクチュが口をひらいた。
「残念ですなあ。あなたのような美女を手にかけなければならない、というのは。しかし、あなたの話をきいて私もすっかり不安になってしまいました。ここはひとつ、忠告に従わせていただくことにしましょうか」
 くい、と銃をかまえた影にあごをひねってみせる。
 影はうなずき――くるりとマトラクチュに向き直った。
 ドン、と、よどんだ空気が重くうなった。
 一瞬の熱線が、赤くまばゆく、猫背の男の頭部をつらぬく。
 しばし、猫背の影は硬直していた。がやがて、ぐらぐらと前後にゆらめいたあげく、どうと背中から倒れていった。
「きさま、なにを――」
 もうひとりがいいながら銃をぬきかけるのを、ためらいなく影は撃ちぬく。
 額から煙をあげながら倒れるのを確認し、銃を手にした影はふたりに向き直った。銃口は――アルムルクに向けられている。
「なんなんだ……?」
 ぼうぜんとつぶやくアルムルクの前で、男はふいにふところから筒状のものをとりだした。スプレー缶だ。
 銃を手にしたまま缶を頭上にかざし、自分の顔に向かって吹きつける。
「シヴァか」
 得心した口調で、ラエラがつぶやいた。
 ぼうぜんとした面もちでアルムルクは、男とラエラとを交互に見やり――
 微光の下、しゅうしゅうと音を立てる底から、男の顔面で何かが溶解し白い異様なマスクが出現する光景を信じられぬ思いでながめやる。
「人工皮膚(メディスキン)か……」
 なおも呆然としたまま、アルムルクはつぶやいた。
 ようやく思い出したのだ。イフワナル・シャフルードのひとりに、“千の顔”のシヴァと呼ばれる異相の男がいたことを。
 伝説によれば、その男は不定期に超能力を発揮するマジュヌーンと呼ばれる存在で、異様な白いマスクで顔面をおおっているという。そして、変装の名人で、心理探査や脳波検査でもその正体を暴くことは不可能だ、とも。
「いつ入れかわった?」
 ラエラの問いかけに、シヴァはまったく抑揚のない、機械のような口調でこたえた。
「おまえたちが襲撃の配置についたあとだ。アルムルクのゆくえが一時的につかめなくなった殺し屋たちが、あちこちかぎまわっている隙をついた」
「なるほどね。――で、わたしとアルムルクがもみあってるシーンも、だまって見てたってわけだ。こいつらといっしょに」
 腕を組み、ラエラはじろりとにらみつける。
 あげく、「この」と拳でこめかみをこづかれても、闇にうかびあがる白い仮面はまったく無表情のまま。
 そのとき、内耳にしこまれたアルムルクの通信プロセッサが、呼びだし音をひびかせた。
 応じる。
『生きてたか』
 なじみのない声が、いきなりそうきいた。
 なじみはないが――きき覚えはあった。
「ああ。おまえもか」
『ラエラは?』
「無事だ。わかってるんだろう?」
 思わず苦笑する。
『まあな。会えるか? おまえ次第だがな』
「……かまわんさ」
『アル・ファリラ。わかるか』
「きいているわけだな。とうぜん」
『そこで待ってる』
「承知した。ワダア」
 回線がとぎれる。
 顔をあげると、ラエラとシヴァの注視があった。
 笑ってみせる。
「銃は必要ない。おろせ」
 シヴァに向かっていった。仮面の男は、無言で従う。
 セイフティがかけられるのを確認してから、アルムルクはラエラに向き直った。
 見つめる。
 無言のまま、そうしてふたりは見つめあった。
 やがてアルムルクはいった。
「急用ができた。おれはいく」
 そして、すたすたとためらいなく歩きはじめた。
 床上にころがったままの銃を手にし、セイフティをかけるとふところに落としこむ。それから、外を目ざした。
 半開きの非常扉の前で立ちどまり、うしろを向いたままいった。
「用がすんだら――おまえを迎えにくる」
 ラエラは、思わず半歩をふみだしていた。
 夜が明けかけていた。うかびあがるかすみの薄明に、男の背が淡く溶ける。
 その影が、ふりかえる。
 そしていった。
「いっしょにきてくれるか?」
 微光を背にして、男がどんな顔をしているのかラエラにはわからなかった。
 喉もとまでこみあげた声は――ついに、言葉にはならなかった。
 答えを待たず、男は背を向け、光のなかに消えた。
 とり残されたようにラエラは、いつまでも無言でたたずむ。

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