3
「きたぜ。シャフルードだ」
サリムが口をひらいた。弛緩しきった姿勢から、すばやく身を起こす。
「どこだ」
「エスカレータ。右から三番めのやつだ。ガキといっしょにいやがる。あっちが“千の手”のマヤだな」
ふたりが陣どったラウンジは全面ガラス貼りになっていて、そのむこうがわに宙港発着ロビーが一望のもとに見わたせる。サリムの示した方角、のぼりエスカレータのおり口近くに、たしかに黒ずくめの男が十四、五とおぼしき子どもとならんでいる姿が見えた。
相棒のオグレはふと、眉をひそめる。
「マヤ? マヤってのは、年齢は知らねえが娘じゃねえのか? ありゃ男に見えるが」
「んなこた知るか。男の子みてえな娘だってそこらじゅうにいるだろうが」
「まあな。で、どうする」
「殺る」
いって、サリムはテーブル上の香炉(メドゥガン)に手をやった。
紫雲晶(シュンジァ)ふうの、簡略化した龍の取っ手がついた香炉だ。なかにはすでに香がセットされている。
「せっかく用意してきたんだぜ。使わない手はねえ」
「マトラクチュに報せてからのほうがいいんじゃないか?」
「おいおい。おれたちゃヤツの配下か? 共同で仕事をもちかけられた、五分(ごぶ)の関係だろうが。いちいちヤツの指示をあおぐこた、あるめえ」
「そりゃあそうだがよ――」
「びびりやがって」
サリムは嘲笑した。
「びびってやしねえ」
むっとしていいかえすオグレに、サリムはわざとらしく鼻をならす。
「おまえも見たはずだぜ。マトラクチュっていやあ、噂じゃたしかに凄腕の殺し屋だが、実物はやたらにたにた笑ってるだけの、猫背のおやじじゃねえか。こわかねえよ」
「だからびびってんじゃねえってのに」
「じゃ、異論はねえな?」
こたえを待たず、サリムは香炉を手に立ちあがった。
ち、と舌をならしながらオグレは飲みかけのコーヒーを一気に喉に流しこみ、相棒のあとを追う。
117、と刻印された係留ゲートの前で、黒ずくめの男と少年めいた娘は立ち話をしていた。よく見ると少女のほうは、胸に子猫を抱いている。その去就をめぐってなにか相談をしている、といった雰囲気だ。
「好都合だ」
口にするや、サリムは壁際に身をよせ屈みこみ、床においた香炉のふたをひらく。
「おい、ここでやる気か」
「かまやしねえ。マスクをしろ」
自分自身、ふところからとりだした簡易マスクを手ばやく身につけながらサリムはいう。ため息をつきながらオグレもならった。
オグレがマスクをつけ終わるのをいらいらと待ってから、サリムは香に火をつけた。
煙があがる。赤ぐろい色の、グロテスクな煙。
二人の殺し屋はすばやくその場を離れ、ものかげからようすをうかがう。
効果は、意外にはやくあらわれた。
しずしずと立ちのぼる香煙に近いひとびとの目が、とろりと粘性をおびる。焦点のあわぬ目を宙にさまよわせ、ぐらぐらとその上体をゆらめかせはじめた。
「さすがシムチエールだぜ」サリムがつぶやく。「即効性だ」
「しかも、効果範囲が異常にひろい」
同調するオグレの言葉どおり、目をどよませて半睡状態におちいるひとの輪が、異常な速度で拡大する。
と、ふいに、悲鳴があがった。
半睡の、輪の内部だった。
長椅子に腰をおろしていた女が、とつぜん頬をおさえて立ちあがり、虚空を見つめながら喉も張り裂けんばかりにわめきはじめたのである。
周囲の人間は、ちらりといぶかしげな視線を女に送るだけで、ほとんど関心を示さない。
つづいて、まったくべつの一角で、今度は子どもの絶叫があがった。
まさしく、絶叫であった。通常の、子どものあげるわめき声とは完全に一線を画している。まるで、いましも生爪をはがされかかっているかのような、灼熱の声。
そのふたつの喚声がひきがねとなったように――あちこちで、尋常ならざる叫声がつぎつぎにあがりはじめた。
いちように、何もない虚空を張り裂けんばかりに目を瞠(みは)ってにらみつけながら、地獄の亡者もかくやと思わせるほど切羽つまった様子で泣き叫ぶ。
その一方で、なぜかほかの大部分の人間は、そんな異常事態を認識しているふうにも見えぬまま、とろんと痴呆のように弛緩しきっていた。
なかには、よだれをたらしながら薄笑いをうかべてひとりごとをぶつぶつと口にしている者の姿も少なくはない。
異様な光景だ。
「すげえな」
オグレがごくりと喉を鳴らす。
シムチエール。
“墓場”を意味する。
広大な地球人(テラニアン)文明圏の全域で、ほぼ例外なく厳禁されている悪質なドラッグの一種だ。
扁桃体や側頭葉の皮質などに作用する幻覚物質である。作用する部位によって、恐怖か快感、まったく正反対の感情を刺激し、異常きわまる幻覚体験を誘発する。
おそるべきことに、この幻覚は本人には実体験との区別がまったくつかず、自分が麻薬による幻覚を見たのだと感覚的に納得することがきわめて困難なのだ。
快感を刺激された場合はまだしも、恐怖体験を見せられた者は生涯その幻像に悩まされ、場合によっては発作的に同種の幻覚をくりかえし見せつけられる症例に発展する可能性もあるといわれる。
ルインやサーダバードなどの、アッパー系の激烈なドラッグほどには習慣性はない。が、連用すれば確実に脳を蝕まれるし、なにより悪夢的幻覚が習慣性を帯びた場合など悲劇以外のなにものでもない。睡眠がなによりの恐怖の対象となる場合すらあり得るのだ。
地下の流通にすら乗ることのない禁断のドラッグだが、生成は意外に手軽だともいわれる。そして効果は、薄れるのもはやいが即効性で劇的だ。
「さて」サリムはマスクの内部で舌なめずりする。「シャフルードはどっちだ? 快感か、悪夢か」
つぶやき、いまやほかのひとびと同様、ぼうぜんと虚空をながめあげつつゆらゆらとたたずむ、伝説の盗賊にむけて無造作に足をふみだした。オグレがあとにつづく。
シムチエールが効いているあいだは、体験者は外界にほとんど注意を払わない。認識していないわけではないが、幻覚に意識をさらわれてしまいまったく無頓着になってしまうのである。
トリップしている人物を暗殺するなど、造作もないことなのだ。
ふたりは、黒ずくめの男の前に立つ。
盗賊は、呆けた顔つきでロビーの一角をながめやっていた。顔は、弛緩しきっている。
「いい夢を見ているようだな」
オグレがいった。サリムはちっと舌をならす。
「運のいいやつだぜ。楽しい想いをしながらあの世にいけるなんてよ。ま、いきさきは、まちがいなく地獄だろうがな」
いいつつ、ふところからナイフをとりだした。
「猫ちゃん、きれいだねえ」
となりで“千の手”のマヤが、頭上を見あげながらぼんやりとつぶやいた。猫がにゃあと鳴く。ちなみに猫には、シムチエールは効かない。
苦笑で頬をゆがめ、サリムはあらためて黒ずくめの盗賊に向き直った。
そのとき、シャフルードがつぶやいた。
「化物め」
「おい、やっぱこいつの見てるのは悪夢らしいぜ」
オグレにむけて快活にいう。
その瞬間――
銀光がひらめいた。
「お――」
反射的に、サリムは身をひく。
が――盗賊のナイフの軌跡は、サリムのマスクのストラップを切り裂いていた。
簡易マスクが片耳にぶらさがり、思わずサリムは息をとめる。
手のひらで口をおおいながら、しばし目を見ひらき、数歩さがったかたちのオグレと見つめあった。
シムチエールはほんの微量で効果を発揮する。手のひらで口をおおって息をとめたくらいでは、この禁断の麻薬の作用を防ぐことなどできない、と知ってはいたがそうせずにはいられなかったのだ。
が――杞憂にすぎなかった。
効くのははやく、ひろがる速度も異常だが変質して効果がなくなる時間もはやい。すでに一帯は薬効時間を超過しているらしかった。新たに幻覚を誘発されるおそれはすでになくなったわけである。
「ちくしょう、驚かせやがって」
毒づきながらサリムはマスクをむしりとって黒ずくめの男に投げつけた。
と――飛来するマスクを、伝説の盗賊はナイフで弾き返した。
お、と二人の暗殺者は目をむく。
「すげえ精神力だ」
オグレがつぶやいた。
通常、シムチエールの影響下にいる者は動作がにぶくなる。恐怖中枢を刺激されて反射的に立ちあがる程度で、あとはほとんど目に立つ動きを見せることはない。まさしく、悪鬼に追われながら泥沼に足をとられて思うように走ることもできない悪夢そのもの、おそるべき化物に襲われながら意識内でも現実でも、抵抗どころか手ひとつあげることすらおそるべき困難をともなうはずなのだ。
それが、焦点こそあっていないものの盗賊シャフルードは通常とかわらぬ鋭さで、ナイフをふるったのである。およそ考えられぬ反応だった。
「このやろう」憎々しげにサリムがつぶやいた。「悪夢を見ているはずなのに、おちつきはらっていやがる」
「たしかに」
オグレのほうは感心したように同意する。
実際、盗賊はいまやのっぴきならぬ敵を眼前にしたごとく、目を細め、くちびるを真一文字に引き結んで前方をにらみやっている。
あきらかに、戦闘態勢に入っていた。
恐怖中枢を刺激されての反応とは、微妙にちがっていた。
「化物め……」ふたたび、盗賊がつぶやく。「おもしれえ。かかってこい」
にやりと笑った。
二人の殺し屋は、顔を見あわせた。
「なんだ、こいつは」
「化物がでてくる幻覚が、悪夢じゃないってのか?」
「そんなバカな――うわっ」
叫びつつサリムが飛びすさったのは、みたびシャフルードのナイフが閃光を描いたからだ。
しかも、二、三歩、ふみだしている。
まったく尋常ならざる反応だ。
「くそ、はやいとこかたづけちまったほうがよさそうだぜ」
つぶやき、サリムが身がまえた。
むろん、オグレにも異論はない。独断専行はともかく、こうなってしまってはなにもせずに引きあげるのは得策ではなかった。
その上に、そろそろ異変を察知した宙港公安がかけつけてくるころあいでもある。ぐずぐずしているうちに鉢合わせにでもなっては、あとがめんどうだ。
銃をぬく。
サリムはそれを待たずに、シャフルードに飛びかかった。
頸動脈に、ナイフをくりだす。
失策だった。ナイフ同士の戦闘の基本は、相手の手さきをねらうところにある。失血と精神的圧迫による疲労をねらい、相手の体力が落ちたところでとどめを刺しにいくのがセオリーだ。
が、麻薬の影響下にある、という固定観念がぬけきっていなかった。常識をこえた反応を、眼前の男が示していると気づいていながら。
勝敗は一瞬に決していた。
ふところ内部にとびこんできたサリムに対し、シャフルードは――まちがいなく、その視線の焦点をあわせていた。
今度は、オグレはひらめきすら見なかった。
サリムがとびこんだ、と見えた瞬間、その動きが硬直し――
ふいに、ぐらりと傾く。
たおれた。
頸動脈から、血を噴きだしながら。
ひくひくとその全身が痙攣する。
それも、すぐにやんだ。
「サ、サリム」
及び腰で呼びかけたときには、すでに相棒は死体と化していた。
そのかたわらで――
「もう一匹か」地獄の微笑で頬をゆがませつつ、シャフルードがつぶやくのをオグレはきいた。「楽しいなあ」
その視線は、まちがいなくオグレに焦点を結んでいた。
「化物だ」
悲鳴をあげたのは、オグレのほうだった。
へたりと尻をつき、そのままいざりながら銃をかまえる。的をしぼりきらないまま引き金を引いた。むろん、当たらない。
「くそ、おちつけおちつけおちつけ」
うわごとのようにくりかえしながら、言葉とは裏腹のせわしない動作で、尻をついた姿勢のままぶざまに後退する。かろうじて、ナイフの攻撃圏内から逃れでた。
盗賊は、あいかわらず突き刺すような視線をオグレから離さない。が、その場を動く気配も見せなかった。
よし、と荒い息をつきながらオグレはつぶやき、手にした銃をあらためてかまえる。
しっかりと照準をさだめ、トリガーにかけた指に力をこめた――瞬間。