2

 

 花が咲いていた。
 深紅の花だ。血のように赤い、という形容は、ラエラのものではない。遠い記憶の底にある顔。片頬をゆがめ、余裕たっぷりに薄笑いをいつも、うかべていた。
 手折った一輪を、鼻によせる。かすかな芳香。追憶を刺激する。
 たんたんたんたんと、リズムよくエンジン音が眼前を移動していく。舷側にいくつもの浮き輪をつけたタグボートが、すべるように港湾を走りぬけていくのだ。
 夜よりもなお暗い、果ての知れない水面がうねり、港にはいくつもの船影がくろぐろと闇にうかびあがる。
 ラエラは目をほそめ、ピン、と手もとの花をはじいた。
 赤い花弁がくるくると風に舞い、闇に溶けた。
 波音にのまれる。海面を、ゆられ、ただよっているのだろう。赤く。
 ラエラは目をとじ、ベンチの背もたれに深く背をあずける。
 そしていった。
「わたしに、なにか用か?」
 気配をおしころしていた影が、苦笑をうかべながら歩道に歩みでた。
「ひさしぶりだな、ラエラ」
 男はいった。
 ラエラはおなじ姿勢で、目もとじたまま。
「あんたか。そんなような気がした」
 アルムルクは苦笑を重ね、ラエラのすわるベンチのかたわらに立つ。
「噂は、腐るほどきいていた。ようやく会えたな。一日たりとも忘れたことはなかったぞ」
「うそこきやがれ」
 笑いながら否定する女に、アルムルクはさびしげに微笑む。
 それから、暗くゆらめく水平線に視線を移した。
「ずいぶんと、ながい時間がたっちまった」
 抑揚を欠いた声音で、いった。
「あっという間さ」ラエラはこたえ、つけ加える。「いま何をしている?」
「自由貿易業」
 女は鼻で笑う。きこえのいい言葉の裏を、予測できたから。
「はぶりがよさそうだね」
「金まわりはいいさ」
「あのころも、わるくはなかったけどね」
「あのころほど危険じゃない」男は目をとじ、自嘲の笑いで頬をゆがめる。「ぬるま湯さ」
「けっこうなことじゃない」
 いって、ラエラは初めて目をあけ、男の横顔を見る。
 視線が、重なった。
 しばしの無言。
 それから男が、静かにいった。
「おまえも、ずいぶん稼いでいるようじゃないか」
 ラエラは苦笑する。
「稼いでる――って感覚は希薄かな。まあ、金には不自由しちゃいない」
「そして、あのころよりも危険を楽しんでいる――か?」
「まあ、そうかな」
 笑いながらラエラはいった。
 アルムルクの視線が、強くなる。怒り。憎悪。嫉妬。
「危険と――そして男を」
 ははは、と女は、声をたてて笑った。
「べつにジルジスの女になったってわけじゃない。行をともにしてはいるけどね」
「伝説じゃいろいろいわれてるぜ」
「勝手にいわせときな」
「ずいぶんと……」
 いいかけて、男はだまりこむ。
 さきをうながすでもなく、女はふたたびうねる水に視線をさまよわせた。
「ききたかったことがある」
 やがて男はいった。
 なに? と、静かな声音で問いかえす女には視線をやらず、遠い水平線に目をむけたままながいあいだ、だまりこんでいた。
 それから、さきのセリフにはつながらない言葉を口にする。
「タリクのブツには手をだすな」
 ああ、と得心したかのようにラエラは微笑んだ。
「自由貿易業ってのは、やつと組んでのことか」
「殺し屋がやとわれているはずだ。金に糸目はつけちゃいない。最高級の手合いだろう。標的はシャフルードだけだが、おまえも無事にすむとは限るまい」それから、挑むような目つきで女を見つめる。「それとも、伝説の盗賊が心配か?」
「まさか」
 とラエラは苦笑する。
 アルムルクの顔に一瞬、安堵がうかんだ。
 が、つづく言葉に、もとの無表情がせり上がる。
「あいつを殺れる殺し屋なんざ、そうそういない」
「だろうな」
「会ったの?」
「酔いつぶれてた」
 ラエラは声をたてて笑う。
「拍子抜けしたろ」
「最初はな」
 笑いやみ、ラエラは男を見つめた。
 アルムルクは無表情に海をながめやるだけ。
 それでも、何が起こったのかは想像がついた。
「おれならどうだ?」
 男がきく。
「わからない」女はこたえ――つけ加える。「たぶん、ジルジスの勝ちだ」
「たきつけているわけか?」
 笑いながら、アルムルクはラエラを真正面から見つめた。
 獣が、獲物を貪り喰らいながらうかべるような笑いだった。
 やめときなよ、といいかけてラエラは、言葉をのみこむ。
 わからないかもしれない、とその笑いを見ながらふと思った。
 口にはせず、立ちあがる。
 歩道わきに植えられた花を、もう一本手折って顔によせた。
 芳香をすいこむ。
 ぽつりとアルムルクは、花の名を口にした。
「アル・ファリラ」
「なつかしいね」
「ここへ来たってことは、すこしはおれのことを思い出してくれたってことか?」
「よく覚えてるさ」
 いって――ラエラは、花を指ではじいた。
 放物線を描く赤い軌跡のさきで、アルムルクの手が花弁を受けとる。
「あんたのロマンティシストぶりも、よく覚えている」
 ふん、とアルムルクは鼻をならす。そして花弁から、においをすいこんだ。
「そういうのは、あとにもさきにもおまえだけだ」
「あんたはわたしたちの、敵にまわるのか?」
 ラエラの問いにはこたえず、花に顔をよせたままアルムルクは無言で女を見つめた。
 やがて、いった。
「だとしたら」
「関わるな」明確に、ラエラはいった。「タリクとあんたの関係がどういうものだか知らないけど、うまくいけばヤツはいなくなる。仲良し小良しってわけじゃないんだろう?」
「共同経営者だ」
「自由貿易業の?」
「ああ」
「やつがいなくなれば、やつの取り分もあんたのものだ」
「ヤツもそう思っているだろうな」
「なら、静観しておきなよ。タリクが殺し屋をやとったってんなら、ジルジスのやつもだまっちゃいない。ただじゃすませないだろうさ」
「おれもだよ、ラエラ」
 男はいった。
 女を、見つめながら。
 ラエラはしばらくのあいだ、その強い視線を正面から受けとめ、見つめかえした。
 が、やがて夜空に目をそらし、疲れたような声音で口にした。
「勝手にしな。百年たってもバカはバカのままだ」
 くるりと背をむけ、歩きだした。
 しばしアルムルクは、そのかたちのよいヒップラインをながめやる。
 そして呼びかけた。
「ラエラ」
「勝手に殺しあいな、ケツの穴」
 男は苦笑する。
 それから口にした。
「迎えにいく」
 ぴたりと、ラエラは立ちどまる。
 だがふりかえらなかった。
 ふたたび歩きだす。
 その背にむかって、男はくりかえした。
「さらいにいく。もう、どこにもいかせない」
 女は今度は、立ちどまらなかった。

mail to:akagujo@hotmail.com