翼をひろげた美神

 

「調整不足か?」
「だいたい何が起こったの?」
「救助はでてる! 観客のほうに影響がないか確認しろ、はやく!」
「搭乗員はまだでてこない?」
「そっちのほうは手配しといた! それよりも、消化隊はまだなのか! はやくしないと延焼――いや、いまでてきた、すまん」
「へたすると、また死人ですね!」
 室内を怒号がとびかうなか、ルビーは展望窓から眼下の惨事を呆然と見おろしていた。
 かけつけた消防隊が消化液を盛大にあびせかける。つぎつぎに弾ける爆炎と、もうもうと吹きあがる黒煙がみるみる拡大していき、一帯のようすが隠されていく。
 再度モニタに視線をやりかけ――かたわらに、チャンドラ・シンが立ちつくしているのに気づいた。
 しわにうもれた顔のなかで、目と口とをいっぱいにひらいて、老人はわなわなと全身をふるわせていた。
 衝撃の強さにうちのめされているのが、はためにもわかる。
 ――ゴール地点での事故にまきこまれて以来、クラッシュのシーンに老人がひどく過敏に反応するようになったのはむりからぬところではあったろう。ルビー自体、一時はレースにかかわることすら嫌悪以外のなにものも感じなかったのだ。
 それでも、いかなる心境によってか、老人はかたくなにレースを主催しつづけ、それを見つめつづけた。なぜなのかは、おそらく本人にもわからなかったにちがいない。どうであれ、ルビーもまたそれにつきあいつづけてきている。
 時がたつにつれ衝撃はうすれていったが、だからといって事故が目の前で起こることに慣れてしまえるわけでもない。
 とはいえ――老人が、これほどの衝撃をあらわにしている光景は、かつて目にした記憶がなかった。
「チャンドラ・ジー……」
 呼びかけつつルビーは老人のしわがれた手をとり、きゅっと握りしめる。
 はげしくふるえながら、老人は痛いほどの強さで握りかえしてきた。
 いとおしさがこみあげ、ルビーはチャンドラを抱きしめる。
 翁はさからわず、ただとり憑かれたように見ひらいた目を事故の現場に釘づける。
 騒擾がなだれこんできたのは、そのときだった。
 なにやら制止の言葉をわめきちらす数名の警備員をひきずるようにして、ジュニーヴルとザシャリがとびこんでくる。
 なにごとかとふりかえったルビーを、女刑事はひとめで見わけ、
「“美神”はどこです?」
 するどく問いかける。
 なんのことですか、と口にするよりさきに、視線が翁のすわっていたテーブルセットの上へととんでしまう。
 瞬間――驚愕に言葉をなくす。
 息をのむルビーを、にぶい目でながめやり――ハッとしてチャンドラ・シンも卓上に視線をとばした。
 そこに神々しくたたずむはずの彫像が、みごとに消失していた。
「盗まれたんですね?」
 質問、というよりは確認の口調でジュニーヴルは叫び、答えすら待たずに部屋から走りでた。
 あ、ジュン、待ってよ、目撃者がいるかもしれないから、えーとどなたか怪しい人影が出入りするのをごらんになったかたは――などと悠長なセリフを口にしだしたザシャリは完全におきざりにして、ジュニーヴルは勘にまかせて走る。

「ね、さっきの二人づれ、なに?」
 マヤの問いに、ジルジスは苦笑まじりに答える。
「ジュニーヴルとザシャリだ。そういえば、以前遭遇したときには、おまえはまだいなかったな」
「うん。だれのことだかわかんない」
「永久刑事だよ」
 二人組が消えていったエレヴェータの方向に鋭い視線を走らせ、マヤは鼻の頭にしわをよせる。
「じゃ、はやいとこ逃げたほうがいいね」
「まあな」
 答えながらジルジスは、身をひそめたものかげから再度、そっと顔をのぞかせた。
 出入り口にはつごう四人の制服が、門番よろしくきまじめにたたずんでいる。都合の悪いことに、そのうちの二人が外側ではなく、建物内部であるこちら側に油断のない視線を投げかけていた。
「もう。そこまでまじめに仕事することないのに。ねえ」
 ぶつぶつと愚痴をいうマヤに苦笑を送り、ジルジスは考えこむ。
 スタッフルームに“出現”した瞬間、当初の予想どおり、全員の視線が事故の映像に釘づけになっているのが確認できた。硬直した驚愕が室内を占拠しており、まさか事故の渦中にまきこまれているはずのジルジスとマヤがそこにあらわれたなどとは、だれひとり考えてすらいなかったのだ。
 だから、“美神”をもちだすのはきわめて簡単だったのだが――非常階段を使ってエントランスまで降りた時点で、憤然とのりこんできたジュニーヴルたちと鉢合わせしそうになることまでは、さすがに予想できなかった。
 それでも、エントランス前に無数にたむろしていた警備員の大半を刑事たちがひきずっていってくれたのはまさしく僥倖以外のなにものでもなかったのだが、残念ながら全員、というわけにはいかなかったのである。
 しかたがないので非常口にまわったが、そこにもなぜか四人もの人間がつったって、おもしろくもなさそうに任務を遂行していたのだ。
 ジルジスもマヤも、武器はもちあわせていない。機体チェックのおり、なぜかはわからないが厳重に身体検査もおこなわれたので、機内に武器をもちこむことができなかったからだ。
「しかたねえ。やっぱ、もってきてよかったってことだな」
 いいながらジルジスは、紅の腰帯にたばさんだピストル型の物体をとりだし、ひらひらと左右にふった。無言でマヤもうなずきかえす。
 盗賊は無造作にそれをかまえ、ひょいとひきがねをひいた。
 ぶしゅう、と赤い煙が盛大に噴きだす。
 一気に通廊全域が、赤煙にみたされた。
 おどろいた警備員が、それぞれわけもわからず声をかけあう。
 その叫び声をたよりに接近し、ジルジスとマヤは手ぎわよくつぎつぎに警備員たちを昏倒させていった。非常扉をひらく。
 赤い煙は、一気に外界へとなだれ出た。
 刺激性はおさえられた煙だ。吸いこんでもむせるようなことはないが、室外に流れだしたというのに、勢いが衰えるどころか、いっそう膨張して周囲を赤くうめつくしてしまう。
「たまらないや。はやくずらかろうよ、ジル」
 おう、と答えようとするのを、背後からの声音がさえぎった。
「動かないで」
 冷徹な女声が、ジルジスとマヤをぴたりと制する。
 ジュニーヴルであった。

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