マーガトラとイディ

 ゼッケン38 チーム名:ガイズ(ダーツ・ワークス)
       機体名:“ガイズ”
       機体ベース:シャリカト・アクラブSS−22
              “ザッハーファ”
       パイロット:アブデイシャ・ババ
       エンジニア:ウルド・ラウル

 春には、広大な丘状地帯一帯に濃い青の花がいっせいにひらくという。ミナリスという名の花だ。
 いまは一面、白銀のカーペットにおおわれていた。見た目には、いっさいの障害は見あたらない。雪瘤ですらも。
 だが、それも暴虐な鋼鉄の獣たちが凄絶な勢いで突入をかけるまでのことだ。
 地響きをたてて四機のスノー・ストライダーがつっこんだとたん――白い絨毯を割って、つぎつぎに巨大なかたまりが雪上におどりでた。
 雪玉――と、認識は一瞬告げる。
 似ているが、実体はちがう。
 真球に近いずんぐりとした胴体を、短い脚に乗せたこの地帯特有の動物、マーガトラの出現である。ミナリスの繁殖する平坦地に棲息する哺乳動物だ。
 ふいにあらわれた雪玉たちは、よたよたとした動作で、見た目にはのどかな、本人たちにとっては決死の逃亡を展開しはじめた。
 深紅の機体、タイガーパターン、そして“バドラ・ブドゥール”がそれぞれに、左右に激しく身をふりながら、突如出現した動く障害のあいだをぬって走行をつづける。
 走るマーガトラ各個体間の平均的距離はかなりはなれている。静止状態にあれば、ルドイア樹ほど切迫した障害にはなり得ないだろう。だが、速度はにぶくても、どの個体も動いている。それも、かならずしも一定方向に向かっているわけでもなかった。
 通常、マーガトラは冬季には広大な丘状地帯にその身を沈め、ふりつもった雪の層の下で厳寒の季節をやりすごす。
 が、異変には敏感だ。表層雪崩などの、実質的には彼らにとってまったく害のない現象にすら過剰に反応し、パニックにとらわれた逃走を開始する。それゆえに、コロニーを形成する場所は傾斜のすくない丘状地帯にほぼかぎられている。
 スノー・ストライダーの暴虐なレースが来るまではだから、彼らマーガトラは厳冬期が訪れると白く厚い雪の下で平穏な眠りを満喫していられたはずだ。
 が、巨大な鉄塊が、彼らの眠りをおびやかした。滑走を主体としてはいても、その重量は自然現象ではあり得ない震動で雪下のマーガトラたちを打ちすえる。
 驚愕し、眠りからさめきらぬ脳活動とはほぼ無関係に、本能だけで逃走をはじめる彼ら鈍重で憶病な大型獣たちの存在は、まさにこのセルヴァン雪原レースにおいてかっこうの障害物だった。
 全高五十センチ前後。寒冷地に棲息する生物の例にもれず、その肉体は純白の体毛でおおわれている。しかも、ずんぐりとぶかっこうな四肢でよたよたと、右往左往しながらのんびりとしたスタン・ビートを展開するのだ。
 数は多くない。ひとつのコロニーにおける個々の巣の密度も疎ではある。だからこそ、疾走するストライダーでもどうにかよけることは可能なのだ。
 が、やはり動いていることが最大の不確定要素を形成していた。それも雪中からとつぜん出現するのである。ある意味では、ルドイア樹林などよりも操縦者の神経をすりへらすだろう。
 そしてもうひとつ――マーガトラは、さらに別種の障害を背負ってもいた。
 たん、と雪面を蹴って、先頭をひた走る深紅の機体が方向転換をした。
 同時に――接触寸前まで近づかれた白い獣が、ころりと雪上に転倒した。
 毬がころがされたようなものだ。くるくるとぶかっこうに回転しながら、慣性のままに移動していく。
 その背中から――
 まぼろしが、飛翔したのであった。
 白い、羽毛のようなまぼろし。
 雪のように、無数に。
 ひらひらと重量をもたぬもののごとく、つぎつぎに舞いあがった無数の小片。
 それが――つぎの瞬間、いっせいに振動を開始する。
 こまかく上下左右に振動しながら白い小片は、号令をかけられた短距離ランナーのように一気に加速。
 近づいて観察してみれば、昆虫の羽のようなものを確認できるはずだ。分類学的には、植物と動物の中間種と目されている。名称はイディ。クラッドゥの寒冷地帯において、マーガトラとともにひろく繁殖する生物である。冬季はマーガトラの体毛内にもぐりこみ、一種の共生関係をつくりだす。
 雪中、半睡状態で冬季をすごすマーガトラにこの小さな生物は、イディ器官と仮称される特殊な器官を介して雪結晶を分解、その過程でわずかながら養分を抽出し、マーガトラに供給するのである。見返りにイディが受けるのは、マーガトラの体温であるといわれているが、これは仮説の域をでていない。
 むろん、このイディもマーガトラと同様、安静状態においてのみ、その平穏な共生関係を保っていられる。ひとたびその平穏が破られたとき、彼らは短い夏期の活発な活動期と同様の飛翔状態に移行し、平和な眠りを乱したものたちに対して――ふたつの返礼をよこすのだ。
 ひとつは、宙を疾走する雪片のごとき飛翔。そしてもうひとつ。
 最初の一頭の転倒をひきがねに、連鎖反応のごとくあちこちでマーガトラが足をとられてころげはじめた。
 あやうい差で、疾走するストライダー群がころころところがる白い獣をよけながら前進をつづける。
 白い、まるい背中から無数に舞いあがるイディの大群。
 濃密な青の空を背負って白い一群を形成したイディの姿がそのとき――きらりと黄金のかがやきをひらめかせた。
 ふりしきる大量の鱗粉がたがいのあいだに、極小サイズの稲妻をひらめかせるような光景。
 つづいて――周囲の景色が一変する。
 塑像のような無数の黒い影が、ふいに雪上に出現したのだ。
 一見すれば、人影と見えただろう。
 二本の手。二本の足。かなりひょろながい印象があるが、位置的には人間のそれとまったく同様だ。そして、黒い、まるい頭。
 ひっそりとたたずむその姿は、まるで突如雪上にうがたれた虚無の洞窟のようにも見えた。
 実際には、そこにそれは存在しない。ただの幻影なのだ。
 クラッドゥ先住民。
 そう呼ばれている。古層から発掘された骨格に肉付けされた姿と、いま現実に展開されている姿とは、たしかに同一のものと認定されている。数百万年も前に絶滅したとされる哺乳類の姿である。
 そしてそれは、あくまでも幻影なのだ。クラッドゥ先住民がマーガトラのように雪中から出現したわけではない。おどろくべきことには、通常のいかなる光学機器を用いてもその姿を映しだすことができないのである。競技をトレースする浮遊カメラにも、ひっそりとたたずむ黒い影はいっさい映しだされてはいない。
 過去の記憶といわれる。真相は、いまだ仮説の域をでてはいない。
 再現しているのはイディだ。否、それすらも確定されていない。解剖されたイディの体内には、そのような幻覚を惹起するための器官などどこにも見出されてはいないからだ。だが、イディのパニック的飛翔にともなって、その幻像が出現することはまちがいなかった。
 あるいはイディという生物は、活動期においては飛翔する一群がひとつの機能を体現しているのかもしれない、という仮説がある。わかりやすくいえば、カメラと、記憶装置としての機能だ。なぜそのようなメカニズムを発するのかは不明なものの、太古の雪原にひっそりとたたずんでいた古い種族の光景を、群生するイディは機械的に再現しているのだ、と。
 意識内に。
 飛翔するイディの群れのあいだに走る稲妻状の現象は、ある種のPSY波と近似のものである、との観測結果がだされている。となれば、撮影機器に記録されない理由も類推できる。感応できるのはPSY波を認識できる生物だけなのだ。
 事実、まぼろしを感知するのは、ある種の哺乳動物に限られているという。マーガトラもむろん、このまぼろしを見ているのだろう。確認されている範囲では、人類のほかにも数種の知的生物がこの幻像を認識している。知覚する映像も同一のものだ。残されているのは、なぜ、どうやって、この二点だけ。
 ともあれ、はるかな太古に絶滅したはずの、おそらくは知性をもった先住種族の幻像が、雪原上に彫像のように映しだされるのだ。
 もちろん、この幻像は実質的に障害にはならない。だが、転倒したものをふくめて移動を不規則にくりかえす複数のマーガトラと、飛翔するイディの群れに加え――幽霊のように静かに、くろぐろとたたずむ無数の像の存在は、ぎりぎりの状態で滑走をつづけるパイロットたちにとって強い幻惑効果を発揮する。
 幻像はもちろん、マーガトラもまた障害としてはストライダーの走行を不可能にするほどのものではない。極端にいえば、跳ね飛ばしながら前進してもさほどの衝撃を機体に与えるものではないし、移動する動物をいちいちよけながら走るよりはスピードもあがるだろう。
 むろん、そんなまねをして有利を得ようと考えた参加者は存在しなかった。事故により何体かのマーガトラに重傷を負わせ、ときには死にいたらしめるような事態もこれまでにないわけではなかったが、少なくとも故意にそれがおこなわれたことはない。
 前回までは。
 今回のレースは、何から何まで革新的であるらしい。
 よい意味でも、悪い意味でも。
 先頭グループ最後尾を疾走していた、迷彩のストライダー“ガイズ”が丘陵に突入した。

 それとほぼ同時――第二グループの先頭を走っていた一機が、先頭グループとはまったくべつの技法で、後続に圧倒的な差をつけてルドイア樹林をクリアしていた。

「盗賊シャフルード、ですか?」
 コミュニケータにうかんだきつい感じの美貌の女に向けて、ルビーはいぶかしげな顔つきをことさらに強調する。
 ディスプレイのなかで、ジュニーヴル・カーレオンと名乗る永久刑事は無表情にうなずき返した。
『そうです。ジルジス・シャフルード。広域指名手配犯です。そちらで行われているレースに参加している人物です』
 返答に窮し、ルビーは言葉をつまらせる。
 そんなバカな、かろうじてつぶやきを唇にのせた瞬間をねらうように、永久刑事が言葉を重ねた。
『ゼッケンは44。クリシュナ・エイシャという名称で登録しています。もちろん偽名です』
「捜査に協力しろ、ということですか?」
 つとめて平静をよそおいながらルビーは問いかえした。
『それもあります』ジュニーヴルはいう。『ですが、もうひとつ切迫した情報をお伝えしなければなりません。そちらのレースを主催なさっているシフ・チャンドラ・シンは“翼をひろげた美神”と呼ばれる美術品を所有されているそうですね?』
 否定も肯定もせず、ルビーは視線でさきをうながす。
『おそらく、シャフルードはそれを狙っているものと思われます』
 ちらりと、ルビーは背後のチャンドラ翁に視線を走らせた。老人は、レースの中継を映し出すモニタにむっつりとした視線をはりつけたまま、顔をあげようとすらしなかった。やりとりはきこえているはずだ。
 そのかたわらに、ひっそりとたたずむ女神像。
 室内は広大だが、ゲストも含めて無数の人間があちこちにいる。大部分の視線はモニタに集中してはいたが、部外者が入りこんできてだれも気がつかない、などという状況は考えられない。まして侵入をくわだてている人物が、視線の集中したさき――レースそのものに参加している、となると、どのようにして像を盗みだそうと考えているのか見当すらつかなかった。
「ご忠告はありがたく受けとっておきます」ルビーは事務的にこたえた。「もちろん捜査には可能な範囲でよろこんで協力させていただきます。レースを中断することはできませんけど」
『その必要はありません』即座にジュニーヴルが返答した。『レースのほうはそのままつづけていただいてけっこうです。こちらの要請は“美神”の直近での警護の許可だけです』
 ふたたびルビーは視線を移動させる。
 今度は、反応があった。
 苦虫をかみつぶしたような顔を、老人は見せていた。
“美神”を手に入れた手段が、合法的なものではないからだ。永久刑事は通常、永久指名手配犯のみを逮捕の対象としているのだが、だからといって公式文書に非合法に手に入れた美術品への言及がなされるのはあきらかにまずい。
 瞬時、視線を交錯させ、ルビーは翁に無言でうなずきかえしてからディスプレイに向きなおる。
「残念ですが、シファ・カーレオン。わたくしどもの手もとには“翼をひろげた美神”なるものは存在いたしません。それどころか、美術品と呼べるようなものはここには持ちこまれてなどいないはずです。まあ装身具程度ならもちろんありますが」
 コミュニケータの画面内で、永久刑事があっけにとられたような顔をした。
 声をたてて笑いだしたい衝動をおさえ、ルビーは真顔でつづける。
「ですから、警護は必要ありません。レースは複数のカメラによって常時モニタされていますから、問題の人物の動向は逐一捕捉可能です。逃亡は困難ですので、逮捕なさるのでしたらレースが終了してから、ということでお願いできますか? スタッフにはこちらのほうから話をとおしておきますから。ほかに何かありますか?」
『ちょっと待ってください。こちらの情報によりますと――』
「“美神”うんぬんに関する情報でしたら、それはまちがいなく誤報です。警護の必要はありません」
 永久刑事は言葉を失い、呆然と目を見はる。
 ルビーはとびきりの笑顔をにっこりとうかべてみせた。
「ほかに何か?」
 ジュニーヴルは何かをいいかけた。
 が、それよりはやく、室内からどよめきが起こった。
 騒然とした雰囲気になっている。
 モニタに見入る顔々にうかんでいるのは――困惑と、そして悲憤であるようにルビーには見えた。
「それでは、到着をお待ちしておりますわ、シファ・カーレオン」
 よそごとに気をとられていることを隠そうともせずうわの空で言葉を発し、ルビーは返答を待たずに通信を切った。
「どうしたの?」
 問いかけながら、手もとの画面を切りかえる。
「事故です。いや、これはつまり……」
 動揺をはっきりと声音にのせて、ティーズがあいまいな返事をよこした。
 その理由は、説明されるまでもなく歴然としていた。
「……最低だわ」
 ルビーは自分がそうつぶやくのを、まるで他人事のように感じていた。
 画面内には、虐殺の光景が展開されていた。

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