こぼれ落ちたもの
「チャンドラ・ジー。スタートラインに選手がそろいましたわ」
セルヴァン雪原の突端、レースのゴール地点に設置された観測塔の最上階で、展望窓前に陣取ったルビー・シンがふりかえりながら口にした。
ひろい室内の中央、しつらえられたソファセットの奥に腰をおろした老人は、こたえるかわりに狷介な一瞥をちらりとルビーにくれただけだった。
ルビーは嘆息をおしころし、展望窓わきのモニター群に視線を戻す。
周囲ではレースの運営スタッフが、準備を整え終わったことにひとまずは安堵の息をつきながら、スタートの声がかけられる瞬間をかたずをのんで見まもっている。
さらに、特別招待を受けた政財界のお歴々が、とりまきのようにチャンドラ・シンの周囲に侍っていた。
老人はいつにもまして不機嫌まるだしで、テーブル上の“翼をひろげた美神”像をその両の目で見つめている。
銀河の至宝と称される彫像であった。ステルト――燃えつきた恒星の表面から採取した物質からなる造形は、標準暦(U・T)で
四世紀近く前に物故した芸術家であるクルシド・パシャの手になるものだ。その素材は熱線の直撃を受けても変質しない特殊物質で、そこに造形を刻みこむには腐食剤を多寡自在に噴出する、プラズマ・トーチのような道具を使わなければならないという。
異界への飛翔を表現したとされる、まるでブラックホールを凝縮したかのような底なしの黒の素材にきざみこまれた簡素な像は、その簡素さゆえにその形象が、いにしえの哲学者が幻視したという真界に直結しているかのごとき神秘なオーラを発散している。
その至宝たる彫像を、老人はしわにうもれた顔貌にぬぐいがたい不機嫌を刻みこんだまま無言でながめやっているのだった。
クラッドゥ時間で今年、二十周年をむかえるセルヴァン雪原横断レースの主催者であり、その開催と定着に力をそそぎつづけてきた財界の大物であるチャンドラ・シンも、いまでは昔日の情熱をすっかり失い果てていた。
余人には手にいれることあたわぬ長命薬カリアッハ・ヴェーラの恩恵をうけて老人は、すでに二世紀近くもの生を享受している。十年前に一線を完全に退いてからは、若き日よりただひとつの趣味としてきたランド・ストライダーによるレースにその全霊を傾け、ここ惑星クラッドゥにおいて雪中の山林、および雪原を横断してのける特殊ストライダーのマイナーなレースが開催されていることを知って以来、のめるようにその充実と拡大とに、心血をそそぎこんできたのだ。
が、それもここ数年はことさらに少なくなった口数の下に、その情熱をさえ凍らせてしまっている。
原因はわかっていた。四年前のレースでの事故がそれだ。
それまでチャンドラ翁はエアバギーを駆ってつねにレースの全容を直接視認できる位置から観戦し、また指揮をとばしてきた。
その年も例年どおりに一部始終をおのれの目で見とどけたのち、クライマックスを迎えるべくゴール地点にほど近い場所に設置された特殊天幕に陣取って、迫りくる先頭集団の到着を待ちうけていたのだ。
そこへ激烈なトップ争いをくりひろげる二台のストライダーが、クラッシュしながら突入してきたのである。
幾人もの死者をだした大事故に発展した。幸いにも、毎年追従のためにおとずれる政財界の大物たちはいまと同様、危険だという理由で堅牢きわまる観測塔からの観戦のみを強制していたために、重要人物の死傷という事態にはいたらなかったが、皮肉にもVIPの直接観戦を禁じたチャンドラ翁自身が、死の淵をのぞきこまねばならない仕儀となったのである。
チャンドラ翁の曾々孫であるルビーもまた事故にまきこまれたひとりだった。
同席していた多くのスタッフが一瞬にして重い機体にひきつぶされて血まみれのずた袋と化した事実を考えれば、チャンドラとルビーのふたりは幸運に見こまれていたことはまちがいない。
だがそのときを境に、チャンドラ・シンの内部にあらがいがたい矛盾した想いが、いすわることとなってしまったのだ。
レースに対する熱烈な興味を喪失することなく、同時に抱くようになってしまった、ぬぐい難い忌避感。
そして企業のトップに立ってひたすら走りつづけてきた壮年時代につちかってきた、根深い人間不信をもまた老人は、一気に噴出させることになったのである。
引退前後はとみにその傾向が目立ちはじめていたのはたしかだ。が、それでもレースにかかわっているときだけは、すこぶる機嫌がよかった。
しかしそれも事故以来、まるで別人のようにほとんど口すらひらかぬ傍観者となり果ててしまっている。それでも観覧席から撤退する気だけはないのか、毎年こうして、あれほどきらっていた阿諛追従を四囲にまとわりつかせながら鉄の塔から熱戦に対して、侮蔑と情熱の入りまじった視線を投げかけるようになったのだ。
直接観戦から安全な場所への移動を強硬に主張したのは、ルビーだった。が、以前のチャンドラ翁なら、ルビーのいうことなど耳すら貸さずに我をおしとおしたはずだ。それがむっつりと不機嫌にではあるが、唯々諾々と正論に従ってモニターによる観戦を承諾したのである。
だまりこんで腰をおろすだけの老いた男をとりかこみ、老人がかつて愛したレースになどまるで興味もないやからがけたたましく、口々に心にもない賞賛の美辞麗句をがなりたてる。
引退したとはいえ、星域全般に、陰に陽に絶大な影響力を保持する巨大複合企業シン・グループの創設者でありその頂点にたつ人物だ。屍肉にたかるハゲタカのごとき手合いはあとを立たない。
このとりまきたちが、レースのことなどどうでもいいと心中考えていることは、翁自信が承知していた。だからこそ、翁のそばに侍らせてもらいたいと強硬に主張する有象無象を、鉄の塔におしこめて隔離させてもいたのだが――自分がそこにおしこめられる段になっても翁は、それら権力にたかる糞虫どもを排除するでもなく、かといって仲間として遇するつもりもないらしく、まとわりつく追従笑いをつめたく無視してこうしてここにいすわりつづけている。
権力を手にしたとき以来、つねにかたわらにして離そうとしなかった銀河の至宝ともいうべき“翼をひろげた美神”ばかりをただひたすら、思いつめたようにその老いた瞳で視界のかたすみにおきつづけながら。
壮年時代はもとより、引退してレースに心血をそそいだ十年のあいだももちろん、この像はつねにチャンドラ翁のかたわらにありつづけていたのはたしかだった。そういう意味では、星際規模の至宝とされる美術品であるということをのぞいても、老人のかがやかしい時代を象徴する像として、特別な品物であることはまちがいないだろう。
それでも、食事のときですらそのかたわらから離さず、たとえ眠っているときであろうと手ひとつふれようものなら、バネで弾かれたように起きなおり、烈火のごとく罵詈雑言をあびせるような事態になったのは、ここ数年のことに限られる。
そういう意味では、この像は老人の衰退と死の兆候の、まさに象徴でもあるようにルビーには思えるのだった。
妄執、という言葉をルビーは想起する。
レースに熱中していたころのチャンドラもまた、たしかに常軌を逸したのめりこみぶりであったのはまちがいない。
それでも、好きなものにどっぷりとひたりこむ老人の、あきれるまでに一途なその姿勢には驚愕とともに好感をもおぼえずにはいられなかった。
だが、そのレースにすら一定の距離をおくようになってしまったここ数年の老人の姿は、ルビーにとってさびしいかぎりであった。
まして、いまの老人にとっての唯一の心のよりどころとさえいっていい“翼をひろげた美神”は、かれが壮年時代、金と権力にあかせて非合法に手に入れた品、という点は非公式ながら、かなり広く知れわたった事実だ。ものうげな微笑をうかべて漆黒の翼をひらく女神の姿は、ルビーにはどすぐろく汚れたものの象徴にすら見えるのである。
モニター内部では開会のセレモニーがつづいている。スタート地点であるセルヴァン山稜中腹の大丘陵広場もまた、かつてチャンドラが年々規模の拡大するレースのために切りひらいて造ったものだ。
チャンドラ・ジー、もうすぐスタートよ、わかってるの?
いやしげな笑みをはりつけたとりまきどもに囲まれて、ちいさくちぢんだ不機嫌なミイラのような老人を見つめながら、ルビーは心のなかでそうつぶやいた。
数代つづいたシン家でももっとも若い世代に属するルビー・シンは、傍系の娘であることもあってグループの中枢にはもとより縁のない地位にある。
それでも、ストライダーに関する知識や操縦・整備の腕などはそこそこのものがあるせいで、グループのもっとも奥深くにずっしりと鎮座するこの老人には何年も前から気に入られていた。企業の重大なポストには手すらとどかないが、すくなくともこのレースに関するかぎりは中核にたって、老人の手足として汗を流しつづけてきたのだ。
それだけに、老人のこんな姿を見せつけられるのには、耐えがたいものがあった。