まぼろしの時間
「おれは、そなたの国とわが国とが手をとりあう日がくることを約束するぞ」
もう二年、いや、三年も前のことになるのだろうか。
ハイン大学のキャンパスの一角で、サフィーヤ姫をとなりにしてザハルはそう語ったのだった。希望と理想に目をかがやかせた、やさしい笑顔がそこにはあった。
姫君もまた、そうなればいいと心から同意し、がんばってください、ザハルさま、と手をとってそう呼びかけたのだった。
そのときの、てれたようなザハル王子の笑顔を姫君はいまでも、目の前にしているようにあざやかにおぼえている。
そしてザハル王子は頬を染めて視線をそらし、姫にとられた手をあわてたようすでするりとすりぬけさせながら、こういったのだった。
そしてそのときには、おれは、そなたを──と。
つづく言葉を、姫は待った。
胸をときめかせながら。
だが、若き日のザハルは、それからさきは無言のまま姫君から目をそらすように、ハインの青空をながめあげているばかりだった。
周囲には、フェイシスや連合出身の無数の若者たちが、まるで日向ぼっこをする猫たちのように肩をよせあいときをすごしていた。
なかには、人目もはばからず濃密にくちびるを重ねあい、おたがいの肉体を狂おしくまさぐりあっているような、ふたりにとってはあまりに過激すぎる姿もあった。
まぶしくもあり、すこしうらやましくもある光景であった。
それでも、手をふれあうことさえ躊躇する、自分たちの関係もまた、かれらに負けないくらい幸福なものであることを、サフィーヤ姫は信じてうたがわなかった。
まるで、まぼろしのような時間だった。
もう二度ととり戻すことのできない、まぼろしのような時間。
やがて、ザハル王子が空を見あげたままこういった。
──サフィーヤ。おれはそなたの兄が好きだ。二度と得がたい、無二の親友だと思っている。
あの言葉はうそだったのですか、と姫は頭のなかで口にした。
ふりかえったザハルは、すでにあのときの理想に燃えた青年ではなく、精悍で、そして凶猛さにみちた、姫を強奪にきたときのザハル王の顔をしていた。
むかえにきたぞ、サフィーヤ姫。
そう叫んで王は姫を抱きあげ、風のようにトラッダドの宮殿をかけぬけ──
はっとして姫は目をひらいた。
頭の芯がぼうっとしている。
どうやら、いつのまにかうとうととしていたらしい。
ぼうぜんとして周囲を見まわし──
室内の雰囲気が一変しているのに、気がついた。
マヤも、ラエラも、一瞬で熟睡していたジルジスまでもが、緊張した面もちで窓ぎわに立って、眼下に油断のない視線をおくっていた。
手にはそれぞれ、銃をにぎっている。
「追手ですか?」
ぎくりとして、サフィーヤ姫は半身をおこした。
「ああ」とジルジスがいった。「いま、廃虚に足をふみ入れるところだ」
姫は緊張した面もちで立ちあがる。
「外でむかえうつぞ。ここじゃ逃げ道がない」
短くジルジスがつづけた。
マヤもラエラも無言でうなずく。
「ラエラ、姫をたのむ。マヤ、こい」
「あー、やっとここを出られる」
口々にいいつつ、ジルジスとマヤはすばやい身のこなしで部屋を出た。
「さ、わたしたちもいきましょう」
ラエラにうながされて姫もあわてて身を起こす。
階段にはシヴァの姿はなかった。
とうぜんのようにジルジスもマヤもなにもいわず、階下をめざす。
一階の例の部屋では、いまだにヘビがどすばたと身をもがかせていたが、すでにマヤも気にはしていないようだ。
入口では、やはり銃を手に油断なく外をうかがうシヴァの魁偉な姿があった。
四人は入口わきに立って無言でうなずきあい、それ以上言葉をかわすでもなく、一気に外に走りでた。
「さ、サフィーヤ。こちらへ」
ラエラにかるく腕をとられて、サフィーヤ姫も小走りにあとを追う。
走りながら、街の入口方向に視線をやる。
だれも見あたらなかった。
建物の陰にあたる、樹木が複雑なかたちにからまりあった場所にふたりはころがりこんだ。
サフィーヤ姫を背後にかばうようにして、ラエラは銃をかまえた姿勢で建物の壁に身をよせ外をうかがう。
そのまましばし、待機のときがおとずれた。
姫はたかなる胸の鼓動を懸命におさえた。
そのまま、待った。
まったく動きがないまま、時間がすぎた。
「あの」
と息苦しさに耐えきれずに、姫は口をひらく。
はい、と視線を外部に固定したままラエラがこたえた。
ためらったあげく、姫はふたたび口にする。
「どなたが、最初にお気づきになったんですか?」
「なにがです?」
「あの……追手がきたことに」
「ジルジスです」
短くラエラがこたえた。
意外の感をサフィーヤ姫は禁じえなかった。
昨夜の登場の段ではともかく、ついさっきまでは、この盗賊たちの首領はその地位にも伝説にもまるでふさわしくない、単なる怠け者ののんき者にしか見えなかったからだ。
あれだけ熟睡していたのに、姿さえ見えない追手の接近を、いったいどうして察知できたのだろう。姫にはそれがふしぎでならなかった。
そんな心中の思いがきこえたかのように、ラエラは姿勢をかえぬままいった。
「ジルジスの勘は、化物じみてますから」
それだけで説明はすんだ、とでもいうように黙りこむ。
しばしつづきの言葉を待ち、それがないと知ってようやく、なるほど、と姫は納得した。
ラエラとは逃避行の最初からいっしょだった。姫にはまるで兆候さえつかめない状態でも、ラエラが危険を察知してきた姿を現実に目にしている。
そんなラエラがいうのだから、よほどのものなのだろう、と姫は思った。
やはり伝説どおりのひとなのかもしれない。
あるいは──伝説以上のひとなのかも。
そのままさらに、時間だけがすぎていった。
もしかして、まちがいだったのではないか──と、ふたたび疑問が姫の頭の片すみにうかびはじめたころ──
「きました」
ふいにラエラがいった。
姫は、え、と目をむいた。
思わず身をのりだそうとし、それは危険だしラエラの邪魔にもなるだろう、と思いなおして自制する。
ほどもなく、銃声がなりひびいた。
ひどく遠い場所での音のように思えた。
つづいてもう一発。
呼応するように、連続した発射音がひびきはじめる。
そんな音をきいているうちに、姫君の胸の奥では、どうしようもなく不安がふくれあがっていった。
「だいじょうぶでしょうか?」
ラエラの集中をそぐ、と危惧しながらも、言葉をとどめておくことはできなかった。
「だいじょうぶ。わたしたちを信じてください」
そっけなくラエラがいう。
ふいに銃撃音がとぎれた。
静寂が、圧力をともなっておしよせてくるように姫は感じた。
目を見ひらき、両腕で胸を抱きながら狂おしく耳をすます。
ふたたび、二種類の銃撃の音がひびきはじめた。
ごくり、と姫は思わずのどをならした。
それをふりはらうように、サフィーヤ姫は首をはげしく左右にふった。
しっかりしなくちゃ──みずからにそういいきかせ、うん、とうなずきながら姫は顔をあげた。
錯綜する樹木のむこうに、なにげなく目をやる。
ぎくりとした。
人が立っていた。
姫は悲鳴をあげながら、反射的に立ちあがっていた。
悲鳴に反応して、ラエラはふりむく。
なにが起こったのか確認するよりさきに──ひらめくものがあった。
後頭部、ぼんのくぼあたりに悪寒がはしりぬけたのだ。
危機的状況にはたらく、ラエラの動物的な勘だった。
とっさに身を伏せた。
音よりも、痛みのほうがさきにきた。
「ぐ!」
うめいた。
思わず手をちぢめる。銃をにぎった手の甲に、灼熱感がひろがったのだ。
光条の残像がまぶたに灼きつく。
銃撃をうけたのだった。
間のわるいことに、ラエラは反射的に銃をとり落としてしまっていた。
ひび割れた舗石の上にころがった銃に、ラエラは飛びつこうとした。
銃撃にはばまれた。
「動くなよ、この野郎!」
重なる樹木のむこうがわから、蛮声がひびきわたった。
ラエラは硬直する。
ほかにできることはなかった。
醜態だった。
「動くなよ、ええ? ちょっとでも動いてみろ。てめえの首から上が、ふっとんでなくなるぜ」
よくひびく声音が、傍若無人な口調でいう。
砂色を基調にした軍服の胸部を、だらしなくはだけた髭面の男がそこにいた。にやにやと口もとに凶暴な笑いをはりつけ、銃口をラエラの心臓にポイントしている。
カシム星佐であった。