逃走のはじまり

 

 そんな姫の心中をおもんぱかったかのように、ラエラは姫にむかって、はげますようにうなずいてみせた。
「詳細を申しあげるのは残念ながらはばかられますが、わたしたちはアリシャールさまとはひとかたならぬ縁があります。その義によりて、立った次第」
「まあ。すると」と、姫君はかたちのいい眉を悲痛によせる。「あなたたちはそのために、かぶらずともよい汚名をわざわざ着てまで」
 ははは、と、ラエラは声をたてて快活に笑った。
「まさか。かんちがいされてはこまります、姫さま。わたしたちはもともと悪逆非道で名のとおった盗賊の一味。わざわざこうむらずとも、汚名悪名山ほどつもりつもっておりますから」
 そんな、それでも、とにわかにおろおろしだした姫を、さらに好意的な微笑で女盗賊ラエラはながめやった。が、ふいにその美貌をきびしくひきしめ、立ちあがった。
「さ、姫さま。ご決断ください。わたしたちは、あなたがこのままここにとどまりたい、とおっしゃるのであれば、人知れずひきあげるつもりです。どうなさいます? ザハル王の正式な妃となって、この後宮におとどまりになりますか? それとも、兄王さまのもとへ?」
 瞬時、姫君はとほうにくれたようにはたと立ちすくみ、たすけを求めるがごとくラエラを見かえした。
 雷鳴のように、脳裏にふたつの顔がうかんでいた。
 兄王アリシャールと──そしてもうひとり。
 おれは、そなたの国とわが国とが、手をとりあう日がくることを約束する──その、もうひとりの顔が遠い昔日、目をかがやかせながらそう口にしたことを思い出していた。
 そのときには、おれはそなたを──その顔はそういったきり、あとは無言のままその視線を姫君からそらして、ハインの青空をながめあげたのだ。
 今では、はるかに遠い、まさに夢のなかの記憶でしかなかった。
 そんな記憶をふりはらうようにして、姫は激しいいきおいで首を左右にふるった。そして、ふかぶかとうなずいてみせる。
「いきます。つれていってください、シファ・ラエラ」
 女性に冠する敬称である“シファ”をつけ、女盗賊にひたむきな視線を投げかける。
「シファはいりません、姫さま」女盗賊は笑いながらいった。「ラエラ、と呼びすてにしてください」
「わかりました、ラエラ」と姫はすなおにいった。「ではあなたも、わたくしのことはサフィーヤ、と呼びすてにしてください」
 瞬時ラエラは、とまどったようにまともに姫を見かえした。が、苦笑とともにうなずく。
「了解しました、サフィーヤ。ではすぐに準備をはじめましょう。申しわけありませんが、時間がありませんから身のまわりの品をもちだすことはできません。身ひとつでわたしについてきてください。では、まずは着がえていただきます」
 と、ラエラは背に負ったザックをすばやく床におろして口をひらき、そのなかから女盗賊自身が身につけているのと同様の、黒い衣服をとりだした。
「ラプルズフォームという名の、特別な繊維でできている衣服です。耐熱、耐衝撃性にすぐれていて、ナイフで切りつけたくらいなら傷ひとつつきません」
 ところが──姫君はさしだされた衣服をうけとると、こまったように立ちすくむだけだった。
 とまどいながら指示を求めるように、なにごとかと見かえすラエラと衣服とを、交互に見くらべはじめる。
 はた、と手をうち、ラエラはうなずいた。
「ああ、そういうことですか。もしかして、姫君はお着替えをひとりでなさったことがない?」
「はい……」と、申しわけなさそうに姫はうなずく。「わたくし、その、ボタンのとめかたくらいならできるのですけれど、でも──」
 おろおろとうろたえながらそういいかけるのを、ラエラはやさしく笑いながら制した。
「お手伝いいたしましょう。あいにくと、三日ほどしか仕事をしていませんので、満足につとめあげる自信はまるでありませんけど」
 そうきいて、姫君は決然と首を左右にふってみせた。
「いいえ。ひとりで着替えてみます」
 いってすっくと立ちあがり、受けとった黒い衣装をかたわらの寝台の上にのせ、ドレスの背中を肩ごしに右から、ついで左から、ぎこちないしぐさでのぞきこむ。どうやら背中のファスナーのひらきかたがわからないらしい。
「わかりました、姫さま、いえ、サフィーヤ」
 苦笑しながらラエラはいって、つつと姫君に歩みより、その両の肩をぽんとたたいて背中のファスナーに気安げに手をかける。
 びくり、と一瞬姫君は身をふるわせたが、顔をあからめてなすがままになった。
「申しわけありません、ラエラ。わたくし、なんだか情けなくなってきたわ」
「王族とは、そういうものだとききました。でもたすかります。このドレス、品は高級なのでしょうが構造はわたしのようなしもじもの者にもなじみ深い、ふつうのドレスのようですから。着せかえに特殊な技術のいるような複雑な着つけの衣服だったら、ぬがせているあいだに踏みこまれて見つかってしまいそうですからね」
 手ぎわよく姫君の着替えを手伝いながらラエラは、かるい口調でいう。
 姫もまた笑いかえしながら、たかまる動悸をしずめようと苦労していた。
 侍女に着替えをまかせるのは、文字どおり日常茶飯事だった。相手が殿方、というわけでもなし、羞恥に頬をあからめ、あまつさえ胸ときめかせるなど、どう考えてもおかしい──自分でもそう思えて、しいて心をおちつかせようとするのだが、そうすればするほど動悸はいよいよはげしくなりまさる。
「さあ、ではこれを着てください。なに、こことここに手を、こちらに足をつっこんでひきあげるだけでよいのです。さあ」
 いいながらラエラは、やさしく手とり足とり、ラプルズフォームの衣服を姫に着せていく。
 まるで人形にされたような気分になり、姫君はますます上気した。
 そんな姫に、ラエラはさらに気安げな口調で問いかけた。
「サフィーヤ、あなたはおいくつでしたかしら」
「え……わたくしは、ええと、標準年でいうと十八、もうすぐ九になるころあいです」
「そう……」
 と、下半身部分をひきあげようと悪戦苦闘する姫を手伝いながら、ラエラはうっすらと微笑む。
「なぜですか? なにかわたくしのからだは、ほかのかたとちがって、おかしいところでもあるのでしょうか?」
 ふいに不安になって姫君はそう問うた。
 いえいえ、とあわててラエラはかぶりをふった。
「そんなわけではありませんよ。まあ、しいていえば、平均よりはいくぶんか小柄ではあります。ですが、それは魅力にこそなれ決しておかしいということはありません」
 そうでしょうか、と姫は納得いかないようすで、ラエラの身体を上から下までしげしげと見つめた。
 女性としてはかなりの長身だろう。
 その上、ボディラインにぴったりフィットした黒のスーツは、みごとなまでに成熟したその肉体を誇示してでもいるかのようだ。
 それに比べると、小柄なのが魅力になる、というラエラのセリフはまるで説得力に欠けている。
「信じられません」
 ぷっ、とかわいらしく頬をふくらませながら姫君はいった。
 あっはっは、とラエラは心底おかしげに声をたてて笑った。
 おっと、と手で口をおさえ、なおも笑いながら姫君にむかってウインクしてみせる。
「でも、わたしはうそはいっていません。そしてきっと、わたしと同じ意見の人が世の中にはたくさんいるはずですよ」
「そうですか」
 姫は納得いかぬ顔をして、それでもあえて反論はせずうなずいてみせる。
 それから、ふいに気がついたような顔で問いかけた。
「ラエラ、あなたはいまいくつなの?」
 女盗賊は姫を見かえし、逆にききかえした。
「さて。いくつくらいに見えますか?」
「さあ……。不老処置をうけていらっしゃらないのなら……そう、二十四、五といったところではありませんか?」
 するとラエラは、花のように微笑をひろげた。
「そう、そんなところ、とでもおこたえしておきましょうか」
 まあ、と姫は目をまるくした。そんなのずるいわ、といいかけたが、それを制するようなタイミングでラエラは背中のシールを封印し終えて、ぽん、と姫君の柳腰をやさしくたたく。
「さ、これで準備は完了です。この繊維は可変ですから、かなりの体形をむりなくカヴァーできるはずですけど、どこかきゅうくつなところなどはありますか?」
「え? いえ、だいじょうぶのようです」と姫はあわてて自分の四肢をあちこちながめやり、「すこし、からだの線がはっきりですぎて、恥ずかしいけど」
「それはがまんしてください。それではいきますよ」
 いったとたん──やさしい微笑がきりりとひきしまった。
 きびきびとした動作でラエラは窓に歩みより、バルコニーに出て外部のようすをうかがう。
 よし、とちいさくうなずき、姫君を手まねいた。
 なれないかっこうをしているせいか、おっかなびっくりの足どりで姫君はラエラのとなりに立ち、バルコニーから下界を見おろした。
 五十メートルはある闇の底にむけて、外壁とおなじ色をした一本のロープがゆわえられている。
「……ここを降りるのですか?」
 声音におびえをまじえぬよう、懸命に姫はいった。が、からだが正直にちぢこまってしまっている。
「だいじょうぶです、サフィーヤ。わたしがあなたを抱いてさしあげます。あなたは下を見ないようにしがみついているだけでいいの」
 いって、姫君の返事を待たずに、その華奢なからだを軽々と抱きあげた。
「まあ」またもや姫は目をまるくする。「ラエラ、あなたはこんなに力もちには、とても見えませんわ」
 ラエラはうすく微笑しただけでこたえず──そのまま、なんのためらいもなくひらりとバルコニーをとびこえた。
 姫君の華奢なからだを横抱きにしたまま、ラエラは専用の器具らしい滑車様のものをロープにとりつけ、そのままそれをつたって城壁を降下した。あっというまに下におりたち、ふわりと姫を地に立たせる。
「すごい」
 感嘆をかくそうともせず姫は、賞賛のまなざしをラエラにおくった。
「なれです、サフィーヤ。もっと重いものをもって、もっと危険な場所を綱渡りしたことも何度もあります。どうってことありません」
 てれもせずにラエラはそういい、四囲にむけてするどい視線をおくった。
 いくつかのライトが庭園をあわく照らしだしていたが、人影は見あたらない。
「さ、こちらへ」
 異変の兆候が発見されていないことをたしかめて、ラエラは姫君の手をとり、暗闇から暗闇へと移動を開始した。
 庭園から通廊をすばやくぬけ、邸内の要所要所にしかけられた監視カメラの死角をたくみにたどりながら、後宮をあとにする。
 広大な敷地には身をかくす場所のない範囲もすくなからずあったが、ラエラは四方の建物の通廊やバルコニー、窓などにむけて幾度か視線をめぐらせただけで、思いきりよく姫君の手をひいて前進をつづけた。かえってサフィーヤ姫のほうがおっかなびっくりで、いましも見つかりはしないかときょときょとと視線をあちこち走らせている始末だ。
「ラエラ、この敷地には、たしかドーベルマンが放し飼いにされていたはずですけど」
「ええ」とこともなげにラエラはこたえた。「でもだいじょうぶ。すべての番犬は薬を撃ちこんで眠らせてあります」
 まあ、と姫は口を手でおさえる。
「用意周到ですね。……でも、いつもなら監視の兵が巡回しているはずだけど」
「それもだいじょうぶ。十日前──つまり盗賊ジルジス・シャフルードが姫君をねらっている、という噂が王宮にとどきはじめたころから、監視は外部からの侵入者むけに強化されていますからね。つまり、内側から出ていこうとする者に対しては、監視の目はあまくなっている、ということです」
 ラエラの説明に、なるほどと姫君はうなずく。
「もしかして、それも計算のうちだったの?」
 問いに、ラエラはちらりとふりかえってにっこりと笑い「もちろん」とこたえた。
 しきりに感心するサフィーヤ姫を先導して、やがてラエラは王宮裏手の通用門近くの塀の下にたどりついた。
 姫君をうしろに立たせ、女盗賊はレンガを模した頑丈な壁の表面を、注意深く観察しはじめる。
 なにをしているのだろうと姫君がいぶかるのにはかまわず、ラエラは壁をまさぐりつづけ、ふいに、ある一点にたどりついてひとりうなずく。
「ここだわ」
 つぶやき、姫君に手まねきをした。
「どうしたの?」
「ぬけ道をつくってあるのです」
 いってラエラは、レンガ様の壁のとっかかりに手をかけ、ぐいとひいた。
 ごく、とかすかな重い音とともに、レンガの一枚がパズルのようにぬけた。
 まあ、と姫君は口を手でおおいながら目をむく。
 見るまに、人ひとりがくぐれるほどのすきまがラエラの手によってひらかれていった。
「いつのまにこんな穴を?」
 くすり、とラエラは笑った。
「もちろん、この穴をつくったのはわたしではありません。この壁は見た目はレンガに見えますけど、レーザーの直撃をうけても一発や二発では破ることのできない特殊な材質でできています。三日間見習いとしてこきつかわれていたわたしに、そんなものに穴をあけている余裕なんかまったくありませんでしたからね」
「ではいったいだれが……」
 ラエラはなぞめいた微笑をうかべただけでそれにはこたえず、姫の手をひいて外部にすべりでた。
「さあ、ここからが正念場ですよ、サフィーヤ。番犬が眠らされているのもそろそろ発見されるでしょうし、あなたをつれて歩いているのが見つかれば、夜の探検にでてきた娘ふたり組、と勘ちがいしてくれるようなのんきな兵ばかりではないでしょうから」
 いいながらラエラは、背にしたザックから銃をとりだした。
 グリップのところにサディレシヤの紋章がついている。
「武器庫からちょっと拝借した銃です」かるく点検の目をはしらせながらラエラはいった。「ほんとうは使いなれた自前のものがよかったんですけどね。ちょいとドジって、入星のときに見つかりそうになってしまったので。捨ててきてしまったんです」
 いいながらラエラは、サフィーヤ姫の手をとって用心深く前進を再開した。
 王宮の外縁は、小高い丘になっている。その丘は森林に囲まれているが、下界までつづく道路には、遊歩道のような小道にいたるまで監視の兵がひっきりなしに往復しているようすだった。
 物陰からしばらくそのようすを見やり、ラエラは舌をうつ。
 道をはずれたところを移動するのは、ラエラひとりならともかく、姫君がいっしょではまず不可能だった。なにしろ着替えすら自分ひとりでやったことのない高貴の人である。音をたてずに移動することはおろか、下生えをかきわけて進むことすらできそうにない。
「やはり予定どおり、強引に突破するしかないわね」
 ひとりつぶやき、ラエラは姫君の手をひいて小道にふみこむ。
 すぐに、監視の兵が近づいてくる気配があった。
 ラエラは樹陰にサフィーヤ姫をおしこむと、銃をかまえ、低く身を沈めて待った。

 

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