10

 ふしぎな笑いだった。
 勝利感にあふれている、とそのときのおれには思える笑いだった。
 だがそれだけじゃない。
 おれにはなんだかわらかなかったが、それは、会心の笑みでありながら、もっとべつの、もっと複雑な、いろいろなものが渦まいている笑いであるような気がしたのだ。
 いま考えてみれば、それはまったく相反する感情だったのだろう。
 だが、このときのおれにはそんなことなどわかるはずもなかった。ただ、あふれるような勝利感の底になにかべつのものがある、とおぼろげに感じただけだった。
 いずれにしろ、あのようなことをいわれてなぜ、あの娘が会心の笑みをうかべることができるのかが、おれにはさっぱりわからなかった。
 そのあたりを、どうやらバーズは直感で覚っていたらしい。
「きみはだれだ」
 娘を抱きしめたまま、静かにくりかえした。
 娘は――静かに微笑みながらバーズの抱擁から身をひくしぐさをみせた。バーズもむりに抱きよせようとはせず、ふたりのあいだに距離があく。
 くるりと、娘はバーズに背中をむけた。
「バーズ。わたしのことを好き?」
 そうきいた。
 ながい沈黙のあと、バーズは「ああ」とこたえた。
「サッシャとおなじくらい、好きだ」
 娘は、バーズに背をむけたまま、笑った。
 泣き顔にも見える、奇妙な笑い顔。
 ふいに、その華奢な手で顔をおおう。
 肩をふるわせはじめた。
 やはり泣いているのか、と首をかしげていると、娘はふりかえった。
 満面に笑顔をうかべて。
 そして、
「ありがとう」
 そういった。
 バーズも、微笑みかえした。
 慈愛にみちあふれた、笑顔だった。
 それがふと、真顔に戻る。
「ひとつ、ききたいことがあった。サッシャにだが」
 いいわ、と彼女はいった。それから、
「なぜわたしが突然いなくなったか、でしょう?」
 バーズはぎょっと目をむいたが、てれくさそうにぽりぽりと頭をかき、うなずく。
「あたしは、別れたくなかったわ」彼女はそういった。「でも彼女は――こわかったのよ。あなたの仕事がとても危険だってことは、わかってたから。いちど、血まみれになって帰ってきたことがあったでしょう? 病院にいくよりは、ここにきたほうがはやいからって、笑いながら」
 なんとデリカシーのないことを。
「あのとき、実際は返り血ばっかりであなた自身の怪我はまったくたいしたことなかったけど、でも、何度も夢に見たわ。あの姿を」
「……すまなかった」
 ぽつりとバーズがいうと、娘はふっと笑う。
「あなたがいつ死ぬかわからないお仕事についてるんだって、あのときに思い知らされたの。だから――だから、あなたが帰ってこなくなるのが、こわくてこわくてしかたがなくなっちゃったの。だから――自分のほうから帰らずにいれば、もうあなたの死の報せを受けとることもないって……そう考えたのね。ばかげてるわ」
「いや……」
 バーズはいって、彼女の目を見つめたまま首を左右にふった。
 娘はさびしげに笑う。
 そして、
「いっしょに死んでほしかったの」
 突拍子もないセリフを、口にした。
 なんだ? とおれは目をむく。
 バーズは、だまって娘を見つめるだけだった。
「だから、あなたを殺そうとするひとや、あなたとわたしがいっしょに死ぬのを邪魔しそうなひとにはいなくなってもらおうとしたのよ」
「そうか」
 とだけ、バーズはいった。
 おれは憤慨する。よくわからないが、いなくなってもらおうとした、の具体的内容がリーを殺しガリハを昏睡させ、そしておれをあれだけ苦しめたあの幻影のことだろう、とは見当がついた。それを、こともあろうにバーズのやつは「そうか」の一言でかたづけてしまったのだ! ちくしょう、あのやろう、帰ったら額をぐりぐりしてやる。
 かたく誓ったおれのセコい決心など知らぬげに、バーズはつづけた。
「きみはだれだ」
「でも、もうやめてあげるわ」娘は、バーズの質問は無視してそういった。「あなたはわたしのことを好きになってくれた。それだけで、もう充分だわ。生まれてきてよかった。わたし……初めてそう思えた」
 そして、ありがとう、といった。
 そのときおれは、娘の姿がゆっくりとすきとおっていくのに気がついた。
 消えようとしているみたいだった。
 待てよ、と思わず知らずつぶやいていた。
 むろん、バーズのやつもおなじ思いだったろう。
「待ってくれ」
 消えいこうとしている娘に、手をのばす。
「きみの名前を教えてくれ」
 うっすらとすきとおったまま、娘はびっくりしたように目を見ひらいた。
 それから、涙をあふれさせながら幸せそうに微笑み――
「愛してるわ、バーズ。最後に会えて、よかった」
 そういい残して――。

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