9
ながいブルネットの髪が、静かに風にそよいでいた。
バーズは目を見ひらき、一歩をふみだしかけたかっこうで、硬直している。
やつの半びらきになった口が、かすかにふるえる。のばしかけ、ためらうように中途半端な位置でとまった手の指さきも、ふるえている。
瞬時、獰猛な怒りの衝動がおれをとらえた。
銃を握りしめて飛びだしそうになる。
抑えた。
おれの時間じゃない。
いまは、バーズの時間だった。
バーズと――そして彼女の。
なにが起こっているのかはわからない。だが、なにかがおれの足をおしとどめた。
見つめあうふたつの影が、ひどく神聖なものに見えたからかもしれない。
リーやガリハを翻弄し、そしておれに残虐なまぼろしを見せた憎むべき相手のはずだ。
それでもなぜか、わきあがる怒りと憎しみを抑える何かが、おれのなかにあった。
たとえまぼろしでも、リナとケインをおれの前にもういちど立たせてくれたからかもしれない。
たとえおれの命を奪うのが目的だったとしても。
おれはいいたかった言葉を、口にすることができたのだから。
リーやガリハや、そしてこのおれの命をおびやかしたことは許しがたい行為だった。それでも――
バーズと向きあってたたずむ娘には、わきあがる憎悪を萎えさせる何かがあったのだ。
それはその、ひたむきな瞳だったのかもしれない。
まっすぐにバーズを見つめる、ひたむきな瞳。
病院をぬけだし、この世界からぬけだすために、裏街にひそんで金をためたという。バーズと出会ったときには、きれいなからだとはお世辞にもいえない身の上だったはずだ。魂が美しければいいのだ、などとおためごかしをいう気にもなれない。自分は汚れているのだと真剣に悩む裏街の女を、おれは何人も見てきた。
なぜこれほどまでに、ひたむきになれるのだろう。
いまにも涙がこぼれそうなほどうるんだ瞳で。それでも、泣いてしまっては目の前のバーズを見つめることができなくなるから、とでもいいたげに懸命に目を見はっている。
なにかをいいかけたまま硬直していたバーズの口が、徐々に、閉じていく。
あげかけた腕も力なく落ちていった。
ふみだした片足だけが、そのまま。
そしてバーズは、ひたむきな視線を正面から受けとめ――
「サッシャ」
口にした。
娘のくちびるがふるえる。
バーズの名前のかたちに、動いていった。それでも声はでない。
小刻みに全身をふるわせ――ついに、両手で顔をおおって、泣きだした。
立ちつくしたまま。
ためらうようにバーズは一歩をふみだし――
歩みよる。
そっと、娘の肩に手をかけた。
抱きよせ――抱きしめる。
娘は、声もなく泣きつづけるだけだった。
ながい、ながい時間、ふたりはそうしてただ立ちつくした。
やがて、娘が顔をあげる。
涙にうるんだままの瞳でバーズを見あげ、いった。
「会いたかった」
娘を腕のなかに抱きしめたまま、バーズもまた何かをいいかけ――
しばしそのままの姿勢で無言。
それからいった。
「きみはだれだ」
ぎょっと、おれは目をむく。
再会した恋人にかけるセリフじゃない。
だが――娘はかすかに微笑んだ。さびしげに。
「わからないの?」
「ああ」
バーズは、娘の目を真正面から見つめながら静かにうなずく。
「いって」
娘がいった。なんのことだかわからなかったが、バーズには通じたらしい。
「きみはサッシャだ」やつはそういった。それからつづけて――「だが、きみはサッシャじゃない」
わけがわからなくなった。やつは何をいってるんだ。
が、娘は静かに微笑みつづける。
「ずっと、会いたかったの。あなたに」
「きみはだれだ」
バーズはもういちど問う。
娘は答えなかった。
「覚えてる? ユエトーで、ふたりで暮らしていたあの部屋。海のそばだったわ」
「ああ」
「療養所で、海が好きだってわたしがいったから、あなたはあの部屋を選んだのね」
「ああ」
「麻薬がきれて、禁断症状に苦しんでたわたしが、なんでもいいから何かをしゃべっていないと気が狂いそうだから海のことをくりかえしていただけなのに。あなたは海がきれいだきれいだってくりかえすわたしに、ばかみたいにそうだなそうだなっていってただけだった。なんて気のきかない、会話のへたなひとなのかしらって、あたし、苦しみながらあきれ果ててたのよ」
やっぱりあいつは、むかしっからああだったらしい。
「ああ。きいたよ」
「だからあの部屋につれていかれたとき、わたしほんとは海なんてだいきらいなのよっていってやったの。そしたらあなた、ほんとうに困ってた」
くすり、と娘は笑う。涙をにじませたまま。
バーズも、苦笑を返した。見たこともない反応だった。たいしたものだ。
娘はいう。
「気に入らないなら、べつの部屋をさがすから今のところはここでがまんしてくれって。ばかみたい。自分でもばかみたいだって思わなかった?」
バーズは、静かに微笑みながら彼女を見つめるだけ。
娘はつづける。
「しかたがないから、ここのことを――わたしの故郷の、この公園のことを話してあげたのよ。とってもすてきなところだって」
「ああ。覚えている」
「いつかいきたいものだって、あなたいったわね」
「ああ」
「そのあと、あたしがなんていったか覚えてる?」
「いや……ああ」
ちらりと視線をそらし、一瞬だがおれのほうを見た。あわてて知らんぷりをする。
「ふたりだけよ、バーズ。ここには、わたしたちふたりだけ。ほかにはだれがいても関係ないわ」
彼女はいった。
くやしいが、まったくそのとおりだ。
「だからいって。覚えてる? あのとき、わたしがなんていったのか」
バーズは口ごもり――実に想像もできなかった反応だが――ためらいながら、口にした。
「だれといきたい? ……と」
「そうよ」うれしげに、娘は微笑む。「いつかいきたいものだ、なんてあなたがいうから、あたし、ちょっといじわるしてあげたくなって、きいたのよ。だれといきたいのって。こたえなんてきく前からわかってた」
ふふっと、いたずらっぽく笑う。
「きみとだ」バーズが、顔を真っ赤にしながらもきっぱりといった。「きみといきたい、といった」
「いわされた、でしょう」もういちど、ふふふと笑う。「しつこくしつこく何度もきいて、ようやくあなたはいったのよ。いまみたいに、真っ赤になりながら。きみといきたいんだって」
「そうだ」抱きしめる手に力を入れる。「きみときたかったんだ。ここへ。きみはだれだ」
「わかってたわ。だからわたし、知ってたわって、そうこたえたのよ。それからわたしがなんていったか、覚えてるの?」
バーズは、またしてもだまりこむ。
くすっと彼女は笑う。
「かわってないわ。困ってしまうと、そうして黙りこんでしまうとこ。ねえ、覚えてるんでしょう。あたし、こういったのよ。わたしを抱きたいの? って」
ついに、やつは目を閉じてしまった。「ああ」と、蚊のなくようなかすれ声でいう。
「そしたらあなた、口ごもりながら、むりにそんなことするつもりはないんだとか、きみが望まないなら決してそんなことはしないとか、いいわけばっかり。だからあたし、じゃあこのままべつべつに寝ましょうねっていってやったのよ。あなた、しょんぼりしちゃったわ。覚えてる?」
「ああ」
「そのまま、朝までなにもしなかったら、一生いっしょに暮らしながら指一本ふれさせるもんかって、あたしそう思ってたのよ。そう思いながら、ずっと起きてた。そうしたらずいぶんたってから、あなた、あたしの名を呼んだ」
「ああ」
答えながらバーズは、娘の肩に頬をうずめた。
娘は幸せそうに目を閉じる。
「サッシャ、って」
「ああ……。そうだ」
「うれしかった」
いって――だが、娘は一瞬、目を見ひらいた。
歓喜の底に、まったく正反対の暗い感情が渦まいたように見えたのは、おれの錯覚だったろうか。
だが、ふたたび愛情にみちあふれた瞳でバーズを見つめ、娘はつづけた。
「あなたはいったわ。サッシャ、きみを抱きたい……って。……それからそのあとにまた、でもきみにその気がないんならどうこうって、どうでもいいことをぶつぶつとつけ加えて。ばかみたい。勝手にしなさいってあたし思わず叫んじゃった」
「ああ。覚えてる」
「そのあと、またながいあいだだまりこんじゃって。あなたがわたしの肩に手をかけたのは、それから一時間もあとだった」
「……それは覚えてないな」
「ばか」と笑いながら娘はバーズの肩をたたいた。「そうだったのよ。わたしがふりむいて怒った顔をしていると、困ったように目をそらしてから……ようやく、いってくれたのよ。きみが好きだって」
かすかに、バーズの口もとにも微笑がうかんだように見えた。
娘はつづける。
「そして、抱きしめられた」
「ああ」
「そのあとは、夜が明けて、つぎの朝がくるまで何度も求めあったわ」
「ああ」
「すてきだった……。幸せだったわ、バーズ……。わたしはだれ?」
彼女は、そうきいた。
バーズは目をひらき、娘を見つめる。
娘もまた、かたちのよい顎をつんとあげてバーズを見つめた。不安と、期待をその瞳にこめて。
そしてバーズは、いった。
「サッシャはもう、この世にはいない。きみはサッシャじゃない」
このばか、とわめきながら飛びだしそうになった。サッシャの――娘の表情の変化を見なかったら、実際に飛びだして説教をくらわせていただろう。
だがそのとき、娘は――笑ったのだ。