8

 心地よい風がかたわらを吹きすぎた。
 周囲には濃厚に肩をよせあうカップルの群れが、あちこちで好き勝手に愛を語らっていやがる。ちくしょう、気にくわねえ。
 木陰によりそってバーズの巨体をうかがいながら、ちっと舌をうつ。
 たしかに極上の雰囲気の公園だった。ベンチのすわりごこちもよさそうだし、申し訳程度にすえられた手すりのむこうにはきらきらしくうかびあがる街の夜景を背にして、港に出入りする船の汽笛が交錯する。とおりがかりにあった“ラシュガート”も、瀟洒な建物の窓から雰囲気のよい店内がうかがえて、たしかにこんなところでいい女とふたりきりで食事できれば最高だろう、といった感じの店がまえだ。
 それが、こんなところでこそこそとひとりで。ちくしょう。さっきから通りすがりのアベックどもが、どいつもこいつも不審な目つきでおれを見ながらひそひそ話をしていきやがる。のぞきじゃねえってのに。
 しかし、それにしても妙だった。
 他人のことなどどうでもよさそうなカップルばかりとはいえ、これだけの人間がうろついている場所だ。リーやガリハや、昨夜のおれのときのような凶行におよぶにしては、あまりにも条件が悪すぎる。亡霊が人目を気にするかどうかなどおれにはわからないが、どうもああいった陰惨な演出には似あわない場所であることはまちがいないのだ。
 それに――“サッシャ”を名乗る者が、なぜバーズを呼びつけるのかもわからなかった。最初のメールのときは何かの罠である可能性も捨てきれなかったが、ガリハはもう確保してある。ほかにこの星でおれたちに罠をしかけてくる人間の心あたりがない。壊滅したリーの組織の残党が意趣返しに狙ってくる可能性はないこともないが、連中がサッシャのことなど知っているとも思えない。
 第一、いやがるバーズからむりやりききだした限りでは、おれに話すまでサッシャと“想い出の場所”について語りあったことなど、だれにも話したことがない、というのだ。
 サッシャ自身がだれかに話した可能性はあるが、バーズのもとを去ってから死ぬまで、サッシャがユエトーをでたという記録も残っていない。それどころか、ユエトーからここまでの旅費はおろか、映話代さえ彼女には払えない状況だったらしい。
 あり得ない想像がおれの心中でうずまく。
 一連の事件をまきおこしたのは、まぎれもなくサッシャの亡霊ではなかったのか、と。
 おれの頭じゃ、ほかに説明がつかないのだ。
 妄想だ、と笑いとばしたいところだが、帝国あたりの研究じゃ人間の残留思念が生きている者へも影響をおよぼすってことが確認されたらしい。
 おれ自身はその手の話は信じないタイプだったが、こうもたてつづけにいろいろと見せられたんじゃ、あり得ないのひとことでかたづけるわけにもいかなかった。だいいち――
 昨夜、おれの前にあらわれたリナとケイン――妻と息子の姿は、まちがいなくおれの記憶どおりだったのだ。インチキ立体映像のたぐいなら、ああも鮮明におれの記憶にあるふたりを再現することなどできなかっただろう。リーとガリハのケースはともかく、この点だけは断言できる。
 いずれにしろ――
 おれはぎりりと奥歯をかみしめる。
 ただじゃすまさねえ。
 ふところにした銃に意識をやりつつ、バーズの背中をうかがった。
 やつめ、スカして海なぞながめてやがる。
 ふん、と鼻をならしておれは四囲に視線をとばし――
 異変に気づいた。
 あれほどうろついていたカップルの姿が、どこにも見えなくなっていたのだ。
 風が吹く。敷石のならぶ歩道を、かさかさと枯れ葉が移動していく。さっきまではあれほど心地よかった風の感触が、ふいにおれの背筋に悪寒を走らせる。
「くそ」
 つぶやきながら、バーズに視線を戻す。
 あり得ない光景がそこにあった。
 人影がふたつ。
 つう、とおれは目をすぼめる。
「シド。昨夜はどうしてきてくれなかったの」
「おとうさん、はやくおいでよ」
 ふたつの人影が、口々につぶやきながら手をのばした。
 ふところに手をやり、銃把を握りしめる。爆発しそうだ。
 おれは目を閉じ、息を深く吸いこむ。
「おとうさん」
「シド。はやくきて」
 声が反響する。映像も、閉じたまぶたのむこうに氾濫した。
 わめき声が、のどもとまでせりあがる。
 むりやり、おし戻した。
 そして、砕けるほど握りしめた銃把から手をはなし――
 樹幹に背をもたれさせておれは――ふう、と天にむかって吐息をついた。
 目をひらく。
 いつのまに移動していたのか、母子の影はおれの眼前にあった。いや、まぼろしなのだから、物理法則を気にかける理由などないのだろう。
「シド」
「おとうさん」
 反響する声はあいかわらずおれの頭蓋内部でうずまいている。
 おれはそれを無視して、口をひらいた。
「リナ。ケイン。おまえたちがほんとうのリナとケインなら、ちょうどいい。話したいことがあったんだ」
 瞬時、眼前の妻と子は口をつぐんだ。
 が、すぐに眉をひそめた哀しげな顔をとりもどす。
「話したいことがあるのなら、こちらへいらっしゃい」
「おとうさん、ぼく待ってるんだよ」
 ふたたび、ふたりの声がうずまき、何もかもを圧倒していく。
 心拍数が急激に上昇していくのを自覚した。息も荒れている。わめき散らしながら銃を乱射したい衝動にかられる。
 すべて抑えこみ、目を閉じると、呪文のようにふたりの声がうずまくなかでもういちど、おおきく深呼吸して息を整えた。
 そしていった。
「おれは、おまえたちに出会えて幸せだった」
 声が静まりかえる。
 異常なほどの量感をもって、静寂がおしよせた。
 風も動かない。
 閉じていた目をひらく。
 母子が、よりそい、手をとりあいながらおれを見つめていた。
「おれは、おまえたちに出会えて幸せだった」もういちど、静かにくりかえした。「まきぞえをくって無惨な殺されかたをしたおまえたちには、きれいごとにしかきこえんかもしれん。……それに、おまえたちがあんな死にかたをして、おれも地獄の煩悶をくりかえした。こんな目に会うためにこの世に生まれてきたんだとしたら、生まれてこないほうがよかったと思った。毎日毎日、死にたい、楽になりたい、すべてを忘れてしまいたいとそればかり考えて、苦悶にのたうちまわっていた。それでもおれは……」
 言葉がとぎれる。
 さや、と風がなった。
 どこか遠くから、汽笛の音がひびく。
 船がでていくぞ、ケイン、と、おれは心の底でつぶやいていた。
 船がでていくぞ。あの船に、みんなで乗りたかったな。
 おれはもういちど目を閉じ、くちびるをかみしめて天をあおぐ。
 虚無が、遠くひろがっていた。
 おなじみの虚無だ。おれの腹の底にいすわり、いつだって、このおれが気づかぬときですら、おれを苦しめ苛んできた、虚無が。
 その虚無をおれは見つめ――
 そして目をひらく。
 笑っている自分に気がついた。
 涙があふれそうだ。
 こんな場所でなければ、声をあげて泣いてしまってもよかったかもしれない、とふと思った。
 ばかげたことを考えている、ともう一方でつぶやくおれがいる。
 今度は意識して笑みで頬の端をおしあげ――
 いった。
「それでもおれは、おまえたちと暮らせて、幸せだった。もう、この幸せで、おれは充分だ」
 無表情に、リナとケインはおれを見つめた。
 足をふみだす。
 下生えが、かさりと音をたてて鳴いた。
 両手をひろげて、もう一歩。
 そこで、おれは硬直した。
 消えていたからだった。

 背後から、港をすべっていくだろう船のエンジンの音。
 街路灯に虫がたかっている。寒い季節が明けたばかりだ。再生と、そして死のときを迎えて、与えられた生をむさぼっているのだろう。
 照らしだされる歩道の敷石のみぞのあいだを、アリが数匹うごめいていた。
 植樹された木の枝が、音もなく風にゆれる。
 心地よい風だ。こんなおれにも、こんな風が吹くのだ、と思わせてくれるような、心地よい風。
 消えていた。
 リナも。ケインも。
 ぬぐい去ったようにきれいに、この世界から、消えてなくなっていた。
 静かだった。
 この世界に喧噪などどこにも存在しないのだ、とでも主張したげな静けさだ。
 いまこの瞬間にも、実際には争いが絶えることなどないのだろう。夫婦間の不和から戦争まで、ちいさないさかいから大量の命が失われる悲惨まで、どこかで、それもあちこちで、さまざまな阿鼻叫喚が世界をふるわせつづけているはずだ。
 それでもここは、まるで切りとられた別世界のように、静かで……そして、平和だった。
 だれかがいなくなっても、世界はかわらず動きつづける。どんなにたいせつなひとが、奪われたとしても。
 涙がこぼれそうになる。
 おれは、歯をくいしばる。
 握りしめたこぶしで、あふれたものを乱暴にぬぐい去り――
 ふりかえる。
 そこに――彼女はいた。

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