閃光

 

 黄と黒に変色した皮膚。
 頭髪は炎のようにめらめらと逆立ち、獣のようにむき出された口もとからのぞいているのはたしかに牙にちがいなかった。
“入魔”。
 まさにバラムは、虎と化していた。
「ツボを……おさえているはずだな」
 驚愕に目を見ひらきつつもシャルカーンは、老ウェイレンにそう問いかけた。
 ラトアト・ラ人は──見ひらいた目に恐怖を満々とたたえつつ、力なく首を左右にふる。
 恐怖にみちたそのしぐさを肯定するかのように──バラムの四肢につき立てられた数本の針が、ゆらゆらと内側からおし出されるようにしてゆらめいた。
 そして──から、きん、から、と見えぬ手に無造作にひきぬかれるごとく銀針はつぎつぎに音を立てて地に落ちはじめた。
 最後の一本が地に落ちると同時に、虎は、ぎろりと目をむきねめあげた。
 老ウェイレンを。
「まずいわい」無意識に体をふるわせながら、異星人はつぶやくように口にした。「われを失うていても、今回はあきらかにこのわしを憎悪の対象にしておる……。これは、高みの見物とはとてもいくまい」
 つぶやきざま──くるりと背をむけた。
 走りだす。
 数歩といかないうちに、突如下生えをならしながらころがり出てきた物体につまずいた。
 なんだ、と罵倒まじりに視線をやり──老ウェイレンは、それがバラムに殺害されたとばかり思っていたハリ・ファジル・ハーンであることを知ってさらに驚愕の目をむいた。
 血だらけの涎をたらしながら小刻みに全身をふるわせてよわよわしくもがくハーンの顔には──しかし、苦痛だけではなく燃えあがるような闘志もまたうかびあがっている。
 おお、と瞬時ウェイレンは歓喜の声をあげかけたが──
 それにかぶさるようにして、背後から咆哮があがった。
 野獣の咆哮だった。
 全身から怒気のオーラを弾けさせながら、虎と化したバラムが、頭上の青い真円にむけ凶猛きわまりない叫び声をひしりあげたのである。
「おう……」
 と、老ウェイレンは恐怖も忘れ、賛嘆の念をこめてその光景をながめやった。
 こたえるようにバラムは、ぎろりと視線をウェイレンにむけた。
 だん! と、地を蹴った。
 疾風のごとく、一瞬で老ウェイレンの眼前に肉薄した。
 強化人間の高速移動ではない。
 それ以上に剣呑で、力にみちていた。
 血走った双眸が、真正面から異星人をにらみつける。
 ごお、と獣臭にみちた息とともに咆哮がくちばしのついた顔面を焼いた。
 ウェイレンは、おのれの死を確信した。
 同時に──
 下方からせりあがってきた疾風が、吼える虎の顎下から重量感にみちた一撃を叩きあげた。
 がぶ、とあがった苦鳴とともに、バラムのからだは宙にはねあげられた。
 静止映像のように、青い微光のなかに舞いあがったあげく、どさりと地に落ちる。
 よろりと立ちあがりながらおのれの放った一撃の効果を確認したハリ・ファジル・ハーンが、血まみれの口もとを笑みの形にゆがませ歩をふみだす。
 たどりつくより先に──野獣の身のこなしで、バラムがすばやく立ちあがっていた。
 血管の縦横に走りぬけた双の眼に、怒りがめらめらと燃えあがる。
 ごう、と吼えて、地を蹴りつけた。
 鉈のような一撃が、弧を描いた。
 同時に、炎模様に血の彩りをそえたハーンの肉体が、残像をのこして消失した。
 超知覚モードに移行したのである。
 鉤爪の生えた脅威の一撃は虚空をなぎ裂き──その背後から痛烈なハーンの逆襲が衝撃と化して襲いかかった。
 前方に投げだされた。
 その投げだされる先に、超絶の速度域に移行したハーンは移動を終えていた。
 掌底をかまえて、待ちうける。
 どれだけの肉体であろうと、その一撃で勝負はつく。
 そう確信できるだけの“気”を、ハーンはその掌底にこめていた。
 打ち出すだけで決着はつくはずだった。
 思惑ははずれる。
 究極の鍛錬と神秘学、そして最新科学の結晶である一撃を──怒りの虎は凌駕した。
 勘であったのかもしれない。
 あるいは、本能か。
 通常の動態視力ではとらえ得ないハーンの存在を、バラムはたしかに捕捉していた。
 攻撃をうけて宙をとびながら二足の虎は、前方にむけて意識を集中していた。
 ふりかぶった両の手を──交錯させる。
 超知覚に移行した強化人間に匹敵するスピードが出たのは、あるいは無意識のうちにバラムの肉体が移行をおえていたからかもしれない。
 稲妻の速度で交差した両の手の鉤爪は、一瞬にしてファジル・ハーンの喉くびを横十条に引き裂いていた。
 裂けた肉のはざまから大量の血がしぶき──ハーンは攻撃態勢に入ったまま、信じられぬものを目撃したように両の眼を見ひらいた。
 同時に──すだれ状に喉くびを裂かれたままハーンは──掌底を、バラムのみぞおちめがけて打ち出していた。
 衝撃がバラムの腹部で爆発し、獣人と化した脅威の肉体が弾かれたように後方にむけて吹き飛ぶ。
 どさりと広場の中央にその肉体が投げだされ、同時に、ハリ・ファジル・ハーンもまた血を噴きながら下生えのなかにたおれ伏した。
 そのまま、両者とも動かなくなった。
 ぼうぜんと見やっていた一同のなかからいちはやく我にかえったのは、脅威の獣人に標的とさだめられて一度は死を覚悟したはずの老ウェイレンだった。
「お……」
 声も出ぬようにうめいてから、ぶるぶるとその異相を左右にふり、感嘆のため息をつく。
「この世の闘いでは──ないわい……」
 ふるえる声でひとりごちた。
 そして──にやりと笑う。
「ともあれ、わしは生きのびた」
 こみあげる歓喜を声にのせて、笑おうとした。
 制するように、不機嫌な声音が呼びかけた。
「そう都合よくいかせないわよ」
 ぎくりとしてふりかえるよりはやく──閃光が、異星人の胸郭をつらぬいた。
 驚愕の下に歓喜の表情をとどめたまま、老ウェイレンはぼうぜんと、銃を手にしたマリッドを見つめる。
 捕縛していたはずの銀針が、バラムの場合とおなじように地面に落下している。
 そしてそのかたわらにエイミスの黒い影が、力なく横たわっていた。
 主人を、全力をふりしぼって金縛りから解放した結果の、力つきた姿なのであろう。
 苦しげに背中をまるめた姿勢のまま、よろめきたおれそうになるのをかろうじて意志の力でまぬかれるようにマリッドは、苦渋と憎悪にみちた目でラトアト・ラ人を凝視する。
 その異星人ががは、とくちばしの端からしぶかせた血は、黒い色をしていた。
 信じられぬように両の目を見ひらいていたウェイレンが、さもおかしい、とでもいいたげに笑いの形に、その血まみれのくちばしをゆがめる。
「ぬかったわい」
 言葉を口にするとともに、がば、とさらに黒い血が弾けた。
 よろよろと数歩を歩いてから、どさりと、ふてくされたようなしぐさで尻から地に落ちてあぐらをかく。
「まったく、ぬかったわい」
 なおも血を吐きながら、くりかえした。
 フン、と鼻をならしながらマリッドもまた──がくりとひざをついた。
「天罰よ」
 笑いながらいうマリッドの横を、すりぬけるようにしてひょろながい影が老ウェイレンのもとにかけよった。亜人類、ヨーリクである。
 苦しげに肩を上下させる異星人の肉体状況をすばやく検分し、シャルカーンをふりかえって告げる。
「まだだいじょうぶだ、シャルカーン。ほうっておけば助からないが……」
 朗報に、シャルカーンがコメントを加えるより先に、
「あら、そうなの?」憤然とした口調でいい、マリッドが苦痛に顔をしかめつつ立ちあがった。「じゃ、とどめをささなきゃ」
 よろよろと歩をふみだすのへ、さえぎるようにしてヨーリクは両手を広げ、背後に瀕死の老ウェイレンをかばった。
 いぶかしげな視線を投げかけたのは、マリッドだけではなかった。
「意外だわい」苦しげにあえぎながら、かばわれた当のウェイレン自身が口にした。「おまえさんは、わしのことをうとましく感じているとばかり思っていたんだがのう」
 スペーサーはふりかえりもせず、両の手を広げた姿勢のままこたえた。
「それは事実だ、老ウェイレン。だが、あんたはわれわれの理想を実現するのに、まだまだ必要な人材だからな」
 狷介をその最大の特質とするスペーサーの口にするセリフではなかった。
 は、は、と、老ウェイレンは声を立てて笑いかけ、血を吐いてうずくまる。
 信じられぬものを目にしたように、マリッドはしばしぼうぜんとできすぎの三文芝居をながめやっていたが、やがて、きり、と口もとをかみしめた。
「なら、仲良くあの世へ送ってあげるわ」
 いって、銃口をポイントする。
 むろん──シャルカーンの背後にひしめく教団員たち、全員がただただ痴呆のようにこれらの一連の動きをながめやっているだけだったわけではない。
 なかには、あまりにも立てつづけに起こった異変と超絶の展開にも魂をうばわれつくすことなく、状況に対応できた者もいた。
 すなわち──マリッドにむけていくつかの銃口が、いましも火を吐こうとむけられていたのである。
 そのトリガーがいっせいにひかれようとした、まさにその瞬間──
「カフラ……!」
 苦しげにうめくだみ声が、すべての動きを停めさせた。
 ぎくりとして硬直した全員が、つぎの瞬間、苦鳴をあげて崩おれるジョルダン・ウシャルにいっせいに視線を集めていた。
 肥満のために幾重にもたれさがった脂肪のかたまりのような首筋から、噴水のように血をしぶかせながらがくりと、ウシャルはひざをついていた。
 そして、そのかたわらにいるはずのカフラ・ウシャルの姿が消えている。
 そのことに気づいた何人かが、青い闇に視線をさまよわせた。
 やがて幾人かが、一同をはるかおきざりにして闇にむかって逃走していくマダム・ブラッドの姿を発見した。
「軽く──」
 見すぎたか、とシャルカーンが述懐する前に、だれかが「撃て!」と叫んでいた。
 教団の首魁が制止するいとまもなく、銃声がいくつか、青い闇に反響した。
 フードつきの長衣が手にしたハンドガンから放たれた火線が、まぼろしのように暗闇の一点に交錯する。
 死の光条につらぬかれてカフラ・ウシャルはのけぞり、たおれ伏した。
 闇のなかに崩れ落ち、それきり二度と動かなかった。
「カフラ……!」
 暗黒街の帝王が、血を吐くような口調で叫んだ。
「カフラ!」
 狂おしく、もう一度。
 よろよろとひざ立ちで進みかけたが、口腔からぶばと血をあふれさせ、前のめりにつんのめる。
 そのまま、地面に顔をおしつけた姿勢で動かなくなった。
 ぼうぜんとことの成り行きをながめやっていたシャルカーンが、その酷薄な美貌になおも放心をはりつかせたまま、力なく首を左右にふった。
「シフ・ウシャル……この成り行きはまったく意にそわないが、しかしきみはどうにか──」
 皆までいわせぬように──鮮血を盛大にしたたらせたまま、ジョルダン・ウシャルは目をむいて顔だけを上むかせ、食いしばった歯列のあいだから──しぼり出すような絶叫を放って夜をふるわせた。
 慟哭だった。
 成否さえさだかならぬ秘法の実験台になれと宣告し、その返礼に首を裂かれておきながら、なおもジョルダン・ウシャルは──カフラ・ウシャルの死に慟哭したのだ。
 その奇怪な心情を理解しきれぬ思いで、シャルカーンたちはぼうぜんとした視線を、血を吐きながら叫びつづけるウシャルにむけていた。
 が、やがて“帝王”はふいに絶叫をとぎらすや、糸を切られた操り人形のようにくたくたと、大の字に地に身を横たえ、血と涙とをしたたらせつつ放心のていでうつろな視線をさまよわせた。
 そしてすすり泣きがながいあいだ、青い闇の底にせせらぎのように流れた。
 見ひらいていた目をふとすがめ、シャルカーンがつ、と、歩をふみ出す。
 そのとき、わけがわからず成り行きを見守るだけのヨーリクの背後で、これも血泡を口もとにはじけさせつつ、老ウェイレンがつぶやいた。
「まずい」
 そんな盟友のつぶやきにはまるで気づかず、シャルカーンはジョルダン・ウシャルのかたわらにゆっくりと歩みより、いたわるようにして血を噴き出す首筋の傷口に手をのばした。
 それがふれる前に──ぎろりと、ウシャルの双の眼がシャルカーンにむけて移動した。
 狂気のうす笑いでもうかべていれば、かえって納得がいったかもしれない。
“帝王”はそのかわりに、弛緩しきったように口端から唾液をたらしながら、けだるげな口調でいったのだった。
「やるよ」
 と。
 シャルカーンがいぶかしげに眉根をよせるのを目にして、初めてウシャルは小さく笑い──そして、かたわらに無表情にたたずむ二人の美童に顔傾けた。
 そして、無造作な口調でいった。
「復活させろ。ジーナ・シャグラトを」
 な、と、シャルカーンが目をむく前で、無表情なふたつの美貌が異口同音に、奇怪な和声をともなった呪文めいた異言を、唱えはじめた。
 そして数刻の間をおいて、宙にうかぶ天使像──ジーナ・シャグラトの、青ざめた裸体がふいに、白い燐光を発しはじめた。
 美童の唱える呪言に同調するようにして、まるで鼓動のように盛滅をくりかえしながら像の放つ光は徐々に、徐々に、目を射るような激しい白色光へとかわりはじめた。
 立ちすくんでいたのはほんの一瞬──シャルカーンは躊躇なく踵をかえし、小走りに移動を開始した。
「退却だ。ヨーリク、老ウェイレンをたのむ」
 短い命令に、なおも放心して教団員たちが我に返ってシャルカーンを追い、ヨーリクもまたラトアト・ラ人の手を肩にまわさせ、かつぎあげた。
 その眼前に──
「いかせるかよ」
 口もとから血をしたたらせながら立ちふさがったのは──バラムであった。
 肌からは虎模様はぬぐったように消え失せ、牙も鉤爪もなくなっていた。
 それでも、その双の眼の剣呑な光だけは残っていた。
「しぶといのう、おまえさんも」
 あきれたように口にしながら、老ウェイレンはふところに手をさし入れた。
 常態であったなら、超知覚モードに移行できないバラムの反撃など、移るいとまも与えず針を打ち出していただろう。
 あいにく胸部を撃ちぬかれてスピードも衰えていた。
 ひょろながいスペーサーを横なぎにはりたおし、いきおいのままバラムはウェイレンに肉薄する。
 銀針がつき立てられるのにもまるで頓着せず、にぎりしめたこぶしを異星人の下方から叩きつけた。
 咽喉部から下顎にむけて──重機のような衝撃がつきあがるのを、老ウェイレンはまるで他人事のように感じながら宙に身をおどらせた。
 つきぬけたこぶしは、衝撃でラトアト・ラ人の奇怪なくちばしをなかばほどもひきちぎった。
 だん、と音を立てて小柄な身体が地に落ち、苦痛に声もなくのたうちまわる。
 が、それもすぐに動かなくなった。
 ふう、と最後に、安堵したかのようにため息をつき──老ウェイレンは絶命した。
 ぐふ、と口もとから血をしぶかせながら仁王立ちでその様子をながめおろすバラムの背後で、マリッドがよろよろと立ちあがり、歩みよった。
「バラム、わたしたちも──」
 いいかけるのを──さえぎるようにしてバラムは、手のひらをかかげてみせた。
 どうしたの、と問いかけるマリッドをさらに制して──地に伏したハリ・ファジル・ハーンに刺すような視線をむける。
 そしてふいに、笑っているような、怒っているような、奇妙な表情をうかべた。
 そして、いった。
「おまえは先に行け」
 と。
 マリッドが問いかえすよりはやく、ぐいと強引に背中をおした。
「フライアは三機あったはずだが、やつらがぜんぶ持っていっちまわないともかぎらない。おまえの分と、あとからおれが行く分、すくなくとも二機は確保してくれ。それができたら、アムラッジェ教団の連中なんざほうっといてかまわねえ。おまえは──おれを待たずに先に逃げろ」
「どうして?」
 不満げに抗議するマリッドへ、バラムは──透明に、笑って見せた。
 ぎょっと目をむいて思わず口をつぐんだマリッドの背中を、もう一度、あやすようにして優しくおしやった。
「ちょいと時間がかかりそうなんでな。先にいって、シェンランと合流しておけ。いつになるかはわからねえが──必ず、追いつくからよ」
 そんな、と抗議しかけて言葉をのみこみ──眉根をよせながらマリッドは、口もとをへの字に曲げた。
「もう、おそいよ」
「何がだ?」
 すでに上の空でバラムは問いかえし、そしてこたえは待たずにつけ加えた。
「行け」
 幾度も、口をひらいては言葉をのみこみ、最後にマリッドはぐいと目もとをぬぐってから、決然といった。
「わたしも残る。いっしょに闘う」
「だめだマリッド」
 これもまた叱責するようにきっぱりとした口調で、バラムがいった。
 視線は、下生えにうもれるようにして横たわる宿敵にすえたまま。
「おれを困らせるな。まず、おまえが生きのびるんだ。でねえとおれも逃げられねえ」
 そんなのないよ、と力なく口中でつぶやくようにしていい、マリッドはどん、とバラムの背をおした。
 お、と口をひらいて眉根をよせつつ思わずふりむいたバラムのくちびるに、少年めいた美貌がむしゃぶりついた。
 内臓まで吸いつくしてしまいそうに激しく、マリッドはバラムのくちびるをむさぼり──それから、ぽん、と音を立てて離れた。
「なんでえ」ぼうぜんとした表情のまま、バラムはいった。「色気のねえキスだな」
「今度はちゃんとしたキスしてあげる」顔をそむけて、マリッドはいった。「だから絶対に、あとから来るのよ。ムリは禁止」
「おう。わかった」
 力強くうなずき、ふたたび下生えに視線をやったバラムに、マリッドはもう一度ちらりとその目をむけ──
「じゃ、行く」
 いって、断ち切るように立ちあがった。
「気をつけろ」
 ふりかえらず声だけでこたえるバラムの肩にこぶしを当て──
「エイミス」
 呼びかけに眼前によろよろとあらわれた黒い飛鳥に、バラムの背中を指さしてみせた。
「いっしょにいてあげて」
 しばしエイミスは、言葉の内容を検討するように宙に静止したまま、そのおぼろな頭部をマリッドの美貌にむけて固定していたが──やがて、うなずくようにして小さく上下にゆらめくや、つい、とバラムのかたわらに移動した。
 横目で見やり、へ、と口もとを笑いの形にゆがめるバラムを最後にもう一度見やり──そしてマリッドはあとをも見ずに走りだした。
 そんなマリッドの姿が廃寺のむこうへと消えるのを待ってから、今や太陽よりもまばゆく鼓動をくりかえすジーナ・シャグラトの復活の光を背中にうけて、バラムは、明滅する闇の底で声をかけた。
「いつまで寝たふり決めこんでんだよ」
 一拍の間をおいて、がさりと下生えをならしつつ、炎ののたうつ肉体が力強く立ちあがる。
 燃えるような双眸はなおも力をうしなわず、つらぬくようにしてバラムを見すえていた。
「気でもきかせたつもりか? ずいぶん前から、飛びかかるタイミングをはかってたんだろうが。愁嘆場をつけばよかったのに、よ」
 バラムは、牙をむき出すような表情で口もとに笑いをうかべた。
 ぶこつなハリ・ファジル・ハーンの無表情に──呼応するがごとく、鏡に映したようなおなじ種類の笑いがうかんだ。
 へ、と、笑ったままバラムは吐きすて、
「後悔させてやるぜ」
 口端に血泡をはじけさせながら、いった。
 ふん、と鼻をならしてファジル・ハーンは胸をそらし──つぎの瞬間、消えた。
 追わず、バラムはただ目を閉じた。
 ほぼ同時に、背筋に悪寒が走りぬけた。
 つい、と身をひねった。
 爆風が、わき腹をかすめ過ぎた。
 同時に影が瞬時ゆらめいて、驚愕の表情をうかべるファジル・ハーンのゆれる像に結実し──すぐに消えた。
 ふたたび、バラムの首筋にぞくりと戦慄が走り──そのままその戦慄を、腰にすえた。
 肉体は無意識に動いていた。
 まったく無造作な動作で一歩を退き、眼前を烈風がないだ。
 燃えあがるような金髪が風にふるえ、瞑目したままバラムは、すっ、と手のひらを払った。
 ぐらりとよろめき出たファジル・ハーンが、よたよたとぶざまにたおれこんだ。
 あわてて体勢を立て直し、火焔にかこまれた目をむき出して──ただたたずむだけのバラムをにらみあげた。
「……三昧境、か?」
 歯をきしりあげるような口調で、バラムの状態に関する推測を口にした。
 無我の境地──思うよりはやく、肉体がもっとも有効な行動をとる。
 そういった境地を、バラムは体得していたのか、と考えたのだった。
 ある意味でそれは、洞察といってよかったかもしれない。
 だがバラムは、ちらりと片目をひらくと、にやりと口もとをゆがめてみせた。
 なにを馬鹿なことをいっている、とでもいいたげな表情だった。
「知るかよ」無責任きわまりない口調で、そういった。「単なるやけくそだ」
 ぼうぜんと目を見ひらき──ついでハリ・ファジル・ハーンは、思わず、といったふうにハ、ハ、ハ、と声を立てて笑った。
 笑い──歯ぎしりし、そして疾走した。
 今度は真正面からつっこんだ。
 バラムの眼前に立って腰を落とし、身をひねり、大地を土台にわきあがる力をこぶしにむけて集約した。
 螺旋を描いてえぐりこむ炎の拳を、バラムの掌底が、これも真正面から迎えうちにかかった。
 まさにそのとき──
 それが始まった。
 山門を、廃寺を、そして戦場たる窪地を、そえ物のように照らし出していた照明がフッと、ふいにその光を喪失した。
 瞬時、頭上にのしかかる巨大惑星の青い光さえもが、闇に呑まれたような気がした。
 同時に、爆発寸前の二人の超人の肉体からも、すべての力がもぎ取られるようにして、うばい去られていた。
 がくりと、互いをささえあうような形でたおれかけたとき、四囲は漆黒の闇につつまれていた。
 闇のなかで宙に舞う天使だけが白く、淡く、輝いていた。
「よお」
 喪失した力をふたたび得ることもかなわぬまま、ただたおれこんだ互いの肉体の感触だけがあるところに、バラムはハーンにむけてかすれた声で呼びかけた。
「選ばれるのは、どっちだろうな」
 奇妙にせいせいとした口調に、無言のままでハーンは声を立てて短く笑った。
 エイミスの黒い影が、つう、と宙をすべって暗殺者の肩口にとりついた。
 にやりとバラムは笑いかける。そして──
 光が、弾ける。

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