エピローグ 受難への飛翔

 

「あなたは──たしか、マリッド、そうシファ・マリッド」
 何の前触れもなしに気安げに呼びかけられて、マリッドはにこやかに微笑みながらすばやく、懐中のハンドガンに手をのばしていた。
 が、呼びかけてきた相手の顔を確認するや微笑みは本物にかわっていた。
「ご無事でしたか。まったく筋合いではないんですが、心配していたので」
 いかにもうれしげに笑いながら告げる童顔の軍属整備員に、マリッドもまた笑顔でうなずいてみせる。
「ずいぶん危ない目にあったけど、なんとか生きのびたわ。おかげさまでね」
 ウインクしてみせると、童顔の整備員ははにかみ笑いをうかべた。
「それはよかった」
「あなたも、あれから大変だったでしょう」
 きくと、整備員はまったくですよと、ジョシュアから途切れ目なく運びあげられてくるシャトルや、それらをつぎつぎにピストン輸送するライナー、そして貨物室にまで生命維持システムを追加した輸送船までもかり出してのてんやわんやを、身ぶり手ぶりを交えて説明しはじめた。
 まだまだラッシュは続行中だが、まったくひさしぶりに休暇をとれたのでまずはゆっくりと眠らせてもらおうと出てきたところですよ、と整備員が結ぶまでマリッドは笑いながらうなずいていた。
 それから問われるままにマリッドは、報告のためにストラトスに帰ってきたのだと告げる。
「これから、どちらへ?」
 きかれて、マリッドは肩をすくめてみせた。
 イムジェフィフタスの山中で、ハレ・ガラバティの祭りがクライマックスに達する夜に輝いた死の光のうわさは、すでにストラトス星系にもかなりくわしい情報として供給されているはずだ。
 ガラス化した深山の大クレーターには復活したはずのジーナ・シャグラトはもちろん、バラムも、そしてもう一人の強化人間の姿も見つかってはいない。そして石化した、結晶質の像に関する報告もまた、いっさい届けられてはいなかった。
 エイミスとの心的連結はとぎれたままだ。老ウェイレンに使い魔がとらわれて以来のことだが、激烈な攻撃を重ねてうけつづけたために、精神的連携を完全に断ち切られてしまった結果なのだろう。
 だから、バラムがどうなったのかもまったくわからない。
 おそらく、もう生きてはいないだろう。
 脱出する際にシャルカーンの姿はすでに見失っていた。三機あったはずのフライアは二機に減っており、その二機に群がるようにしてフードつきの長衣の一団がとりついていただけだった。
 教団員たちを屠る作業は、マリッドにとってはさほど困難なことではなかった。むしろ約束どおり一機のフライアをおきざりにしてバラムを待たず、次第に光度を増しつつある明滅に追われるようにしてひとり、その場を去ることのほうがよほど困難で耐えがたい仕事のように思われた。
 それでもマリッドは生きのびた。
 約束どおりに。
 目を閉じ、マリッドは小さくため息をつく。
 おそらくはもう、バラムは生きてはいないだろう。
 理性はそう告げていた。
 だが感情は納得しなかった。
 約束したじゃない。
 執拗に、そうくりかえしていた。
 そしてさらに直感が、なんの根拠もなく告げていた。
 ふたたび出会う日がくるだろう、と。
 だからマリッドは、心配げに見まもる童顔の軍属の前で小気味いいほど激しく首を左右にふってみせ、そしてにっこりと笑ってみせたのだった。
「これはまだ内緒のことなんだけど」と秘密めかして整備員の耳にくちびるをよせる。「やめるつもりなの。いまの仕事」
 それは、と、童顔の軍属は何かいいかけて口をつぐみ、肩をすくめながら、人それぞれですからね、とわかったような口をきいた。
 快活に笑いながらそのとおりよ、とマリッドはこたえ、
「行き先はまだ決めてないわ。フェイシスの、中央あたりって漠然と考えてるだけ」
「がんばってくださいね」
 無邪気に告げる整備員に、苦笑しながらマリッドはありがとう、といって背をむけた。
 その背中に、
「ああ、そういえば、お連れさん。ほら、この前テロリストがどうのって、ぼくをからかったあの人ですけど」
 どうしました、ときかれることを予測して、どうこたえていいのか困惑しつつふりかえった。
 そして──つぎに整備員が口にした言葉に、目をむいた。
「先日、見かけましたよ」
「ほんとう?」
 声をおさえようと努力したが、無駄だった。
 そんなマリッドのいきおいにややおどろきながらも、童顔の軍属はうなずいてみせた。
「ええ。遠目だったんで、はっきりそうだとはいえないんですが──でも、あの燃えるような金髪といい、印象的な、ちょっと恐いくらいの目の輝きといい、たぶんまちがいないと思いますよ」
 そして、つけ加えるようにして、ねえ、あの人がテロリストだってのは、冗談なんですよねえ、と小声で問うた。
 しばしぼうぜんとしていたが、やがてマリッドは声を立てて笑いながら幾度もうなずいてみせた。
 そして、その男が乗りこもうとしていた便がどこへ向かうものなのかを問いかけようとした時、最後のインフォメーションがかかった。
「あ、これに乗るんだわ、わたし」
「ああ、でしたら、はやく。つぎの便だと、三日は待つことになりますよ」
「そうね」
 いって走りかけ──バラムの行き先を問おうとふりかえった。
「はやくはやく」
 心から案ずるような表情をうかべた童顔を、しばし無言でマリッドはながめやり──
「いろいろありがとう」
 いって手をふり、そして走りだした。
 必ず追いつく。
 バラムはたしかに、そう約束した。
 そして先行したのなら、もうひとつの約束を果たしに向かったのだろう。
 実体のない、欲望と悪意に力を与えられた、人類の滅びる日まで決して滅びることのないだろう力に、立ち向かうために。
「あなたが追いつく前に、わたしのほうが追いついてあげるわ」
 ゲートをくぐる列の最後尾に走りよりながらひとりごち、いぶかしげにふりかえった婦人にむけてにっこりと微笑んでみせた。
 あいまいに微笑みながら視線をそらす婦人にはすぐに興味を失い、マリッドは待ちうけている新たな危難の日々に思いをはせた。
 不思議と不安は感じなかった。

夜の虎──了

 

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