断崖
ご、とかがめた頭上を鉈のように切り裂いた拳の軌跡は、そのまま降下に移行して逃げるバラムを追撃する。
意識して、というよりはほとんど結果的に、斜面を下方にころげ落ちることでかろうじて連撃をまぬかれた。
凶猛にむき出されたファジル・ハーンの歯のあいだから、盛大にしぶいた血塊が喉くびから裸の胸までをどす黒く染めている。
炎状のいれずみと逆立つ黒髪、そして何よりも巨鳥のごとく広げられた四肢とが青い燐光を背に宙におどりあがる。
とっさに銃をかまえようとしたマリッドの手もとを、またたくまに眼前に移動していた老ウェイレンがやんわりと、おさえた。
動作の唐突さとその雰囲気との落差に、マリッドはぼうぜんとウェイレンを見かえす。
枯れた雰囲気を放つ小柄な異星人が、くちばしの端をゆがめて声もなく笑った。
──否。
声は、立てられていたのかもしれない。
ラトアト・ラ人の音声催眠技術は、ひとつの文化体系にまで発展している。とうぜんその目的や用途にあわせてその種類も芸術、あるいは武道のごとく細分化されている。
ラベナドの空中庭園での集団催眠の場合とはちがって今度は、おそらくは人間の可聴域からはずれた音声をその喉から発したのだろう。
だれひとり、それらしき音を耳にした覚えもないままに、マリッドのみならず、ぽちゃぽちゃとした手におくればせながらあわてて銃を手にしたジョルダン・ウシャル、含み針を口にして臨戦態勢のマダム・ブラッド、そして転がりながらも銃をぬき、肉迫するファジル・ハーンのシルエットをとらえかけていたバラムまでもが──瞬時、麻痺したようにいちように全身脱力させつつ、いっさいの動作を凍結させていた。
三者三様に手にした銃は、すべてぽろりと地に落ちていた。
ついでのように、がくりとファジル・ハーンが小さくひざをついたことが唯一、バラムにとっての僥倖だった。
それがなければバラムは、ハーンの獰悪な横なぎの強襲に、紙のようにひき裂かれていたにちがいない。
瞬時の空白に、ころがり落ちる姿勢で宙にういたまま、バラムはすばやく四囲の状況を見てとった。
背後に野太い樹幹が迫っていた。
叩きつけられれば衝撃に、さらに行動を阻害されるだろう。
そしてファジル・ハーンは、いちはやくウェイレンの呪縛から逃れて、体勢を立てなおしつつある。
さらに、その胸をうがったはずの三つの銃痕は、すでにふさがりつつあるらしい。
「くそが」
毒づき、同時に自分の肉体もまた呪縛から解き放たれていることに気がついた。
とっさに宙で身をひねり、足下から迫る樹幹に沈んだ。
脚部のバネで衝撃を吸収し、そのままいきおいにかえて放たれる矢のように飛んだ。
肩口からハーンの胸もとに飛びこみ、そのまま背後の地面に叩きつけた。
衝撃と反動で前後にわかれ、バラムはふたたび転がり落ちるところをかろうじてふみとどまる。
が──ハーンのほうがはやかった。
地に伏したバラムに比して、もうひとりの強化人間はすでに体勢をととのえ終えていた。その顔貌にも、苦痛などかけらも見あたらない。
バラムにしても、通常の人間とは比べものにならぬほどの治癒力と回復力を与えられている。
が、絶頂時でさえ、いま目撃したファジル・ハーンの治癒力とはまるで比較にならなかった。
胸部に銃撃をうけて数分とたたぬうちに傷口さえふさがり始めてしまうなど、まったく尋常ではない。
ようやく身を起こしかけたとき、眼前に黒い疾風が迫っていた。
砲弾を真正面からぶちこまれたような衝撃とともにバラムははね飛ばされ、強烈に地に叩きつけられた。
二度、三度としたたかに打ちすえられ、樹木の根もとに背中を打たれてようやく停止したときは、激痛に目をひらくことさえできなかった。
いましも破裂しそうに獰猛な無力感とともに、バラムは最後の一撃を待った。
反撃する体力は残っていない。
相打ちにもちこむことさえできず、ただ待つだけしかできることはなかった。
が、爆発するような鬼気が眼前に迫ったか、と思った瞬間──
「ハリ!」老ウェイレンの声が、狂おしく迫る鬼気をぴたりと静止させた。「ウシャルを頼む」
叫びに、ハーンが躊躇したのはほんの一瞬だった。
炎のように噴きつけていた凶悪な気がふいに四散し──バラムの鼻先をピンと弾いて、ハーンは後退した。
おそらくはバラムの肉体が不調を示していなければ、とどめの一撃を加えてからウシャル追撃に移行したはずだ。つまり──見くびられたわけだ。
目を見ひらき、眉根をよせた。
安堵よりは怒気が、ふくれあがった。
が、その怒気は力ではなく激痛を、バラムの体内に爆発させた。
ぶざまに両肩をおおった姿勢で、うめき声をもらしながらバラムは身をまるめる。
まるめながら、狂おしく渇えた両の眼を見ひらき、仇敵の姿を追った。
マリッドは──マダム・ブラッドとともに老ウェイレンと対峙していた。銃はとりおとしたままなのか、素手でつぎつぎにくりだされる銀針を払いつつ、樹間に目まぐるしく戦場を移動させていく。
ウェイレンにしても、マリッドひとりならもう少し余裕のある対応ができたかもしれない。が、逆方向から呵責なく含み針の噴射をあびせかけるマダム・ブラッドに退路をはばまれ、苦戦のていだった。
ジョルダン・ウシャルと二人の小姓は、戦場を大きく迂回して青い闇の奥底に身をかくしつつ、よたよたとおぼつかぬ足どりで下降をつづける。
その眼前に──ぴたりと、銃口がおしつけられた。
血にまみれた異相が、燃えさかる炎のような双眸をウシャルにすえる。
バラムはちらりと四囲に視線を走らせ、先刻ウェイレンの音術にとり落としたままのハンドガンが消失していることに気づいた。
いうまでもあるまい。ファジル・ハーンが、バラムのまるで気づかぬうちにひろっていったというわけだ。
「くそ! カフラ。カフラ!」
耳ざわりにわめくウシャルの声に、ウェイレンを追いつめつつあったマダム・ブラッドが攻撃の動作を中止した。
「動くな、カフラ・ウシャル」恫喝するでもない淡々とした声音で、ハリ・ファジル・ハーンが宣告した。「トリガーをひけば、この男の頭は粉みじんだ」
いわれるまでもなく、マダム・ブラッドはなすすべもなく立ちすくんだ。
即席とはいえ相棒をうしなったマリッドの左脚に、ウェイレンの銀針が音もなく深々とつき立てられた。
苦鳴をおしころしつつ、追撃を逃れるためにマリッドは、やみくもに飛んだ。
銀光が青い闇をなぎ、繊手にはじき飛ばされる。
そしてマリッドの小柄な肢体は、宙に舞った。
「マリッ……!」
断ち切られたバラムの叫びは闇に吸われ、とぎれた断崖からおどりあがったマリッドの肢体は青い微光を背に瞬時、空中に静止した後──下方へと消えた。
「シギム──」
ナルド・シャス、とつづけるよりはやく、炸裂する激痛とともに超知覚へと移行した。
ぎしぎしと、体中のあらゆる接合部が音を立てて崩壊していくような錯覚がバラムをとらえた。
錯覚ではなかったかもしれない。
肉体は痛覚の集積物、持ち主を凶悪に責めさいなむ獰猛な獄吏と化した。
それでも、地を蹴った。
強化された皮膚を烈風と塵芥が散弾銃のように叩き、地獄の底からふき上げてくる憎悪にみちた轟音がどろどろと流れすぎた。
痛覚を無視して大樹をなぎたおすいきおいで疾走し、絶壁の端に立った。
宙に舞うマリッドに手をさしのべた。
まるでとどかない。
奥歯をかみしめ、いきおいよく地を蹴りつけた。
おどりあがるよりはやく、襟首をつかまれていた。
前下方を志向するヴェクトルを強引にひき戻され、バラムは背中から地に叩きつけられた。
歯をむき出して、上体を起こす。
イムジェの青い半円を背に、彫像のようなシルエットが腕組みをしてバラムを見下していた。
「どけ、ハリ・ファジル・ハーン!」
叫び、絶望とともに自覚した。
超知覚はまたもや、気づかぬうちに去っていた。
「もう一度だ」
低く、底冷えするような口調で、ファジル・ハーンが口にした。
こたえるように歯をむき出し、シギム、と唱えた。
暴発する痛覚が、今度は容赦なくバラムの視界から光をうばった。
平衡感覚が失せ、ぐらりとよろめき、そしてそのまま漆黒の無意識へと沈みこんでいった。