“フィスツ”のながい腕

 

 陰鬱な目覚めの唯一の役得は、頭部にやわらかくしかれたマリッドのひざまくらだけだった。
 が、それももうろうとした思考が働きはじめたころには陰鬱を助長する中心的誘因のひとつへと変化していた。
「無事だったか?」
 問いかけに、舟をこいでいたマリッドがはっと目を見ひらき、微笑しながら目をしばたたいた。
「どちらかというと、わたしのセリフじゃない?」
「おれなら、とても無事とはいえん状態だな」
 軽口にまぎらせたが、頭蓋中心を軸に全身をなめまわすようにかけめぐる鈍痛と不快感は、まぎれもなく自分がいまだにオーヴァーヒート状態におちいっていることを証している。
 身をおこそうという気力さえわかず、そのままマリッドのひざに頭をあずけたまま、バラムはため息をついた。
「ずいぶんと疲れてるのね」
 いたわりにみちた言葉にはこたえず、バラムは逆に問いかけた。
「ハリ・ファジル・ハーンはどうしている?」
 質問の意図を計りきれず、マリッドは肩をすくめてみせる。
「やつは、おれとおなじ強化人間だ」バラムは先をつづけた。「“フィスツ”が復活したといううわさ。あれは真実だったのか?」
「なぜそんなことをわたしにきくの?」
 詰問の口調ではなかった。
 だが、もうマリッドの顔は笑ってはいない。
「おまえはそのことをよく知っているはずだ」静かにながめおろす黒い瞳を真正面から見あげながら、バラムは静かにいった。「こたえろ、マリッド。“フィスツ”は復活したのか? そしてハリ・ファジル・ハーンは──完成品なのか?」
 自嘲するような口調で、完成品、と口にした。
「そんなこと知らないわよ」
 マリッドは軽く一蹴した。
「頭でも打ったの?」
「頭ならしょっちゅう打ってる」冗談とはとれぬ口調でうけ流し、バラムはなおも追求した。「妙なかけひきは苦手なんだ。もうやめにしてくれ。おまえのほんとうのやとい主は“フィスツ”だ。そうだろう?」
 マリッドは何のことだかわからないといいたげに、無言であいまいな微笑をうかべる。
 さらにバラムはつづけた。
「任務も復唱してほしいか? 旧い強化人間と新しいそれとの性能比較。つまり──おれがこの件にひきずりこまれたのは偶然じゃなく、最初から仕組まれたことだったってわけだ。少なくとも──おまえたちはそう考えているはずだな? ここでいう“おまえたち”というのが何をさしているのかまでは、くりかえすまでもないだろう。どうなんだ?」
「妄想だわ」静かにマリッドは否定する。「どうしてそんなふうに思うようになったの?」
「わかってるんだ。どうしても糾弾してほしいんだな。よし、説明してやるよ」
 いうとバラムは目を閉じて身じろぎ、小さく苦鳴をもらした。
「痛むの?」
 問いに、かすかにうなずいてみせる。
 繊手がバラムの額にそっとおかれた。
 バラムは拒まず、ただ哀しげにそんなマリッドをながめ上げた。
 そしてつづけた。
「最初の疑問は、倒壊寸前の軌道エレヴェータでの会話だ。あの軌道エレヴェータは、まだ立っているのかな?」
 マリッドは肩をすくめ、視線で先をうながした。
「あのときおまえは、ジョルダン・ウシャル殺害の依頼をおれがうけた、という情報を得たのは一週間前だといった。その情報はまったく正確とはいいがたい。ある富豪から接触を求められ、欲得がらみの暗黒街の帝王暗殺をもちかけられたのは事実だ。報酬も悪くはなかった。だが、おれはその依頼をうけなかった」
「情報源がまちがっていたのね」平然と、マリッドはそういった。「よくあることだわ。依頼は行われていたわけだし、現実にあなたはウシャルを殺しにあらわれた。なぜ気が変わったのかは知らないけど、結果的には整合してる」
「気なんざかわっちゃいない」バラムは首をふる。「うさんくさい依頼だった。内容はもっともらしかったが、依頼者と称する富豪が、本気で帝王の死を願っているとはとても思えなかったんだ。べつに証拠があったわけじゃない。ただの勘だ。だが、その勘がおれの命をいままでながらえてきたのは事実だからな。だからおれは依頼をことわったし、気をかえて契約をし直したりもしていない」
「じゃあ、なぜウシャルを殺しにあらわれたの?」
 バラムはこたえなかった。
 ただ目を閉じて、思い出しただけだった。ジョシュアの一角でのできごとを。
 あきらかにエンジンに変調をきたしたフライアが、ひとりの女をはね飛ばした。
 女は即死し、五、六歳くらいのの小さな娘だけが遺された。問題の瞬間、まったくの偶然で、手もとを離れてころがった毬を追って母のもとを離れたのが、娘が生き残った原因だった。
 そして──ころがった毬を、これもまったくの気まぐれからひろいあげたために、一部始終を目撃することとなったのがバラムであった。
 すでに死んだとひと目で知れる母に、とりすがって泣きじゃくる少女をなだめ、その手をひいて病院の死体安置室までついていったのは、その少女がはるかな過去の記憶を刺激したからにほかならない。
 初めて会ったときのマリッドとおなじように。
 可能なら、その少女をひきとって育ててやろうという気にさえなっていた。
 殺し屋でさえなかったら、そうしていただろう。
 かわりに、施設ひきとりの手つづきが完了するまでを確認して、係官にひきわたした。
 ひきわたすときに少女は、この世の終わりのように泣き叫んだ。
 泣きながら母の名を呼び、バラムの手にたどたどしい手つきで数枚の硬貨をおしこんだ。
 このお金でおかあさんをかえして。少女は泣き叫びながらそううったえた。
 バラムのせいで母が死んだと思っていたわけではないだろう。ほかにうったえる相手が、少女にはいなかったのだ。
 困惑してコインをかえそうとしても、少女は頑としてうけとらなかった。
 ただ泣きながら、ひたと、バラムを見つめていた。
 子どもの小遣い銭だ。食事代にもみたない額。
 それでもバラムはついにその硬貨をにぎりしめ、無言で少女の頭をなでた。
 そして背をむけた。
 少女の母をはねとばしたフライアの調査をする。ひき逃げだったはずだがドライヴァーは自首していた。初老の、やとわれ運転手だった。ハンドル操作をあやまったためだと警察には自供した。
 直前の映像を回顧して、バラムはそれをうそだと断定した。フライアは通常路線をおおきく逸脱し、そのノーズをあばれ馬のように凶暴にふりたくりながら歩道へとのりあげてきたのだ。プロの運転手がステアリングをにぎっていれば、おこるはずのない事故だった。
 裏をさぐるのは、バラムにとっては容易なことだった。
 フライアを操縦していたのは、泥酔したジョルダン・ウシャルだったのだ。
 くだらない話だった。都市の暗部をまさぐれば、そんな話とは比較にすらならない、悪辣な所業の千や二千はころがり出てくるだろう。よもやウシャルも、そんなばかげた理由で命をねらわれているとは夢にも思ってはいまい。
 それでもバラムは、金をうけとったのだ。
 そして暗殺者にできる仕事はひとつだけ。
 それが、ウシャルに襲撃をかける二日前の話だ。
 帝王殺害を依頼してきた富豪が接触してきたのはそれより一週間ほども前の話だ。
 ことわったはずの依頼とおなじ内容の挙に出たのは、あくまで偶然の一致にすぎない。その情報が、なぜもれているのか。
「おれは依頼をうけてはいない」
 ふたたびバラムはくりかえし、そしてつづけた。
「ここへ来る前に、ラベナドのステーションで依頼人と偶然顔をあわせたんだ。奇跡のような確率かもしれないな。地震に火山に大津波、おまけに粉塵による氷河期の到来。べつにヤツでなくっても、ジョシュアを見すててほかの星へ脱出しようって手あいはラベナドの宙港にも山ほどおしよせてたからな。
 おれにしたって、いまさらことわった依頼人のことなんざどうでもよかったんだ。一刻でもはやく、アムラッジェ教団の足跡を追って立とうと、気ばかり焦ってる状態だったからな」
「なぜ?」マリッドが静かにきいた。「ウシャルを追うために?」
「ばか、わかってるだろう」言葉とはうらはらに、笑いながらバラムはいった。「おまえを救いだすためだ」
 いって、真顔でマリッドを見あげる。
 くすりと小さく笑いをもらし、マリッドは、バラムの額を指で軽く小突いてみせた。
「わたしにほれたってムダよ」
 冗談めかしていうのへ、バラムもまた軽く応じた。
「だれがほれるか」
「そういうことにしといてあげるわ」マリッドは笑いながらいい、思い出したようにつけ加える。「マリアのためにもね」
 とたん、バラムの顔から表情が消える。
「その名を、どこできいた?」真顔で問いかけた。「そうか。おれのことを調査したといったな。それか? それにしちゃ、ずいぶんといいかげんだな」
「残念だけど、ちがうわ」 いいかげんだな、というバラムの言葉の意味が分からず、マリッドはあいまいに笑いながらこたえる。「ラベナドの空中庭園で、あなたが狂乱していたときに口にしたのよ。わたしを見つめながら、マリア、とね」
「なるほど」
 といって、バラムは目を閉じた。
 そのままながいあいだ、無言のまま瞑目していた。
 が、やがて口にした。
「マリアはおれの恋人じゃない。娘だ」
 マリッドは小さくおどろきの表情をうかべる。
「娘さんがいたの? 知らなかったわ」
「ずいぶんと穴だらけの情報をうけとったらしいな」
「そのようね」苦笑する。「ハルシアとのあいだにできた娘?」
「そうだ」
 バラムがうなずくのへ、マリッドは瞬時ためらうような間をおいて、
「きくべきじゃないかもしれないけれど……いま、その娘さんはどうしているの?」
「死んだよ」しごくあっさりと、バラムはいった。「十八だった。あまり思い出したくはない」
「ごめん」
 告げるマリッドにバラムは視線を投げあげ、つづけた。
「おまえによく似ていた。そっくりだ」
 マリッドはこたえず、さびしげにバラムを見おろしただけだった。
「娘に似た女なんかに、ほれられるわけがないだろう」
 いってバラムは、くちびるの片端をゆがめてみせる。
 そう、残念ね、とマリッドもまた静かに笑いながらこたえた。
 そんなマリッドを見あげながらバラムはつづけた。
「ラベナドで偶然やつと──おれにウシャル暗殺を依頼してきた富豪とツラあわせた時、勘がひらめいたんだ。──ひらめかないほうがよかったかもしれないがな。そうだろ、マリッド」
 言葉とともに、ついと手をのばして額におかれたマリッドの手をとった。
 小さく眉をひそめる前に、反射的にか、マリッドはバラムの指をにぎりかえす。
 バラムは静かに笑い、そしていった。
「ごったがえした宙港のなか、一族郎党ひきつれて仰々しく歩いてやがるヤツをひっつかまえて、ちょっとばかりプレッシャーかましながらきいたんだ。だれにたのまれて、ウシャル殺害をおれのところに持ってきたんだってな」
「それで?」
 ためらいもなくききかえしながら、マリッドはバラムの視界をおおい隠すようにして、空いた手をこめかみに乗せた。
 あらがわず、バラムはただ手にとったマリッドのやわらかい指にすこし、力をこめただけだった。
「あいつはウシャルとちがって、まわりの状況が最初っからととのっていたクチだな。ちょいと脅しをかけただけで、すぐにしおたれて全部吐いちまったよ。取引先のつてで、ことわりきれない相手からウシャル暗殺を“夜の虎”に依頼するよう強制されたとな。もちろん“フィスツ”の名前が出てくるわけはねえが、その取引先のつてとやらをたどっていけば、いずれ“フィスツ”にたどりつくはずだ。──そうなんだろう?」
「いいえ」
 マリッドはいった。
 手のひらに隠れて、どういう表情をしているのかは見えなかった。
「たぶん──ううん、まちがいなく、途中で手がかりはなくなってたと思う」
 ふん、と鼻をならしてバラムは笑った。
「いえよ、マリッド。おまえは“フィスツ”のエージェントだ」
 ながい沈黙のあとに、そうよ、とささやくような声音で、こたえが返る。
 音をころしてバラムは短くため息をつき──それから、声を立てて笑ってみせた。
「ほんとうにバカだな、おまえは。とぼけちまえば、確証はなかったんだ」
「ごめん」と、マリッドはこたえた。「そこまで気がまわらなくって。それに、話してしまったほうが許してもらえるような気がしたから」
「なんだよ」と不満げな口調を装ってバラムはいう。「シェンランには死んでもうそをおし通すとおまえはいったぜ。ずいぶんと扱いがちがうじゃないか」
「シェンランとあなたとじゃ、考えかたも反応もぜんぜんちがうわよ」笑いながらマリッドはいい、そして静かに、つけ加えるようにくりかえした。「ぜんぜん、ちがうわ」
 意味を計りかねてバラムは肩をすくめ、目を閉じた。
「やつは──ハリ・ファジル・ハーンは、克服したのか? おれの──欠陥を」
 やがて、きいた。
 マリッドは、バラムの指をにぎる手にわずかに、力を加えた。
 こめかみに当てた指を愛撫するようにやさしくすべらせ、そしてうなずいた。
 ふん、と力なく鼻をならして、バラムは目を伏せた。
「そうかい」
「まだ確定したわけじゃないけど」とりなすふうでもなく、ただ事実をならべる口調で淡々と、マリッドはいった。「処置の終了から数えると標準時で五年近く経過しているわ。微調整と診断のとき以外に手は加わっていないらしいし、本人からも何の変調のうったえも入っていないそうよ。
 実をいうとね、バラム。あんたとかみあわせようって意見が出た理由は、最終判定とともに、前任者たちが残した失敗作の抹殺、って意味が大きかったらしいわ」
「前任者か」バラムもまた、感情をまじえぬ口調でこたえる。「皆殺しにしたつもりだったんだがな。すくなくとも、あのプロジェクトに関わったやつらは、確実に」
「ほとんど死んでたって話よ。でもデータは、断片的にだけどかなりあちこちに残っていたらしいし──何より“フィスツ”という組織はあなたが考えているほど小さくも、単純な組織でもないのよ。──といっても、わたしがあんた以上に“フィスツ”のことを知っているってわけじゃないけどね」
 バラムは目を閉じ、それきりながいあいだだまりこんだ。
 そしてやがて、ふいにいった。
「行こう」
 と。
 目を閉じたまま、うなるようにそういったバラムにむけて、マリッドは静かにきき返す。
「行くって、どこへ?」
「どこでもいい。ウシャルもアムラッジェも“フィスツ”も、だれの手もとどかないどこかへ、よ。もちろん、シェンランもいっしょでいい」
 マリッドは眉根をよせ、そして奇妙な形に表情をゆがめた。
 それから、かすかに笑いながら首を左右にふった。
「ダメよ、バラム。シェンランはダメ。かれ、ヤワだから逃亡生活なんかムリだわ。それに──どこへ逃げようとかならず“フィスツ”は追いついてくるわ」
 そして遠い目をして、どこへ逃げようとね、と、つぶやくようにつけ加える。
「なら」いって、バラムは目を見ひらいた。「おれが“フィスツ”をつぶしてやるよ。もう一度、な」
「とんでもない徒労だとは、思わないのね、あなたは」
 笑いながらかけられたマリッドの言葉に、バラムはフンと鼻をならした。
 そしてまた、眠るように沈黙する。
 が、その沈黙は先までの静けさとはちがっていた。
 目を閉じ、マリッドのひざ枕に頭をあずけたまま、バラムは右のこぶしを、ついで、左のこぶしを、ゆっくりと、まるで機械仕掛けのように正確で単調な動作で、開閉させはじめた。
 遠い景色をながめるような目でマリッドは静かに見まもる。
 バラムは、ながいあいだ反復をくりかえし、やがて──ふいに、なんの前触れもなく起きあがった。
 こぶしの開閉と上腕の上げ下げをくりかえしたまま、半身を起こした姿勢で脚部を曲げのばし、上体をひねり、さぐるように肉体を動かしたあげく、やはり機械運動の単調さでストレッチめいた動作をはじめた。
 黙々と肉体を動かすバラムを、マリッドは無言で見ているだけだった。
 やがて、せまい室内に汗まみれの獣臭がぶあつく立ちこめるころ、バラムとマリッドを外界からしめ出していた重い鉄扉が、耳ざわりな音を立ててひきあけられた。

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