狂乱の虎

 

 声なき叫びが、世界にむけて放たれていた。
 おのれの内部に、おさえようもなく恐怖が衝きあげてくるのに気づいて、老ウェイレンは愕然とした。
 人とかわらぬ、と見えていたバラムの外見にみるみる異変が生じつつある。
 黒と黄──皮膚の色が、二色の縞模様を描いて変色しはじめていた。
全身の筋肉が、まるでそれ自体が無数の生き物ででもあるようにして盛りあがり、波うち、ぶるぶると盛大に痙攣しはじめる。
 虚空をにらみすえた双の眼に、人ならぬ炎が宿る。
 ──飢えた虎の眼。
「夜の……虎か!」
 おのれのつぶやきが恐怖にぬりつぶされていることを、老ウェイレンは他人事のように耳にしていた。
 その時バラムの凶猛な双眸が、ぎらりとウェイレンにむけられた。
 おおおおおおおおおおおおおおおおおお!
 息が炎と化しそうな声をあげた。
 口腔内に牙がぞろりとならんでいた。
 くちびるの両端が、裂けたように地獄の真紅の口をひらき、おさえきれぬように笑いの形にぐいとゆがんだ。
 とんだ。
 消失したかと錯覚するほどすばやく、そして荒々しい動きだった。
 追いきれず、老ウェイレンは勘に賭けて視線をとばす。
 とらえた。
 頭上に、午後の太陽の強烈な光を背に負って、獲物にむけて襲いかかる猛禽のごとく両の手をひらいて静止したバラムの影があった。
 それが、糸を切られたように落下した。
 側方にむけて身をひねりつつ、老ウェイレンは針を放った。
 二十センチにもおよぶ長大な針が五本、避けるまもなくバラムの肉体に深々と突き立てられていた。胸、右肩、左脇腹に二本、そして右腿のつけ根。
 強襲を逃れて身軽く体勢をたてなおすウェイレンを横目に、ざん、と音を立ててバラムは着地した。
 くるりとふりむく。
 笑っていた。
 半分以上もめりこんだ五本の針など、気にもならぬように。
 そしてそのつぎにおこったできごとを、老ウェイレンとマリッドとはひとしなみに、信じられぬ面もちで目撃した。
 バラムの肉体に深々とのめり込んだ五本の針が、めりこみ口を支点にしてくにゃりと曲がっていく。
 スプーン曲げの妙技とおなじだ。
 そのまま、根本からへし折れてつぎつぎに落下し、白いペーヴメントにあたって冴えた音を四囲にひびかせた。
 ついで、見えぬうねりにひねり出されるようにして、食いこんだ残りの部分が傷口からめりめりとおし出され、これもまた白い台座の上にころがった。
 あとを追って落下する血滴はすぐに停止した。
 どうやら傷口もまた瞬時にしてふさがってしまったらしい。
「──尋常ではないわ。これはどうにも、かなわんわい」
 軽口のような口調でつぶやくものの、老ウェイレンのしわがれた顔貌はそのまま棺におさめても違和感がないほど蒼ざめていた。
 ぎらりと顔をあげたバラムが、狂気の視線の焦点をあわせるのを待たず、老人はくるりと背をむけた。
 一目散に走り出す。
 ペーヴメントをかけぬけ、放心のていで群れつどう人芥のなかに飛びこんでいく。
 きしる音のバックボーンを喪失して半睡状態でぼうぜんとしていた人びとが、ウェイレンのその挙動でわれにかえり──そしてさらにつぎの瞬間には、悲鳴と怒号をあげていた。
 人とも獣ともつかぬ怪物が、牙をむいて喰らいこんできたからだった。
 逃げようとして群衆はおし広がり、いたるところで倒壊と軋轢をくり広げつつ扇状に後退した。
 悲しいほどわずかな距離だった。
 過飽和状態に達した先端が圧力におし戻される。
 ──獣人の虎口にむけて。
 爪をたてた両の手が、重い音を立てて空気を裂きつつふりまわされた。
 いくつもの血しぶきが舞いあがった。
 驚愕の表情を顔面にはりつかせたまま、つぎつぎに屍体が製造されていった。
 強力無比な膂力にはねとばされて、ひしゃげ、折れ、はじけ、舞いあがり、叩きつけられた。
 もはやバラムは、老ウェイレンなど眼中にとどめてはいない。
 見境なく、文字どおり手当たり次第に、立ちふさがるものすべて、人も物も無関係に、破壊と殺戮をくりかえしながら無軌道に暴走しているのだ。
「“入魔”かよ」
 群衆の奥へ奥へと分け入りつつ、老ウェイレンはバラムの狂態を評してつぶやいた。
 入魔──“気”の過剰と誤用による、幻覚状態のことである。
 紫雲晶、五行思想に裏づけられた体内エネルギー経路とその伝達物質とのコントロールは、肉体と精神におどろくべき影響力を発揮し、ただしく用いられれば全人格的な平安とそしてさらには副産物としての強壮をもたらす。
 それは時として神聖銀河帝国でさかんな魔術の異能や高レベルの超能力などにさえ匹敵する肉体的、精神的能力を発揮することもある。
 が、多くの場合──それも主として超人的能力の発揮を目的として、性急かつ盲目的な修養をおこなった場合など──は、偏差と称される病的症状を発現する危険性を内包してもいた。
 そして入魔とはまさに字義のごとく、いちじるしい偏差のため、魔境に堕すごとく極端な肉体的・精神的危機状況におちいることをさすのである。
 そしていみじくもこの奇怪な老術師が看破したごとく、まさにバラムはいっさいの知性をうしない、破壊の権化と化して暴走するだけの、狂った自働機械と化していたのだ。
 美と平和の象徴たる空中庭園はいまや殺戮のちまたと化し、屍骸と叫喚、恐怖と絶望に染めあげられつつあった。
「バラム! バラム!」
 なすすべもなく狂態をながめやりつつ、マリッドは群衆をかきわけて追随しながら幾度となく叫びつづけた。
 が、狂獣は血を吐くような呼び声などまるで耳に入らぬごとく、ただやみくもに凶行をくりひろげていくばかりだ。
 歯をくいしばりながらマリッドは、人群れをかいくぐって夢中で暴虐の嵐の先端へとさきまわりし、野獣の凶牙から逃れようと、ひき裂かれる紅海のように左右に割れる生け贄の羊たちの悲嘆の谷間へと、おどりでた。
「バラム! ハルシアはここよ!」
 吼えたけりながら突進する凶獣の前に両手をひろげて立ちはだかり、叫んだ。
 無謀な賭であることは承知の上だった。
 ほかに知恵がうかばなかったのだ。
 もとより、見過ごすつもりは毛頭なかった。休日の平穏を悪夢の牙から守るためではなく。
 黒い飛鳥の影が、ミサイルのようにバラムを急襲した。
 炎のような息とともに眼光がおぼろな影を打ち、うるさげになぎ払われた手の甲の一撃だけでエイミスは弾き飛ばされていた。実体をもたぬはずの使い魔も、狂乱の虎には歯が立たないらしい。
 ちっぽけな使い魔にはそのままほとんど注意もはらわず、くはあ、と炎塊を吐きだすように熱いうめきを発してバラムは跳躍した。
 弾道弾のように宙にとび、ひらいた両の手をつつみこむようにしてマリッドにむけて強襲をかけた。
 浅知恵だったか、と後悔のほぞをかみつつ、覚悟をきめて真正面から狂気の襲来をにらみやり──獣の牙にひき裂かれるのをなすすべもなく待った。
 一瞬はマリッドにとって、永劫にも匹敵した。
 見ひらかれた血走った双眸が眼前におり立つ。
 予想していた衝撃も痛覚も、いっこうに襲いかかってはこない。
「ほ、こりゃおもしろい」
 群衆の奥深くでもれ出た老ウェイレンのつぶやきなどむろん、対峙するふたつの彫像にとどくことはなかった。
「バラム……」
 かすれた声で、マリッドは無意識につぶやいく。
 血生臭い吐息が、胸にふりかかる。
 爪を立てた五指が左右から、華奢な両肩をつつみこむようにして、ふれるかふれないかのぎりぎりの境界で、静止していた。
 ──つかまれれば、その瞬間に鎖骨ごと砕きつぶされてしまうにちがいない──そう思わせるほどの、凶器じみた様相だった。
 ごくりと喉をならし、そしてマリッドはきっと目をむき、眼前ににらみあげる狂気の双眼と正対した。
「バラム──やめなさい」
 猛獣使いというよりは、母親の威厳をこめてマリッドは、静かに口にした。
 獣の姿勢のまま、血泡まじりの涎を口端にこびりつかせてバラムは、血走った双の目をマリッドに固定していた。
 静寂が深く、天宮を支配した。
 ──ほんの一瞬。
 その一瞬の間をおいて、奇妙なつぶやきが、獣人のくちびるをわななかせた。
「マリ……ア」
 目を見ひらきマリッドは、もう一度、と問おうとした。
 機会は、一蹴された。
 バラムの肉体は弾丸と化して撃ちだされていた。
 紙一重の差で、マリッドは急襲をかわしていた。
 野獣はいきおいのままかけぬけ、急停止するとぐるりとふたたびむき直る。
 目を見ひらいたまま、じり、じりと、にじみよった。
 ほんのしばし、マリッドは逡巡し──逃げた。
 バラムほどではないにしろ、常人の目には消失したとしか思えないほどの超絶した動きだった。
 一拍おくれて、野獣もまた追随する。
 弾きとばされた衝撃からようやく回復したか、エイミスの黒い影もまた、ふたりを追って滑空した。
 影と風と、残像が交錯した。
 ときおり、ぼうぜんと目を見はる群衆の何人かがいきなり血しぶきをあげてたおれるほかは、二人の動作を追いきれる者はいなかった。
 ──ただ一人をのぞいて。
「ほうほう、入魔境の“夜の虎”を、じゃれさせておるか、あの娘。それにあれだけの動き。これもまた興味深いわ」
 つぶやく老ウェイレンの耳に、ふいににぶい音が届けられた。
 爪先が、肉に叩きこまれる音。
 そして見た。
 虚空にふたつの肉体が重なりあい、そのうちのひとつがどさりと音を立てて落ちるのを。
 ふわりと、重力など重荷と感じぬようにおり立ったのは、マリッドのほうだった。
 快哉を表すように身をおどらせつつ、エイミスがその肩口に降下する。
 地に伏したバラムは──こちらも、ほとんど間髪入れずおきなおる。
 ふたつの視線が正面からぶつかりあった。
 が、つぎの動作は生ぜず──まったくべつの変化があらわれていた。
 バラムの目から、狂おしい燃えさかる殺戮者の炎がみるみる鎮火した。
 全身をおおった虎縞の模様が波がひくようにして消え失せていき、荒い息づかいのみを残したまま強化人間は周囲をゆっくりと──そしてぼうぜんと、見まわした。
 その視線が再度、マリッドに固定され、
「あのじじいはどうした?」
 ときいた。
「さあ」マリッドはまだ疑わしげに目を細める。「あんたこそ、何とち狂ってたのよ」
 警戒心むきだしのマリッドの問いかけにもバラムは、不審げに眉根をよせるだけだった。
 やっぱり覚えてないのか、とでもいいたげな不満にみちた表情で、マリッドは力なく小刻みに首をうなずかせる。
「あんた、虎模様が顔にうき上がってきて、気が狂ったみたいに暴れまくってたのよ。はっきりいって、手のつけようがなかったわ。だいたいあんたは──」
 いいかけて、くたくたとマリッドの小柄な身体が崩おれた。
 その背後からあらわれたのは──老ウェイレン。
「じじい──!」
 一歩をふみ出し──そのままの姿勢でバラムは凍結した。
 ウェイレンの手にした銀針の切っ先が、昏睡したマリッドの喉もとに突きつけられていた。
 怒ったようにとびまわる飛鳥の黒影を威嚇するように一瞥してから、老ウェイレンはじろりと暗殺者に視線をもどす。
「悪いな“夜の虎”。正直、わしにはおまえは手におえん。この娘、人質にさせてもらう。それにこの娘──どうもおもしろいことをいろいろと知っておるような雰囲気もあるでな」
 いって、にいと笑った。
「このじじい!」
 叫びざま猛然とつっこみかけて──バラムはたたらをふんだ。
 糸にひかれるようにして、ウェイレンのしわがれた小躯が宙にうきあがっていく。
 驚愕したように上下に震動したエイミスの影も、あわててあとを追って上昇しはじめた。
 ふりあおぐと、さらに頭上で沈黙の天使像が、まさに碧空にむけて昇天していくごとくゆっくりと上昇していく姿があった。
 さらにはるか上空に、UGボードを三枚も抱えこんだ中型運搬艇のシルエット。
「あまり気はすすまんがな。おそらくはまた会うことになりそうだな、夜の虎。そのときまで、な」
 マリッドの体を抱えたまま、老ウェイレンの姿はみるみるとおざかっていき、それが遠い点となって浮遊機に吸いこまれたと思いきや──クラフトキャリアは静かに、すべるようにしてとび去った。
 追うすべもなくバラムは、ただ目をむいて見おくるしかなかった。

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