空虚なる兵団
音というよりは振動、と表現したほうが感覚的にはより的確かもしれない。深く重く大気をふるわせるようなそのひびきにはたしかに、きき覚えがあった。
汚物臭の集積したダウンタウンのさらに地下──ふりそそぐ汚水と静寂の底で、影だけの老人が短くかき鳴らした、奇妙な楽器の音色。
それがどうやらいま、おしげもなく披露されているらしい。
切り刻むリズム。
躍動する旋律。
方角からすれば──七天使の島からだ。
せきたてるようなリズムに追われるようにして、二人はいっそう足をはやめて島を目ざす。
異常は、湖岸からのびる橋にたどりついたときに見わたすことができた。
無秩序に午後を楽しんでいるはずの人々の一部が、いちように恍惚とした表情をうかべながら音源にひたと視線をすえ、まるで何かにとり憑かれたように夢遊病者の足どりで、島を目ざして歩を進めているのだ。
そんな様子を遠まきに、ぶきみそうにながめやる者も少なくはないし、半狂乱で家族や恋人にゆさぶられて正気をとり戻したていの者もなかには見うけられる。
だが、大半は確信にみちた足どりで声ひとつ立てず、整然と橋をわたっていく。
どうやらこの魔術的なリズムを刻む楽器の音色は、それだけで催眠術的効果を発揮しているらしい。
バラムとマリッドは、奇妙にうつろな表情でひたひたと進む群衆をぬうようにして、橋をわたった。
心なしか、自分たちの気分までもがおかしくなってきているような気さえする。
それをふり払うようにして幾度も首をふるっては、互いの正気を確認しあうように目と目を交わし、そして前進した。
七つの宮は十二角形を形成する白い石柱と、骨組みだけの天蓋を高くそびえさせて島内に点在している。
それぞれの位置関係は等間隔を志向しつつ微妙に幾何学形からずれた形で配置され、アルガ星天宮は島の奥側に位置していた。
そして七つの宮にはそれぞれ、天使の名を冠せられた白い結晶質の石でできた彫像が、配置されている。
もともとはジョシュアーンの遺跡から発見された石像を模して作られたものらしい。
リアルだが奇妙な幻想性をも帯びた七人の女性形の裸体の天使たちは、翼さえもたぬまま支えるものもなしに宮の上空に浮遊し、天に遊弋する無垢の魂を演じている。
ただしこの空中庭園の天使像に関しては、ジョシュアーンの石像を稚拙にまねただけの、芸術的価値はごく低いしろものと酷評する玄人筋も少なくはない。
ゆらめくようにして音色の源を目ざす人波をすりぬけ、二人は島内にふみ入った。
道はいびつな螺旋模様を描いて奥側にぬけている。近道らしい近道は見あたらない。
音を円状にまわりこむように横手にしながら走りぬける。
樹林のあいだに天使像が、白い石柱に囲まれて宙に舞う姿が見えた。
歩道をはずれ、林間をぬって広場にまろび出ると、ふるえるような深くあいまいな旋律はいっそう、重く、存在感をたたえてふたりの耳にとどけられた。
ストラトスの光を背に歓喜に満ちて天を乱舞する、白い裸形の天使の像を中心にして、おどろくほどの数の群衆がそこにはつどうていた。
よりぶきみなことに──深い音色の演奏をのぞいて、奇怪なほど濃密な静寂が一帯を占拠している。
病んだ、紫色のオーラが立ち昇るのが目に見えそうなまでに、異様な鬼気がぶきみにどよめいているのだった。
個人差はすべてぬりつぶされ、楽器の音色にあわせるようにして大きなひとつのうねりを形成しているのである。
ここにはすでに、正気を失った家族知人をゆり動かす者の姿もない。
起こっていることの意味は明白だった。
音による集団催眠。
それも、異様なまでに強力な。
おそらくはここにつどう者すべてが、敵なのだ。赤子にいたるまで、すべて。
そしてざんばら髪の、行者を思わせるあわせの衣服を身につけた老人は、天におどる天使像の足下に、よりそう導師のようにして天宮の台座に腰をおろしていた。
奇妙に深い光を放つ白目部分のない青色の双の瞳が、かけこんできたバラムとマリッドを視界の端にみとめ、凶器のようにするどいくちばしの端が深い笑いの形にゆがんだ。
ラトアト・ラ人──イシュ・タン・ヨル・ハー催眠法を人類にもたらした、音声による複雑な文化を築きあげた奇怪なる異星人だ。
老ウェイレン、とクオントは呼んでいた。
狂おしく迫る律動。
その、切り刻む弦の音が、ふいにとだえた。
群衆のようすに変化はない。
十メートルほどの距離をおいて、バラムとマリッドはくちばしの老人と対峙した。
「来たかよ“夜の虎”」
つらぬくような眼光が、真正面からバラムをとらえた。
「強化人間。“フィスツ”の鬼子。うぬが相手ならば、クオントなど赤子より無力であったろうさ。そうと知っておれば、立ち去ろうなどとゆめゆめ思わなかっただろうにな。まったくうかつだったわ」
口上に、バラムはふ、と唇の端をつりあげた。
断裂寸前の琴線上。落ちれば、そこは死の淵だ。
身奥に熱いものがふつふつとわきあがるのを狂おしく自覚する。
待ちつづけていた感覚だ。
超絶の肉体とひきかえにすべてを捨てた男の、のこされた最後の砦。
「秘密は今、手に入れる」淡々と老人が告げる。「だが、おまえさんはどうあっても殺しておかねばならん。敵にまわすには、あまりにも異質すぎるゆえ」
ず、と、しなびた指が奇怪な楽器の弦をつまびいた。
うつろな視線のままいっせいに、群衆がうごめいた。
氷のような数十対の眼が、一点にむけられた。
虎に。
「わかってはいるだろうが、この者どもにおまえたちに対する敵意は、かけらもない」
白い髭をしごきながら老ウェイレンはいった。
バラムは、笑った。
嘲笑だった。
「なるほどの」と、ため息とともに老人はつぶやいた。──あわれむような口調で。「たとえ女、子どもであろうと、むかってくる者すべてが敵、か。ならば賞味あれ。ラ・ウェイレンの魔弦琴」
しわがれた指が、弦をはじく。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
いならぶ群衆が、機械人形のごとくバラムと正対した。
たたきおろされる重い律動が、奔流に変化した。
大地をさえ震わせるような音が、渦をまきながらつぎつぎに重積していく。
その音の重なりが、流れが、反響が、無防備にあけ放された精神にしのびこんでわしづかみ、ひとつの巨大な奔流へとおし流すのだ。
うつろな顔の群衆が殺到する。
「マリッド、銃を撃て」
耳もとでバラムが、深い声音でささやいた。
そのトーン自体が、マリッドには老ウェイレンの弦の音とは別種の、催眠術のようにひびきわたった。
言葉の内容よりも、その音色に恍惚としたがってしまいそうな自分に恐怖しつつ、マリッドは激しく首を左右にふるう。
「だってこの人たち、だれひとりとして敵じゃないのよ」
よわよわしい抗議の言葉は、ふりむいたバラムの微笑に圧しつぶされた。
「敵だ」笑いながら、虎はいった。「明白な敵だ。そうだろう?」
同意を求める、というよりはあたりまえのことをいうような口調だった。
そして笑いながら、中途半端に懐中にさし入れられたマリッドの手に、ぶこつな手を重ねた。
「バ、なにすんのよ」
うろたえ、身をひきかけるのを背にまわした手が強くおしとどめる。
同時に、マリッドの手をすりぬけてバラムは、ハンドガンを掌中にした。
無言、無表情のままうつろな足どりで眼前に迫りつつあった群衆にむけて、銃口はためらいなくポイントされた。
重い音が重なり、おしよせる人影は円弧を描いてつぎつぎになぎたおされた。
いきおいは──まるで衰えない。
屍体をふみこえて、人形兵団は無言の前進をただひたすらにつづけた。
バラムもまた、かまわずにトリガーをひきつづけた。
マリッドはおしとどめるも援護するもならず、ただぼうぜんと目を見はるだけだ。その頭上でエイミスが、これも主人の意向に感応してかなすすべもないとでもいいたげにぐるぐると旋回ばかりをつづけている。
そのとき、弦の音色がふいに変調した。
重い地鳴りのような音に、泣き叫ぶようなヒステリックな高音が加わり、縦横にはねまわりはじめたのだ。
一拍おいて、呼応するごとく黒い影が踊りあがった。十。二十。
絵筆を手にしたベレー帽の老人がいた。子どもを抱いた母親がいた。そろいの服に身をつつんだアベックがいた。あどけない顔をした姉弟がいた。だれもが、休日を楽しむ装いをしていた。だれもが、無表情だった。
トリガーをひきつづけたままバラムは、なだれ落ちてくる青年をなぎはらい、だらしなく着崩れた昼さがりの娼婦を蹴りあげた。
悲鳴をあげる三半規管にさかしまに気が流され、アドレナリンが体内をめぐる。
バラムもまた、殺戮機械と化していた。
視覚のかたすみが、おしよせる波涛のあいだにすきを見いだした。
そのときにはすでに、銃口は火を噴いていた。
三弦琴を、火線がつらぬいた。
一瞬の差で、老人は空中に逃れていた。
「えい油断のならぬ」もといた場所にこともなげに着地しつつ、老ウェイレンはむしろ楽しげな口調でいった。「しかし、琴を破壊したのは逆効果だぞ。もうこの人形たちはとどまるすべを喪失した」
笑いながら宣告する。
言葉どおり、憑かれたようにおしよせる群衆のいきおいは、衰えるどころかいよいよ激しさを増すばかりだった。
数の多さが、ついに暗殺者を凌駕した。
とびあがる無言の肉体がつぎつぎにバラムの上におし重なり、またたくまに山積みになった。
バラム、と叫びつつなすすべもなく後ずさるマリッドを尻目に、人山はしばらくのあいだ、その内部でもがく者の動きを伝搬するようにゆらめいていた。
が、やがてそのゆらめきもとだえた。
耳の痛くなるような静寂がおとずれた。
「これでおわりか?」
疑わしげにひとりごちながら老ウェイレンは、ひとわたり視線をめぐらせ──くちびるを笑いの形にゆがめる。
「なるほど。しぶとい男だわい」
つぶやきざま、その小柄な体躯が宙にはねあがった。
人群れの片端にむけて、銀の軌跡が吸いこまれる。
一瞬はやく、おり重なる人垣が左右にはじき飛ばされ、黒いかたまりが疾風のごとくとびだしていた。
火線が宙に舞う老人をつらぬいた。
瞬間、老ウェイレンの姿は魔法のごとく消失する。
バラムの動きにはしかし、それを予見してでもいたかのように、なんの狼狽も躊躇も見られなかった。
風のごとく疾走し、ふたたび襲来を開始した人群れのまっただなかに、みずからとびこんだ。
縦横無尽に移動をくりかえしながら片端からあやつり人形と化した人々をなぎたおしはね飛ばす。
肉眼ではとらえ切れないスピードに、催眠集団は攻撃方向を特定できないまま緩慢に右往左往するだけだった。
「ははあ、甘くみていたわ」どこからともなく、老ウェイレンのしわがれ声がひびきわたった。「これではわしの術も役たたずか。ならば──こういうのはどうかな?」
言葉と同時に──空中に老人の姿が出現した。
──無数に。
「さて、本物はどれじゃな?」
浮遊する数十人の老ウェイレンが、いっせいにふざけた口をきいた。
これもまた、ラトアト・ラ人の神秘なる音声催眠法を知らぬまにかけられた、結果なのか。
バラムはハンドガンのトリガーをやみくもにしぼった。
十数本の光条が大気を裂き、つぎつぎに魔術師の老体をつらぬいた。
が──すべてが幻像のごとく、平然と呵々大笑したままだ。
「手のうちようがあるまいが」無数の幻像が、好々爺然とした柔和な笑みをうかべていった。「ではご静聴願おう。合奏版“魔弦琴”」
言葉がおわるかおわらぬうちに、ハンドガンでつらぬかれた穴をひらいたままの無数の三弦琴に老人の手が走った。
音が氾濫した。
まさに氾濫だった。
まぼろしのかきならすひとつひとつの音がすべて、現実のひびきをともなって鼓膜をふるわせた。
しかも像のつむぎ出す弦音はすべてちがった動きで、縦横無尽に暴れまわりはじめている。
洪水は、うねり、逆まき、複雑にからまりあいながら、ひとつの流れを形成した。
マリオネットと化した群衆の動きがまた、それにあわせるようにして、複雑かつ玄妙にバラムを追いはじめた。
しわがれた笑声が無数に空間をみたす。
「どうかな“夜の虎”。わが兵団の動き、まだまだおまえに追いつくほどのものではない──が、おまえのほうの動作も、どうやらにぶってきておるようじゃの。ん?」
ははは、はははは、と老ウェイレンの哄笑が、悪夢の音塊に重なって四囲をとよもした。
ふいに、その笑いがとだえた。
弦をかきならす指の動きはそのまま、この底知れぬ奇怪な老人の目が警戒に細められるのを、マリッドは見た。
四囲にきき耳を立てるように首をゆっくりとふり──その視線が、遊弋する天使像に固定された。
いぶかしげによせられた眉の下、わななくようにふるえた異形のくちばしから発された言葉は、
「生きている、と?」
意味を計りきれぬまま眉根をよせるマリッドの前で、無数に浮遊する異星人の視線が、ふたたび一斉にバラムにむけられていた。
警戒に、深く眉間にしわをよせながら。
あわててマリッドもまた、バラムに視線をうつした。
そして、たつまきのような襲撃の中心で、かろうじて命脈をたもっていたかに見えた強化人間の動きがふいに、ぴたりと静止したのを目撃した。
ここぞとばかりに殺到にかかる能面の一団が──氷結した。
魔弦琴の深い催眠術をも凌駕する戦慄を、この雑多な無意識の兵士たちは感じたのかもしれない。
黄金の炎のようにめらめらと逆だつバラムの髪が、まるで生き物のようにざわざわとうごめき始める。
双眸に宿る炎。
歯をむき出し、喉の奥からうなりをしぼる。
比喩ではない。文字どおりの──獣のうなりだ。
空中庭園がかすかにわなないたのを、老ウェイレンは感じていた。
ほんのかすかに──極力おさえられた動力部のふるえにかき消されて、常人ならば毛ほども感ずることのないほど、かすかに──
ぎらりと目をむき、老ウェイレンはむう、とうなり声をあげた。
「風、か」
つぶやいた。
洞察のごとく──ゆるやかに、そして力強く、風が一点に収斂した。
バラムにむけて。
「“気”かよ」
しわがれた声は、なかばうめきにみたされていた
「天の気を、集めておるのか……。すると、この震動は──“地気”かよ」
渦まく風、ふるえる粒子の中心で、バラムはふいに天をあおぎ、両のこぶしをつきあげた。
全身が、小刻みにふるえていた。
老ウェイレンは、にたりと笑った。
「地上二百メートル──地気を吸いあげるには足りぬな。重力の申し子であるかぎりは、不利は否めまいがよ」
つぶやくようにいいつつ、なおも流麗にとぎれ目なく弦をかき鳴らす腕の動きが──ふいに凍結する。
異変が起きていた。
バラムを包囲した催眠兵団の人波が、内側から同心円を描いてつぎつぎにたおれ伏していくのだ。
魔弦琴の糸にひかれて、あやつり人形そのままおどりつづけていた老ウェイレンの即席兵士たちが、文字どおり糸を断ち切られるようにしてぼろぼろと地に伏していく。
「ぬう」
老人の瞳に、はじめて焦慮の色がうかんだ。
ほぼ同時に同心円が、おのれの内部をつきぬけていくのを覚えた。
──内なる力を、吸いとられていく感覚。
とたん、宙に結ばれていた無数の幻像がふいにとぎれ、最初とおなじように天宮の台座にたたずんだ ただ一人の老人の姿に収斂した。
その老人の姿が、がくりとひざをついた。
「人の気を──このわしの気を、喰ろうておるのか……!」
こたえず、バラムはただひしりあげていた。
野獣そのままに。