切断と縫合
そのときにはすでに、バラムはふりむきかけていた。
動作は中断される。
背後から、右胸をつらぬかれていたのだ。
ぶば、と血を吐いた。
苦鳴をかみころしつつ、とんだ。
とびながら上体をひねって、後方をあおぎ見た。
よどんだ地下の空気をつらぬいて、銀の針が三本、降下するバラムを追った。
手で払う。
感触からすると、二十センチほどの長大な全長をのぞけば何の変哲もないただの針だ。
そのただの針をもって、バラムの右胸を瞬時に貫通させた張本人は──天空からかすかにふりそそぐ淡い光を背景に、影となってたたずんでいた。
小柄だが、すっきりと背すじはのびている。
悠然と、そして淡々と、落ちていくバラムをながめおろしている風情だ。
背にはななめ上下に、ふとい棒状のものを背負っているようだ。影だけだが、武器には見えない。上側にのびた一端から左右に短くのびている突起は──弦楽器のチューナーとおなじ形だ。
それだけのことを確認しつつ、たん、と半回転して足場におり立つと同時にバラムは、かたわらからもぎとった廃材のかたまりを影にむけて思いきり投げつけた。
ぶん、と気を裂くうなりとともに飛ぶそれを、影は無造作にひょいと上体をひねってやり過ごした。
歯をきしりつつ、さらに反撃を加えようとして──胸奥からあふれ出てきた血塊をどぼどぼとまき散らしながら、バラムはがくりとひざをついていた。
「急所をはずしたわい、クオント」
しわがれた声で、影がいった。声音からすればかなり高齢の老人だ。
「おれのせいか」
淡々と小男がいうのへ、かぶせるように老人はさらに言葉を重ねる。
「しかり。わしが攻撃をしかける瞬間、おのれはよけいな口をきいたではないか。ちっとは反省せい」
内容は苦言だが、声音にはおもしろがっているようなひびきがある。
それをうらづけるようにして、影は背後に背負った奇妙な棒に背中ごしに手をまわし、べん、と弦をはじく音をひびかせた。やはり楽器らしい。
クオントは肩をすくめてみせ
「何にせよたすかった、老ウェイレン」
と口にした。
「油断しおったな、クオント。おのれはいつも詰めが甘い。様子を見に戻ってよかったの」
「いってくれる。挽回、というわけではないがあとはおれが引きうけた。老ウェイレン、あんたは一足先に戻ってくれ。準備が必要なのだろう?」
「うむ。ではまかせたぞ」
老ウェイレン、と呼ばれた影はそうこたえ、つけ加えるように「もう戻らん」といった。
「だいじょうぶだ」
クオントの言に老ウェイレンは無言でうなずき、手にしていた銀の針をふところにしまう。
くるりとむけかける背に──
「準備てな、何だ」
苦しげなあえぎの底からしぼり出したバラムの問いを背中にうけて、首だけをふりむかせた。
「隠者ハニから、なにをきいた?」
クオントもまた目をむいている。
「化け物が」
吐きすてざま、小男は宙を飛んでバラムの伏した足場まで移行した。
飛びおりざま全体重をかけてバラムをふみつけた。
がば、と錆びた肋材を血の噴水が赤く染めあげた。
それでも、ねめあげる虎の眼光だけは消えなかった。
「死なぬか。理由があるのだろうな」老ウェイレンもまた、声音に驚嘆をこめてはるかな高みからつぶやいた。「どうやらまだまだ、充分以上に危険そうだ。とどめをさしておくか」
「いいや、それにはおよばない。いろいろきき出しておきたい。あんたははやく行ってくれ、老ウェイレン」
老人はなおも疑わしげな間をおいて、はいつくばるバラムとクオントとを交互にながめやっていたが、やがて静かにいった。
「くれぐれも油断はせぬことだ。よいな」
いいざまふわりと、小柄な身体が宙にうきあがった。
そのままゆっくりと天空の燐光のなかへと上昇していく。
「ぐう!」
うめきとともに、バラムの右手がひらめいた。
銀線が、老ウェイレンのかたわらをかすめて宙に消えた。
「まだそんなまねを!」
クオントはおどろきとともにバラムを蹴りつけた。
「今度はこっちの番だ。だれに頼まれておれたちを──」
言葉は、驚愕のうめきにさえぎられた。
蹴りだした足をつかまれたのだ。
血塊を吐くバラムに。
怒りよりは恐怖をその双眸にうかべつつ、クオントはあいた足でバラムの手を蹴りつけた。
はなれない。
「しぶといな……」
静かにひとりごち、小ぶりな口をぐいとひらいた。
羽音ともに黒い虫の影がつぎつぎに吐き出された。
ブ……とそのうちの一匹が、クオントの足首をつかんだバラムの手の甲を強襲した。
ぐあ、と短く苦鳴をもらし、バラムは思わず手を離す。そのすきにクオントは飛びすさって距離をおき、用心深げに遠まきにする形でバラムを見おろした。
「依頼者よりも、おまえの素性に興味がわいてきた。いったい何者なんだ?」
「おれは虎さ──」
つぶやきは、口をわって出た血塊に途切られた。
クオントはあわれむように目をほそめ──つぎの瞬間、瞠目した。
眼前で、ふいにバラムの姿が消失したからだ。
敵の軌跡を確認するよりおのれの移動を優先したのは、修羅場をくぐりぬける過程でつちかってきた勘のおかげだ。
が、その勘もこの場合には何の役にも立ってはいなかった。
どがりと、移動する先で背中にいきなり痛撃をくらった。
痛みや衝撃よりも驚愕のが大きかった。
「いつのまに……」
つぶやきはわしづかまれた後頭部の、危険な握力の感触に中断される。
「質問するのはやはりおれのほうだな」
牙をむき出した笑いが目にうかびそうな口調で、背後からバラムの声はいった。
「こたえはさっきとおなじだ」
歯をくいしばりつつ、クオントはいった。
「なら」
死ね、と口にする前に、血塊が喉の奥からせり出してきた。
後頭部をつかんだ手がはなれるよりはやく、クオントは電光のいきおいでふりむきざま、すぼめたくちびるで標的をとらえた。
ひざをついてぶるぶると全身をふるわせる凶人の姿を目にし、寸時、その双眸に哀れみの翳りがよぎる。
すぐに気をとり直し、尋問よりも殺害のほうが優先、とクオントは判断を下し、殺人虫を吐きだすべく喉をふるわせた。
動作は、にぶい射出音に中断された。
はがれかけた布のあいだから、すぼめたくちびるをかいくぐって虫が二匹、ぶぶ、とためらいがちに羽をゆらめかせつつ漏れ落ちるようにしてあらわれた。
眼前をとほうにくれたように右に左にただよう虫をうつろな視線でながめやり、クオントはかすかにうすく、笑った。
そしてやにわに、どさりと崩れ落ちた。
「……仲間……か……」
胸部をおさえてふりかえったクオントの額に、焼けこげた穴がうがたれた。
声もなくたおれこみ、そのまま足場を外して落下していった。
深淵へと。
宙をただよっていた虫たちが、あとを追うように闇へと降下していく。
はるか下方へと吸いこまれていく死骸に目をやりつつ、バラムはうめきとともにつぶやくようにして、いった。
「おそいじゃねえかよ」
「バカいわないでよ」暗がりから、ハンドガンをかまえてふみ出してきたのはマリッドだった。「布男に加えてあのおじいさんまでいたんじゃ、わたしじゃとても相手しきれなかったわ。もちろん、死人半歩手前のあんたなんか論外ね。だからおじいさんがどっかいっちゃうまで、気配を消してるだけでせいいっぱいだったのよ。死ぬ前にかけつけただけでも感謝してもらいたいわね」
「くそったれが」苦しげにバラムは毒づいた。「なら、せめてクオントだけでも生かしときゃよかったものを──」
「それどういう意味? 見つけられなかったの? 隠者ハニを」
「見つけたさ」バラムはくちびるの端をぐいとゆがめて見せる。「死体でな。ちょいとしゃべらせるのは無理なようだぜ」
くやしげにいうバラムの傷の具合を点検しつつ、マリッドはにっこりと微笑んだ。
「あら、そうでもないわよ」
目をすがめるバラムにむけて、片目をぱちりと閉じてみせる。
とび散った血はどすぐろく変色をはじめていた。断ち割られたように散乱する内臓には、色素の欠落した奇怪な虫の群れがむらがり、音もなくうねりながらのめりこむようにして黙々と、めったにありつけぬ滋養を摂取している。
頭部もまた半分がた噴きとばされており、頭蓋の端から内容物がどろりとあふれ出していた。とうぜんのごとくそこにも、無数の小生物が熱心に作業にいそしんでいる。
どこからどう見ても立派な屍体だ。
どれほど設備のととのった医療施設であろうと、この状態から蘇生させるのは不可能だろう。
ましてこの地下深くでは、どうあがこうと意識ひとつひらめかぬ、ただの肉塊にすぎない。
眉ひとつひそめず、かといって子細に検分するでもなく、マリッドはしばしのあいだ無言で、隠者ハニの屍骸をながめおろしていた。
「どう考えても、これから何かきき出そうてのは無理だろう?」
マリッドの沈黙を驚愕と消沈、ととってバラムはいった。
「さっさと上に帰って、べつの方策を考えたほうが早道だ。どうしても埋葬してやりたいってんなら、墓穴くらいは掘ってやってもいいがな」
マリッドは屍骸をながめおろしたまま、肩をすくめてみせる。
ふ、と息をつき、バラムは華奢な肩に手をかけた。
ふりかえったマリッドが微笑しているのに気づき、目を見はった。
「あんたけっこう、頭かたいね」
笑いながらいうと、あっけにとられたバラムをおきざりにするように前にふみ出し、屍体の前にひざまずいて──眼を閉じた。
「おい……?」
とほうにくれたようにバラムが問いかけるのは無視してマリッドは、まるで礼拝堂で世界の救済を一心不乱にいのる聖女のごとく、手を組みあわせて頭(こうべ)をたれた。
肩口に、黒い影がぬうとあらわれ、おどろしげにゆらめき始める。
バラムはといえばなんのことやら理解できずに、なかばは狂人をでも見やるように一心に祈念するマリッドとその肩口のエイミスをながめおろすだけだ。
ひどくながい時間が過ぎたような気がした。
日の光の一筋さえそそがぬ深い地下の底であれば、実際にはさほどの時は経過していなかったのかもしれない。
いずれにせよ、しびれを切らしたバラムがマリッドに声をかけようとした矢先に──それは起こった。