脱出
ぐ、と苦鳴が喉をふるわせる。
同時に、収斂し、身内に拡散し、あふれかえっていた気力が、瞬時にして散逸していくのをはっきりと自覚した。
強化された骨格はそれでも砕かれることなく堅固さを維持してはいたが、痛覚が肉体の動きを完全に停止させる。
その空隙を逃すはずもなく、風のようにおぼろな鬼神の襲撃が、速射砲のようにたてつづけにバラムの肉体を翻弄した。
幾度となく打たれ、壁にたたきつけられた。
吐き出される血泡は真紅の球となって汚穢に宙をただよい、虎と呼ばれた男はなすすべもなくぐったりと、みずからが吐き出した汚物を追った。
たん、と最後によわよわしく湾曲した展望窓に背を打ちつけ、静止する。
「そこまでだ、ハリ」
なさけか、それとも得体の知れぬ計算かはさだかではない。死の一歩手前でシャルカーンが口にした救いの言葉は、バラムにとっては最悪の屈辱だった。
ぴたりと宙に制止したハリ・ファジル・ハーンは、光る双の眼をぎろりとシャルカーンにむけ、あいかわらずおもしろくもなさそうな面つきで紅の蛇がからむ腕を組み、静止する。
計ったようなタイミングで、ドーム内部にオルゴールの音色がひびきわたった。
ラワド・リアンが半世紀ほど前に星際規模でヒットさせたブルーズのメロディ。通信プロセッサの呼び出し音としては少々古典的な部類に入るが、このトーチカが忘れられた場所である以上はさして奇妙ともいえまい。
「アハザ」
対して、これも平凡な応答のセリフをシャルカーンが機械的に口にするや、半球状の展望窓全体にぶこつなパイロットパネルを背景にした異様な醜貌が二つ、うかびあがった。
ひとつは一メートルにみたない矮躯の、極彩色の幅広のテープで乱雑に顔面をおおった小男だった。
まきつけた色とりどりのテープのあいだからのぞく眼が、どこか妄執じみた奇怪な眼光をぎらつかせながらスクリーンを透して、力なく浮遊するバラムをぎろりとにらみつける。
もう一人のほうは、ジャコメッティの針金じみた人体彫刻を思わせる、やせさらばえたひょろながいばかりの、できそこないの長躯の男だった。
こちらは一目見ればその出自はわかる。
スペーサー。
無重量空間で生育した、肉体的にも精神的にもゆがみの極致に達した極端に短命な、呪うべき人類の負の形での亜種だ。
どこの世界でも絶滅することなく、かといって繁栄にも遠くとどかないまま、ステーションや宇宙船、あるいは重力の極端に低い小惑星などの限られた環境のなかにいじいじと、人類に対する憎悪と呪詛とをたぎらせながら、細々と生息する戯画化された宇宙の忌み子。
二つながらに異様な鬼気を発する映像が、バラムとハーンがそれぞれ衝突して白濁させた、ひび割れた一角をのぞいて展望室全体を占拠した。
そして宇宙の忌み子、スペーサーのほうが、どろどろとしたおちつきのない、さだまらない視線をさまよわせつつ口をひらいた。
「シャルカーン、高速戦艦の編隊が近づいてきた。三、四隻ならぶちこわせるが、それ以上はトーチカのほうが燃料切れになるだろう。ジョルダン・ウシャルをのせたシャトルもまもなく到着する。遊びは切りあげて、撤退にかかってくれ」
真摯な要請なのだろうが、その奇怪なだみ声はただただ耳ざわりなばかりで、視線をさだめず声もとおらぬ自閉的な態度はスクリーンごしでさえ悲惨さとやるせなさ、そしていらだちとを喚起してやまなかった。
それでも人類に対してのみならず、おなじ境遇の仲間にさえ協調性を発揮できず、つねに孤独で陰気な生活を維持するばかりが特徴のスペーサーとしてみるならば、かなりの社交性を発揮していることはまちがいはない。
そしてなによりも──そのスペーサーを成員として抱えているアムラッジェ教団という組織には、予想以上に奥深い何かが秘められているようだった。
「もう少しだ、ヨーリク。もう少し待て。以上だ。ワダア」
シャルカーンはスペーサーにむけてコンパクトにこたえを返し、通信終了のコマンドをそっけない調子で口にする。
ぷつりともいわずに映像は消え失せ、視界はふたたび常闇の虚空へと復した。
同時にシャルカーンは、血泡を口端にこびりつかせたままうつろに宙にうかぶバラムにむき直る。
「さてシフ、質問にこたえてもらおう。だれにたのまれてウシャルを追う?」
怯懦をむりにおしのけて、バラムはくちびるの端でうすく笑った。
「行きずりの女さ。手をにぎらせてもらうかわりに、たのみをきいてやったんだ」
シャルカーンは、かすかにくちびるの端をつりあげた。
「そういうタイプには見えないな。よくできたジョーク、と受けとっておこうか」
「笑えるだろう」
「こたえは期待できない、ということかな」
ほんのかすかに微笑をうかべたまま、シャルカーンは静かな口調でいった。
背中に氷柱を突き立てられたように、悪寒がはしりぬけた。
ふりはらうように、バラムはくいしばった歯をむき出してみせる。
シャルカーンの少年のような美貌が、大きく笑った。
笑いながら、ハリ・ファジル・ハーンにむけてうなずいた。
瞬間、凶人は無表情のまま──ふたたびバラムにむかって強襲をかけてきた。
泣きたいほどの敗北感に重くしがみつかれたまま、バラムはぐいと歯をくいしばる。
気力をよせあつめるよりはやく、打撃が背中を強襲した。
はねとばされつつ、ふりかえる。
すでにそこに、敵影は存在してはいなかった。
くそ、どこだ、と胸中で悪態をつきながらバラムは視線をめぐらせる。
いた! かたわらにただようDトラップの灰色のフィールドをなぎはらいつつ、下方からせまりつつある。
身をひねった。ひねりざま、電磁ナイフをぬいた。
スパークを散らす軌跡は、空をないだだけだった。
打撃。
ナイフがバラムの手からはなれ、よわよわしく無重量空間にただよいはじめる。
たたきつけられ、バウンドする先から、腹部にハーンのこぶしが叩きこまれた。
間をおかず、肩口に一撃。
鎖骨を砕かれた。
もれ出る苦鳴を他人事のように耳にしながら、バラムは必死になって壁を蹴った。
目標は──シャルカーン!
追随するハリ・ファジル・ハーンの速度は、奇跡か、バラムにはわずかにおよばなかった。
一矢むくいた──にがい快哉を心中叫びかけた。
眼前に、灰色の障害物が出現した。
「くそが!」
快哉は瞬時にして、泣き出したいほどの絶望にとってかわった。
自身が武器として調達してきたはずのDトラップが、唯一の活路の前に立ちはだかったのだ。
ジェネレータは、砂のような灰色の亜空間の背後らしい。
手で払いのけるわけにはいかなかった。呑みこまれるだけだ。
四肢をひらき、やみくもにふりまわす。かすかにふれた抵抗にむけて、思いきり突き出した。
かろうじて軌道をかえられた。すり鉢の底に飛び、背があたった。
はね返るよりはやく、炎模様の獰猛な顔が眼前にせり出した。
そしてその手には、にぶくひらめく電磁ナイフ。
奥歯をきしる。なすすべはなかった。
刃先がバラムの頚動脈に当てられた。
そのとき──見た。
火炎模様の怪人の背後に、黒い影がつばめのようにあざやかな軌跡を描いて出現するのを。
同時に──ふたたび、ラワド・リアンのブルーズ。
「アハザ」
片眉をつりあげてシャルカーンが口にするや──
「ハイ・ラマ」
神への賛辞とは思えぬ軽い口調でこたえが返る。
ドーム状のディスプレイに映像はうかばず、乳白色のノイズがふるえただけだった。
その場につどうた三人がいちように、ぼうぜんと目をむいた。
その後の反応は、三者三様だった。
とまどいつつもシャルカーンはおちついた口調で「アウランッドゥの炎を」とこたえ──
ハリ・ファジル・ハーンは不興げにきつく眉をよせ、ぎゅっと目をほそめた。
そしてバラムは──ほかの二人とは逆方向に、視線をむけていた。
ハーンの、肩口に。
灰色の虚空間がそこにざらりと口をひらいていた。
そのかたわらに、門番のようにして黒い影──“エイミス”がいた。
そして──灰色の口の奥から、しぼり出るようにしてあらわれた白い繊手が、バラムのかたわらのハンドレールをぐいとつかんだ。
ついで銃を手にした華奢な肩が、それから蠱惑的に微笑む野性的な美貌が、あとを追って順に姿をあらわす。
マリッド、と唇の形だけでバラムはつぶやく。
銃のひきがねにかけられた指がぴくりと動いたとき、ハリ・ファジル・ハーンが背後の気配に気づいてふりむいた。
その姿がブレて、消えた。
消えるまでに瞬時の逡巡があったのは、このおそるべき凶人が不意をつかれた証左だろう。
ほぼ同時に、閃光がバラムの頬をかすめて、頭部のうしろわきに焼け焦げた穴をうがった。
「馬鹿野郎」側方に逃れながらバラムは罵声をとばした。「おれを殺すところだったぞ」
「そのつもりだったんだけど」
灰色の虚空からすべり出しつつ、すずしげにマリッドはいって笑った。
バラムは笑いながら、砕かれた鎖骨をかばいつつ、ハリ・ファジル・ハーンの姿を追う。
おなじように、エイミスのくろい影が飛鳥と化して、移動するハーンの軌跡を追跡した。
そのあいだの空中を、血珠が派手に占拠していた。
吐き出した本人──ハリ・ファジル・ハーンは、接近する黒い影から本能的に逃走をつづけながら、紅蓮にいろどられた肌をどす黒く染めて激しく咳きこみ、のたうっていた。
血泡は口もとからとはべつに、胸部中央やや左よりからも炎のようにつぎつぎと醸成されつつある。
致命傷だけはそらしたものの、マリッドの銃撃を完全にはかわしきれなかったのだ。
目先の脅威は封じられたらしい。
「どうやってDトラップをぬけた?」
感謝も安堵も声にはのせず口にされたバラムの問いに、マリッドはこともなげに
「電話をかけたのよ」とこたえた。「吸われて出口があっというまに消えちゃったから、こりゃまずいわと思ってさ。どこでもいいからいちばん手近の公共機関、て指定でコールかけたら、アウランッドゥのみ恵みってヤツ? すぐにつながって、しかも目の前にナイフをつきつけられたあんたの顔がおぼろにうかびあがってたってわけ」
ぱちりとウインクしてみせる。信じがたい話だった。実際は、使い魔たるエイミスを支点にして帰還路を模索していたのだろう。いずれにしても、尋常ならざるマリッドの実力を垣間みせるできごとだ。
「運がいいな」
そんな内心の驚愕は顔にはださず、バラムは嘲笑しながら口にした。
「かもね。いまだに生きながらえてはいる。さて」
いって、むき直った先──シャルカーンに銃口をポイントするとマリッドは、にっこりと優雅に微笑んでみせる。
「あなたがアムラッジェ教団のボス?」
シャルカーンはかすかにうなずいてみせた。
「シャルカーンという」
「わたしはマリッド。よろしくね。ふたつほどお願いがあるんだけど」
「きこう。美女のリクエストをうけるのは歓迎だ」
「あら、うれしいわ。じゃ早速ひとつめね。ジョルダン・ウシャルをかえして」
「きみはかれの係累か?」
意外そうにきくシャルカーンに、マリッドは露骨に顔をしかめてみせる。
「冗談じゃない。もちろん情婦でもないわよ。不幸なことに、かれを護衛するのが仕事なの。かえしてくれる?」
アムラッジェ教団の首魁は、心底かなしげに首を左右にふってみせた。
「残念だが、それはできない」
「甘いばかりじゃないのね。じゃ、もうひとつのほう。こっちはとっても簡単よ」
「きこう」
「死んでほしいの。あなたに」
宣告よりはやく、トリガーはひきしぼられていた。
奇跡は、それよりもさらにはやく訪れていた。
消失したのだ。
シャルカーンと──エイミスの執拗な襲撃をうるさげに払いのけつつ、血まみれでもがき苦しんでいたハリ・ファジル・ハーンが。
くそが、とひとりつぶやきながらバラムはふたたび、魔法の呪文を口にした。
シギム・ナルド・シャス──強化知覚に移行するために、バラムの無意識に刻印されたキーワードだ。
感覚のシフトはぎくしゃくと訪れ、しかもひろがるはずのフラットな充実感はまったくなかった。
シフトがうまくいかないのは初めてのことではない。生死にかかわる場面でそれが訪れたのもおなじだ。
まがりなりにも、超知覚に移行できたことはむしろ僥倖ととるべきだったのかもしれない。
ハリ・ファジル・ハーンが、レイの軌跡からシャルカーンをかろうじてひきずりあげる場面を目撃した。
そのスピードには、さきほどまでの激烈さは欠けていた。
負傷のためか、それともシャルカーンの肉体が強化人間の超絶したスピードに耐えきれないであろうことを考慮したためか。
ひとつだけたしかなのは、あのスピードなら拮抗できる、という事実。
壁を蹴ろうとして──愕然とした。
軟泥にからみつかれたように、四肢は重く、緩慢にしか動かなかった。
肉体がシフトした感覚に追随しきれていないのだ。
く、そ、と思わずもれ出たつぶやきまでもが嘲るように、冗長でもどかしかった。
反対側の壁にシャルカーンを飛ばしながら、ハーンは苦痛に顔をみにくくゆがめて壁を蹴った。
──マリッドにむけて。
みるみるせまる。
背後をエイミスの黒影が鷹のように追跡したが、わずかにおよばない。
マリッドの眼前に、ハーンがたどりついた。
ゆるやかに火花を散らす電磁ナイフよりも、背後にぐいとひかれたこぶしのほうがより凶悪で、力にみちていた。
──シギム・ナルド・シャス!
奥歯をきしりつつ、唱えた。
シフトのただなかで、重ねて唱えたことなど初めてだった。
効果は、すぐにあらわれた。
爆発する激痛となって。
灼熱の業火が、凶悪な悪寒をひきつれてバラムの全身を荒れ狂った。
狂気のように脳内を焼きつくされながら──そのとき、壁を蹴る足に、ふたたび力が宿っていることにおぼろに気づく。
体当たりがハーンをはね飛ばす前に、血管と筋肉でふくれあがった下腕の発射台から、ハンマーのようなハーンのこぶしがマリッドの胸脇に叩きこまれていた。
──胸脇に、だ。
たしかに、心臓をねらった、と見えたハリ・ファジル・ハーンの神速の動きに、マリッドが、わずかであろうが反応できた、ということか。
疑問は、ハーンとともにもつれあいながらおきざりにされた。
ふき飛ばされるマリッドを追って、黒い飛鳥エイミスが宙をすべる。
その姿を視界の隅でとらえつつバラムは、つきだされるナイフをかわしてハーンの頭蓋をわしづかみにした。
やみくもに力をこめたのは、意図してではなく身裡を荒れ狂う地獄の責め苦のためだった。
ハーンの顔面が、苦痛にひどくゆがんだ。
そしてバラムの内部で、身体の芯から燃えさかる悪夢の痛覚が、限界に達したかついに破裂した。
耐えきれず、うなりつつハーンを蹴りつけた。
その時にはすでに、超知覚はまたもや意志に反して消し飛んでいた。
そしてどうやらハリ・ファジル・ハーンもまた。
くあ、と血珠を吐きつつ炎の肉体が宙をのたうち、
「退却するぞ、ハリ!」
切羽つまった口調で叫びながらシャルカーンがハーンにむけて宙をすべった。
千載一遇の機会だった。
「シギム……」
成句を口にしきる前に、真紅の衝撃が脳内に破裂した。
鼻腔の奥で強烈な血臭がはじけ、肺の中心から蜘蛛の巣状に、激痛の稲妻が拡散する。
半球をぬけてすり鉢の底の出入口へ、のたうちまわるハーンの鋼鉄の肉体をひきながらシャルカーンは一直線に吸いこまれていった。
姿が見えなくなる直前、少年の形をした美貌がちらりとバラムを、そしてマリッドをふりかえった。
そして消えた。
「くそが」
吐いた毒づきもよわよわしかった。
あいかわらず激痛がバラムの全身を経めぐりつづけている。
気の制御も今やまるで効かない。
知覚とともに強化されたはずの治癒機能も、どうやら完全に居眠りしたままだ。
酷使のせいばかりではあるまい。
予想はされていた。超人への移行はそのまま、廃人と、そして死への加速でもある。すべての機能に、いよいよ齟齬が生じはじめているのだろう。
それでも意識はあった。
肉体は激甚な痛撃にきしみつつも動いたし、感覚もまたたしかに外界を認識している。
「マリッド」
叫んだつもりだったが、よわよわしいうめき声がもれ出ただけだった。
心配そうにぐるぐると頭上周囲をめぐるエイミスをまとわりつかせながら、血泡をしきりに唾液にのせて飛ばすマリッドの姿を視界におさめる。
胸脇に流してもなお、窒息させかねないほど大量の血を吐かせるほどの衝撃をハーンに与えられた、ということだ。
こたえようとしてマリッドはなおも咳こみ、無数の粒となってただよう血玉が顔にはりつかないようにハンドレールづたいに後方にいざりつづける。
そしてふいに建造物の奥深くから、巨大なハンマーで打たれるような轟音がとどろきわたった。
「やつら……!」
不吉な予感に歯がみしつつバラムはうめいた。
際限なく血泡を吐きつづけながら、マリッドもまた眉根をよせる。
なおも身体を荒れ狂う苦痛を同伴したまま、バラムはよわよわしくただようマリッドの手をつかみ、ひいた。
ふたたび轟音と衝撃が構築をふるわせた。
レールづたいに出口をくぐり、通廊におどり出る。
ホムンクルスを垣間みた窓から、今度はおそるべき光景が目に入った。
トーチカの構築物が、端から爆光を放ちつつ崩壊しはじめているのだ。
爆散する瓦礫のかたまりがふたつ。
そして、さらに轟音と衝撃とが重なり、同時に窓外で三つめの閃光が開花した。
「くそが……とんだ行きがけの駄賃だぜ」
罵声というよりはため息のようにバラムはつぶやく。
震動が激甚にトーチカをゆさぶっていた。
遠く近く、爆発音がとどろきわたる。
構造材がぎしぎしと盛大に悲鳴をあげ、一角にびしりと亀裂が走りぬけた。
風が吹いた。
最初はかすかに。
だがすぐに、うなりを上げはじめる。
どこか近くで気密が破られたのだ。
時間がない。
いたるところで炎が炸裂し、気流は乱流となって逆巻いた。
だしぬけに眼前に、火球が爆発する。
後方にむけて床を蹴る。
まにあわない。
熱波がふたりの顔面を焼いた。
爆風が全身をたたく。
バラムは掌をかざして、いのるような気持ちとともに気を放った。
効果があったのかどうかは判然としない。
とにかくふたりはもつれあったまま反転し、壁に叩きつけられた。
ぐう、と、うめきがもれた。
「バラム──」
吐血が一段落したか、ぼうぜんと目をむきながらマリッドがいった。
身を呈して、激突からバラムがマリッドを保護したように見えたのだ。
一瞬おくれて、黒い飛鳥がマリッドの肩口に飛びついた。
おぼろな頭部が気づかわしげに主人の美貌をながめやる。
「役立たずめが」
歯をむきだして笑いながらバラムが黒影にむけてつぶやく。
エイミスは、怒ったように全身をぷるるとふるわせた。
暗殺者は苦痛に顔をゆがめつつ、フンと鼻の頭にしわをよせただけで、再度壁を蹴りつける。
「──思ったより、あんたバカね」
移動する耳もとで、静かなささやき声が強化人間の耳にとどけられた。
「だまってろ怪我人が」
ぶっきらぼうなこたえが返る。
死ととなりあわせの極限状況で、マリッドは、心底愉快そうに声を立てて笑った。
「あんた、けっこうきらいじゃないわ」
笑いながらそういった。
くちびるの端にうかんだ笑みを隠すようにバラムは顔をそらした。
プラットフォーム中央。ベースに固定された緊急脱出用ポッド──ギアがはずれ、全体がかたむいているが奇跡的に無傷だ。
アムラッジェ教団の物騒なおきみやげも、ここにまではおよばなかったらしい。
壁に設置されたエントランスにとびついた。
側面のパネルをひらき、まさぐる。表示ランプはレッド。手動であけるしかない。
背後から炎塊が噴き出した。
圧を解き、扉に手をかける。
少しすべって、停止した。ゆがんでいるらしい。
「くそめ」
吐いた悪罵は、癇癪を起こした子どものようにひびきわたった。
微笑とともに、ささやき声が耳もとに吹きかけた。
「あんたでも吐くのね、弱音」
「ずいぶん呑気だな、おまえ」
あきれたように──それでも幾分かは救われつつ、応答した。
「まかせて」
よわよわしくマリッドは手をさし出し──奇妙な形に両の手を組んでみせた。
呪文をとなえはじめる。
け、とバラムは吐き捨て、悪罵を口にしようとした。
おさえるように黒い影がなめらかに宙を遊弋し、ひらきかけの扉にとりついた。
力をこめるふうでもなく、マリッドの呪文のリズムにあわせるようにしてつ、つ、つ、と扉の端に身をよせる。
すると──音もなく扉がすべりはじめた。
おどるように黒い飛鳥の影がくるくるとまわる。
ほどもなく、扉はその口を大きくひらいた。
「どんな魔法だ」
間髪入れず飛びこみながらバラムがきくのへ、
「エイミス、ようやくかれ、あんたのこと認める気になったようよ」
いって、マリッドは微笑んでみせた。
先行して飛ぶ黒い影が、得意げに上下にはねまわる。
苦笑しつつバラムは、マリッドの手をにぎりしめたままあとを追った。
熱塊が背後の短い通廊になだれこんでくる。
扉は閉まるが、ポッド内部の温度が一気に上昇した。
狭苦しい内部でもつれるように重なりつつ、射出ボタンをおした。
コオ、とため息のような音が四周にぬけ、ぐらりとゆれた一瞬後、浮揚感が訪れた。
ほとんど同時に、衝撃。
手のひらほどの小窓の外に、炎が充満するのが見えた。
自然な射出なのか、それとも爆裂する炎流におしのけられたのかよくわからない。
ともあれ、噴き上がる紅蓮の舌と競争をするように前になりうしろになり、ポッドは虚空に飛び出していた。
トーチカの全景がリアヴュウにうかぶ。
見わたすかぎり爆柱の列。
「たすかったね」よわよわしい口調で、マリッドがささやいた。「運がよかったわ」
バラムは目を閉じてうすく笑い、首を左右にふってみせた。
「目的はまるっきりだ。最悪だぜ」それからマリッドを見つめ、つけ加えるようにしていった。「生きちゃいるがな」
「最高じゃない」
どこか楽しげに、マリッドもまた微笑んだ。