第2部 アムラッジェ
縦横にならんだシートの最後部、入口ちかくの二つをえらんで、マリッドは腰をおろした。
バラムはひとわたり四囲をあらためてから、マリッドの席からひとつおいた位置におちつく。
ケージの内部にあわい橙色の灯がともる。
「出発まで十五秒」
マリッドの言葉に、バラムは無愛想にうなずいただけだった。ブ……ン、とケージの内部が低いうなりにみたされ、座席前部にすえつけられたモニタが赤く明滅をくりかえす。
「危いんじゃねえのか? もしかするとよ」
その明滅をながめつつ他人事のようにバラムがいうと、マリッドは片眉をくいとつりあげ、
「かもね」
と薄く笑った。
「これもなにか関係があるのか?」
シートの回転とともに、天井部にうがたれた窓からはるか上方──天の彼方にむけて果てしなくのびる長大な支柱が視界に入る。軌道エレヴェータ──天と地をむすぶ橋。
発進灯が点滅した。同時に身体がシートのなかにぐいとおしこめられた。
支持架が窓外を、猛烈なスピードで通過しはじめる。モニタの明滅は、あいかわらず赤のままだ。
バラムは目を閉じ、聴覚に神経を集中する。
気密ドアを透してひびく獰猛な風音の彼方で、ピシ、ピシ、とかすかな、そしてこの上なく不吉な音が鳴りわたっていた。構造物のきしむ音?
「オービタル・リング・システムに異状があるみたいね」
こともなげに、マリッドが恐ろしいことを口にした。
「なぜだ?」
「たぶん、ニフレタの軌道エレヴェータが破壊されたんだと思う」
「ニフレタ? ハンジャ大陸の海洋都市ニフレタか。破壊されたってのはどういうことだ」
「ストラトスの保安機構に脅迫状が届けられたのが二日前のことよ」世間話をはじめるような気軽さで、とんでもない内容が口をついて出る。「そこには、軌道ステーションジョシュア3を破壊する用意があると書かれていたわ。あわてて警備部から爆発物処理班を中心とした調査隊がジョシュア3に派遣されたものの、なにも発見されなかった。だから悪質ないたずらとして処理されてしまったの。あとでわかったことだけど、なにかが出てくるはずがなかったのよね。占拠されていたのはジョシュア3じゃなくて惑星防衛線の早期警戒トーチカだったんだから」
「知能犯だな、それをやった連中は」
「たしかにね」
語尾がため息とともにかすれたのは、疲労のせいか。
言葉どおり、戦争状態にでもあればともかく、惑星防衛ラインなど監視機器をペテンにかけることさえできれば制圧するのに手間はかからない。そのうえ長期間潜伏していても発見される恐れはほとんどないとくる。
「政府を脅迫するには最適の環境だな」
「テロ行為にもね。さっき、衝撃波が走りぬけてったのを覚えてる?」
ウシャルの城を一瞬で瓦解させた異変の光景を、バラムはもの憂く思いうかべる。
「問いあわせてみてわかったことだけど、要するに脅迫が実行に移されたってことらしいわ。ジョシュア3に寄港するところだった恒星間宇宙船を、トーチカが攻撃した。ジョシュア3のエネルギー供給機関が破壊され、それに恒星船のリプ粒子の暴走がからんで、超光速フィールドがステーションをまきこんで地表に落下。ニフレタは蒸発したそうよ」
「過激なあいさつだな」
くちびるの端をゆがめてバラムは笑う。
「とうぜんのことだけど、影響は全土に飛び火しつつあるそうよ。それに、ニフレタの軌道ステーションと軌道エレヴェータが急激に壊滅した以上、オービタル・リング・システムでつながってるほかの軌道エレヴェータもいつ崩壊をはじめるか知れたもんじゃないし。多重保安システムにしたって、まさかステーションまるごとテロの対象になるとは想定されてなかったでしょうからね」
こともなげにいうマリッドに、バラムは呆れたように、
「よくもまあ、おちついていられるもんだ」
「あなたもね、バラム」マリッドは微笑んでみせた。「わたしの場合は、結構なれてるのよ、こういう状況には。死にそうな目に何度もあわされてきたもの。派遣されるのはいつも危険度最上級の第一線」
「おまえが何者なのか、まだきいてなかったな」
バラムの問いに、
「ああ、話さなかったかしら」
マリッドはとぼけた顔をしてみせる。肩口で、鳥に似た黒い影がゆらゆらとふるえた。
「ストラトスのフリー・エージェント。つまり、やとわれ工作員ね。この仕事についたのが一週間ほど前かしら。ジョルダン・ウシャルの内偵に来てたの。あなたがかれをつけ狙ってるって情報を知ってたのはそういうわけ。でも、今度の仕事は案外楽だと思ってた矢先にこの事件でしょ。がっくりきちゃったわ」
ふん、とバラムは鼻をならしつつ、女の肩口でゆらめく黒い影を指さしてみせる。
「その黒いのはなんだ?」
こぶしを打ちこんだときの手ごたえのなさを思い出して、暗殺者はひそかに唇をかむ。
「わたしの使い魔よ。名前はエイミス」
マリッドがこたえる。
あいさつでもするように黒い影──“エイミス”が、その頭部にあたるらしき部分をぴょこんとさげてみせた。ひょうきんなしぐさだが、バカにしているようにも見える。
バラムはしかめつらのまま、影のあいさつを無視してさらに問う。
「使い魔? おまえ、魔術師(メイガス)か」
影の頭部をなでるしぐさをしてみせながらマリッドは、あいまいに笑ってみせただけだった。
バラムもそれ以上は追求せず、話題をかえる。
「で? さっきウシャルをかっさらっていった邪魔者どもは?」
マリッドは、小さく肩をすくめてみせた。
「かなりのレベルの機密情報に関わるらしいわね。わたしみたいなやとわれ者は、くわしいことはほとんど教えてもらえなかったわ」
エレヴェータは漏斗状の地上部をぬけてすさまじい速度で塔を昇りはじめている。
窓外、つぎつぎに通り過ぎていく無数の支持架のむこうに、ポルトジョシュアの市街がひろがっていた。
「知っていることだけでいいさ」バラムはいった。「どうせ、おしきせの情報だけを信じてるってわけじゃないんだろう?」
マリッドはちらりと微笑んでみせた。
「あら、なぜわかるの?」
「なんとなく、な。なんとなく、おまえはそういう性格だ」
「どういう意味、それ? ほめてるんじゃなさそうね」
「ほめてるんだよ」仏頂面のままバラムはいう。「いいから、さっさと話してくれ」
マリッドは肩をすくめた。
「保安機構にとどいた脅迫文を唯一、まじめにうけとったのがストラトス情報部の、ジョシュア分室。つまり、二日前に急にその動きが活発化しているらしいって、わたしが使ってる情報屋からの商品。で、ちょうどおなじ時期にジョシュア分室から、バラムとは別の線でウシャルを狙っている集団があるって、警告が入ってきたの」
しばし黙考し、
「どういうことだ?」
バラムはきいた。
「脅迫の内容にジョルダン・ウシャルが関係しているってこと、かしらね。たぶん」
「どういうふうに?」
「それはわたしにだってわからないわ。問題の脅迫の内容だけど、きわめて簡潔よ。『ジーナ・シャグラトの秘密をわたせ』これだけ」
「……ジーナ・シャグラト?」
「そいつはなんだ、なんてきかないでね。わたしにもなんのことだかさっぱりわからない。二日間でいろいろ調べてみたことはみたけど、これといったこたえは出てきていないわ。ジーナ・シャグラト、というのが人の名前だと仮定して調べてみたの。ジョシュアとその衛星系の諸都市で、数はすくないけどシャグラトという姓はたしかに分布しているわ。でもジーナって名前はなし。地名の線では、ジーナもシャグラトもまるっきりはずれ。だからたぶん、ジーナ・シャグラトってのが人の姓名であるって見当がついただけであとは五里霧中。
とうぜん、当の要求をうけた保安機関にもこの要求の意味はさっぱりだったんでしょうね。だからいたずらと決めつけて、対応をおくらせたんだろうけど。その秘密を知っているのは──」
「情報部、ジョシュア分室か。ウシャルはそれにどう関係してくる?」
「それを教えてくれないのよ、だれも。ただ脅迫者の魔手がウシャルに迫るはずだから気をつけろって、それだけ」
「わけがわからん」
「わたしもよ」
「脅迫をおくってきたのは何者だ?」
「アムラッジェ教団。知ってる?」
「いや」
「帝国発祥の犯罪的秘密結社よ。神秘学の線から不老不死の法を追求してるってうわさがあるわ。魔法陣の祭壇に処女の生け贄をささげたり、なんてまことしやかにささやかれてるわね。ま、あくまでうわさだけど」
「ばかばかしい、と一笑に付すこともできんか。神聖帝国自体が、科学では立証不能の神秘学をその基盤においているらしいしな」いって、つけ加えるように、「魔術師ってのも、その一種なんだろう?」
女の肩口にゆらめく黒い影に、殺し屋は陰気な視線をなげかけた。
マリッドは直接はこたえようとせず、黒い影にペットか何かに話しかけるようにいう。
「エイミス、かれ、あなたの存在をうたがってるみたいよ」
黒い影の鳥は抗議でもするようにして身じろいでみせる。
バラムはあえて反論せず、ゆらめく影をうろんげにながめやっただけだった。
なにごともなかったような態度でマリッドがつづける。
「その帝国の神秘思想からもはみ出した筋金いりの狂人集団がアムラッジェ教団。これもうわさだけど、その構成員はどの一人をとっても、人間ばなれした殺人技能の持ち主だそうね」
「つまり、ウシャルを横からかっさらっていったのは、そのアムラッジェなんたらってわけか」
「そういうことね」
「なんにせよ、おれには無関係な話だな。迷惑なこったぜ」
「わたしだってそうよ。単なる内偵が“夜の虎”と異名をとる悪名たかき殺し屋と仲よく席をならべることになるなんて」
すねたようにいい、ちらりと横目でバラムをのぞいた。
氷のような顔がかすかに笑っているのを発見し、マリッドはおどろきに目をむいた。
錯覚だったのかもしれない。仏頂面が前面を見すえているだけだ。
ふっとマリッドは息をつき、そのまましばらくのあいだ、軌道エレヴェータは沈黙のうちに上昇をつづける。
しばらくして、ふたたびバラムの不機嫌な声音が問いかけた。
「おれがウシャルを狙っているのは、どこからわかった?」
「ストラトス情報部からの情報。ニュースソースはわたしにはわからないわ」
「いつ?」
「一週間前。わたしがこの仕事についた時よ。注意事項のトップに、あんたの名前が出てきたの」
「妙だな」
眉根をよせて、バラムはつぶやく。
「なにが?」
「わかるはずがないんだ。おれがやつを標的にすえたってことはな。しかも──一週間前だと?」
「どんな秘密だって、確実に守りとおせる保証はないわよ。依頼したのがどこのだれだか知らないけれど、完全に信用できる人間はこの世にはいないわ」
「いや……」霧の彼方を見透そうとでもいいたげな顔つきで、バラムはつぶやいた。「考えられねえ」
マリッドはそれ以上追求せず、ただ肩をすくめてみせただけだった。
「ひとつきいてもいい?」
問いに、バラムはなおも考えこむような表情のまま「なんなりと」と無愛想にこたえた。
フンと鼻を小さくならし、マリッドはいった。
「あんたの正体。急に消えたりあらわれたり、宙を疾駆する突撃艇にとりついてぶち壊しちゃったり。およそ普通の人間じゃないわ。物騒な殺し屋だってうわさなら、いくらでもきいてたけどね。──あんた、何者? 異星人?」
「生粋の地球人だ」いかにも面倒そうに、ちらりと片眉をあげてそうこたえた。「“フィスツ”って組織を知ってるか?」
「ええ。あんたがぶち壊したってうわさの、武器商ギルド」
「そうだ」とバラムはうなずいた。「おれはその“フィスツ”に造り出された商品のひとつだ。商品名は“強化人間”。もっとも、試作品だがな」
「試作品であれだけの性能を発揮できるなんて、かなりね」
マリッドの言葉に、バラムは声を立てずに笑った。
「残念だが、試作品は試作品だ。できそこないでな」
「どういうこと?」
問いにすぐにはこたえず、バラムはしばらく考えこむようにだまりこんでいた。
が、やがて、抑揚を欠いた口調でつづけた。
「強化人間の基本的構想のひとつは、紫雲晶(しうんしょう)神秘学の概念、とりわけ“気”の概念に多くを負っている。“気”についての知識は?」
「多少なら。肉体を構成する不可視のネットワークを循環する未知のエネルギー。それを制御することによって精神と肉体との安定を得ることができて、場合によっては超能力や神聖帝国の魔術体系なんかとはまた別種と思える、神秘的な能力につながることもあるんだそうね」
「だいたい概要は把握しているようだな」
「それが強化人間の正体? 案外健康そうじゃない?」
バラムは声を立てて短く笑った。
「基本をそれだけに負っているなら、な。残念ながら“気”だけではおれのような能力は発揮できない。超高速で移動する際に空気との摩擦に耐えるための皮膚の強化。そして筋肉、骨格の強化。
とくに骨格の場合は、その微視的レベルの空洞構造を変容させるために、単機能の極微機械(ナノマシン)が使用されたらしい」
「ナノマシン? 何世紀も昔に規制された技術じゃない。暴走したコントロール不能の人工物が、壊滅的な汚染を人類にもたらしかねないって理由で」
「規制された技術が盗用されることなんざ、とくに珍しいことでもないだろう。グランザイトやパラ・ステラスが悪質な伝染病にやられて封鎖されたあげく、焼き払われた事件。あれなんかも、ナノテクの暴走の結果だってうわさだぜ。
いずれにせよ、おれの骨格に使われたそれはごく単機能に限定されていたせいか、どうやら暴走せずに所定の処置をおえてくれたらしいな。それ以前の試作品に、事故のたぐいが起こったのか起こらなかったのかは、おれは知らないがね」
「ずいぶんと自分のからだについて無頓着だこと」
あきれたようにつぶやくマリッドに、バラムは横目でうす笑いをおくってよこした。
「まあ、そういった細かい強化処理がいろいろ加えられていたが“気”とならんで中核をなす技術に、松果体への薬剤投与があったんだ。松果体ってのはなんなのか、知っているか?」
マリッドはいぶかしげに首を左右にふる。
バラムはくちびるの端をゆがめながらおのれの額をさし示してみせた。
「ここんところにある機能不明の器官のことだ。アシュトラだとかブッダだとか、古今東西の聖人覚者の聖性を現す“第三の目”の正体はこれなんじゃないかともいわれている。だからって、あまりいじくりまわさないほうがいい部分でな。解剖だの機械部品うめこみだの、薬剤投与だのいろいろと非人道的な実験の対象になってきた器官だが、たいていは発狂、ショック死につながる剣呑な結果におわっているらしい。実際、おれを含めて強化人間の一応の成功例はぜんぶで三例しかないそうだが、それ以前にゃ無数のモルモットどもがここをいじくられて壊れちまったって話だ」
「よくもまあ」ごくりと喉をならしつつ、居心地悪げに腰の位置をずらしながらマリッドは述懐した。「そんなあぶななっかしいことを自分の身体に」
「ぜんぶ、あとから知ったことさ」目を閉じ、真顔になってバラムは、つぶやくようにそういった。「処置をうけおわるまでは、危険に関する知識なんざカケラさえ教えてはもらえなかったよ」
「運がよかったのね」
そっけなくマリッドがいうのへ、バラムは静かに、首を左右にふってみせた。
いぶかしげに眉根をよせて、マリッドは視線で問いかける。
「発狂して死んでいった試作品たちよりは、運がよかったんだろうがな」
ため息とともに、おし出すような口調でバラムはいった。
「一言でいえば、強化処理ってのは、そういう技術だの知識体系だのを縦横に駆使して、人間の秘めた肉体的ポテンシャルを限界ぎりぎりまで引きずり出す技術のことだ。
“気”の流れの強引な化学的制御と松果体への刺激のおかげで、おれは常人とは比較にならないスピードで自分の周囲に起きる事象を知覚し、対応することができるようになった。だがそれはつまり──火事場の馬鹿力を四六時中、のべつまくなしに出しまくっているようなもんだ。緊急用動力を常時使用していれば、機械の寿命が極端に短くなるのは道理だろう?」
ちらりと片目をひらいて、横目にマリッドをながめやる。
かえす言葉もなく、マリッドはただ眉をよせてバラムを見かえすだけだった。
ふっと視線を外してふたたび目を伏せ、バラムは小さく「そういうことだ」とつぶやいて話をしめくくった。
それからながいあいだ、ふたりはだまりこんだまま上昇に身をまかせていた。
窓外の光景は荒れ狂う雲海をぬけて濃い藍色から深い暗黒へとぬりつぶされていき、やがてかすかに輝く星がその奥から、うかびあがるようにしてあらわれた。
そして遠く、終着点が見えてきた。
惑星をとりまく七つの発着基地を結ぶリングシステムは、いまや崩壊への安全保障のために切り捨てられているらしい。
ステーションはいまや、切りはなされ孤立した蜂の巣だ。
遺棄されてゆっくりと拡散していく構造物のまにまに、無数の移動機械が行き交っている。
下りエレヴェータは大盛況だろう。あぶれた連中もまた、閉鎖された瓦解寸前の密室から一刻もはやく逃れるために、ドックにむけてパニックの群衆を形成しているにちがいない。
トーチカまでの足を確保できるか否か、はなはだ心もとない状況だった。
「バラム」
呼びかけに対する反応は、閉じたまぶたの上で片眉がひくりとふるえただけ。
かまわずマリッドは言葉をつづける。
「恋人はいるの?」
片目がひらき、いぶかしげに女を見つめた。
「いた」
ぶっきらぼうなこたえとともに感情はふたたび閉じられたまぶたの下にうもれた。
「わかれたの?」
つづく問いに一瞬の空白をおき、男はもの憂げに肩をすくめてみせる。
へえ、と意外そうにマリッドは喉をならした。
「どんなひとだった?」
テロリストはこたえず、瞑目したままだ。
「夜宴都市で地下闘士をしてたころのこと?」
バラムのくちびるの端が、おかしげにつりあがる。
「よくご存じだな」
「敵のことは調べとくものよ。今日までのあなたの足跡は、ある程度はわかっているわ。少なくとも、アウトラインはね」
「そりゃけっこう」
「愛してたの? そのひとのこと」
ふたたび、瞑目のもとの沈黙。
「名前はなんていったのかしら」
ひとりごとのような口調の質問に、バラムは抑揚を欠いた声音で「ハルシア」と短く返答した。
「なぜわかれたの?」
「ひき裂かれたのさ。システムはそれを維持するために純粋に非情になれる」
「よくわからないけど」
「おれにもわからんさ」
「今、その人はどうしてるのかしら」
「さあな。ずいぶん昔の話だ」
「ときの彼方にうもれた記憶?」
「ちがうな。……だれも死んだあとのことなど、知っちゃいないってことだ」
言葉をのみこみ、マリッドはバラムの冷たい横顔を見つめた。
眠るように静かな顔をしていた。
その顔のまま、今度はバラムのほうが問いかけた。
「おまえはどうなんだ?」
マリッドはちらりと横目で見やった。
なおも目をひらかないまま、バラムは重ねて問うた。
「恋人は、いるのかよ」
「いるよ」と、ふいに子どもじみた口調になってマリッドはいった。「シェンランていうの。インテリでね。ラベナドの大学で生物学を教えてるわ」
「大学の教授?」
初めて、興味をひかれたようにバラムは目をひらき、真正面からマリッドの顔をのぞきこんだ。
「講師よ、まだ」訂正し、そしてほこりにみちた口調でマリッドはつけ加える。「でもいずれ教授になるわ。まちがいなく」
「そいつァ、けっこう」バラムはいった。「それでそのシェンランて野郎は、おまえさんがフリーのエージェントなんて物騒な仕事をしてるってことは、ご存じなのか?」
まさか、とマリッドは盛大に首を左右にふってみせた。
「かれはあんたなんかとはちがって、きわめて普通でまっとうな、堅実な世界の住人なのよ。わたしがそんな物騒な世界にいるなんて知ったら──きっと恐ろしさに卒倒してしまうでしょうね。それでもたぶん、わたしを愛してはくれるでしょうけど──でも、あのひとがわたしを見つめる視線に、恐怖が隠し味でブレンドされちゃうなんて、考えただけでも耐えられない。いいえ、とんでもない。死んでもあの人には、わたしの正体なんか教えられないわよ。死んでも、ね」
まくしたてるマリッドを、バラムは驚愕にみちた視線で見つめていた。
が、ふいに笑った。声を立てて。
今度はマリッドがおどろいたように目を見ひらき、そしていった?
「おかしい?」
ああ、おかしいとも、と腹を抱えて笑いながらバラムはいった。
不得要領ながらもマリッドは、子どものように笑いころげるバラムの様子を、不思議な快さとともにながめやった。