天空の狂気
圧倒的な質量をともなって、衝撃波が貫通した。
バラムの動きが停止する。
一瞬のことだった。
その一瞬、ウシャルは死の恐怖さえ喪失していた。
覚えのある感覚だった。
その感覚を、どう表現すればいいのか。
究極の苦痛。暴風のごとき悪夢。瞬間をむさぼり食う狂気。
そのどれもが正確でありながら、言葉以上のなにものをも表現してはいない。
そう──これら、忌避すべき事態の底に、もっと根源的な感覚がかくされている。
至上の悦楽。
四肢を、皮膚を、臓物さえひき裂かれる苦痛の底に、無上の性的快感がひそんでいるのである。
すべて一瞬。一陣の風のごとく、右から左へ走りすぎていった。
僥倖だった。あと一秒でもながくその衝撃波がつづいていたら、発狂するかショック死していたにちがいない。
眼前の暗殺者も、静止していた。
ほんの一瞬。
その一瞬を、マダム・ブラッドは逃さなかった。
朱唇をすぼめ、ふっと息を吹く。
銀線が、銃をささえるバラムの手をつらぬいた。
──含み針。
がらりと音をたてて、レイガンが地におちる。
ちい、と舌をならしながらナイフを手にし、暗殺者はウシャルにせまる。
帝王を背に、マダム・ブラッドはさらに二度三度、針を吹いた。
銀光がひらめき、冴えた音が夜にひびきわたる。
吹き針はことごとくナイフにはねかえされ、両者の距離が一気につまった。
そして──ウシャルはぼうぜんと目撃した。
妻の背中から、異物がはえでているのを。
血をからませたナイフがゆっくりとひきぬかれ──
マダム・ブラッドは、その名にふさわしく鮮血を噴きだしてたおれ伏す。
「ぐう……」
自分でも意識しないままうめき声をあげながら、帝王は二歩三歩と後退した。
暗殺者は血まみれのナイフに朱い舌をはわせる。レーザーブレードでもヒートナイフでもない。ただの合金のかたまり。
だがウシャルの喉笛をかき切るには、充分だ。
銀色に輝く光をはなつ刃が、ウシャルの喉もとにせまり──
そして二度目の僥倖がおとずれた。
震動。
地上五百メートル、ウシャル城の異名をもった堅牢さと鉄壁のガードシステムをほこるビルが、土台ごともちあげられたような衝撃。
ついで、世界は奈落へとしずむ。惑星の巨大な一挙動で、ウシャルはぶざまにころがった。
二度、三度、ウシャルズ・タワーは激烈な震動にゆさぶりをうける。
最先端の全身美容でさえ無力さを露呈した暗黒街の帝王の巨躯が、はねとばされ、たたきつけられ、ゴムボールのように飛びまわる。
その暴虐の嵐のさなかに、ウシャルは見た。
バラムが、立っているのを。
この激甚な震動のさなかにあって暗殺者は、ナイフをかまえた姿勢を崩すことさえなく冷徹な視線ではねまわるウシャルの行方を追いつづけているのだ。
恐怖の二文字が脳裏を占拠する。
夜の虎──バラム。
燃えあがるような黄金の髪。肉眼では捕捉不能の身のこなし。狂気を秘めた、冷厳なる殺人者──伝説は、まぎれもなく真実だ。
激痛が、背面全域を強襲した。
同時に、みしり、となにかがきしむ音。
石の感触が、痛覚を追って背中にひろがる。
重い音とともに背にした狙撃防止壁がこなごなにくだけ散り、異常肥満したウシャルの巨体が虚空にほうりだされた。
宙にうきあがる一瞬、周囲の光景が鮮明に視界をうめつくす。
大地が苛烈に上下動をくりかえしていた。
耐震構造の摩天楼が瓦礫となって四散していくのも見える。
そして──宙に舞うウシャルを追って、くずれゆくビルからダイヴする、悪魔の暗殺者の姿も。
十年だ。ウシャルは思った。ストラトスの地下世界の支配者におさまってから、十年。謀略と殺戮のかぎりをつくして、たどりついた場所。前の帝王はわずか三ヵ月でウシャルにその座を追われた。その前のやつは、三年半。おれは、十年保った。たったの十年だ!
街路が、みるみるせりあがってきた。
はっと気がつき、反重力サスペンサのコントローラに手をやる。ランドムーヴ・モード最大出力。風船のようにふくれあがった腹の上で、超小型回路がいましも破裂しそうな金切り声をあげる。
地上が、激烈ないきおいでせまる。
くそ、きいているのか、この野郎──声にだして毒づこうとしたが、苦しげなうめきがもれただけだった。
たたきつけられた。
陥没する。下じきになったものが。
もがいた。ころがりおち、車道に身を横たえる。即死はまぬかれたらしい。救い主は──陳腐きわまりない。駐車違反のステッカーをはられたリムジンだ。
反重力フィールドがなければ原型をとどめぬ肉塊と化して四散していたにちがいない。が、落下の衝撃のためか、反重力サスペンサは完全にオシャカになってもいた。
じわりと身奥から苦痛がわきだす。
うめいた。
四肢に力が入らない。全身が苦痛に染めあげられていく。
天上から、瓦礫がふりそそいだ。
駄目か? 諦念が心をよぎったとき、ふたたび大地がもりあがった。
粉々にくだけた敷石とともに、はねとばされた。
そして突風。
路上を転々ところがった。
横手、前、後方、巨大なコンクリート塊が、派手な音をたててつぎつぎに路面に突きたてられる。直撃されれば、すみやかな死のおとずれを見るだろう。
が、奇跡の手は、いまだウシャルを見はなしてはいなかった。
カザル産の、直径二十メートルの球形樹の植えこみが、クッションとなってウシャルをうけとめる。綿毛のように丸々とした広葉樹が、市中心部の交差点にどっかりと居すわっているのを見てウシャルは常々ばかばかしいと考えていたが、天運は布石のつもりでこれを植えておいたものらしい。
肥満体は、芝生の上にぽとりと安置された。
からだは、やはり動かない。たとえ動いたにせよ何をする気にもなれなかった。
ぼんやりと、空をながめた。
つかのま、自分が空を飛んでいるような錯覚におそわれた。
原因はすぐに理解できた。雲だ。暗色の夜空を、無数の雲塊がかけめぐっているのだ。まるでなにかに追いたてられてでもいるかのように、異常なスピードで。
この突然の異変は、いったいなにに起因するのか。
ラール・マイート――“死者の道”だ。
知識よりさきに言葉がうかぶ。胸落ちは実感のあとにやってきた。
超光速船に乗ったときの、あの感覚。
実体不明の超光速空間惹起物質“リプ粒子”で船をとりかこみ、血の赤の航跡を描いて銀河を縦断する旅。虚空をきりさく朱線は通常“死者の道”と呼びならわされている。
秘教的なヴェールに注意深く秘匿された奇怪な生態の導船生物“リパー”。機関部で不断の張り番をする、闇にうごめく生殖不能者“スマラ”。
光速を超えた世界はまともな人間をしめ出す悪夢の空間だが、それもこれも通常の人間には耐えることのできない異常現象のおかげだ。
“リプ粒子”か、あるいは超光速空間自体の特性か、光速を超えて航行中の船内には気狂いじみた幻覚が蔓延する。
ときにそれは物理的な圧力さえともなってあらわれ、内部の人間は発狂、ショック死、または殺人鬼への変貌を否応なしに選択させられる。
回避手段は、いまのところひとつだけ。──音声催眠法による深い眠りのなかで、悪夢にうなされて目的地への到着をひたすら待ちつづけること。
それはウシャルにとっては最悪の経験のひとつだった。強迫観念や幼児期の精神外傷(トラウマ)が極彩色の圧力塊となって具象化し、間断なく心の深層から責めのぼってくるのだ。全身をしぼり雑巾のようにしめあげられる、地獄の責め苦以外のなにものでもない。
だが、にもかかわらずウシャルは、その責め苦の底にかつて味わったことのない地獄の快楽がひそんでいることにも、おぼろげながら気づいていた。
そうだ。
あれは“死者の道”だ。
どこかのうすら馬鹿が、リプ粒子を船体にまとわらせたまま、この惑星の大気圏に突入を敢行したのだ。衝撃波、地震、気象異変の兆候、すべてそれで説明がつく。
これで、肩の荷がおりた。ウシャルはほっと息をつく。
それでは、この心奥にわだかまる恐怖感がいっこうに去ろうとしないのはどうしたわけだろう。なにか重大な危険を見すごしている不安感。
──バラム!
反射的にとびおきていた。自分がとてつもないまぬけに思えて、顔面がカッと燃える。
四囲にすばやく視線をはしらせながら、しげみに飛びこんだ。
瓦礫、残骸、死骸。死骸一歩てまえでうめく亡者たち。
暗殺者の姿は、どこにも見あたらない。
にわかには信じがたいが──ウシャルを追って飛んだのが、結果的には死のダイヴとなったのか。
あるいは単に、パニックにかられて崩壊するビルから絶望的な逃亡をこころみただけなのか。
いずれにしろ、あの荒れ狂う震動と崩壊の猛威のなかに飛びこんで無事でいられるはずがない。
たとえそれが──あの“夜の虎”であろうとも。
鼻をならし、しげみにすわりこむ。自分でもそれを信じてはいない。
勘が、告げているのだ。危機は去っていない、と。
胸ポケットをさぐり、ふるえる手でタバコを口にくわえる。
「火を貸そうか、シフ・ウシャル」
背後から、声がかかった。愕然としてふりむく。
あざけり笑いの前で、ナイフが左右にふられた。
飛びすさろうとした。
腰がぬけていた。
「なぜだ」
泣きそうな声が口をついてでた。
「なぜ?」バラムは笑った。「言葉の選択をまちがえたのか?“たすけてくれ”だろう」
「だれがそんなことをいうものか。殺されてもおれは死なんぞ」
わけのわからないことをいう。
できの悪い生徒をまえにした教師のように、バラムは眉をよせながら苦笑した。
銀色の刃が眼前にせまる。肥満体が小きざみにふるえた。
そのとき──
「撃ちぬくぞ、バラム」
抑揚のない冷えびえとした声が、暗殺者の背後から無感動に警告した。
バラムの動きが凍りつく。
すかさず、ウシャルは死の手からすりぬけた。尻でいざりながら、バラムの殺傷圏内から必死で逃亡する。
バラムは、ゆっくりとした動作で背後をふりむく。
黒の礼服に身をつつんだ男が二人、銃口をバラムの心臓にむけてポイントしていた。
発散する気配に覚えがあった。先刻のばかげたパーティー会場で、背中にはりついていた視線が発していたものだ。
暗殺者の目が、つ、とすぼまる。
「司星庁情報局の者だ。その男はわれわれが保護することになっている」
黒服の一人が淡々と告げた。
「保護だと?」眉根をよせてバラムはいった。「マフィアの頭目を司星庁が保護する──だと?」
それに対して、もうひとりのほうがこたえた。
「政治的な問題なのだ。極秘のな。われわれはいま非常に微妙な立場に立たされている。われわれ、というのは、君をもふくめたジョシュア、およびストラトス在住の全人民をさしている。邪魔をする気なら、排除する」
フン、とバラムは鼻さきで嘲笑った。
「できるものならやってみろ」
冷笑は、つぎの瞬間、凍りついていた。
鈴のような短い笑い声が、背後からひびきわたったのだ。
愕然としてふりむいた。
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