第1部 強化人間
「すごいわね」
かけられた声に、無慈悲で無感情な殺戮を完遂した殺し屋バラムは、その炎のような金の視線を静かにあげた。
殺し屋のかたわらでは、二体のガードロボットがその四足から力を失ってフロアに崩れ落ち、タキシードに身をつつんで受付に立っていた三名の護衛もまた、血の一滴をさえ散らすことなく絶息している。すべて一瞬のできごとだった。
その一瞬の仕事を終了させた直後に、声がかけられたのである。「すごいわね」と。
あげた視線のさき──静寂の底、大瀑布の幅をもって流れる灰色のじゅうたんをしきつめた大階段の中央に──その女は氷のような視線を冷徹にバラムにすえながら腰をおろしていたのだった。
抱いた驚愕は、生じた瞬間に心裏ふかくにおしこめ、顔には出さない。
だが女の美貌は驚愕と同時に──バラムの胸奥でももっともやわらかな部分におしこめられていた、記憶の琴線をも刺激していた。
眉のこい、どこか少年めいた中性的な美の顕現。
黒い髪と瞳の黒は、バラムの知っている顔とはまるでちがってはいる。
だが、それでも女の全身から発散される雰囲気そのものが、忘却の彼方におしこめていたはずの面影に暴虐にかさなっていたのである。
かなしみと後悔が──そしてやり場のない怒りが、マグマのように荒れ狂う。
だがバラムはそんな一瞬の面影を意志の力で強引にたち切り、あらためて上方に腰をおろす女を冷徹に観察する。
濃紺のカンフースーツが全身をおおっている。トランジスタグラマー。ショートヘア。野性的な印象の女だ。階段上に腰をおろしてやや背をまるめ、組みあわせた手の甲に形のいい顎をのせている。
挑発するようにバラムを見つめかえす、深い黒の双の瞳。
凶獣の凝視をうけて、そのすんだ瞳はまじろぎさえしない。
無表情で顔面を鎧ったままバラムは、この奇妙な観察者の素性と目的とに思いをむける。
すみやかなる機械的な殺戮を眼前にして女は、恐怖どころか驚きひとつ示してはいない。。
想像力が追随しきれないためではなさそうだ。深いおちつきと、自信にうらづけられた好奇心とにたたえられた、湖面のように静かな視線。
その視線が注意深く、まっすぐに、バラムの去就にむけられているのである。
宙軍の捜査官、フェイシスの情報部員、あるいは──そう、ジョルダン・ウシャルのボディガードのひとりかもしれない。いずれまっとうな世界の住人ではないことだけはあきらかだ。
バラムは女に視線をすえたまま、ゆっくりと歩をふみだす。
大階段を、女の正面めざしてひとつずつ昇りはじめた。
そして、女を眼前にして、おまえはだれだと問いかけようとした。
機先を制するように──女の口もとに小さな微笑がきざまれる。
「すごいわね」
すなおな感嘆を口調にこめてもう一度、女は同じセリフを口にした。
返答に逡巡する一瞬のあいだに──さらに隙をつくようにして──女の表情があざやかにかわる。
賛嘆の微笑から──眉根をよせた気づかいの表情へと。そして、
「どうしたの?」
いかにも唐突に問いかけてくる。
リアクションに窮してバラムは言葉をのみ、ただ眉間にしわをよせた。
女はかわらず眼前の暗殺者を真正面から見すえたまま、言葉をつづけた。
「顔色が悪いわよ」
いって──バラムの顔面にほんの瞬時うかんだ狼狽をめざとくとらえ、ふたたびかすかに笑いをうかべた。
バラムは口をへの字にゆがめてみせる。
偏頭痛を意識するようになったのはごく最近のことだ。が──処置をうけたそもそもの最初から、それは──その偏頭痛はバラムの超絶の潜在力とともに脳内深くにいすわりつづけていたのかもしれない。
どうあれ、人間をこえた体技を駆使した直後に襲うかすかな苦痛は、いまや明瞭に意識されていたし、それが顔色に出ることも予想はついていた。
だが、指摘されたのははじめてだった。
狼狽をおもてにあらわしてしまった苦渋をかみしめ、バラムはにやりと凶暴な笑みで口もとをゆがめてみせる。
「生まれつきの虚弱体質でな」
とたん、女ははじけるように声を立てて笑った。
「虚弱体質の殺し屋がいるなんて思いもよらなかったわ、バラム。貴重ね」
快活に笑いながら軽々と口にする。
新たな驚愕を心裏におしこめて、バラムは視線に圧力をこめながら抑揚をおさえた口調で問いかけた。
「名乗ったおぼえはないんだがな。どこかで会ったか?」
いいえ、バラム、と女は組み直した手の上にあらためてその顎をのせながら、艶然と微笑んでみせる。
「いまが初対面よ。もっとも、写真でならよく知った顔だけどね」
「おれのブロマイドが出まわっているとは、知らなかったぜ」
ハハハ、と女は楽しげに笑う。
「賞金つきのブロマイドなら、裏社会ではかなり広範に出まわっているかもね。殺し屋バラム。通称は夜の虎=Bかなり知られた名前でしょ? 夜宴都市。シギム革命軍。フィスツ¥P撃。そしてここ、ストラトスでの活躍。伝説の男よね」
「おれはおまえを知らない」
微笑を消し、バラムは殺意のこもった無表情で女を見つめる。
同時に──異変がゆらめいた。
女の右肩に。
黒い影。
鳥のような影。
そんな奇怪な影が、女の肩口にゆらめいていたのだ。
ふみだそうとした足をバラムは即座にとめる。
本能が打ちならした警鐘のしわざだった。
「わたしの名はマリッドよ、バラム」
そんなバラムの一瞬の変化には気づいたのか気づかないのか──女は挑発するような微笑みとともにそう口にした。
「おれになにか用か?」
警戒心をあからさまにしながらバラムは問う。
「正直いうと」と、女は微笑みながらこたえていう。「あまりかかわりあいにはなりたくなかったんだけどね。だから──一度だけはパスしてあげる」
なぞめいたセリフに、
「なんのことだ?」
思わず口にした問いかけは、ぽんと無造作に投げ出すようなつぎの言葉でさらなる疑問を惹起された。
「ジョルダン・ウシャルの暗殺」
バラムは眉間に深くしわをよせる。
目的を見ぬかれていることよりは──なぜマリッドと名乗るこの女がそれを知っているのかという疑問に、こたえが見出せなかったためだ。
「おまえもウシャルの護衛か」
殺気をこめつつ、目をほそめながら問うバラムに、
「一種の侮辱よ、それ」
そうこたえながらすばやい動作でマリッドは、後退していた。
階段に腰をおろした姿勢から、ほんの一挙動で、バラムの攻撃圏外へと正確に退避したのだ。殺気に反応した結果だろう。
同時に、肩口でゆらめいていた黒い影が──身じろぐようにしてうごめく。
猛悪な視線とともに、Vの字に裂けたような口からのぞく無数の牙のような幻像が、その黒い影の顔とおぼしき部分にうかびあがる。
得体の知れない悪寒を、鳥めいたその影に対してバラムは感じた。
正体はつかめない。
だが、ひとつだけは確実だ。
殺意を実行にうつせば、その黒影はまちがいなくバラムに脅威をもたらすだろう。
その事実が、稀有の殺し屋たるバラムに、この奇妙な妨害者への直接行動をためらわせているのだった。
そしてその異様な存在とはまったく対称的にマリッドは、明るい微笑とともに口にする。
「まあ、ウシャルのボディガードと見られてもしかたがないけどね。行動自体にかわりはないし。でも、わたしの雇い主はウシャルとはべつ。──ウシャルよりも高級だなんて、とてもいう気にはならないけれど」
いって、にっと笑ってみせる。
どうにも得体の知れない女だった。
あつかいを決めかねているうちに、マリッドはさらに数歩をあとずさって階段の頂きに立ち、人の背丈の三倍ほどもある豪奢で悪趣味な彫刻をほどこした巨大な扉を観音開きにあけはなった。
同時に──静寂と血臭の淀んでいたロビーに、音がなだれこむ。
音楽と喧噪。
なりあがりの実力者が催す茶番劇の舞台が、その扉のむこう側にひろがっている。
そのざわめきを背にマリッドは──見あげるバラムにむけて満天の星空をうしろに従え、楽しそうに宣言した。
「とりあえずは、お手並み拝見。うわさのダーキニ三姉妹やマダム・ブラッドを相手にして、あなたがどこまでやれるか見ものだわ。でも、これだけはおぼえておいて。わたしがあなたにあげるチャンスはこれ一度きり」
いいおいてマリッドは、バラムが問いかえす間もなくあけはなった扉のむこうに姿を消した。
瞬時、ぼうぜんとたたらをふみ──バラムは苦笑を頬の端にきざみこむ。
敵だろう。
ずいぶん、とぼけた手合いだ。
本気になって相手をすれば疲れるだけでなく──危険でさえある。それでも、バラムは笑った。
笑いながらゆったりとした動作で階段をのぼりきり──眼前に展けた光景を冷徹に、ながめおろす。