最後の魔法
暮れた街をぬけてダーバースクエアにたどりついた。露店のひとつで蛇の形をしたシュールな指輪を購入する。もちろん太鼓のオカズ用だ。さあいこうかと歩き出すと、案内を乞うまでもなくＫが先に立ってひょいひょいと入り組んだ街路にわけ入っていく。こっちだよ、と足どりにも危なげない。すっかり現地の娘だ。
門をくぐり、階段を昇って、スダさんを呼んだ。ナマステーと合わせた掌を交わす。小さな家族の空間にお邪魔さま、以前のようにベッドの上に三人ならんで腰をおろし、ジャヤさん得意のアルバムがならび、歓談のひとときを過ごす。ジャヤさん日本人カメラマンの友だちがいるらしく、なんだか芸術的でおもしろい写真がたくさんあった。ジュンコちゃんが、お母さんにつくってもらったのだろう、こどもサイズのサリーを着て現われた。気取って、はにかんで、顔いっぱいで笑いながらくるくるまわる。いきすぎたやんちゃを、お兄さんがたしなめる。
そしてホテルから後生大事に抱えてきたサリーの袋をふたりは取り出し、大騒ぎがはじまった。下に着る基本的なセット（これも色が赤でやたらに派手だ）、山本リンダみたいにへその出る衣裳でぎゃー恥ずかしいだの、いやーだのダイエットすべきだったーだのとやたらに姦しい。腹まるだしにして現われたふたりは妙に落ちつきがなく、Ｙなどは腹が冷えてはいけないと枕あてたりしている。たたまれたサリーの布きれが脇にひかえている。ちなみにこの赤いサリー、結婚式の花嫁衣裳なのだそうな。
やがて夕食の準備に消えていたスダさんがふたたび現われ、再度おおわらわで着つけのはじまりだ。ここにこの部分をはさんでこうかけるの、模様はこうやって前に出すの、と俺とジャヤ家の長男がぽやーと見ているあいだに、ふたりのネパールの花嫁が現われた。あらまー。馬子にも衣裳とはよくいったもんだ。きれいだ。とてもきれいだぞ。俺も長男もぽかんと大口あけて見惚れるばかり。しかしそれにしても、皺が気になるのかしらんが二人とも挙措動作がなんだか硬直している。それにしてもきれいだなあ。任されたカメラのシャッターを切る手が震えた。よし、こんどはちゃんとパワースイッチも入ってるぞ。カシャ。
飯を食うのにせっかくのサリーを汚したくないと二人がもとの小汚い格好に戻ったころあいに、見計らったようにＭ（日）さんが現われた。ＫもＹも晴れ姿を披露したかった反面、歯に衣きせぬＭ（日）さんの酷評を受けずにすんでホッともしていたようだ。
食事を待たずしてＹの体調が悪化した。気分が悪いので先にホテルへ帰るという。気をつけてね、と食事前の飢餓感に支配された俺とＫは実に冷たい。はっはっはっ。無事にホテルへつきましたというＹからの電話をＭ（日）さんが受けた後、待望のネパール家庭料理が食卓にならんだ。Ｙのことなどすっかり忘れて、眼前のご馳走に没頭した。
腹もくちくなり、ジャヤ家特製のロキシーに喉を焼きつつ歓談していると、ジャヤさんがこれお土産ですといって金色の妙なオブジェを三人分さしだした。寺だか塔だかを模した代物に、菱形の小片がいくつもぶらさがっている。大きさは手のひらにおさまるかおさまらないかくらい。風鈴だ。どうやら旧王宮でちりちりと風に揺られていたあの風鈴と同じものらしい。ありがとう、ナマステと俺たちは手をあわせる。
そうして夜もふけ、再度の訪問を約しつつ俺たちはジャヤ家を後にした。
暖かい、かわいた風が音もなく俺たちの肌をかすめ過ぎていく。昼間あれだけあふれ返っていた無数の車も陰をひそめ、いまは道路を横断するのにタイミングを計る要さえない。静かだ。静かな夜だった。
とか思ってたら、ホテル裏手の空き地でいきなり口喧嘩が展開していた。こどもを抱えた女が半泣きで何かわめいている。奥の方で赤々と燃えるかがり火。ホームレスたちだ。寝る場所のことでしょっちゅう悶着があるらしい。昼間の路上では、汚物にまみれた蝿のたかるケツをまるだしにした赤ん坊の傍らに空缶がすえられ、その近くで必死にバクシーシを展開する婦人もいた。
俺たちにゃ、よ。なにもできねえんだよ。
Ｙの部屋をノックすると、コーヒーなんぞ飲んでやがる。具合は、と訊くとどうもあまりよくないようだな。最後の最後まで、残念だったよな。
じゃあ明日朝八時にロビーでね、と手をふり、俺は部屋に戻った。荷物をまとめ、土産やティベタンの衣裳をバッグにつめこみ、そしてダブルの広々としたベッドに腰を降ろし、眠りについた。
夢は見なかった。
第三部 ポカラの三馬鹿――了（エピローグにつづく）
