聖者の島
タクシーで来たのだが少し道に迷ってしまったというYのために上げかけた腰をおろし、もう一杯お茶を飲んでから湖畔に降りた。ボートに乗ろうという計画だった。
料金交渉もすぐにまとまり、オールを手渡された。ぬかるむ足もとをどうにかやり過ごし、ボートに乗りこむ。実は俺はボートに乗るのが初めてだ。もちろんこいだこともない。YとKに櫂はまかせ、とりあえずお客さまに撤する。
……の、だが、なんだかひどく左右に揺れるなあ。揺れがもうひとまわり大きくなると、転倒……? 俺は風邪治ってないし、Yも熱かあるというし、少々ヤバい状況ではある。が、まあ何とかなるだろう。ほら、安定した。
ところがなかなか前に進まない。どうもYとKの息がなかなかあわないのが原因のようだ。両方で指示を出しあっている。ひとつの舟に船頭ふたりとはよくいったものだ。ぐるぐる回転したり蛇行したりしながら、それでも湖のなかほどまではたどりついた。湖上に張りだした、白く瀟洒な建物が見える。王さまの別荘なんだそうだ。ふむん。湖上にはけっこうたくさんのボートが浮かんでおり、どれもこれもこのボートとはちがって進み方に危なげがない。ふむん。
微風が、雨を運んだ。あたたかい雨がぱらぱらぱらっと降りかかって湖に無数の波紋をつくり、そしてすぐに止んだ。あとは太陽が燦々と俺たちを照らし出し、ほんのかすかに風が波を揺らす。
水面がはねた。魚がいるらしい。そりゃいるだろうな。煙草に火をつける。のどかだ。実にのどかだ。のんびりと煙草をふかしていると、しみじみと落ち着いてしまう。ああ。「あー湖に煙草投げ捨ててるぅ!」と、湖面にプカプカと浮かぶフィルターを発見したKが非難の罵声を口にする。悪ィ。
船頭にえっちら漕がせて、俺は優雅に島に到着した。うむ。悪くない。王さまになった気分だ。ごっ。こら侍女ども、なんだその接岸は? もっとしっかりやれ。ところがどうもうまくいかない。しかたがない、むこう側の平坦なほうに接岸し直すか。などと相談していると島のなかから若いのがふたりほど出てきて接岸を手伝ってくれた。どこにいっても親切な人というのは必ずいるものだ。どうもありがとう。おかげで助かったよ。よいしょっ、と。よし、上陸。
島の真ん中には、なんだか得体のしれない神社だか寺だかが建っていた。得体のしれない人間がなにやら集っている。ん? なんだ、あいつ。あぐらかいたまま手で歩いてやがる。ヨガの行者か、インドの聖者か。なんだか妙な島だなあ。
それにしてもこの寺はなんだか日本の神社に雰囲気がそっくりだなあ、などと梁や壁の模様をまじまじと観察していると、
「ヘイ、ニホンジーン」
と妙な声がかかる。なんだと思ったら、なんだか僧衣を着たざんばら髪の小汚い男が俺を見てにこにこしている。どうやらこいつもインドの行者か何からしい。ヒマラヤを回峰してまわるのだという。ほーそりゃすごい、たいへんだなあと感心して聞いていると、なんだかこのHOLLY MAN、ありがたい祈りの旅なのだから喜捨をしていけという。食い物でもいいし金でもいいぞとくる。むーそういうことか。しかし金はやれんなあ、と、今までさんざお大尽価格で土産ものを買い漁ってきた丸モロ観光客とは思えぬ高飛車さで、飴をさしだした。聖者め、それはいらないという。うーん。じゃあ何も出せないなあ。また今度ねっ。
島の片側はゆったりとしたスロープ状に石垣が組まれ、そこに幾艚ものボートが漕ぎよせている。 その傍らではのんびりと釣り糸をたれている数人の釣り人。YとKもなんとなくそこに腰をおろし、 のたーと力のぬける態勢だ。三日も寝こんだ上に舟漕ぎまでまかせっきりだった俺は、 あり余る体力をもてあまして島内を経めぐりはじめた。すると、
「ヘイ、ニホンジーン」
と妙な声がかかる。なんだと思ったら、あの腕歩行のヨーギだ。例の喜捨の行者も隣にいる。 そのほかに、若いのが二人ほど。なんだなんだどうにも胡散臭い奴らだなと好奇心まるだしで近寄ってみると、 おまえハシシに興味はないかとくる。
ん? こいつらも麻薬屋なのか。まあここは島の真ん中だし、大丈夫だろう。うん、興味あるよ、 思いっきり。とうなずいてみせると、腕歩行の行者はおもむろに懐中から妙な黒い塊を取り出してみせ、 煙草を一本よこせという。バザールで手にいれた「555」を差し出すと、いきなり煙草の胴をもみほぐし始めた。
つぎつぎに落下する葉っぱを手でうけつつ、聖者はついに煙草の中身を全部ひり出させてしまう。 いったい何の魔術だろうとぽかんと見とれていると、今度はさっきの黒い丸四角い塊におもむろにナイフをあて、 いくつもの細片に切りだしていく。
黒い細片の混じった煙草の葉を、ふいに行者はぐりぐりぐりと両掌でかきまわし、 ちりちりに丸まったそれを再び中身のない煙草の筒へと戻しはじめた。 なるほど、つまりあの黒い丸四角の塊がハシシなのだ。
ハシシいり葉っぱをつめ終わると行者は煙草の先をつぼめて丁寧に口を閉じ、 「ライターを出せ」とくる。百円ライターをわたすと行者、まじまじとそれを見つめ、 「日本製だな。俺のライターは中国製だ。交換しないか?」と切りだした。 ガスの残量は中国製のほうがだんぜん多い。少々薄汚れてはいるが、むろん俺に否やはない。 行者は、いまや自分のものとなったライターで煙草に火をつけ、深々と喫いこんだ。
不思議な香りが周囲に立ちこめはじめた。なんだろう。この臭いはなんだろう。
こうして煙草は何周かまわされた。
Yが行者に写真を撮ってもいいかと交渉する。行者は笑いながらも頑として首を縦にふらない。「ユー アー インターポール・レィディ」と冗談めかして言う。顔は撮らないからどうしても、と頼むとやっと承諾が出た。行者の手もとをフレームにおさめ、シャッターが切られる(後日譚:この写真が現像から戻ってきたとき、フィルムまるごと一本感光してしまっていることが判明した。この行者の念写にちがいないと俺はふんでいる)。
行者たちに別れの挨拶をおくり、島を後にした。あー。たそがれちゃうなあ。舟でも漕ぐか。
Kの漕ぎかたの見よう見まねでぎっちら舟を漕ぐ。右に左にぐねぐねと蛇行し、ぐるりと回転したりほかの舟に突貫かけそこねたりして漕ぐのだが、まるでどうでもいい気分だった。
「鳥だよ鳥」とKが山の上を指さしながらカメラをかまえた。なるほど、鳥が群れをなして矢印を構成し、山の頂から峰へ、そして空へとゆっくりと経巡っている。なんにも来なかったけど、けっこう楽しい時間だったよなあ、と俺はしみじみと思いつつ、ぐるぐる回りながら舟つき場をめざした。