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ガジェット ボックス GADGET BOX ネパールの三馬鹿14



第三部 ポカラの三馬鹿
SAN-BAKA IN POKARA

 


    5ルピーの奇岩


 3月22日(日)。あいかわらず37度の微熱がつづいているが、俺たちはそろって空港にいた。国内線のロビーはまるでどこかの田舎の駅だ。男女にわかれて検問があるのだがこれもまるで適当な検査で、ライターは持っているか? 持っている。なんに使う? 煙草に火をつけるだけだ。という、わけのわからないやりとりをしただけで簡単に通過できてしまった。こんなん、素通りも同然としか思えないんだが、いったいなんだったのだろう。
 ポカラいきの便はこの時期、混んでいるらしく俺たちのような飛び込みの旅行者がチケットを取れることはまずないという。カトマンズにつくまでは俺たちも、神峰の麓への訪問はあきらめていた。が、救世主は権力の形をとって現われる。ホテル主人のアマルさんだ。階級と知己をたよりに、強引にチケットを横取りしてくれたらしい。むろん、この強権による好意を断る手などない。たとえ熱があろうとも、キャンセルするなど冗談じゃない。なにがなんでもいく。
 この時点で一行の病人は二人に増殖していた。Yも熱が出てきたらしい。きのうのピクニックで日にあたったので熱を出しただけだよ、とKはいう。そうなんだろう、と俺も軽く納得していた。当のY自身もさほどつらそうな顔をしていない。飛行機が遅れていたこともあり、俺は暇にまかせてYをのべつ口説いていたりした。むろん、Yに赤痢の初期症状が出はじめているのだ、などということはこの時点では俺はまったく考えてもいない。
 空港内には複数のプロペラ機が出たり入ったりしていた。どれも同じ形をしたロイヤル・ネパール・エアラインのロゴいりのものだ。区別がつかないので、飛行機が一機着陸するたびにあれかあれかとドアにつめよるのだが、ちがう。鉄扉のところには見張りの空港職員が立っていて、かってに空港内をうろつくこともできゃしない(あたりまえだ、危ないんだから)。それになにやら、さっきから一機、整備の人間がわらわらと寄り集まってはあーでもないこーでもないといじくりまわしている。まさか、俺たちの乗る予定の便があれで、今日は機体の調子が悪いとかなんとかで欠航、なんてことにはならねえだろうな。ええ、おい。
 そんな不安をおし隠しつつYを口説いていると、ポカラいき出発ののアナウンスが無事入った。約一時間遅れての出発である。よし、上出来じゃねえか。
 機内に入る。なんだこれは。バスより狭いじゃないか。んー? ま、こんなもんか。座席から操縦席の様子が丸見えだ。なにか異変でもあったらすぐにわかるかもしれないな。機内サービスは飴一個だった。
 待つほどもなく機内は満杯となり、おもむろに滑走路上を滑走しはじめる。と思ったら、いきなり上昇した。うわ、すごい角度。ぐうんと一気に熱い街を眼下に置きざりにし、高空に達した。飛び過ぎる下方の大地は赤肌をさらけ出し、そして彼方には『神の座』の急峰が遠く、高くそびえ立つ。狭い機内で俺たちは、荒く、そして自信に充ちた操縦に縦横無尽に揺さぶられる。ネパールの操縦士は条件の悪い空を飛び慣れているので、操縦はきわめてうまい、という。
 上昇が急激なら、下降も急激だ。大地に鼻面つきつけるようにして急降下する。下界、畑だの家だのがびゅーびゅーとつぎつぎに後方に消えていく。接触しそうなほど低空じゃないか、ほんとに大丈夫なのか? うわっ接地すんの? だって下はまだ畑だよ!
 と、ぎょっとした途端、軽い衝撃。接地の瞬間、畑がフッととぎれて空港の敷地内に突入していたのだ。なるほど、うまい! うまいが、危ない!
 三十分ほどのフライトを終え、空港に足を踏みおろす。この空港、俺が抱いていたエアポートのイメージを粉微塵に砕いてくれた。カトマンズの空港を田舎の駅、と形容したがここはそれ以上だ。表現するに、田舎の「無人駅」という言葉を使うほかはない。もちろんちゃんと人はいるのだが。
 人はいる、どころか素通りで空港の建物を出た途端わらわらと人が、否、人と牛が大量に群らがっているのに出くわした。おっさんやらばーさんやらがぞろぞろと俺のまわりに寄り集まってくる。全部もの売りだ。さすがに有名な観光地だけはある。しかし物売りどもの持ち寄る物品はどれもこれも胡散臭く安っぽいシロモノばかり。カトマンズのものもそんな感じはあったのだが、ここのは見るからに安っぽい。食指が動かないのだから断るのも簡単だ。
 アマルさんに紹介されたホテルは駅から、いや空港からけっこう離れた場所にあった。たいした距離ではないのだが、照りつける陽射しと体調の悪さと牛の糞にやられたかYがしきりに音をあげる。まったくそんなことで社会教育のフィールドワークなんざとてもじゃないがやってらんねえぞと俺は、さっきカトマンズの空港でさんざ「愛してる」とくりかえした同じ口で何度めかの罵声をあびせかける。この時点で俺は、この娘が赤痢患者であることを知らない。
 あたりの景観はスワヤンブナートに輪をかけた田舎だ。田舎、というより、初夏の山国といったほうがいいかもしれない。そしてここもやはり、建物や看板の文字、道ゆく人びとの肌の色などを除けば、まるっきり日本の景色とそっくりだ。ただし道ばたにのたのたと陣取った牛はモーとも鳴かず、ただただひたすらのんびりとしている。巨大な角の水牛もいる。牛の糞などほうったらかしだ。のどかだなあ。一目見て気に入ってしまった。カトマンズでもダッカでも思ったことだが、ここにパソコンと電話回線と日本語の本屋と安心して飲める水さえあれば、一生暮らしてもいい。ただし上の要求、どれもこれもまず充たせないものばかりだ。
 ホテルはどうもきわめて小規模な商店街、といった感じの建物の一軒にその扉口を開いていた。はっきりいって名前を聞いていなかったらそこがホテルだとは思わなかったことだろう。どう見ても田舎の喫茶店か食堂の入口としか見えない。とにかく、入ってみる。
 受け付けをしたのは恰幅のいい婆さんだ。受け付けといっても、アマルさんのもたせてくれた手紙をわたしただけだった。この三人を安値で泊めてやってくれ、とか書いてあるらしいその手紙を婆さんはちらりと一瞥すると、OK、部屋に案内する、とひとりのおっさんに先導をまかせ、自分は奥へひっこんだ。
 おっさんに案内されて中庭に出ると、表から見たのとはまるで景観のちがう丈高い建物だった。基本的なつくりはカトマンズの住居と同じ、ロの字型の古いビルという感じだが、中庭はきれいに整備されているし古びた感じの建物にもどことなく重厚な雰囲気がただよっている。案内された二階のとなりあった二室に荷物をほうりこみ、貴重品だけ身につけて階下に集った。まずは腹ごしらえだ。また食堂をさがして放浪するのは面倒だし、ここで飯を食うことにしよう。
 と、先のおっさんに飯を注文する。さほど待たされもせずに出てきた。得体のしれないものが。
 カレーはなんだか妙な味がした。チベット餃子のモモは、はっきりと異様な味だった。臭い。マトンだからだろう、とKはいうのだがこのまずさはそんなことでは説明不可能なほど異常きわまりない。まずい。チャーハンを頼んだYもいかにもまずそうにスプーンをおき、「Jさん食べる?」と俺にお鉢をまわす。ためしに一口食ってみたが、モモと同じ種類のまずさだ。尋常ではない。原因は油だろう。食えない。俺は自分の頼んだ分だけ片付けるのに精一杯だった。Kだけが、おいしいおいしいと食べまくっている。そういえばこの娘、どこへいってもおいしーい、と派手に感動しまくっていた。感情表現が豊かなのだろうと思っていたが、もしかして驚異的な味音痴なのかもしれない(K注:わたしはだいたい食べられないもの以外は、おいしい)。
 食事と名をかえた苦行をなんとか切り抜け、体調が悪いから少し休んでいくというYを残して表に出ると、Kが「まずい食事だったねー」と顔をしかめた。なんだ、単なるお調子娘だったわけだ。話をきくと、どんなにまずい食事でもその場では本気でおいしく食べられるらしい(K注:思いこみだよーん)。人の家でまずい食事を出された時など便利な性格だという。ま、たしかに。しかし、うーん。何者か、この娘。


 陽射しはきついが、それほど不快じゃない。湿度が低いせいからか。だらだらと歩くにはちょうどいい気候、というか条件だ。俺たちは延々とそぞろ歩く。第一のいきさきはデヴィッドフォール、とかいうところ。とかいうところ、というのは俺にはそこがいったいどういうところなのか見当もつかないからだ。このネパール行全体にわたって万事この調子で俺は通してきた。もの珍しいところは全部YとKがリストアップしてくれているので、とても楽だ。なにも考えなくていい。まるっきり寄生虫だな、これは。
 空港を横目に過ぎまっすぐ進むと、やがて道が二股にわかれていた。看板も出ていないし手持ちの地図は不明瞭でよくわからない。まあいいや右へいってみよう、と右へいくと、なんだかここは住宅街とホテル街の合体したような区画だ。なに、こっちへいくとペヤ湖? やっぱ道がちがってる。よし、じゃあそこで左におれてみよう。 植生が日本と酷似しているせいか、どうも外国を歩いている気がしない。したがって少々道に迷っても危機感がまるでわかない。それでも見慣れない植物がぽつりと生えていたりすると、ああここはネパールなんだ、俺たち今外国にいるんだよなあと手軽に感動できてしまったりする。実にのどかだ。
 泥水のなかに泥まみれの水牛が数頭、群れている。「泥水が好きなんだよ」とKがいう。見ていると、なるほど中の一頭がばちゃんと泥水に半身をひたして転げまわりはじめた。いかにも気持ちよさそうだ。ちなみに、ネパールでは森羅万象すべてが神さまだが、この水牛だけはちがっているそうだ。バフ(バッファローの略か?)と呼ばれるこの獣だけは「悪魔の獣」と呼ばれているらしい。レストランなどでミルクを頼むと出てくるのも、牛乳ではなくこの水牛の乳、水牛乳なのである。水牛乳などというとなんだかとてつもなくまずそうな味を連想しそうだが、これがまた濃厚でぽってりしててとてもうまい。
 豚もいる。ただの豚ではない。巨大だ。見るからに迫力がある。山羊もいる。どいつもこいつも、道ばたでのんびりと草を食んだり糞小便たれ流してたりする。ガキどももいる。こいつらは、さすがに糞小便をたれ流したりはしないようだ。俺たちを見ると「ヘロー」と人なつっこく声をかけてくる。「ヘロー」と返事をするとにこにこしながら通り過ぎていく。
 道端に正体不明の奇妙なオブジェがたっていたりする。道標かなにからしいのだが、ネパール語が読めない俺たちにとっては単なる謎の物体だ。バス停にはのんべんだらりと人が群れ、カトマンズいきと書かれたバスがドアや屋根に人や荷物をはみ出させて、幾台も通り過ぎていく。
 Kが少し暑そうだ。スワヤンブナートで手に入れたチベット帽をわたすと、素直に頭にのせていた。こりゃけっこう疲れがきているかもしれない。喉も乾いたことだし休憩でもしていくかというと、大丈夫だというのでそのまま進んだ。すると、川をわたったところに看板が出ていた。道の両わきにひとつずつ。左側はチベット人の居留区、右がデヴィッドフォール、とある。なるほど、ここをまっすぐいけば目的地か、と俺たちはさらに先へ進んだ。あまりののどかさに、思考力が減退していたらしい。素直に看板の手前で右へおれて進めば、すぐそこがくだんのデヴィッドフォールだったのだ。
 日本の田舎とかわらないと思っていたのだが、このあたりの景色はかなり不思議だった。小高い丘の上に向かって昇っているのだが、下方に展開する光景が実に雄大かつ奇妙なのだ。一本枝がふんにゃりとひん曲がった妙な木がぽつりと一本、生えている。枯れ木がこれまたぽつり、ぽつりと畑の間に点在しており、これらがどれも異様に丈が高い。平坦な畑が広がる中に、驚くほど丈の高い枯れ木や妙な植物が点々と天にむけてそびえている。不思議だ。おもしろい。
 ぶらぶらと先へいくのだが、なんだかいつまで経ってもそれらしき場所が現われない。滝だか川のようなものだかが出てくるはずなんだが。なんだかさっきから話しかけるでもなく俺たちの後をついてくるガキがひとりいたので、Kが道をきいた。
 「デヴィッドフォール?」と道の先を指さすと、こどもはにこにこと笑いながら首を左右にふる。だー、やっぱ道ちがうよ。塀の上に腰かけて少しばかりそこで休息をとった後、もときた道を引き返した。
 看板のところを曲がると、土産もの屋のつらなる先に番小屋のようなものが建っていた。ここだったんだ。何キロも前からしつこいほどご親切に案内板が出現しはじめる日本と同じ感覚で歩いていたのが間違いのもとらしい。なにはともあれ入場する。なに? 入場量5ルピー? たいした額じゃないけど、やけに高いなあ。
 中に入ると小道のむこうに休憩所があり、そのわきに下へと降りる粗雑な階段がついていた。ほいほいと下に降りると、そこに奇岩がならんでいた。これをどう形容すればいいのだろう。「グランドキャニオンみたいだねえ」とKがつぶやいた。そう。とうとうと流れる水をからっと乾燥させて規模を派手に拡大すると、ここはたしかにグランドキャニオンにそっくりだ。
 下をのぞきこんでみると、うーん、暗くてよく見えない。鉄柵が邪魔だ。というわけで鉄柵のない右手方向をまわりこんで踏み道をたどり、奇岩の上に降り立った。Kはなんだかよたよたしながら「待ってよおーお」と声をあげている。やっぱ都会の女の子だ。
 水はきれいに澄んでいた。すくってみると、さすがに冷たい。日本でこういうところに来たらまず飲んでみるのだが、さすがにこの国では自分の肉体の耐久性を試す気にはならない。それに、澄んではいるが生物の影がかけらも見えない。案外めちゃくちゃ汚い水なのかもしれない。
 奇岩はさらに奥へと広がっていたのだが、さすがに女の子連れで時間もないとくると分け入っていくわけにもいかない。沢のぼりをやるとおもしろそうなんだけどなあ。残念だ。
 鉄柵のまわりでしばらくのぞいたりまわりこんだりして遊んでから、休憩所へ昇る。階段を無視してわきの踏みわけ道をひょいひょいと昇っていくと、背後でKが「もー、どうしてそういうことするのーお?」と呆れ声をあげた。どうもハメをはずし過ぎたようだ。ごめんよ、K(K注:ちょーこわかった)。
 奇岩を後に門をくぐると、さっきは軽く声をかけてきただけの露店の物売りがやけに姦しい。おもしろそうなものもないでもなかったので、手近の一件の前にしゃがみこんだ。大阪商人のような容貌のおっさんが、いかにも人がよさそうに笑いながらあれこれ説明を加える。「それ、銀がたくさん入ってます。ちょといいねー、そー、80パーセント。それ、ちょと銀少ないねー。ヤスイヨミルダケー。オー、ベリグッドですねー」この連中の使う日本語はとりわけ奇妙で気安い。さんざ値切ったつもりだが、口車にうまくのせられてしまったかそれでも相当な高値でネックレスをつかまされてしまった(Y注:この後、Yと合流したKとJは変な日本人というか、変な外国人(日本人から見て)という人達と化していた)。
 なんでそんなことがわかったのか、というと――。
 最初の一件で買い物をすませて立ち上がる。と、その手前の店から妙な女が声をかけてくる。「オニサン(お兄さん、のことらしい)オニサン、ちょとミルダケねーミルダケ」
 とくる。もういらねえよと断るのだが、やけに熱心だ。しかたがねえなーと腰をおろすと、手前でネックレスを買っていたのを観察していたのかこちらの意向を無視していきなりネックレスをつぎからつぎへと取り出しはじめる。あー、ネックレスはいらねえ、これはいくらだと粗雑なつくりの孔雀のおきものを示すと、オー、ヤスイヨミルダケーとほかのものまで次々にくり出しはじめる。どう見ても粗雑だ。全然食指が動かない。やっぱいらねえやと立ち上がるとチョト待テチョトミルダケと必死に手をふる。ええい、ネックレスはいらねえっつってんのに。
 とふりきり先へ進むと隣の店の女がこれまたオニサンオニサンミルダケチョト待テとくる。Kがほかの一件で「オジョサン、オジョサン」と同じ調子でひっかかっているので暇つぶしに腰をおろす。と、またもやネックレスだ。ん? しかしこれは少々安っぽいけど悪かーないな、などと思うともう終わりだ。なにがなんでも買わせようと変な日本語で怒涛のようにお薦めの文句をならべたてはじめる。催眠効果、というよりは、うんざりさせられるといったほうがいいだろう。その上、最初の店で決めた値段が馬鹿らしくなるほどどんどんダンピングしていく。面倒だと二、三買いこみ、立ち上がって脱出しようと身構えるより早く、次の店が「オニサンオニサン」。
 最後のほうはあまりにも面倒なのでちょっと上体をおろしてざっと眺めわたし、「あーいらねえじゃあな」とあからさまに粗雑な態度になっていた。ところが、である。最後の店を通りすぎた途端、あぶれた連中が一斉になだれをうって店を飛び出し「オニサンオニサンミルダケミルダケー」と団子になって俺たちを取り囲む。
 いらねえいらねえとわめきながらその区画を出て喉の渇きをいやすために裏の雑貨屋に飛び込みジュースをオーダーする間も、ミルダケ攻撃に途切れ目はまるでない。おちつけないことおびただしい。ガラクタのようなシロモノを入れかわり立ちかわり俺とKの前に開陳してはいくらでどうだと値段をいう。買う気はないので非現実的なほどの安値をつけると、むーと笑いながら疑わしげな目つきで見やりつつ「オニサン、冗談ウマイネー」という。その値段でOKネというので「おっ?」と思ってよく見ると、品物がちゃっかりすりかわっていたりする。実はこの手で二、三、どうしようもないガラクタをつかまされた。とにかくひっきりなしに「コレドデスカー」「オニサン、イクラナラ買ウネ」「ヤスイヨミルダケー」と姦しく響きつづけるのだから、ものをまともに考えることさえできない。考えてみると、ずいぶん高価な買い物をさせられたものだが、楽しくもあったのでまあよしとしよう。
 この土産もの屋の連中は、反対側にあったチベット人キャンプの人間だそうで、観光客も少ない不利な環境も手伝ってか狙った獲物は喰らいついてなにがなんでも離さない、そうしないと明日からの生活もままならない、とそういうことらしい。いわれてみれば、あの気迫にも充分以上にうなずける。
 ちなみに、ここで買わされたものだけで仕事先の大量のアルバイト娘どもへの義理土産はほぼまかなえた。つまりそんなに買わされたわけか? いま考えても愕然とする。うーん。ほんとにとんでもない奴らだ。
 這うほうの体でデヴィッドフォールを後にし、ふたたびぶらぶらとしたペースでペヤ湖畔をめざした。Yとはここで落ち合うことになっているのだが、その約束の時間がだらだら歩いていけばちょうどいい頃あいだった。自転車を引いた兄ちゃんがやはりのんびりとつかず離れずでついてくるのへ何となく話しかけたりしながらぐるりとまわりこんでいくと、しばらくしてあたりの佇まいがかわってきた。デヴィッドフォール周辺は店といっても駄菓子屋兼雑貨屋のようなものが多かったのだが、このあたりは本格的な土産もの屋や衣裳屋、レストランなどが軒をつらねている。いかにも観光地という感じだ。
 もっとも、ちょっと洒落た湖畔にはとたんに巨大ホテルが林立し、ミニゴルフだの娯楽施設だのがどかどか建ちならぶような、いったいなにをするところなのかわからなくなるような煩雑かつ情緒に欠けたにぎやかさではない。あくまでも湖畔の保養地であり、またトレッキングへの前哨基地、といった雰囲気だ。
 やがて湖が見えてきた。あたりもいよいよ賑やかさを増す。西洋人の密度が少しふえてきた。だが豚もいたりする。巨大な樹木が生い茂る根もとをコンクリートで固めて、休憩所になっていたりする。ぶんぶん車が行き交う。カラスがぎゃあぎゃあわめいている。湖は静かに凪ぎ、思い出したように風が過ぎ、うーん、静かなんだか賑やかなんだかよくわからんところだ。
 ちょっと道に迷ったが、約束の時間前に待ち合わせ場所にたどりついた。まだ少し間があるので、俺は飲み物の他に食うものを頼んだ。ものはレモンを炭酸でわった酸っぱいジュースとコーラ、それにスパゲティ。こういう食い物にそろそろ郷愁を覚えはじめていたのだ。レモンのジュースはただ酸っぱいだけで俺は飲みほすのに苦労したのだが、Kはこういった生のままのものが好きらしく、たいへんおいしそうに飲んでいた。まあ、それはいい。問題は――スパゲティだ。
 いやな予感はしていた。ポカラについて最初の食事がホテルの異様にまずいカレーとモモだった。ダッカ、カトマンズと、食うものに関してはまずいものに出くわした試しがなかったので、この最初のつまずきがひっかかってはいた。もしかしたらポカラでは俺は食い物には恵まれないかもしれない、と冗談まじりにKに語ったりしていたものだ。しかし、この店は小ぎれいでちょっとばかり洒落たつくりだし、客もほとんど西洋人ばかりだ。そんなにまずいものは出てこないだろう。出てこないといいな。お願い、出てこないで。
 予感はみごとに的中した。出てきた皿に大盛りのスパゲティは、スパゲティではなくほとんどグラタンと化していた。煮すぎにもほどがある。いったいスパゲティをこうまでどろどろにするには、何時間煮ればいいというのだ。食えない。とてもじゃないが食えない。一目見ただけでそう思ったのだが、ものごとは経験してみないとわからないものだ。試しに一口食ってみよう。食い物を残してはいかん。と、一縷の望みを託してフォークをとるのだが、べにゃべにゃと情けなくフォークにまきつくスパゲティを一口、口にしたとたん俺の食欲は完全に撤退していた。駄目だ。これはどう転んでも駄目だ。このポカラでは俺は食事には絶対に恵まれないのだ。
 ちょっと分けてみ、とKが一口口にする。おいしいじゃない、あたしこういうのきらいじゃないよと言ってさらに二口三口、口腔内にほうりこむのだが、やはりどことなくペースが鈍い。このサービス精神旺盛で感情表現が豊かすぎるほど豊富な娘がこれだから、そのまずさはおして知るべきだ。
 さすがにKも食べきれず、スパゲティは大量に皿の上に残存したまま下げられた。 尿意を覚えたのでトイレットはどこだとウエイターにきくと、店の裏だという。裏にまわって驚いた。――カトマンズで、銀細工の工房が街の裏側にいくつかあるのを見かけた。興味深い光景ではあったが、お世辞にも清潔な環境とはいえない。その、カトマンズの銀工房とこの店の内部の厨房とが、雰囲気がそっくり同じだったのだ。
 さらに建物を出てトイレらしきところにたどりつく。すごい臭いがする。水洗ではないらしい。まあそれはいいとして、どうも手を洗うところが見あたらない。嘘だろう。と、信じられぬ思いで周囲を見まわしてみるのだが、なんだか小汚いガキどもが二、三人、泥まみれになって遊んでいるだけだ。なんだか情けなくなってきた。厨房をいま一度通りぬけて席へ戻る間に、さらにその情けなさは膨張していた。ああ。すっかり気分が黄昏てしまったなあ。
 隣の席に山盛りのアイスクリーム(K注:チョコレートケーキ)が運ばれた。西洋人の夫婦らしい二人連れだ。見ると、なんとなくそのアイスクリーム(K注:チョコレートケーキだってば)がうまそうに見える。しかしつくったのはあの厨房でだろうしなあ。と観察していると、夫婦は黙々とそれを消化していく。無表情だ。あれはうまいのだろうか。わからない。顔が読めない。うー、見るだけだと、うまそうなんだけどなあ。お、手がとまったぞ。ため息をついている。やっぱまずいんだ。よかった頼まなくて。
 約束の時間が過ぎてもなかなかYは現われない。スワヤンブナートでの軟弱ぶりからして、いくら湿気が低いとはいえこの炎天下にあのYがこられるもんか、と踏んでいた俺はKをうながしてチェックをすませてしまう。
 さて、じゃあいこうか、という段になって、息をはずませながらYが現われた。俺の予想はみごとにはずれた。

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