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ガジェット ボックス GADGET BOX ネパールの三馬鹿10



    狂乱の聖日


 3月18日(水)。
 HOLLY DAYである。ネパール全土で一週間にわたってつづいたお祭り(というより、単なる馬鹿騒ぎ)のらく日、狂熱の一日である。この日ばかりは女性は外に出ないほうがいい、とM(日)さん、S(ネ)さん、ホテルの主人のアマルさんが口をそろえていう。アマルさんなど、この祭りにはかなり悪い印象を抱いているらしく、「NO GOOD」としきりにくりかえす。
 KとY、最初は多少のひどい目にあってもせっかくだから祭りを肌で感じたいと言っていたのだが、どうもあまりに誰もがやめろと勧めるし、なによりも昨日の水攻撃がけっこう効いたようで、ホテルで一日すごすことにした。Yは研究の資料関係の本をこれまでに山のように買いあさっていたし、KはKで自分の興味のある分野の読み物を何冊か購入しているから、それで時間をつぶせるだろうということだ。それに加えて、外に出ない者は出ない者同志で、建物の屋上にあがって水のぶっかけあいをするというのだから、これはこれで楽しめるだろう。俺はむろん、タメルにいく。うっくっくっ楽しみでしかたがない。
 朝早いうちは多少安全だから少しだけ外へ出ようかということで、王宮通りのホテルのレストランで朝食をとりに出た。妙な爺さんもいっしょだ。この人もS(ネ)さんの一族関係らしい(K注:S(ネ)さんのお父さんだよーん)。この国は家族の絆がまず第一だ。
 レストランは小ぎれいで広く、従業員の顔さえ見なければまったく日本とかわらない。S(ネ)さんと爺さんがいなかったら錯覚してしまったかもしれない。クロワッサンとコーヒー、紅茶を頼み、食う。うーん、もの珍しさがまるでない。うまいけど。
 ホテルに戻るころあいになって表へ出た。ラトナ公園の裏手、大学の時計台をすぎてホテルへとつづく通りを曲がると、そこはすでに修羅場だった。ぶわしゃ、ぶらっしゃとひっきりなしに水が落下し、地上でも水鉄砲や手いっぱいに握りこんだ真っ赤な粉などで熾烈な戦闘が展開している。常にも増す騒乱が一角を支配し、大人もこどもも顔いっぱいで笑いながら思いきり走りまわっている。
 通りぬけるのに一苦労だ。俺たち男にはまだまだ余地は充分だが集中的に狙われる立場のYとKは無事には通りぬけられまい。と思っていたら案の定、盛大に水ぶっかけられていた。けけけっ。俺は道の反対側に難をのがれて無傷だ。
 とか思いつつ激戦区をきりぬけると、なんとYとKがクリシュナに遭遇したという。家があのあたりにあるらしい。お茶でも飲んでいけといわれたらしいが、この有様だから早くホテルに帰りたいというとクリシュナもあたりを見まわし、さすがに一瞬で納得してしまったという。後で声でもかけてお茶ごちそうしてもらうといいよ、とYが勧める。べつにいいけど、俺とクリシュナはそんなに仲良しになったわけではないぞ。
 いったんホテルに戻り、KとYを残して俺はひとり街に飛び出した。ダッカで入手した、現地でも安物のルンギとパンジャビを着て、これでもう暑さも色水攻撃も恐くない。臨戦態勢だ。だけど、その前に――王宮通りのホテルに向かった。
 きのう借金までして服を買ってしまい、銀行もしまっている時刻だったので手持ちの金がほとんどない。今日は銀行も大学も休み、多くの商店も開いていないということだが、それでも軍資金がないと心細い。ラトナホテルで換金してもいいのだが、アマルさんがやたら心配するので気がひける。ということで、ひそかに別のホテルでルピーを手に入れてしまおうという魂胆だ。
 ところが、どこのホテルも宿泊者でなければ両替はできないという。途方にくれて佇む俺に、物売りが寄ってきた。真鍮製のみやげものを主に扱っている類の露店の男だ。もうこうなったら仕方がない。俺はおもむろに腰にぶらさげたポシェットを開き、
 「このバンドエイドが欲しくはないか? 1ルピーだ」
 物売りめ、きょとんとしてやがる。買ってくれよう。
 残念だがこいつは買わなかった。が、例のごとくまわりに呼びもしないのに他の連中も寄り集まっている。売りこんでみた。すると、軍服を着た二人組がよし買ってやるという。やった! うまくいった!
 たったの1ルピーだが、この時は天にも昇る心地だった。嬉々として2ルピーを受け取り、調子づいてさらに売りこみをかける。この時計なら買うぞ、カメラをもっていないか、電算機はいくらだ、と周囲の奴も口々にいう。時計とバンドエイドがさらにいくつか売れた。電算機は残念ながら裏にくっきりと刻まれていた「MADE IN THAILAND」の文字がネックとなってまともな値段がつかなかったので、いまだに手もとに残ったままだ。こうして俺は500ルピーほどを手に入れた。さあ、それじゃあいよいよタメルだ。
 ところが、道がうろおぼえでよくわからない。と、都合よく二人組の物売りが近づいてくる。奴らに道を訊ねよう。俺は奴らが声をかける前に
 「1ルピー」
 といってバンドエイドを差し出した。物売りめ、しばし逡巡していたが、これも売れる。値段が安いせいかおもしろいように売れる。もう少し値を吊りあげようかなあ。
 ともあれ、タメルにはどういけばいいんだと訊くと、よし案内してやるときた。道々、今度はむこうの売り込みがはじまる。モノは――腕輪なんだろうな、円形に結んだ針金を組み合わせた、フラクタル模様のようなシロモノだ。安っぽい石がもうしわけ程度という感じで埋めこまれているが、おもちゃみたいなもんだ。いらねえよと断ると、これはオブジェにもなるんだといって組み合わせた針金をにゅるにゅると開いてみせる。
 球形からふたつの卵形、そしてアダムスキー型空飛ぶ円盤形につぎつぎと形を変える。単純な構造だが、たしかにおもしろいシロモノだ。が、買うほどじゃねえよな。バンドエイド買ってもらった恩も忘れてつめたくそう言い放つ俺に、怒るでもなくいつまでも肩をならべて歩いている。暇なのだろう。でも、なかなか気のいい奴らだ。



 道中ぶらぶらと歩きながらカタコトの英語で埒もないことを話した。むこうも英語はカタコト、日本語はまるきりだから大して話すこともなさそうなものなのだが、珍しい建物指さし「あれはなんだ? それはモスクか?」などと訊くときちんと答えが返ってくる。それだけのことなのだが、妙に楽しい。道いく人を見つけては「1ルピー」とバンドエイドさしだしつつ、のんびりと歩いているうちにタメルについた。
 道幅が急速に狭くなり、むこうの方角から派手な叫声が響く。腕輪売り、はたと立ちどまり「それじゃあ俺たち、戻るから」と手をふった。狂熱からは身を遠ざけていたいのだろう。サンキュー、フレンズと俺も手をふり、先に進んだ。
 とたんに男がひとり、突進をかけてきた。避ける間もなく顔になにかを塗りたくられた。真っ赤な粉だ。ぐわあ、この野郎と叫びつつ後を追うが逃げ足が早い。べろばーと舌を出す。糞ぅと笑いながら男をにらみつけていると、いきなり背後からどばんと水かけられた。ぎゃあとわめいて振り返ると、バケツ抱えた一団がさっと散る。これはどうでも油断がならない。
 四囲に目を配りつつ奥深く分け入っていく。赤、青、黄、極彩色の粉を手いっぱいに抱えた一団が、様子をうかがいながらじりじりと近づいてくる。そうはいかねえぞ。俺はにやにや笑いを浮かべて首を左右にふりながら注意深く奴らに接近し、粉も水も飛んでこないと見るや、すかさず右手を差し出す。俺にもその粉をよこせ。
 一瞬のとまどいの後、褐色の顔一面に真っ赤に粉塗りたくられた若者はにやりと笑い、握りしめた赤い粉を俺の手のひらいっぱいに満載した。のみならずさらにポケットに手をつっこみ、今度は青い粉を出す。つぎは別のポケットから黄色い粉。手品みたいにつぎつぎ出てくる粉末でほどもなく俺の手のひらは満杯になった。よし、これで武器が手に入ったぞ、ふっふっふっ。ついでにバンドエイドを行商する。ダッカで買ったムスリムの帽子も売れた。ちょっと気にいっていたので惜しいような気もしないでもなかったが、なに、どうせサイズが合ってなかったんだ。
 さらに先へ進む。攻撃がかかる。よける。逆襲する。粉を強奪。行商。気をつけなきゃならないのは、屋上に陣取った連中だ。死角から攻撃がくるので油断しているとすぐやられるし、だいいち逆襲のしようがない。ここはピラニアの川方式で切り抜けるにしくはない。危険地帯にさしかかると立ち止まり、他の犠牲者が通りかかるのを待つ。街は加害者兼犠牲者であふれ返ってるからたいして時間はかからない。たてつづけに水が落下するのを待ってさっと走りぬける。それでも時間差攻撃をかけられたり、こけたりでさんざぶっかけられた。畜生! 覚えてろ! 日本語まじりの英語で罵声を飛ばす。
 そのうちに、ルンギがずり落ちてきた。安全地帯に避難して、煙突掃除。ついでに行商の収穫を数えてみる。バンドエイドはタメルに入ってしばらくするうちに、またたく間に売り切れていた。1ルピーばかりだが、けっこうな量だ。
 と、ほくそ笑んでいると、下に立ったリクシャマンの兄ちゃんが「マネー、マネー」と呼びかけてくる。ん? リクシャならいらんぞ。それともバクシーシか? 用はない、と手をふると、ちがうちがうと身ぶりしながら近づいてきて、おもむろに俺の足もとにこぼれ落ちた数枚のルピー紙幣を拾いあげ、差しだした。なんだ、そうだったのか、どうもありがとう。というと兄ちゃん、なんともいえずいい顔でにやりと笑う。ほんとうに、ありがとう。
 こんな具合にタメルをぐるりと巡った。笛や太鼓をどんちゃんと鳴らしながらねり歩く一団にも遭遇した。みな若い。楽しそうだ。ふと、ひとりが身にしみた。日本を後にしてから数日、ひとりになったなんて初めてだ。KとYの顔が浮かぶ。無理にでもつれてくればよかった。荒々しいけど、こんなに楽しいじゃないか。
 出口が近づいてきた。手もちの粉爆弾もつきている。にやにや笑いの一団が前方から接近中。よし。と、俺はパンジャビのポケットに手をつっこんだ。朝方、ホテルの近くでKとYがこどもから襲撃を受けたとき、水をつめこんだ風船爆弾がひとつ、割れずに残っていた。Kがそれをちゃっかりひろいあげ、武器として俺にわたしてくれたのだ。水鉄砲やバケツに比べればあまりにちゃちな武器ではあるが、俺にとっては虎の子だ。華々しく散ってくれ。
 色つき水の砲撃をからくも躱し、俺は風船を思い切り投げつけた。わっと散る一団を追ってピンクの玉は路上に弾け、盛大に水を巻き散らした。うん。上出来だ。俺は胸をはってタメルを後にした。



 靴がずぶぬれになっていた。気持ちが悪いのでひとつ、サンダルでも買ってやろうかと探すのだが、ほとんどの店が閉まっている。ぽつぽつと開いてている店もあるにはあるが、靴屋は見あたらない。服屋を見つけたので、店先に腰かけたおっさんに靴はおいてあるかと声をかけると、ないと言う。
 「どっからきたんだ?」
 立ち去ろうとする俺に、おっさんが訊いた。日本だ。俺はジャパニーだと答えると、そりゃあいいと言うように何度もうなずく。まあそこにすわれよ。話をしよう。祭りは楽しかったか? ああ、最高だよ。ひさしぶりの大騒ぎだ。そうかい、そいつァよかった。うん、ここはいい国だ。気に入ったよ。そうかい、日本はどうだい、いい国か? うん、いい国だよ。ちょっと物価が高くて、暮らしにくいけどね。そうかい、そりゃあよかった。 のんびりと腰かけて会話をかわしていると、まわりに数人、なんとはなしに寄ってくる。みな、おだやかに笑っている。
 俺はありがとう、ナマステといって立ち上がった。
 「ユー アー グッドルッキング」
 おっさんは真っ赤な俺の顔を指さしてにやりと笑った。俺も心の底から笑い、そして歩きだした。
 すれちがう連中はみな赤い顔、黒い顔をしていた。ネパーリもネワーリも白人も東洋人も、男も女も大人もこどもも、まともなツラをしている奴はひとりもいない。そしてふとしたはずみで視線があうと、どちらからともなく自然に笑みがこぼれてくる。いい一日だ。



 疲れたのでラトナ公園に立ちよってみた。公園内にまで狂乱の祭りが展開していれば一休みどころではなかっただろうが、幸いにしてここは静かだ。無数の男たちや家族などが、草の上に横たわって怠惰にごろごろしている。奥まった一角に円状の、台の高い休憩所を見つけたのでそちらに向かう。幸いにしてそのポイントは人口密度が比較的低い。
 ヘローと声をかけて空いている場所に腰をおろし、煙草に火をつけた。遅れて俺の隣に居をしめた男にもさしだすと、少々こぎたないナリをしたその男はぼんやりと微笑んでそれを受け取る。
 もの売りが数人、頭上に篭をのせてねり歩いている。そういえば、やたら腹が減っている。が、妙な果物や得体のしれないペースト状の白い物体など、どうも清潔感にはなはだしく欠けたシロモノばかりだ。お? そいつはピーナツ売りだな。あれだったらまあ、大丈夫だろう。おーい、それをひとつくれよ。
 ピーナツ売りはもの慣れた様子で肩にかけていた三脚様の台を地上にひらりと降ろし、頭上にいただいた巨大な篭をその上にすうと乗せた。細長いその篭はみごとにバランスよく三脚の上におさまり、もの売りは満載したピーナツのなかから丁半で使うような形の舛を取り出しておもむろに量を計りはじめる。
 やがて千切った新聞紙の上にひとつかみ半ほどのピーナツがさしだされた。受け取り、すかさず皮をむいて口にほうりこんだ。うん。ピーナツだ。
 ぱちりと皮をはじいては豆を口にほうりこみつつ、俺はとなりにすわったぼんやりした兄ちゃんに一つどうだ、と勧めるタイミングを見計らっていた。と、勧めるまでもなく男は新聞紙の切れ端に手をのばし、皮をむきはじめる。うーん、ちゃっかりしてやがる。
 そのままピーナツ食いながらぼーと辺りを見まわしていた。ガキどもが元気に走りまわっている。手には例の風船をもっている。こどもはどこにいっても、そこを楽園にしてしまえる。稚気にみちた楽園。とか思っていたら、目の前でいい年こいた大人たちの一団が、なにやら縄を使って寝ている奴をぐるぐる巻きにしはじめるという、過激な稚気を発揮していた。うーん。
 そうして、なんとはなしに惚けていると、ふいに隣の男が俺に手をさしだした。ん? と目をやると、皮をむいたピーナツの山がならんでいる。
 なんだ、皮をむいてくれていたのか、どうもありがとう、たいしたもんじゃないが、あんたも食ってくれよ。というと、男ははにかんだ笑顔を見せて首を左右にふる。煙草は素直に受け取ったのだから、たぶん今はピーナツを食いたくない気分なのだろう。なに、人間生きてりゃそういう時もあるさとわけのわからない一人合点をしつつ俺は皮のむかれたピーナツを受け取り、一気に口にほおばった。
 それにしても今何時だろう。時計を売ってしまったので時間がわからない。隣の男は時計をもっていないので、背後に陣取ってなんとなく時間をつぶしているムスリム帽をかぶったおじさんに「ホッタイモイジルナ」と声をかける。おじさん、静かに微笑みつつ俺の目の前に時計を差しだしてみせた。昼過ぎだ。さんきゅー。俺は礼にと煙草をさしだした。するとおじさん、俺はいらないと首を左右にふる。んー、ムスリムだからかな。ダッカでも外で煙草喫っちゃいけない月だったし。
 というやりとりを脇目に、隣の男がなにやら物売りに声をかけていた。何を買おうというのだろうと興味深く眺めていると、妙な葉っぱを物売りの手から掌に受け、その上に白いペーストをだばっと受ける。さらに得体のしれない野菜がのっかると、男はおもむろにそれらをぐちゃぐちゃと撹拌しはじめた。うー、これはいったい……。
 しっかりと混じりあったゲロのごときそれを仕上げに葉っぱでくるみこみ、むしゃむしゃとかじりはじめる。うー。さすがにこれを試してみる気にはなれない。でも、こっちの文化圏では下痢どめの薬効のある葉っぱをまぶしてものを食うと前に聞いたことがある。もしかしたらそれかもしれないな。
 ぐじゅぐじゅとそれを食いおわると、男はふたたびピーナツの皮を黙々とむきはじめた。うーん。大丈夫だろうか。まあいいか。平和だし。と俺は男から皮のむかれたピーナツを受け取り、一気に口にほうりこむ。がりがり。これじゃ命がいくつあっても足りやしない。
 ピーナツを一山食いおわり、ふたたび男と煙草をわけあって一服した後、俺は公園を後にした。
 ホテルに戻ると、部屋にYとKがいない。ん? なぜだろう。まだ屋上かな。まあいいや、あとでのぞきにいこう。俺は自分の部屋に戻り、バンドエイドの残りがないかとデイバッグを開いた。あまり残っていない。日本で大量に買いつけておいたので、してみるとこの半日で相当売りさばいてしまったらしい。しかたねえなあ。ほかに行商できそうなものは……飴があらあ。売れるかなあ。まあいいや、売れなくても自分で食やいいんだ。
 と飴をウエストポーチにつめこんでいると、だれかが部屋の扉をノックする。「Jさん、いるう?」Yである。飯を食いにいこうという。ああ、まだそんな時間だったのか。時計は朝方、もの売りに行商してしまったので、腹時計で三時くらいと踏んでいたのだが、まだ一時をすこしばかりまわったころあいらしい。
 ラトナ・ホテルのレストランはいくらネパール・タイムとはいっても注文してからあまりにも時間がかかりすぎるので、どこかべつのホテルにいこうということになった。
 裏口から表に出る。M(日)さん、S(ネ)さんが上を警戒している。なるほど、いる。ここらはけっこう落ち着いた雰囲気の区画なのだが、やはり今日ばかりは老若男女、だれもが悪ガキにかわっているらしい。M(日)さん、S(ネ)さんは相手の顔色をうかがってタイミングをはかり、さっと隣のホテルまでの短く危険な街路を横ぎった。路上に盛大に水が飛び散る。間をぬってKとYもつづく。俺は、屋上に陣取った女たち相手に、しばし視戦を楽しんだ。にやにや笑いつつ、タライが見えてるぞと指さすと、褐色の肌の女どもも、早くこいとばかりにニヤリと笑いかえす。
 五、六歩走りかけてフェイントかけると、ざばりといくつもの水が宙に舞う。すかさずバックステップ、路上にはじける間隙をぬって一気に安全地帯まで走りぬけた。へん、だてにタメルを歩いちゃいないぜ。
 隣のホテルはラトナよりはワン・ランク上、という感じだった。身なりのいいネワーリの家族、白人の夫婦、どの客も小ぎれいな姿をしている。汚れまくったパンジャビとルンギ、仕上げとばかりに赤い顔の俺にちらりと一瞥走らせ、かすかに眉をひそめる。悪かったなあ、こんなナリでお目を汚してさあ。バザールの荒々しい狂騒をかけ抜けてきたせいか、少々挑戦的な気分だ。
 さしだされたメニューを繰る。カレーはもう飽きたな。フライドライスじゃ芸がないし、なにか変わったものはないだろうか、とあれこれ追っていくと「スプリング・ロール」という得体のしれないものがある。チキンとベジタブル、ポークにビーフもあるがこの二つはたぶんメニューに書かれているだけだろう。メニューにのっていても実際にはつくれない、という事態にはけっこうあちこちで遭遇してきた。とくに豚と牛は神さまなのでほとんどお目にはかかれない。
 結局、俺はプレインライスにチキンのスプリングロールとやらを頼んだ。Kはチャプスイを頼んでいる。辛い辛いタイラーメン(K注:あげ焼きソバにやさいのいためた汁がかけてあるやつだよ)。ほかは今まで食ってきたものとあまりかわりばえしない。カレーもうまいけど、なに、どうせ日本式に出てきたものを皆でわけあって頼むのだから、オーダーはできるだけバラエティに富んでいたほうがいい。
 とか思いつつ待つことしばし、出てきたのは、なんだこりゃ、単なる春巻じゃねえか。あ、スプリングロールね、なるほど考えてみりゃすぐわかる。まあいいや。うまいし。実際うまい。カレーぶっかけてしゃぶしゃぶ食うというパターンがつづいていたので、白飯におかずという取り合わせが妙に新鮮なのだ。
 さて、屋上でYとKは、やはり狂乱の戦いをのりこえてきた、ということだった。屋根の上に飛び交う水の銃弾には、得体のしれない汚水も少なからず混入していたらしい。主な好敵手は隣の邸宅に住む、ラトナホテルのオーナーの息子、および年のわりに驚くほど身のこなしが敏捷でずるがしこい婆ァ。この婆さん、ラトナホテル軍団にむけてさんざ水の雨をあびせかけたあげく、自分はついに無傷で激戦をくぐりぬけたという実に油断のならない人物だったらしい。
 獅子身中にもむろん、虫はいる。ホテルの従業員だ。なにくわぬ顔して背後から近づき、仲間だからと能天気に油断しまくっているYに痛烈な一撃を加えてきたりするのである。身のこなしが敏捷で若く、なおかつ抜け目のないKはたいした被害にはあわずにすんだようだが(K注:ちゃんとふくしゅーしてやったぞ)、内と外の敵になぶりものにされてYは水びたしになったという。これが伏線だ。
 Yには髪をいじくりまわしたり、口に含んだりする癖がある。これも伏線だ。この時点で、Yの髪は得体のしれない汚水がたっぷりとしみこんでいたことだろう。かじかじすればどうなるか? 赤痢くらいですんで幸運だった、といえるかもしれない。数日後発病し、日本に帰った際の検疫で判明した汚らしくも情けないこの病、旅行中ほとんど同じ食事をわけあって食っていた三人のうちただひとりが患ったとなれば他に心あたりはないという。結論、芸は身をたすけ、無芸は身の破滅。



 一休みした後ふたたび外へ出た俺は、Yによってパシリに任命されていた。Kの情報によると、この一日は露店で売っている菓子にドラッグが混入されているという。M(日)さんもそれに裏づけを加えた。正確な名称はいまはもう忘れたが、この日ばかりはどこででも手に入るという。それに加えてYは「ロキシー」なるシロモノを買ってこいという。なんでも法律では製造を禁止されている自家製のどぶろくのごときシロモノらしく、そこらのレストランで簡単に手に入るという。よろしい、俺にまかせなさいと安請けあいして外に出た俺は、それらしい商店を経巡り「ヘロー。ロキシー イズ ヒア?」と文法を無視した英語で問うてまわった。ところが、そんなものはないとか、OKといいつつビールをさしだしてきたりと、どうもしっくりこない。
 タメルの端から裏街へとぬけ、なんとなくふらふらと歩いていると、なんだか指を口にくわえてにこにこと笑う三才くらいのこどもが俺に声をかけてきた。
 「ワン・ダラー」
 と呼びかけるその口調が妙にたどたどしく、実にかわいらしい。俺は笑いながら「ワン・ダラー、ノーノー」と朝の腕輪売りから手にいれた1ルピー硬貨をさしだした。するとこどもはにこにこと笑いながら首をふり、ふたたび
 「ワン・ダラー」
と、たどたどしくくりかえす。だめだだめだと笑いつついこうとすると、いつまでもついてこようとする。おい、おまえ迷子になっちまうぞと追いかえそうと苦労しているうち、ふいにポケットに手をつっこんでとんでもないものを取り出した。水をつめこんだ例の風船爆弾である。
 うおうと叫んで飛びすさる俺に、こどもは笑いながら何度も投げるタイミングをはかっては逡巡する。結局、凶器は路上に弾け飛び、へっへーと舌を出してれろれろする俺にこどもはかわいらしく悔しがりつつ、
 「ワン・ダラー」
と捨てぜりふをひとつ、踵を返すのだった。
 裏街をぬけて高校脇の表どおりに出ると、ラトナ公園裏手の広場だった。ここにもバザールが展開している。やはりすごい活気だ。ふらふらと歩みよると、門脇にいくつもの露店が開いていた。得体のしれない油をたっぷり張った鍋で、小麦粉をベースにお菓子を焼きあげている。不気味だが、うまそうだ。「カティ?」と値段をきくとこれがどれも手ごろ。ドーナツ様の一品を皮切りに、数種類を口にしてみた。油でぎとぎとしているが、うまい。下品なうまさだ。
 市場に足をふみいれる。演歌とも民族音楽ともポップスともつかぬ異様な音楽が大音量で鳴り響いているミュージックテープ屋の周囲に、黒山の人だかり。広場の中心部には衣服、カバン、靴等の身具を中心に露店がひしめき、それを取り囲むようにしてカバブー、菓子売り、焼きそばなどの屋台がならぶ。どれもこれもうまそうだ。カバブーは鳥の唐揚げのようなシロモノ。これがまた異様にうまい。おや、ポテトチップスかな、これは。よし、これをくれ。
 それはポテトチップスを空飛ぶ円盤状に膨らませたシロモノだった。5ピースで1ルピーだという。金をはらうと、店番はにやりと笑って俺の眼前に金物の深皿をかたんと置いた。ん? なあに、これ?
 その上にポテトチップをのせてくれるのかと思ったのだが、なぜか男は山上から一個だけつまみあげて頭の部分をパリンと砕いて口をつくり、ついと鍋のむこうにひっこめる。なんだなんだと見守る俺の前で、恐るべき光景が展開しはじめた。
 なにやら鍋の中に満載された水をついと掬いとり、それをポテトチップの砕いた口へむけて慣れた手つきで注ぎこんでいるのである。戦慄が背筋を奔りぬけるのを覚えつつ俺は鍋の中身をじっくりと観察した。透明の液体。どう見ても熱を加えられている様子はない。ダッカからこっち、水とそれに類するものだけには気を使ってきたのだ。これは危ない。
 とか思いつつ、ホテルでとはいえ氷入りの冷たい飲料を何度か口にしてきてもいる。いまのところ変調の欠片もなく体調は万全だ。まあ大丈夫だろう。と瞬時に安易な納得をし、俺は皿の上にからんとおかれた水入りポテトチップをぽんと口にほうりこんで噛みくだした。
 ぱりんと砕けたチップの底から、刺激にみちた水分が口中いっぱいに広がる。ああ、これはどうやら酒だな。アルコールが入ってるなら、大丈夫だろう。珍しい味だなこれは。そうこうするうちに二個目が皿の上にからんとのる。ぱりんと食う。こうして、ものの三十秒のうちに俺は五つの酒入りポテトチップスを貪り食った。
 広場の反対側にたどりつくと、サンダル売りが何件か、軒をならべていた。靴の含んだ水分はけっこう乾いてきていたのだが、汚れだけはひどい。ひとつ手に入れるかとばかりに「カティ?」ときくと、これが妙に高い。ルピーの感覚はだいたいつかめてきたところだ。サンダルの相場などわからないが、日本での屋台の一口菓子の値段とサンダルの値段との比率から類推すると、どうにも高い。このバザール、タメルあたりとちがってどれもものの値段が比較的チープにおさえられていたので、このサンダルもけっこう相場に近い値段だったのかもしれないが、どうも気がすすまないので購入はあきらめた。どうもここんとこ値段交渉がうまくいかない。最初は簡単にうまくいっていたのになあ。
 身具売りの列を経巡る。帽子屋が目についた。ダッカで買ったムスリム帽はけっこういい値で売ってしまっていたので、物色する。目ぼしい一品を抽出したのだが、なぜか売り子の姿が見あたらない。「おーい、カティ、カティ?」と声をあげていると、人のよさそうなおじさんがひょこひょこと近づいてくる。泥棒とか万引きとかの心配はないのかな、この国は。
 ダッカの青いムスリム帽と異なり、その赤い帽子はぴったりと俺の頭にフィットした。悦に入りつつ市場をひとめぐりし、ラトナ公園の裏手に出た。いけねえ、ロキシーを忘れてた。
 歩道橋ゲートをわたっていくつかの酒屋やプアマンズ・レストランをさがしてみたのだが、「ビア? ウォッカ? オア、ブランデー?」とわけのわからぬ返事がかえってくるか、そんなものはないと手をふられるかどちらかだ。妙だ妙だと思いつつ最後の望みを託してホテル最寄りの酒屋に立ち寄る。
 店内では、数人の男たちがテーブルを囲み、客そっちのけでカードゲームに興じていた。おーい、ヘロー、ロキシーイズヒアー? と呼びかけると、油ぎった顔のおっさんがにこりと笑って立ちあがり、いいとも、好きなのを選べ、という。
 いったいどこにロキシーがあるんだと訊ねると、おっさん、「これもロキシー、これもロキシー、これもロキシー、全部ロキシー」と、後ろの棚にならんだ各種酒類を順々に指さしていく。すると……ロキシーてのは、酒の別称のことなのか?
 後にロキシーというのはたしかに各家庭や各種レストランに自家製のものとして存在していることが判明するのだが、この時点ではそんなことわかるわけもない。なんでえロキシーてのは要するに酒のことなんじゃねえか、Yのやつめ、人を無用に混乱させやがって、しょうがねえなもう、と、比較的まともそうなウォッカと、おじさん自身が顔をしかめて「SO BAD」買わないほうがいい、と太鼓判をおしたいかにも胡散臭いネパール語表記のラベルの一品を手にする。
 つまみにゃ合わんがついでにとなりのケーキ屋に立ち寄り、クッキーを数種類買いこんだ。Kの知識によると、ドラッグをやると甘いものが食いたくなるらしく、これが原因でカトマンズにはケーキ屋が発達したのだという。
 日暮れてホテルに帰還し、クッキーと酒をさしだした。なぜかKはクッキーには手を出さなかった。なぜなのだろう。うーん。寝ているところを叩き起こしたから、機嫌が悪いのかなあ。

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