暗い断章
「10ドルだ」と男は言った。俺は目をむいた。10ドル? チップが10ドルだと?
ふざけるのもいいかげんにしろ、と怒鳴ってやればよかったのだが、いかんせんふたたび弱気の虫がむくむくと首をもたげていた。しかし、それにしても冗談だろう? 10ドル? いかんいかんダッカの最初の朝、あれほど弱気はいかんと己に言いきかせたばかりではないか。払わない。断固として払わんぞ。糞、不快な奴だなこいつは。せっかくいい気分だったのに一気に台無しじゃないか。
機内から一歩足を踏みだしたとき、清澄な空気が肌を叩いた。実にすがすがしい。気圧のせいかちょっとばかり頭が痛むような気もしないでもないが単なる気のせいだろう。それよりも、見ろよ、夕陽がきれいじゃないか。もうちょっと晴れてればヒマラヤが見えるんだろうが、なに、見えないものはしょうがねえ。とそんな呑気なことを考えながら俺たちはぬかりなく両替まですませ、入国審査もなんなく通りぬけていそいそと税関に向かったのだ。
すると、なんだか妙な二人組がYの巨大な荷物にさっと手をのばして税関へと運びはじめるじゃないか。制服を着ているし、ポーターだろう。ああ、すまないねえ。うん、そこでいいよ。などと相手の労をねぎらったりしてまるでバカ。
で、相手の要求してきたチップの額が10ドルというわけだ。ふざけるんじゃねえ、こちとらドルとタカとルピーが入りまじってたしかに金銭感覚がおかしくなっちゃいるが、10ドル出すほどバカじゃあねえぜ。煙草銭やるからさっさとあっちいっちまいな。
するとこの糞ったれポーターども、ふてぶてしく英語でなにやら述べやがる。Yの顔色がすこしかわった。んー?
「10ドル出さないと、税関通してやんないぞって」
?
税関? こいつらただのポーターじゃなかったの? しかし、それじゃあさらに悪質じゃないか。だが、日本を立つ前に仕入れた予備知識がこのとき俺たちの脳裏に去来する。この国では上から下まで賄賂が行き交っている、と。
賄賂。賄賂か。こんな末端の職員までが、それも一旅行者に要求するほど、賄賂がいきわたってるってのか。……いかん。ここで弱気になっては悪例ますますのさばるばかりじゃねえか。冗談じゃねえ。俺は断固として出すもんか。
とはいかない。虫は意地をあっさりと凌駕した。俺は首にぶらさげた財布がわりのズタ袋からシオシオとドル紙幣をとりだし、職員にさしだした。
にやりとしながら職員は賄賂を受け取り――
「もう10ドルだ」
……おい。……おい、嘘だろう? 俺とYは呆然とする。だが職員はさも当然のごとく相棒を指さし、この男の分だという。ひとり10ドル。
うんざりだ。なにがなんでもそれだけは出ない。いいとも、好きなだけ荷物をひっかきまわすがいいや。こちとらやましいものなんざ何も持っちゃいねえ。でも、やっぱやだなあ。
「俺たちは貧乏旅行者なんだ。そんなにいじめることないじゃないか」
俺はできるだけ哀れを誘うよう精一杯の媚をこめて職員にいった。だが職員はさも偉そうな態度でもう10ドル、とくりかえすばかり。
と、思っていたら……
ぱりっとした制服を着た長身の男がスタスタと自信にみちた足取りで俺たちのわきを通りぬけ、おもむろにカウンターの前に立つと先行していたKの荷物をてきぱきと調べはじめたのである。
俺とYはあんぐりと大口あけた。なにが起こっているのかまったく理解できなかった。目の前の二人組は「しまった」とでも言いたげに小さくなっている。
長身の男は二人組をちらりと一瞥したのみで、なおもてきぱきと作業をつづける。つまり……これは……要するに……。
「10ドル」
あきれたことに、このサギ職員はしれっとした顔でくりかえした。Yももう取りあわない。俺は――いまさらさっきの10ドル返せと悶着起こすのも面倒だ。糞、しかし腹わた煮えくりかえるのはどうしようもねえ。
男の目ん玉、じろりと正面から睨みおろした。それで気がすむわけでもないが、せめてもだ。ついでに男の胸につけられた名札を穴のあくほど観察した。ネパール語で書いてあるので読めるわけはなかったが、てめえのことは絶対に忘れねえからなという意志表示だ。
情けなさと腹立たしさに苛まれたまま空港を出ると、日本人とネパール人の二人組がすっと近づいてきた。
Yさんですか、と声をかけてくる。これもYのコネで現地のネパール人が迎えに来てくれることになっていたのだ。まったくYには世話のかけっぱなしだな。
二人組はM(日本人)、S(ネパール人、ダッカのS氏とは別人。このコンビは混同を避けるために以後「M(日)、S(ネ)」と表記する)と名乗る。疲れた顔をしてしょぼしょぼ出てくる女性がいたので、この人じゃないかと直観的に判断して声をかけてきたということだ。そりゃ疲れた顔もする。まったく、冗談じゃない。
俺たちがなぜ落胆しているのかを説明すると、やはりM(日)さんとS(ネ)さんも呆然とした。これまた相当悪質なペテンらしい。裏をかえせば、そんな粗雑なペテンにころりとだまされる俺たちこそ相当のバカ、ということになる。まったくだ。ぐうの音も出やしない。
後に知ったことだが、M(日)さんとS(ネ)さんは義兄弟の関係らしい。二人とも神奈川で暮らしているらしく、S(ネ)さんはアルバイトをしながら留学中というご身分。
S(ネ)さんにタクシーの値段交渉をまかせ、俺たちはとっぷりと暮れたネパールの空を見あげた。結論。弱気はいけねえ。絶対にいけねえ。喧嘩は気迫負けしたほうの負けだ。なにがなんでも、敵の上をいかなきゃどうしようもねえ。
糞。それにつけても腹の立つ。