落語がうまくなるということは、 噺家にとっては客を楽しませるための手段であり、目的ではない。 また、唯一の手段でもない。 小三太さんの高座を見てそんなことを考えた。 まずマクラがいい。 字にすると面白くもなんともないことが、 小三太さんの口から出るとなぜかおかしい。 話が盛り上がって「さてどうなるか」と思っていると、 「それはまあどうでもいいんですが」と全然ちがう話題に行ってしまう。 この脱力感もまた心地よい。 この人の高座は噺に入ると短い。 演じるのが大変そうな所は容赦なく割愛される。 噺はほとんどあらすじしか残らない。 ときにはあらすじさえよくわからない。 それでも語り口だけで十分笑わされてしまう。 「うまい」落語を聞きなれた客には、 もうタコができているような笑いのツボ以外の、 自分でも知らなかったようなツボを刺激されるのが、 なんともいえない快感なのだ。 そんな小三太さんに弟子ができた。 中央大学卒の好青年である。 他にも「突飛な芸人伝」(吉川潮著)で紹介されたり、 三年ぶり(本人談)で定席に出るなど、今年は話題の多い小三太さん。 いよいよブレイクか。 (2001-07-02) |