Tomas Milian トーマス・ミリアン
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荒野の処刑(1975年)  その2 
男のプライド
主人公スタビーは、マカロニの世界では珍しい、純然たるギャンブラーである。正統派西部劇ではちゃんとした一個の職業人(?)として確立しているのだが、マカロニ世界では、だいたいどこの酒場も売春宿も、閑古鳥なので、あまり専門のギャンブラーが活躍する場がないらしい(数がすくないことの推測)。拳銃を携帯している気配もないギャンブラーが主役であることから、この映画がマカロニ・ウエスタンとしてもかなり異色であることがしれよう。

さて、ギャンブラーはサロンにでいりするので、みだしなみが大事である。荒野をさまよっているというのに、ひげ剃りなど、念入りなみづくろいだけはおこたらない男前のスタビーに、当初あきれがちだったバニーも、だんだん笑顔をみせはじめる。どうやら、賭事用のカードのセットとひげ剃りセットの一式が、スタビーのプライドの象徴であることがわかったからだ。彼は荒野にあって、拳銃を自分のシンボルとみなす男とは少々ちがうらしい。こんな小娘、サンドシティについたら売り飛ばす、といいながも、終始やさしくつくすスタビーに、バニーはだんだんひかれていく。

飲んだくれのクリムがスタビーの化粧水をのんでしまったり、ささやかな小競り合いはあっても、のんびり道中がつづく。しかし、まだ小娘みたいにみえるのに、妙に具合がわるそうなバニーをといただしてみれば、実はバニーは妊娠していて、臨月も近いという。当時の衣装がボディコンシャスではないので、気づきにくいとはいえ、あまりのことにあきれてものがいえないスタビー。クリムとバッドはそのことを知っていて、気の毒に思ってだまっていたのだ。

そうこうして、一行は、バイブルをかかげた大陸からのキリスト教移民団にであう。われわれはモルモン教徒ではない、スイスからきたのだという一行は、スタビーとバニーを夫婦だとおもい、丁重にもてなしてくれる。移民団のあたたかいもてなしのさなか、たき火をかこんでのたわいない会話にでた「結婚」ということばに、妙にむきになるバニー。同情したスタビーは、彼女を自分の妻だとおもっている善良な人々の勘違いを、わざとそのままにしておいた。

チャコとの出会い
移民団とわかれてすぐ、荒野で一人のふうがわりな狩人チャコに出会う。とにかく自分は凄腕のハンターで、ライフルをもたせればどんな獲物ものがさないから、荒野にいても、食料にことかかなくなるぞ、といわれ、よろこんで仲間にむかえる一行。まるでゲームのようにつぎつぎウサギやトリをしとめるチャコをみて、はしゃぐバニー(能力の高さ
これが問題の残虐シーン
実際の映画にはナイフでえぐる
シーンはありませーん


&特技の有無も男性の魅力のひとつですからねえ)。チャコにうっとりしながらも、しかし、どうしてこれほどの人が荒野でひとりさまよっているのかわからないわね、とふと疑問をもらす。しかし、いつしか一行のリーダー格になっていたスタビーは、しかし、どうせどっかでふくろだたきにでもあったのだろうと、あまりとりあわずにチャコを信用してしまう。

一行がチャコをうけいれてすぐ、野盗がおそってくる。ほら、おれの出番だとばかりに、射程距離のながいライフルで、つぎつぎに追っ手をしとめるチャコ。しかし、まだ絶命していない男をみつけてしばりあげて、木につるし、どこで手に入れたのかわからない保安官のバッジを死にかけた男のむねにつきさしてうれしそうにしている光景をまのあたりにして、はじめてチャコに関して一行はみてはいけないものをみたきになる。そもそも、この追っ手は野盗ではなく、チャコだけを追ってきた追跡者であった可能性もあるのだ。

チャコがつかまえた男をなぶりものにしているシーンは、ここに掲げた画像(「荒野の処刑」サントラのジャケットより)でみると、ナイフでなにやらはらわたをえぐっているようにもみえるのだが、実際の映画では、保安官バッジを胸につきさす、というシーンになっている。これは、表現の自粛とみてよいだろう。ヨーロッパでは、バッジをつきさすシーンですらカットされた国があるらしい。

その夜、久々に人を殺して血がたかぶったのか、チャコは目の下に十字をしるしたあやしいメイクをほどこし、カリスマ的言動を仲間に対してとりはじめる。スタビーはあきらかにそれを怪訝におもっているのだが、ほかの連中は泥酔でもしているのか、だまってしたがっている風だ。

ほとんど信者のいないグルというかんじの、この場面におけるミリアンの演技はすばらしい。幅広のバンダナに、ひげだらけのヒッピースタイルで、ほとんど目だけしかでてないのにもかかわらず、いい男ぶりと怪しげな言動で周囲を魅了する。たき火でてらし出されるミリアンの顔がこわい(でも、すごくいい)。自分の容姿やふるまいが、周囲におよぼす影響力の大きさを知って酔いしれる男を演じてあまりあるのだ。ひげだらけのヒッピースタイル、と書いたが、この映画の衣装担当はマッシモ・レンティーニ。この人はほかに「ケオマ」などを担当しているが、「ケオマ」では、1977年の映画であるにもかかわらず、フランコ・ネロに「らっぱずぼん」とむねをはだけたインディアン風衣装で、ウッドストックふうのかっこうをさせている。

ミリアンは、このチャコの役作りに関してはずいぶん自由にやらせてもらったと後年インタビューでこたえている。衣装もほとんど自分でえらんだと豪語しており、インディアン風のテイストだが、長髪に三つ編みをまぜ、指には大ぶりの指輪、うでに鋲をうった皮のベルト、という、あんたハード・ロッカーかい、といういでたちである(いまならグランジ系かなあ)。ライフルをなによりも大事にしているらしく、(少々かわった銃かもしれないそうな。蔵臼先生、のちほど鑑定おねがい申し上げます)かたときもはなさない。

チャールズ・マンソンと聖餐とドラッグの関係
チャコは「コヨーテの肉はいけるよ」といいながら、スタビーに乾し肉と、小瓶にはいった酒をさしだすが気味がわるいのでこっそりはきすててしまうスタビー。
ほかの連中はというと、まるで聖餐式の月餅のようにチャコの手から口に直接肉をうけとったうえ、喜悦の表情をうかべて酒をもらっているのだ。あきらかにそれには麻薬がはいっていて、意識がもうろうしておかしな言動をとりじめるほかの三人。もっとその酒をくれとせがむクリムに、犬のまねをさせながら、スタビーをしばりあげろ、と命じるチャコ。いかれてしまったクリムは、チャコのいうことをきいてしまう。

このシーンには、69年夏、世間をさわがせた、いかれたヒッピー・悪魔主義カルト教団、チャールズ・マンソンとその「ファミリー」がひきおこした「シャロン・テート事件」(映画監督ポランスキーの妻、シャロンが友人とともに惨殺された事件)といった、ドラッグとカルト宗教が引き起こした事件の影響がそこはかとなく感じられる。また、奇しくも先に挙げた「イージー・ライダー」では、主人公ふたりがガール・フレンドたちにドラッグを聖餐のように直接口にほおりこんでやるシーンがある。聖餐というのは、キリスト教において、パンと葡萄酒を救世主イエスの血と肉にみたてて儀式的にのみくいすることをいい、どんな宗教にもつきものの、原始宗教をおもわせる大事な儀式だ。これは信仰告白と密接な関係があるので、これらの儀式をうけいれるということは、大なり小なり「自分」をすて、その宗教なり、支配者に対し全面的に自分の価値判断をゆだねることにほかならない(異論はあろうけれども)。また、バニーが臨月の妊婦だという設定だが、これはシャロンが臨月の妊婦だったことも関係ある・・・かな? たんなる思いつきかな、やっぱり。

さらに、チャコを演じたミリアンだが、自分自身、ヒッピーだった、と後世回顧している。ミリアンはNYアクターズ・スタジオ時代にしりあったデニス・ホッパーと親交が深かった。ホッパーといえば、ドラッグ・カルチャーの最たる部分に十年以上もつかりきっていた男(よく生きてたなー)。ミリアンはそんなホッパーとは、イタリアに移ってからは会っていなかったらしいが、ホッパーが「イージー・ライダー」で稼いだカネで撮った、かの有名ならりぱっぱムーヴィー「ラスト・ムービー」(1971年)を撮るにあたって、ペルーによびつけたメンバーのなかにはいっていたのだから、彼のいう「ヒッピー」は、そんなかわいいもんじゃないだろう、ということがわかろうものだ。つまり、フルチ監督が予期していた以上に、ミリアン自身がこのチャコの人物造形をつくりあげて成功させてしまった可能性が大なのだ。

生かすか殺すか
さて。よがあけて、器用にしばりあげられた三人がいた。チャコの手先にされて、ふぬけのようになって傍観しているクリム。意識のはっきりしているスタビーをしばしいたぶったあと、やおらバニーを犯しにかかるチャコ。ちゃんとくどけばいいないりにならないでもなかった女を、麻薬でらりった状態にしてから犯しににかかるチャコは、ずばり、彼女がスタビーの女だと信じていたからこの行為にでたのである。スタビーがみていることを確認したうえで蛮行におよぶ、このシーンはなぜかすぐれたショットが満載である(わかりやすい監督だなあ)。

一夜あけたらこのありさま。
マネをしてはいけません。
ミリアンがもっているのは
スコップではありません、ライフルです

チャコがライフルでスカートをめくりあげ、足でけってバニーの両足をひろげるシーンがある。(19世紀のズロースはながいので、基本的に図柄はエロっぽくはない。黒ずくめのチャコ=ミリアンが仁王立ちになったショットごしにねころんでいるバニー=リン・フレデリックの可憐なすがたがあるので、精神的な圧迫感だけが画面にかなりの緊張感をあたえる。さらにミリアンがガンベルトをはずしてなげるシーンはちょっといろっぽい。ズロースをさげるシーンがフレームをわざとそらすようにして少しあって、のち、とろんとした表情のバニーのブラウスの前に手をかけるミリアンのショットになる(あの体勢で、どうやって妊婦のうえにのっかてんのか疑問だけど、まあ、いいや。ミリアンはある意味実直な人だから[言葉あいまい])。

スタビーがもっと二人をよくみようとくびをのばしている情けないショットがあって、つぎにこんどは自分のむなもとくつろげてたのしげな様子のチャコがスタビーにむかってちかづいてくるショットにつづく(実は、直接的なレイプのシーンはまるでないのです。上品な映画です。その分、構図がこっている)。「けっこうたのしめたろう?」とうれしげにスタビーにはなしかけるチャコ。スタビーの局部をけりあげてますます楽しげな様子になる。「いつかおまえをころしてやる」としばられたまま情けなくつぶやくスタビー。スタビーが大事にしていたひげ剃りセットからかみそりをとりだしてスタビーのくびにひやりとあて、「奥さんをありがとよ。ひと思いにこれ(かみそり)で殺してやってもいいが、このままにしていく。日干しになるなり、山犬にくわれるなりするといい」、といって、立ち去ろうとするチャコ。

チャコがスタビーにみせるためにバニーを犯し、殺しもせずに一行をそのままにしておいていってしまったのはなぜなのか。映画では、自分でもわからない、気まぐれ、と後にかたらせているが、これは脚本のゆるさだろう。これはいっそいわせないほうがよかった。やはりチャコがもとめていたのは、対照的な存在の、一目おいている存在であるスタビーに対して、いかに自分が影響を及ぼすか、そのさまをじっくりみてみたい、という欲求であろう。あっさり死なれてしまっては、おもしろくないわけだ。

あられもないすがたにされたまま放置されたバニーのスカートと、ブラウスをもどしてやったクリムが(正気にもどった証拠。演出が繊細)、出発しようとするチャコを石でうとうとするが、失敗、逆に足を銃でうたれて放置される。砂漠同然の荒野で足を撃たれては、死んだも同然である。とはいえ、足をうたれたクリムがなんとかして皆のいましめをほどき、一行は足からひどく出血しているクリムをきゅうごしらえの担架にのせ、砂漠を横断することになる。サンドシティはまだ遠いのだ。そんななかで、だんだんに絆をつよめるバニーとスタビー。チャコにとられてみて、はじめてバニーを愛していたことに気づく、にぶいスタビーであった。

途中、ならずものを手下にひきいれ、あらたな殺戯にふけるチャコとすれちがうが、岩場にかくれて、息をころしてやりすごす一行。しかし、自分たちより先に出発していたはずのキリスト教移民団が、老人はおろか、子どもにいたるまでチャコたちにみなごろしにされているのをみて、スタビーはチャコを殺すことをあらたにちかう。聖書にまで冒涜的行為をはたらくチャコの真意はどこにあるのか。

ホントは真意なんて、ぜんぜんかんがえてないんじゃないか、この映画・・・と一抹の不安がよぎるなか、まだ旅はつづく。

まだもう一回あるぞ。
もっと山犬の肉、
くってけ。
つぎはもっとひどいもの
くわされるから。



荒野の処刑(1975年) その3
へつづく



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以下続予定


ルチオ・フルチのカルト作品
ベルトルッチ「ルナ」
アントニオーニ「ある女の存在証明」も予定



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