Tomas Milian トーマス・ミリアン
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荒野の処刑(1975年)  その3 
最後の晩餐
男前のスタビー役
ファビオ・テスティ


つぎにおとづれた街は、炭坑の閉山かなにかで無人になった街で、つめたくふりしきる雨をやりすごすため、一行は廃屋に入り込む。
火をおこし、体をあたためなければ、といい、男たちは服を脱ぎ出すが、バニーは妊婦であることもあって、はずかしがって、なかなか脱がない。繊細な面をみせるバニーを気遣い、いとおしく思うスタビー。

ほんのひとときやすらいだのもつかのま、寒さのなか、徐々に衰弱して死んでゆくクリム。バニーとスタビーの手をひきよせ、サンドシティにいったらふたりで結婚してくれ、いつまでもひとつベットでねむるんだぞ、とつぶやきながら絶命する。夜が明けて、廃屋にやわらかいあかるい光がさすなか、やさしく抱きあうスタビーとバニー。(あの〜、ここまでのどこがマカロニなんで? って声が聞こえてきそう)

そんな二人を廃屋におきざりにして、さむい墓場をなぜか裸でうろつく黒人のバッド。墓場で死者と会話をするなど、あやしげな言動をとりはじめていたのだが、ふいにもどってきて、クリムの死体をかたづけるといって死体を抱いていく。

雨があがり、平和な気分にみたされるなか、突如感じはじめた空腹。バッドが突如、大きな動物をしとめたから、といって、肉塊をもってあらわれる。抵抗なく、調理をはじめる三人。大きな肝のようなものにむしゃぶりつくバニー(映像、みょうに彼女の口元をなまなましく撮っている)。これはうまいから、あまった肉はこれからの旅にもっていこう、なんてなんだかおそろいしいことをいいだすスタビー。起こした火に顔を照らされて、なにやらあやしい晩餐の風景がつづく。

おそろいしいこと、と書いたのは、タイミングからいって、三人が料理している肉塊がクリムの体の肉なんじゃ・・・、ということが感じとれるから。そして、以前から様子がおかしくなりつつあったバッドが、このときを境に二人のまえから忽然ときえてしまう。「ちがう世界にいってしまった」バッドは、墓地で死者とおはなししている段階を越え、おそらく、クリムを食肉用に解体していくうちに決定的に発狂したのだろうと思われる。その場面は描かれていないのだが、うがったみかたではないとおもう。

▲じつは、私の観たインターナショナル・バージョン(英語版)ではカットされいているシーンが、イタリア版のオリジナルにはあるそうです。この部分をみると、三人がたべている肉が何の肉か、はっきりと映っているとか。おしえてくださったArizonaさん、ありがとうございました。近く確認して、比較してみます。

翌朝。二人はこの町を旅立つことにする。バッドはちがう世界にいってしまったら、おいていくしかない、とバニーにささやくスタビー。画面は、ものかげから、スタビーとバニーがたちさるのを何者かがながめるアングルをとっている。その何者かは、ついぞ、写ることはない。このカメラアングルはホラー映画の手法である。それにしても、一番人のよさそうな、たんなる墓堀人だったバッドが、突如亡霊とかたらい、カニバリズムに走る意味はいったどこにあるのだろうか。美男美女がそこにご相伴するのはもっと不可解。そろそろ、混迷もふかまってきたがまだ旅は続く。

女のいない町
つぎの街をめざして新たに歩きはじめた二人。渓谷までさしかかると、馬車で道をゆくスタビー旧知の司祭に出会う。荒野を徒歩の女連れ、というどうみてもつねでないシチュエーションだが、「ハネムーンの途中でね」と、いって笑いとばすスタビー。司祭(容貌はアルジェント似のホラー顔)は、二人をやさしくもてなしてくれる。湯をわかしながら、「かつて、神学生だったときに、すっかりカネをまきあげられたこともあるんだけど、なんだかにくめない男でね、あなたのご主人は」とかたりかける司祭に、「いいえ、みかけによらずやさしい人なのよ」、とほほえみながら答えるバニー。しかし、ほっとしたのもつかのま、突如産気づいてバニーがくるしみだす。

ちかくに町があるにはあるが、ひどくふうがわりな町なのだ、と顔をくもらせる司祭。しかし、そこにいくしか術はない。司祭が馬車をとばしてくれた町は、男しかいない街だった。女が必要なときには隣町のサンドシティに買いにいくからいいんだ、めんどうごとがおきるからここに女はいらん(おいおい☆ そらまあそういう面もあるかもしれないけど)、という哲学をもったならずものが集まっている町で、不安になるスタビーと司祭。当然、産婆もいない。なぜか酒場にとおされたが(飲食店だから、すこしは清潔?)、くるしむバニーをどうしようもない。そして、さらなる不安をかきたてるように、この町は一面雪景色なのだった。

クリムが死んだ町は土砂降りの陰気な雨模様だったのだが、こんどは一面の雪。つなぎの荒野は日が燦々と照りつける砂漠同然、と、一本の映画のなかでの、あまりの気候風土の変貌ぶりにめまいがおきそうだ(隣町という設定なのに)。ひょっとして、これは主人公のたちの心象風景のあらわれ? といいたいところだが、マカロニの場合、疾走シーンの途中でも、いきなり天候がかわるフィルムも多々あるので(あらら〜)、そんな高級な意味づけなど本来しないのが普通かもしれない。しかし、これがロケ地の都合だとしても、奇妙なエピソードにぴったりした画面づくりがしてあるので、気にしてはいけない。

さて。苦しむバニーをすくう人間はだれもいないのかと、いったんは思われたが、のんだくれの、たった一人しかいない医者がとりあげてくれることになる。「こどもはだいじだ、この町の恥にならないように無事にとりあげろ」と突如医者につめよるならずものたち。(やはりイタリア人は根っからのこども好きなのか?) そこで、いきなりだが、むくつけき男たちがかいがいしくシーツをもってきたり、雪をとかしてお湯をわかしたりしはじめる。スタビーもバニーも美男美女なので、当然、きれいな子がうまれるという想定のもと、黒い目が生まれるか、緑の目がうまれるか、男の子か女の子かで、うれしそうに賭まではじめる始末。

そして、(運のいいことに)男の子がうまれる。うみのくるしみのなかで、「あいしてる?」とスタビーにといかけるバニー。「その男の顔みりゃわかるだろ」と、医者はいったが、だんだんバニーの顔に死相があらわれてくる。「いままでのつらいことがいっぺんにおとづれたようだったけど、へんにいま、しあわせなの、あたし。16歳だったときのように」とけなげなことをいって、いきたえるバニー。特殊メイクが徹底しすぎていて、死んだバニーはくちびるまでひび割れて「まるで死体」みたいである。

ひどい喪失感に、涙もことばもでないスタビー。そんなスタビーを横目に、あらくれ男たちは、帽子をなげあげ、拳銃をうってこどもの誕生を祝っていた。男たちは、嬰児をとりかこみ、いいしれぬ生命の感動にうちふるえている(あの・・・これ、マカロニじゃ・・・)。イエス・キリストを馬小屋で礼拝(らいはい)した東方の三博士のように、つぎつぎならんでうまれたての男の子をみに酒場にはいってくる男たち。蹄鉄をささげ、強い子になれとささやくものまでいる始末である。酒場で突如はじまる馬小屋の聖劇。

はやく赤ん坊の洗礼をすませてやれ、と男たちが司祭につめよるが、まずは名前をつけなければ、と司祭がおしとどめる。すると、だれともなく、幸運な子だから「ラッキー」がいいだろうといって、それがすんなりとおってしまう。父親のはずのスタビーにはなにも口をはさむ余裕がない。男たちは、赤ん坊に夢中で、寄付金をつのり、産着もかってくる。ミルクはヤギがいるから充分だとか(ヤギの雌はいるんだ・・・)。父親のはずのスタビーに一同の目がいき、つぎに、生まれた子供をスタビーがつれていってしまうのではないか、と緊張がはしるが(当然の権利ではある)、スタビーは自分はバニーとの思い出だけでいいから、その美しい男の子はおいていくよ、という(実はうまいいいのがれだったりして)。町の男たちは狂気乱舞してよろこび、町が平和になったとよろこびあう。

らしくない主役の意味するもの
おもわずあっけにとられる展開だが、ここまでの物語を無駄としりつつ、整理してみよう。

ヒロインのバニー役のリン・フレデリックは可憐で、まず少女といってもいい容姿容貌である。娼婦だったという設定だが、それらしい言動はまるでなく、「らしくない」存在である。マカロニ・ウエスタンで、ヒロインが娼婦であること自体は珍しくないが、(っていうか、そのほうが多い)娼婦のタブーははっきりいって、妊娠出産である。娼婦がボディコンシャスな服をきるということは、まず第一にセクシーさをアピールするということもあるが、これは腹部のほそさを強調することが妊娠をかんじさせない装いであるということが一般的にいえるだろう。

その点、バニーは、ふくらんだ腹部をかくすためとはいえ、最初からもたついたこどもっぽい服をきいていて、その点でも「らしく」ない。スカートの下には、お人形さんのようなかわいらしい長いズロースをはいていることも、確認されている(へ?)。そこで「少女じみた=処女性のつよいヒロインがだれだかわからない男の子供をうむ」、という話しがうかびあがるわけだが、これが、「聖劇」をすくなからずイメージさせるのは必至だ。とはいえ、この映画におけるヒロインは、「聖母子」譚とことなり、チャコなどというあやしげな男に犯されたうえ、はかなくも子どもを産んですぐに死んでしまうのだ。(ちなみに、70年代スピリットが濃厚で、わりと雰囲気の似ている『ケオマ』でも、ヒロインは子どもを産んでそのまま死んでしまいます)ここに、チャコというアンチ・クライストなカルト教団の教祖的男の、偶像破壊的行為をみてとることも可能だろう。

では、男前で誠実だが、生まれた男の子の実の父親ではない主役のスタビーの役割は・・・とかんぐりたくなるけれど、そこまで整合性がないところが、いいかげんな(いいきってしまった)この映画のいいところだろう。出産のエピソードではまるっきり存在意義のない主人公だが、本来、この映画はマカロニ映画であり、スタビーとチャコの確執がテーマなのだから(たぶん)、こちらは脇筋といえばなんとか筋は通る。しかし、脇筋とはいえ、この死んでしまう妊婦のイメージは強烈で、この映画ではなにが一番重要なテーマなのか混乱させる要因ともなっている。しかも、どうも、本気でおごそかに嬰児のシーンを撮り上げているから、困惑の度合いがいっそう強まるのだ。

マカロニ・ウエスタンとしての筋をたもつためには、男ふたりの確執をもっと主軸にすべきだっただろう。そのためには、復讐譚の性格をより明確にして、スタビーの動きに的をしぼるべきだと考えるのが常人である。しかし、脚本と演出は著しく、ヒロインの悲劇によりそい、アンチヒーローのチャコのほうにウェイトをおいてしまっている。

この映画はマカロニ・ウエスタンとして、あきらかに逸脱している、個人的な映画なのかもしれない。そもそも、ここまでみてきて、一度もテスティ演じるスタビーはガンプレイを披露していない。どのウエスタン映画でもみられる、「主人公の腕前をまず観客にみせる」シーンは、それがギャンブルというかたちですら、一度も描かれることはない。むしろ、それをみせるのはミリアン演じる、「悪役」チャコなのだ。だから、主人公に寄り添おうとしてみている観客は、主人公の能力を知らないままに最後までついていかねばならず、ただ人がいいだけの男の受難につきあわされて、フラストレーションをつのらせることになる。その反対に、ウエスタンの主人公としての要素を十二分にもったミリアンが悪党として活躍する、逆説的展開を延々とみせられることになるのだ。

このねらいは、ある意味で、「意欲的」といえるかもしれない。しかし、そのねらいが、混乱していることも事実だ。興業的にこの作品が本国であたらなかったのは、決してマカロニ・ウエスタンがすでに75年の段階で下火になっていたことだけではない。ここまで、逆説的展開で、さまざまなモチーフをもりこみすぎていては、個々のシーンをとりあげておもしろがることはできても(←私のコトね)、作品として正しく評価するにはなかなかいたらないというのが本当のところだろう。奇異すぎて日本ではビデオ公開しかされなかったのもむべなるかな。しかし、このこだわりすぎて奇異なモチーフのつらなりや、センシティブきわまりない演出に、奇妙な哀感があって、すてきれないおもしろさがあることも事実である。

ヒーローはラスト十分で復讐に旅立つ
ラッキーと名付けられた嬰児を町の人に預け、かわりに、マントと、馬と、拳銃をもらって、いよいよ復讐に旅立つスタビー。映画は、のこすところ、あと十分くらいという時間である。

旅だったとたん、スタビーはチャコが仲間を歩哨にしていぎたなくねているところを見つけだす(時間の都合?)。先手必勝のギャンブラーの極意をつらぬき(?)、問答無用でチャコの仲間ふたりをうちころし、ライフルに手をのばそうとしたチャコの利き腕をうちぬくスタビー(いつのまにそんなにうまくなったんだ、その銃の腕前は、などとは気にしないこと。主人公なんだから)。

「きったねえぞ」といってチャコはうめくが、まあ、これまでどっちがきたないんだか。そこで、やおら優位にたったスタビーは、チャコにもちさられていた自慢のひげそりセットで悠然とひげをそりだす。なおも、銃に手をのばそうとするチャコを足でふみしだいて、昂然とふるまうスタビー。

バンダナをはずしているため、長髪にひげだらけで、ほとんど目しかでていないチャコの顔に、シェイビングクリームをいたぶるようにふきつるスタビー。それをつばではきとばすチャコ。スタビーの手がすっとのびて、チャコのほほにかみそりできりつける(国によってはカットされているシーンらしい)。屈辱で顔をゆがめるが、ひげだらけなのでよくわからない。「どうしておまえをいかしておいたのかわからない」とつぶやくチャコ。

チャコは、それでもなお挑発するように、移民してきたキリスト教徒の一団からうばった十字架をかざしながら、「これでもおくさんにやんな」、といってにやりと笑うが、これで枷のはずれたスタビーは、チャコにむけて複数の銃弾をうちこむ。ほこりとわらにまみれ、あっけなく絶命するチャコ。

そして、後日。荒野には、マントをはおり、すっかりあやしげな雰囲気をただよわせた、陰鬱なガンマンになったスタビーのすがたがあった。やせ犬がそんなスタビーにまとわりつく。やさしく犬についてこいとうながすスタビーのほほは、きょうも美しく髭が青々とそりあがってるのであった。

決闘不在のエンディング
あらすじはすべて語りおえたけれど、最後にやはり定石をはずしていることを言い添えておきましょう。ラスト十分ほどで、いきなりファビオ・テスティの主演作なのだということの帳尻をあわせるかのように銃を発砲するシーンがあるが、これは「撃ち合い」ではないのだ。この映画には、じつはマカロニなのに一度も決闘シーンがない。早撃ちではかなわないので、「先手必勝」でチャコをやっつけてしまうスタビーは、決闘をしない。この映画に絶対的なカタルシスがかけているのは、この辺に原因があるのかも・・・。そもそも、チャコはバニーを犯しはしたけれど、このことによって、スタビーとバニーの絆がつよまったのであるし、キリスト教移民団をチャコが殺すシーンは実際にはでてこない。バニーの一件は、チャコがスタビーに対してケンカをうった、というくらいの意味しか本来ないのであろう。

撃ち合いのかわり、ふたりの確執(どちらがより優位にたち、精神的に相手を支配するか)は剃刀の返礼であらわされる。チャコは、バニーのことで精神的にスタビーを傷つけたが、剃刀を実際にはふるわかなかったのに対し、スタビーはチャコに対し、剃刀を弾丸と同時にお見舞いしいている、というのは過剰防衛的でおもしろい。スタビーがはじめてチャコに対して昂然とふるまうのは、ミリアンの利き腕をつぶしたときなのだから。利き腕=女。ふたりの価値観の激突が、やはりこの映画の主軸だといえるだろう。

カルト宗教の指導者のようにふるまっても、そうはなりきれなかったチャコと、あくまでまっとうにふるまうスタビーの価値観のぶつかりあいは、剃刀の返礼によって、クライマックスを迎え、突如物語を終幕に追い込む。裏切りと、愛していたものを陵辱された怒りと、罪のない人々を殺したことへの復讐。それがあまり意味をなさない荒涼とした世界観は、ルチオ・フルチの病んだ心がみせた世界観なのか、はたまた疲弊しはじめたイタリア映画のみせた悪夢なのか。あとは見る人それぞれの心にまかされている。


無事完結したぞ。
やっぱり俺が
主役だっただろ?




祝完結!




その華麗なるフィルモグラフィ

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以下続予定


ルチオ・フルチのカルト作品(まだあるのよ)
ベルトルッチ「ルナ」
アントニオーニ「ある女の存在証明」も予定



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