「バンブルビィ飛行」 槙弘樹
26
誰かに身体を揺すられたような気がして、時田は目覚めた。
どこかに横たわっていることは背中の感覚で分かる。屋内のようだが周囲は暗く、低めの天井には映画館ばりの控えめな照明がともされていた。そのオレンジ色の光を頼りに目を凝らすが、視認できるものはなにもない。ただ隙間風のような音がかすかに、だが絶えず聞こえるだけだった。
「――時田君?」
その声は、部屋の向こう側から聞こえてきた。
「所長、ですか」
肘を突いて起き上がろうとした瞬間、肩にかすかな痛みが走る。それ以上の刺すような感覚が頭の奥を駆け抜けていった。
「良いから、寝てなさい」
軽い足音が近づいてきて、時田のすぐ横で止まった。そちらに首をひねる。焚き火のようにやわらかな黄昏色が視界に広がった。
「俺、どうしたんですか? ここは?」
「私のキャンピングカーのなかよ」どことなく穏やかな口調で所長は言った。「君はそのなかのベッドに寝てる。運び込んだのはティガ‐アデプト。運転はお六合。時刻は二十時を少し回ったところで、時田君が第一のグラウンドで倒れてから三十分くらい経ったくらいかな。向かっている先は私の|隠れ家《セカンドハウス》。これは敵さんの再襲撃を警戒した処置よ。他に質問はある?」
「あなたは俺の知ってる本当の所長ですか?」
その言葉に、彼女が小さく笑ったのが伝わる。
「哲学をやりたいわけじゃないでしょうから、答えは単純にYESよ。要するに、自分の目にした光景が現実であったかを確認したいんでしょ。なんで、首を刃物で貫かれた人間が生きていられるのか――そこよね、時田君が聞きたいのはさ」
おそらくそうなのだろう。半分寝ぼけたような頭で、なんとなくそう思う。だから時田はうなずいて見せた。暗がりのなかでは伝わるはずもない仕草だが、それでも北条玲子は察したようだった。
「理屈はね、サージプロテクタみたいなものなのよ。雷ガードってあるでしょ?」
「あの、コンセントの延長タップなんかについてる?」
「そう。あれは落雷で生じた破壊的な電力――いわゆる雷《ライトニング》サージで家電用品が壊れないようにするためのものじゃない? 家電の身代わりになって雷のダメージを引き受ける。そんな存在なのよ」
所長はいったん言葉を区切り、ややあってささやくようにつづけた。
「今夜、私は二度死ぬことができた。なぜかと言えば、そのための備えがあったから。サージプロテクタがあったから」
「備えって?」
「これよ」
彼女はベッドサイドのランプをつけ、淡い光のなかで手にした物を時田に差し出した。いささか巨大過ぎる長方形だが、どうやらお守りの類らしい。頑丈な糸で丁寧に織り込まれた新書サイズの袋だった。視線で検《あらた》める許可を得てから、時田はなかに入っていたものをつまみ出す。
現れたのは、高級そうなクリーム色の和紙だった。新聞紙の片面ほどもあるものを小さく折りたたんでいたらしい。狭い空間では広げるだけでも難儀だった。しかも広範囲に、所長の血と思わしき赤黒い染みがついている。すでに乾燥したそれは、糊のように紙同士を貼り合わせ、はがすとぱりぱりと乾いた音をあげた。
「すごい……曼荼羅《マンダラ》みたいですね」
時田が目にしているのは、いわば何十枚もの霊符を並べた巨大なタペストリーだった。門外漢には到底読み解けない文字や紋様がびっしりと書き連ねてあり、中心部にはヒトカタのようなものが画として描かれている。
「それは、太上神仙鎮宅」静かな口調で所長が言った。「かつての陰陽師たちが辿りついた最高到達点。だから、私がもっとも時間をかけて制作するヒトカタも便宜的にそう呼んでるんだけど――」
「じゃあこれ、所長が書いたんですか」
「そう。完成までにだいたい四年くらいかかる。最近は少し短縮できるようになってきたけど、いずれにしても生涯でまだ三つしか作れていない、渾身の作よ」
「これを三つ、持ってるんですか」
つぶやきながら、時田はその意味するところを悟る。にわかには信じがたい話だったが、実際に首を掻っ捌かれた人間が平気な顔で目の前にいる事実は動かしがたい。
「今夜はひとつだけしか持ってこなかったけどね。全部合わせれば、私はたぶん四度、致死損傷《サージダメージ》を回避できる。そして今夜、そのうちのひとつを使った」
「そんな話……」
「ありえるわけがない?」言葉を先読みして所長は微笑んだ。「まあ、確かにそうかもね。私も効力を確認したのは今回がはじめてだったから」
ならば、実証されていないものに彼女は自身の命を賭けたことになる。あの土壇場の一瞬で、部下とディセットと共に揃って生還するために、だ。それはどれだけの勇気を要求されるものであったのか。少なくとも、時田が振り絞ったつもりでいた精一杯の勇気とは比較にならないだろう。
だがそのことを直接問うかわり、時田は別の言葉を口にしていた。
「あの男、トレーダーってやつはどうなったでしょう?」
御幣から顔を上げて、上司の相貌を仰ぐ。
今気づいたが、彼女はシャワーを浴びて着替えたようだった。小一時間前まで、喉に風穴あけられて血塗れだった人間にはとても見えない。
「あいつはたぶん捕まらないでしょうね。私が見た化物のなかでも間違いなくトップクラスの実力者だし」
「所長にそうまで言わせるほどの相手だったんですか?」
「そうね」
ふたりも足手まといを連れていなければ、もう少し楽に振舞えただろう。そう前置きした上で所長は答えはじめた。
「サシでも勝敗はギャンブルだったと思う。相手が罠はって待ち構えてたアウェイ戦ってこともあるし。事前情報から想定していたパターンのなかで、あいつのヤバさはほとんど最悪ランクだった。その上、こっちは手の内をかなりさらしたけど、向こうにはまだ大きなブラックボックスがある。負けに近い痛みわけだったと言われてもしかたがない。まったく、とんでもない女もいたもんだわ」
これで懲りる相手とも思えない。逃げ切られたというのなら、トレーダーはこれからも仕事と信じることを行いつづけるだろう。そして第二、第三の竹島が生まれる。そして同じ数だけ、自分のような人間も作られる。
しかも、北条警備保障はあの女から大きな恨みを買うことになった。今後、いつ報復と称した襲撃を受けるとも限らない。
脳の芯を痺れさせるような頭痛を覚え、時田は寝台に倒れこんだ。枕に後頭部をうずめ、大きく息を吐く。ついでに目も閉じた。しばらくなにも考えたくない。
だが、頭の片隅にこびりついた違和感はそれを許してくれなかった。しばらくその正体について考察し、やがて時田は気づく。
「――おんな?」
目を見開きながら叫ぶ。思わず枕から頭が浮いていた。
「今、あいつのこと女って言いませんでした?」
「うん」北条玲子は会心の笑みを浮かべながらうなずいた。「どうもそうみたい。投げにいったとき、骨盤と胸で分かったのよね」
「女性にもあんなタイプの異常者がいるもんなんですか」
「まあ、希少でしょうね。フロイトが見たら発狂するかも」
時田は絶句しながら再び大の字になった。目に腕をかぶせ、視界を覆う。
非常識が大挙して押し寄せたせいか、出来事が脳の処理限界を超えたせいか、あるいはかつてないやり方で共感覚を酷使したためなのか……目の奥がうずくように痛む。頭に羽虫が入り込んだような耳鳴りもした。
「俺は結局、なにもできなかったんですね」
仰向けのまま、時田は天井に向けて言った。落ちてくる声が自分に突き刺さるのを感じる。
「そう思うなら、そうなんでしょう」所長が抑揚のない声で言った。
「自分で決めたことをやり遂げられなかった。結局、あいつを止めることもできなかった。あれだけの啖呵切ったのに。やっぱり俺じゃだめだった」
「確かに、その通りなのかもね」所長はそっけなく告げ、ベッドサイドの照明を落とした。「結果が伴われなかったのは事実なんだから」
その言葉と共に、彼女の足音が遠ざかっていく。
近くでクラクションが短く鳴った。信号にでも捕まったのか、車が減速し、軽い身震いを残して停まる。それでもエンジンの低い唸りはまない。
「ねえ、時田君」
暗がりの向こうから、少し遠い所長の声が投げかけられた。
「人間、自分を正当に評価するってのは難しいものみたいでね。大概は過大評価か過小評価のいずれかに偏ってしまう。それを理解したうえで、自分はどちらのタイプなのか。たまには考えてみるのも一興かもね」
時田は意味を考えながら、つづく言葉を待った。が、一向にその気配はない。
結局、彼女は口をつぐんだまま闇の向こうで気配を消した。
自己評価もなにも、結果を出せていないのだ。考えるまでもなく答えは決まっている。最悪なのだから、低すぎる評価はあり得ない。そして、どうがんばってもポジティヴには解釈のしようがない。
第三のタイプですよ、俺は――
脳裏でつぶやきながら、時田は眠りに落ちていった。
時田弘二には過大も過小もなく、ただ評価の価値すらない。
そしてこの夜と共に、事件は一応の幕を下ろした。