「バンブルビィ飛行」 槙弘樹
エピローグ
マーブルコートのフライパンで、ベーコンが小気味良く弾けた。頃合を見計らってアスパラガスを追加投入する。バターと具材が交じり合うと、食欲をそそる香ばしい匂いが漂いだした。
時田は火を止めて、フライパンの中身を二枚の皿に盛りつけた。ほぼ同時にトースターが音をあげ、自分の仕事が終わったことを告げる。
そのとき、玄関のドアが慌しく開かれた。やがて母親が何事かをつぶやきながら居間に入ってくる。彼女は今日の朝刊らしきものを手にして、歩きながら記事に目を通していた。
「静かだと思ってたら、外に行ってたのか」
「うん。新聞買ってきた」
気のない返事をよこし、母親はソファに直行する。
時田家では必要性と家計の問題から、新聞の定期購読は見合わせていた。どうしてもというときは、彼女がしたように歩いて三分のサーヴィスセンターまで買いに行くのがスタイルになっている。
「――へえ、本当だよ。見て。あんたの学校、デカデカと記事になってる。やるねえ」
「やるねえ、じゃないよ」トーストを皿にのせ、ふたり分を食卓に運びながら時田は言う。「良く読んでみな。大惨事なんだから」
「でも、謎の放射能事件だって言われてるんでしょう? なんか怪奇ミステリみたいじゃないか」
「母さんは被曝の怖さを分かってないんだよ」
時田は唇を尖らせながら、キッチンにもどる。ヤカンの湯が沸騰したのを見計らい、コンロのスッチを切った。並べたカップにコーヒーを淹れていく。
「しかたないよ。あたしゃ、大学行ってないしね」
「あのね、放射線ってのは人体に有害なものなんだ。母さんが思ってるような愉快で派手な七色ビーム光線とは根本的に違う」
とはいえ、時田も数日前まで似たり寄ったりの認識であったことは認めざるを得ない。
「全校集会で説明があったときなんか、女子のひとりが子どもを産めない身体になってやしないかって、泣きながら質問してたよ。あれはそういう悲惨なものなんだ。マスコミと同じ感覚で安易に面白がっちゃいけない」
「そんなものが、なんであんたの学校から出てくるのよ」
「そんなことを俺に聞かんでくれ。理由についちゃ、新聞には書かれててないの? 地下にウランの鉱脈が眠ってたとかさ」
答えるように、紙のカサつく音がした。母は関連記事を探そうと食い入るように活字を追っている。
「書かれてるわけないけどね」時田は唇の上だけでささやく。
――結局、回収された放射性物質はスリングウェシルによって闇に葬られた。校舎に残留した放射能については、北条警備保障が「助言」という形で学校に報告。後日、研究者が入り、正式な検査が行われたらしい。現在も電力会社などを加わえて調査がつづけられていると聞く。いずれにせよ、校舎は近々取り壊されるという話だった。
闇に葬られたものはもうひとつある。
竹島の死だった。
彼女の遺体は、遺品と同様にスリングウェシルが引き取っていった。これにより、遺族や警察は事の真相を知る機会を永遠に失ったことになる。所長は当初、事実の隠蔽に反対した。しかし、時田が条件つきでスリングウェシルへの全権委託を承諾すると、意外にもあっさりと譲歩に転じた。その真意がどこにあったのかは分からない。だが、すべてを表沙汰にしたときの弊害を彼女は良く理解していたはずである。
時田側から出した条件を、ティガは無条件で飲んだ。彼からは、竹島の亡骸に最大限の敬意を払って接するという確約を得た。話によれば、スリングウェシルの共同墓地へ丁重に葬られることになるらしい。これで竹島は陰気な地下の穴蔵ではなく、尊厳が保障される寝床を得たことになる。時田にとって、それは今度の事件で得た唯一の救いだった。
唯一と言えば、竹島の残した遺書は時田の手元に残った。
だが、彼女の遺族を含め、他者に見せることや渡すことは許可されていない。かわりに両親には、娘からと見せかけた偽の手紙を渡すのはどうか。今、時田はそんな提案をティガから持ちかけられている。世には、他人の筆跡を完璧に模倣することのできる職人というものがいるらしい。望むなら、スリングウェシルの伝手でこれを手配できるのだという。
どうするかは、お前が決めろ。返事はいつでも良い。
ティガのそんな言葉に甘え、時田はまだ結論を出していない。
元気にやっているから心配はするな。事情があって会うことはできないけれど、自分は新天地で幸せに過ごせるだろう。――そんな内容の便りが届いたとき、両親がどのようにそれを受け取るか想像もできない。
いつか、もし勇気を振り絞れたら。
そのときは、彼女の両親に会いに行こう。そして彼らの話を聞いて、すべてを決めよう。
今、時田になにかしらの方向性を示せるとしたら、その程度が精々だった。
「母さん、新聞ばっか読んでないで早く食べなよ。コーヒー、完全に冷めてるぞ」
「ああ、ごめんごめん」
時田の小言に、ようやく母は新聞をかたわらに置く。そして行儀良く手を合わせると、小声で「いただきます」とささやいた。それからは女性としての嗜みと、人間としてのあらゆる礼節を忘れて目の前の物を貪りだす。長距離トラックの運転手は基本的にひとりきりの仕事だ。食事も、場合によっては車のなかで済ませることが連続する。マナーを一切問われない環境に居つづけると、人間はやがてそれを忘れていくということらしい。
「じゃあ、俺、そろそろ行ってくるから」
時田は空になった食器を持って席を立つ。
「あれ、今日は土曜だろう」向かいの席から、母が顔をあげた。「バイトかい?」
「うん。苦労して見つけたところだからね。時給良いし」
「あんた、警備員なんて務まるのかい」
「やってることはショップの店番だから。そのうち、資格取って戦力になれるようにするよ。――それじゃ、俺の分も食器洗っといてね」
居間を出る息子の背に、帰宅時間を問う母の声が投げかけられる。適当な数字を叫び返し、時田は玄関を出た。
適度に雲があるおかげか、屋外は思いのほかあたたかかった。前日まで降っていた雨に浄化されたのだろう。空気が澄んでいるようにも思える。遠く見える奥羽の山並みは、露に濡れてその緑をしっとりと濃くしていた。
週が明けたら、時田は高校にもどるつもりだった。すでに金曜日に開かれた――今回の騒動を総括する意味での――全校合同説明会に出席し、その意思表明はしてある。所長への報告も済ませていた。
あれ以来、死者の数は増えていない。入院していた者の多くは快方に向かっており、退院したという患者の話もちょくちょく聞く。竹島には複雑な思いがあるかもしれないが、大方の関係者はこの事実を素直に喜んでいるようだった。
自転車置き場に向かい、時田はスーツ姿でサドルにまたがる。
ティガとディセットがいなくなってからも、早朝の鍛錬はひとりでつづけていた。肩の打撲傷はまだ痛むが、おかげで全体的なコンディションは悪くない。食事も最近、妙に美味しく感じられていた。
路面が濡れているためか、車輪の回りはいつもよりなめらかだった。胸に新鮮な空気を取り入れ、時田はペダルをこぐ足に力を込める。
終わったことがあり、はじまったものがあり、つづいているなにかがある。
――あれから三日が過ぎていた。
時田は居心地の悪さを感じながら、早足にレジから離れた。速やかに出入り口へと向かう。途中、背中越しに聞こえてきた店員の挨拶に、思わず振り返って会釈を返してしまう。
時田に言わせれば「ケーキ屋」で十分なその店は、女性たちの間ではスイーツショップなどと呼ばれているらしい。いずれにせよ、異性が独自の名称をつけるような場所には近寄るべきではない。それが時田の持論であった。
もちろん、顔を羞恥で紅くしてまでケーキを買いに行ったのには理由がある。今日が九月二十日であり、時田弘二の誕生日だからだ。そしておそらく、誰もそのことを覚えておらず、自分で買わなければケーキにありつそうもないからである。
そのようなわけで、時田はいつもより十分早く家を出た。そして本来なら営業時間前の店に入れてもらい、予約していたケーキを特別に受け取ったのである。
予想していた通り、事務所へは時田が一番乗りだった。ひとつ上の階は所長の住居になっているが、彼女が生活の気配を感じさせることは皆無に近い。六合村の姿もなく、オフィスは朝特有の静けさに包まれている。
今の時田にとっては幸いと言える状況だった。計画を実行に移すため、素早く給湯室に向かう。お湯を沸かし、皿とフォークの代わりに数枚のタオルを持って自席にもどった。受け取ってきたケーキの箱を手早く開け、中身を取り出す。この時点で、準備は完了した。
眼前には、生クリームに苺をあしらったベーシックなホールケーキが鎮座している。中央に「ハッピーバースデイ」と書かれた板状の菓子が飾られていた。
これに、今から顔ごと突っ込む。そして、手と道具を用いずに――母親より品なく――貪る。「一度はやってみたい」と思っていた夢のひとつであり、生誕十六年を記念して果たそうと決めた野望だった。
すべての通用口を確認し、時田は耳をすます。前後左右を必要以上に見回したあと、最後に手元へ視点を固定する。姿勢を正して深呼吸を繰り返した。そして精神を集中していく。ケーキはひとつ。したがって機会も一度きりしかない。
視覚に頼りすぎると意識しすぎて失敗しそうな気がした。意を決して目を閉じる。背を弓なりに反らし、顎をあげた。息を止めて一気に顔面を振り下ろす。
スピード、角度、技のキレ。
すべてが完璧だった。
いける――
確信した瞬間、鼻先がクリームに触れた。それと同時、ケーキを固定していた金具が額でサクッという音を立てた。
「オーノォ!」
仰け反りながら、時田は思わずイングリッシュ・スタイルで痛みを表現する。そのまま床に倒れて転げまわった。
「なにやってんの、君は」
木枯《こがら》しより冷たい声は、頭上すぐの場所から降ってきた。目頭の生クリームを拭い、なんとか目蓋を開く。振り仰ぐと、そこには北条玲子の姿があった。思わず全身が硬直する。
「あの」時田はなんとか口を開いた。「シクスティーンス・アニヴァーサリィ的な儀式などを少々……」
「時田君、ばかなの?」
この上なく真摯な表情で彼女は時田を見下ろす。今の惨状を鑑みれば、間違っても否とは言えない。
「あの、所長様。いつごろから見ていらしたんですか?」
「ケーキの前できょろきょろ挙動不審にしてた辺りからよ」
要は一部始終を見届けたということだろう。他人の目がないか散々確認してのことだっただけに、時田にはショックだった。
「まったく。後片付けしたら、所長室に来なさい。五分以内よ」
「――はい」
所長はデスクに用意していたタオルを放って寄越し、足音を高鳴らせて部屋から出て行った。半ば放心状態で時田はそれを見送る。穴があったら入りたいとはこういう心境なのだろうと思う。
だが、うすく血が滲む程度の怪我で済んだことは僥倖とすべきだった。少し間違えば大惨事に至っていた可能性もある。
時田は言われたとおり顔のクリームを落とし、ケーキを片付けて廊下に出た。とりあえず今日が、生涯記憶に残る誕生日になることだけは間違いない。そんなことを考えながら、所長室のドアを叩く。入室の許可が返るのを聞き届け、時田は扉を開けた。
「先ほどはお見苦しいところを――どうもすみませんでした」
「別に今さら良いわよ。見苦しいのは時田君の顔で慣れてるから」
所長が面倒がるように手を振る。彼女の姿は、上場企業役員が自宅書斎に置いていそうなデスクセットにあった。安楽椅子よろしく、椅子のクッションを利用して身体を軽く前後に揺すっている。
「見苦しい顔ですみません」時田は再度頭を下げて言った。
「あと、おつむのできもね」左手の爪を朝日にかざして眺めながら所長が指摘する。
「はっ、馬鹿に生まれてすみませんでした。次回は気をつけるよう、あとで神様に嘆願書いときますので」
「まあ、無駄だと思うけどね。ワイロも一緒に贈っておけば?」
「検討しておきます。それで、俺になにか?」
「一応、どういうつもりなのかを聞いておこうと思ってね」
時田は自然と眉間にしわを寄せていた。「と言うと?」
「ここ最近の時田君の話よ」所長はデスクに両肘をつき、指を組み合わせた。探るような目が真っ直ぐに時田を射抜く。「異常に明るいというか、常軌を逸してハイになってるというか、正気を失ってるんじゃないかと思うほど前向きすぎるというか。そりゃ、空元気も元気のうちとは言うけどね」
「明るくて前向きなのはいけないことですか」
「ときと場合による」
「だって、落ち込んだって死んだ人間がもどるわけじゃない。そうでしょう? 泣いたところで問題が解決するわけでもないし。人間が本当に涙の数だけ強くなれるなら、今ごろ俺は赤マントつけて空を飛べるようになってますよ」
黙して聞く所長の顔に表情はなかった。ただ探るように、じっと視線を動かさない。むきになってそれを受け止めながら、時田は必死に言葉を探していた。
「俺は鬱になるより、自分らしくやっていきたい。そう決めたんだ。馬鹿やって、頭の悪い失敗やらかして、その度に周りのひとたちに笑われる。それで良いじゃないですか。俺、間違ったこと言ってますか?」
「いいえ。それはそれで見事な覚悟だと思う」低くゆっくりした口ぶりで所長は言った。「でも、覚えてる? 自分ひとりがいなくなることで集団がまとまるなら。距離を取ることで事態が好転するなら……あなたは見事な言葉を並べて、学校に行く自分を合理化した」
様々な筋肉が収縮するのを時田は感じた。一方で顎の支えは一気に弛緩し、口が半開きになっていく。
「立派過ぎるのよ、あなたが出す結論はいつも。でもね、時田君。自分さえ定まってない十代の子に、周囲がそんなものを求めると思う?」
所長は立ち上がり、部屋の隅に置かれたコーヒーメイカーに寄った。すでに出来上がった分をカップに注ぎ、一口喉を潤す。
「他人に心配をかけまいと、自分のなかに鬱積したものを押し込めるのは良い」彼女はつづけた。「でも、それがなにを生み出したか――あなたは今回のことで思い知ったんじゃなかったの」
確かに思い知らされた。理屈つきの思いやりは、結局のところ逃避の別名でしかあり得ない。聞こえだけ格好の良い言葉は自分をごまかせる一方、見えないところで誰かを苦しませる。いやというほど思い知らされたことだった。
「俺は、じゃあ……」
時田は呆然としながらつぶやく。
二度と竹島のような人間は生まない。そう決めたのは自分だ。
「もう、だめにしようとしていた……?」
それは口蓋にこもる、声になりきれない声だった。はっきりと口にするのを拒んだ無意識が、事実をなにより強く物語っている。
「時田君の事情を知ってる人間は思いのほか多い」
所長はコーヒーカップを置き、デスクを回り込むように歩き出す。時田の対面までくると、数歩分の距離を置いて机の縁に浅く腰を預けた。
「和泉さんもいれば、お六合もいる。もっと彼らを評価してあげることね」
「ひとに頼ることを覚えろ、ということですか」
「ひとり抱え込んで自爆するよりましでしょ?」
所長は瞬時にそう応じた。確かに、返す言葉もない。彼女は肘を抱えるようにして腕を組み、静かな眼差しを時田に注ぐ。
「君はあれだけの人間を相手に、あれだけの経験をして、かつ生還した。四肢はまだ胴と繋がってるし、後遺症もない。それはまだ次があるということ」
その言葉で、はじめて気づいた。ようやく実感を得たとも言える。
確かに、白丘第一高校を舞台にした事件は一応の決着を見たのかもしれない。だが、トレーダーと呼ばれる犯罪者はいまだ野に放たれたままなのだ。
彼女を止めること。これ以上、犠牲者を生ませないこと。報復に備えること。つまりこれらは、時田弘二が取り組むべき問題として厳然と存在している。その意味では、まだなにも終わっていない。引きつった笑みを浮かべながら復学を果たすことがゴールではない。
なにも成し遂げられなかった。あの夜、自分が漏らした言葉がまざまざと脳裏に蘇ってくる。
「次――」
「そう」ぽつりとした時田のつぶやきに、所長はうなずく。「笑ってごまかしてないで、来《きた》るべきときに備えなさい。私はそれができる人間しか手元に置かない。そう言ったでしょう。あなたは自分もやってみると答えて、ここに残った」
所長はデスクから腰を浮かせ、ゆっくりと時田との距離を縮めはじめる。
「約束を守る気があるなら、都合の悪いことから目を逸らすな。自分を騙すな。時間を捨てるな。もっとちゃんとしなさい、時田君。あれだけのものが失われたのよ。ちゃんと痛がって、ちゃんと泣きなさい」
目の奥で静電気の弾けるような刺激が走った。それを契機に、近づいてくる彼女の炎が急速に膨張をはじめる。紅蓮のクオリアは瞬く間に臨界点を越え、時田の脳神経を焼くようにスパークした。
気づいたとき、彼女はもう吐息が感じられるほどの距離にいた。両手が伸ばされ、噛み付くように時田の肩を握り締める。
痛みに声をあげかけた瞬間、所長は遮るように言った。
「やるべきことがあるなら、ちゃんと目を開きなさい」
それは淡々とした口ぶりだった。だがそれでも周囲の空気が震え、自分にも伝染してくるような錯覚に時田は襲われる。
「自分のなかに向き合えないものを残したまま、一人前の男になれると思ってるの――?」
「だけど……」
「あなたは自己を抑制しようとする傾向が強い。だから、もう少し自分の本心を見て、本音を聞いてあげるようにしなさい」
それは無理だと分かっていた。
重荷を背負っているなら、坂は一息に行くしかない。途中で足を止めることはできない。
だから時田は首をゆっくり左右に振った。
「一度でもそんなことしたら駄目になる」
「駄目?」
「俺には無理なんですよ。本心を認めたら、崩れて二度ともどれなくなる気がする。本音を口にしても同じです。絶対に止められなくなるのは目に見えてるんだ。そもそも、うかつに本音を漏らしたことで俺はこんな風になった。言いたいことを言ったから、俺は学校で居場所を失ったんです」
「それでも、よ」所長の声は、不思議と優しくさえ聞こえた。「その身に余るものは、抑え込んだっていずれ破綻する。だったら、やらないよりやってみる方が良い。だから、言ってみなさい。私もここで聞いてるから。三日前の経験を、時田君はどう受け止めて、なにを考えたの?」
沈黙がおりる。それを咀嚼するように所長はしばしの間を置き、やがて言葉をついだ。
「それとも得たものなんてなにもなかった?」
「そんなことはない」
時田は反射的に顔をあげていた。意図せず勢い込んだ自分に気づき、慌てて面を伏せる。
「なにも感じなかったなんてこと、ありませんよ」
「じゃあ、聞かせて」柔らかな声が問う。「なにを考えたの」
「それは――」
どうして答える気になったのかは分からない。いつもと違う口調に、なにか催眠効果に似たものがもたらされた気もする。
いずれであれ、それはこの三日間、おそらく常に出口を求めていた思いだったのだろう。堰が切られた瞬間、意志とは無関係にもう放たれていた。
「……あいつは馬鹿だ。考え出すと、まずそんな風に思います」
「そうね」ささやく所長は、時田の肩に置いた手をゆっくりとすべらせはじめた。その動きは手首のあたりで一旦止められる。膝を折りかけた人間を支えようとするかのようでもあった。
「あんなことはしてほしくなかった」時田は訥々《とつとつ》とつづけていく。「俺のためだって言うなら、俺に一言声をかけてくれれば良かった。俺にもなにかさせてほしかった」
「そう、彼女はそうすべきだった」
防波堤に空いた小さな穴と理屈は変わらない。漏れ出す水は勢いを増し、やがて縛めを決壊させて怒涛の奔流となる。
「あいつは本物の大馬鹿野郎だ」ほとんど叫びに近い声をあげながら、時田は自分の腕に添えられた所長の手を握り返した。「どうして俺にひとこと言わなかった。なんでだ? なんで全部終わって、もう取り返しがつかなくなってから……あんな……」
眼球に締め付けられるような圧力が感じられた。目頭に酷く熱いものがこみ上げてくる。ふとした瞬間、それは大粒の滴と化して落下をはじめていた。
「死んでほしくなかったです。自分のことをあんな風に思ってくれる娘が存在し得るなんて、考えてもなかったから」
「彼女の気持ち、うれしかったのね」
穏やかな問いに、時田は急いで首を縦に振った。
「とても。だからもっと早く、あの子の気持ちを知りたかった。ちゃんと話をして、お礼を言いたかった」
所長にすがる手に力がこもる。意図してというより、制御のできないなにかが駆り立てるようにそうさせていた。
「俺が健やかで、笑って毎日を過ごせていることを――」嗚咽で言葉が詰まる。「それを自分の幸福条件にしてくれているひとがいたんです。家族とは違うところに。俺はそのことに気づけなかった。やっと知ったときには、もう遅かった。全然、遅かった」
時田は憑かれたように言葉をこぼしつづけた。
「もう、そいつになにも返してやれない。俺のために命さえ使ってくれた子だったのに」
それが人間の死なのだと理解したこと。失ってからしか、それを悟れなかった自分に憤りを覚えること。彼女を死に追いやった人間への憎悪――
自分でも驚くほどの勢いと質量の言葉が次々と溢れ出す。
「俺を鍛えてください。二度と気づかないまま終わらせないように、俺を厳しく見てください」
ほとんど所長の懐に倒れかかるようにして時田は懇願する。
「今度こそ、自分で決めたことくらいやり遂げたい。足手まといになりたくない。もう、たとえ嘘でも、あなたが目の前で殺されるのを見るのは耐えられないから。だから……」
絶望は黒色をしているのではない。三夜前に知ったことだ。
そのとき見たものは、すべてが意味と色を失った世界だった。
あの世界に彩りをもどせるのなら、どんなことでもするだろう。
「俺、どんなことにも耐えますから」
「時田君」
彼女は再び時田の両肩に手を置き、時間をかけて引き離した。
「本当にそう思うのなら、あなたの世界はどのようにも変えられる」
うながされたような気がして、時田はうつむけていた顔をあげる。真っ直ぐな瞳と視線がぶつかった。
「背が伸びて大きくなったことに、自分ではなかなか気づけない時期ってあるでしょう」
歪んだ視界のなか、所長は少し微笑んだように見えた。それから軽い身のこなしで半歩下がると、時田にハンカチを放ってよこす。
「でも、子どもはあっという間に大人になるわ」
――あれから三日が過ぎた。
抑圧によって生じた反発力は、予想以上に強力なものであったらしい。北条玲子の前で醜態をさらすこと数分。水分を吸った彼女のハンカチは、はじめの倍の重さになっていた。
「所長、あの、これ……すみません」
それをどのように処理して良いものか、時田は戸惑いながら言った。当然、このまま返却することはできない。かといって、洗ってプレスすれば良いという問題でもない気がした。
「良いから」彼女は苦笑交じりに応じてくる。「それ、時田君にあげる。バースディプレゼントにでもしなさい」
「面目ないです」もはやうなだれるしかない。
「で、どう。少しは落ちついた?」
時田がびしょ濡れの顔を整える間に淹れたらしい。所長が湯気のあがるコーヒーを差し出してくれた。
「ええ。すみません」一礼して受け取りながら言う。「見苦しいところをお見せして」
「言ったでしょう。それは時田君の顔で慣らされてる」
「そうでしたね」
彼女はにやりとすると、背筋を伸ばしたまま自分の椅子に歩いていった。
「しかし、時田君の目はどういう仕組みになってるのかしらねえ」
時田はカップに息を吹きかけながら、上目遣いで言葉の意味を問う。
「日本語には危険視って言葉があるけど、時田君に使わせるとちょっと違った意味になりそうじゃない? まあ、確かに共感覚の一種ということである程度までは説明つくけどさ」
「所長は俺の目のこと、知ってたんですね」
「うん」彼女はあっさりうなずいた。「長くなるから今は詳しく話さないけど、実は会う前から君の話は聞いてた。おかしな共感覚の子がいるってね」
時田は、口に運びかけたカップを止める。
「そんなに前からですか……」
「時田君の場合、相手の斬撃や矢の軌道まで色つきで見えたって言ってたでしょう」
「ええ、はい」
「それはまあ、良いのよ。相手のモーションや道具の角度から予測軌道や攻撃目標《インパクトポイント》を導こうっていうのは熟練者としての最低スキルだし。野球でも、百マイル越える球を打つには、ピッチャーが投げ終える前からバット振りはじめてないと間に合わない――って言うじゃない?」
ただ、と彼女は即座に言葉を加えた。
「それだと、砂に埋まった地雷の発見なんかは説明がつかない。それに時田君。いつまで経ってもそのコーヒー、飲もうとしないのはなぜ?」
「いや、なんか濁ったカラシ色に見えるもので……所長、なんか入れたでしょ」
色から察するに、そう大した物ではないだろう。相当に不快な目には合うだろうが、後で笑い話になる程度のなにかだ。毒物なら文字通りもっと毒々しい色が見えるはずである。
時田はそのままのことを所長にも説明した。
「そう、それなのよ」待ち構えていたような調子で彼女が言う。「飲む前から異物が入ってることを色で探知できる。これって、予備動作などからの予測や予見の範疇を超えたものじゃない。時田君はまんぼうみたいになんでもない顔してるけどね」
「なにを入れたんですか」
「黄連解毒湯。かなり苦いだけで害はないから安心して」悪びれもなく言うと、所長はつぶやくようにつづけた。「しかし、なるほど。カラシ色に見えるのか。そんなコーヒーは確かに飲みたくないな」
「ひとが落ち込んでるときにそんなものを」
そのとき、所長のデスクで内線が鳴った。
「誕生祝いのサプライズよ。サプライズ。場を和ますための愉快なお姉さんジョーク」
明らかに今考えた言い訳を吐きながら、所長は受話器を取り上げる。
「和泉さん? おはよう。なにかあったの」
いつの間にか、和泉光司が出勤してきていたらしい。所長は彼と二言三言交わすと、手元の操作で外線に切り替えた。
「どうも。お久しぶりって言うほどでもないか。その後、どう?」
口ぶりからすると相手は気の知れた人物であるらしかった。もっぱら相手が話し役に回っているらしく、所長はただ受話器を耳に当てている。その隙に、時田は部屋に備えられた洗面台にコーヒーを捨てた。それからコーヒーメイカーに歩み寄り、カラシ色をしていないブルーマウンテンを注いで応接セットにもどる。
それからたっぷり五分ほどして、所長はようやく通話を終えた。一アルバイトである時田には、内容について質問できる権限など無論のことない。だが、今回は所長が自ら口を開いた。
「ティガ‐アデプトからよ。色々と報告があったけど、時田君聞きたい?」
少し驚きながらうなずく。「それは、是非」
特にディセットの容態は、ここ数日における最大の関心事だった。それを理解しているのだろう。所長は「まずディセットのことだけど」と切り出す。
「結論から言うと、非常に残念な結果になったらしい」
時田は柔らかいソファの上で身を凍らせた。喉の筋肉がひくつく。
「まさか……」
「いや、死んだわけじゃない」所長が先を読んで言った。「彼は緊急手術を受けて、今も入院してるそうよ。ただ、かろうじて命を取り留めただけでね。意識こそもどったものの、状態は深刻。ティガ‐アデプトによれば、肩から先の右腕は完全に消失したらしいわ。腰椎まわりの神経系にもダメージを受けていて、下半身にも障害が残る可能性が高いんですって」
「じゃあ、これまでみたいに現場で活動することは」
「もう無理でしょうね。復帰できたとしても事務方に回ることになるそうよ」
所長の静かな語りぶりが、余計に事の深刻さを痛感させる。
これまでの人生で、身体的ハンディを背負った人間と触れてこなかったわけではない。しかし彼らは、時田と出会ったとき既に現実を受け入れ、消化していた人々だった。ディセットは、これからはじめて巨大な問題と向き合わねばならない。
「それと、あの貿易商の女だけど」
所長の声が、深みにはまりかけた時田の思考を無理やり引き上げる。
「トレーダーのやつ、どうも海外には逃亡してないみたい。潜伏して、しばらくは国内で活動していくつもりみたいね」
「国内で――?」
「もちろん、私たちの存在が大きく影響してるんでしょう。時田君の <危険視> にも気づいて興味を持ったはず。あいつは歩く暗器貯蔵庫のようなところがあるし。考えようによっては、時田君の存在って天敵だもの。君も確実にターゲットになってるはずよ。私と時田君を殺すまで日本を出る気ないのかもね」
これ以上は無理と判断し、時田はカップを応接セットの卓上に置いた。安定を得てなお、その琥珀色の水面は大きく揺れている。手に持ちつづけていれば、いずれ零れていたことは間違いない。
「あいつはまた来るんですね――?」
「絶対、来る」所長は即答した。「だから備えておけと言ったのよ」
「そのために、俺がすべきことを教えてください」
「コーヒー飲んで、少しは目が覚めたみたいね」
所長は一瞬、薄い笑みを見せたが、すぐに真顔にもどった。
「まずなにより、共感覚を意識しながら日常生活を送ることね。それが第一。どの状況で、なにをされたら危険視がより濃い色を出すか。あらゆるパターンを想定し、それに対する何通りもの対処法を考えるの」
「はい」時田は厳粛にうなずく。
「そして危険を感知したら、考えるより早く身体が最適対処行動をオートで開始するように自分を鍛えなさい。倒れ込みながら棒を何度も振りつづければ、実戦でその体勢になったとき、自然と棒が出るようになる。分かるでしょう?」
「はい」
「時田君はその目のおかげで、常人よりコンマ数秒有利に状況を展開できる。あなたは、そのことが意味する途方もない優位性《アドヴァンテージ》を理解できる域まで来なければならない。シチュエーションは私が用意してあげるから。危険や他人の色だけでなく、自分の色も見出せるよう心がけなさい」
「はい」
「そして、最後は自分の目で物を見分けること。ある刀匠が言ってたけど、真贋を見分けたいなら常に本物を見つづければ良い。今、私が言ったことも鵜呑みにしないで、自分なりにちゃんと判定をすることね。従うべき価値があるのか、うわべだけの戯言に過ぎないのか。後者だと思うのなら、たとえ相手が私でも戦わなきゃ駄目よ」
それはもっとも困難なことのように思えた。百獣の王であっても、炎の前には本能が怯む。
「たぶんあいつは、爆弾をしかけたり狙撃でしとめたり――テロや暗殺のような手口は使ってこない。人質をとって逃げ場を封じてくるくらいはやるかもしれないけど、基本的に正面からぶつかってくるはずよ。その点では安心して良いんじゃないかな」
「なぜそう言えるんです」
「それはもう、プライドの問題よ」所長は自信たっぷりに断言する。その口元には薄い笑みさえ浮かんでいた。「本人からすれば、あの夜の一戦は自分の能力を完封された上での敗北に等しいはず。その汚辱をそそがないことには、この先プロとしてやっていけない」
「なんか所長、楽しそうですね」
思えばいつもそんな風だった気がする。危機が訪れるたび、彼女はそのスリルを迎え入れる。煤に汚れ、ボロボロになったシャツを着たままピンチに笑う。そんな彼女を見て、自分はあとを追ってみようと思うようになったのではなかったか。
「そりゃそうよ」所長は頬杖をつき、首を少し傾けて嫣然と笑む。「死体だと思ってた人間が立ち上がったときのあいつの顔――あれ、傑作だったじゃない。殺す気で投げたのに死なないやつなんてそういないしね。手加減なしでやれるってのは良いものよ」
彼女は背もたれに身体を預け、頭の後ろで手を組む。さあて、今度はどんな手で叩きのめしてやろうか。そんなつぶやき声が時田の耳にも届いた。
「――っと」唐突に所長が上体を起こす。「もうこんな時間じゃない。時田君、支度して」
「あ、はい。すぐシャッター開けてきます」
ショップの入っている一階に向かおうと、時田は踵を返しかける。
「そうじゃない。店は開けなくて良いの」
「え、臨時休業ですか」足を止め、顔だけで振り返る。
「うん。公式サイトとメーリングリストじゃ、昨日から告知してるから安心して」彼女は腰を浮かせながら言った。「今日の君の仕事は、私の随伴よ。時田君の母校が平和になったからって、世界から問題が消え去ったわけじゃないんだから」
「新しい案件ですか」
「そう。今のところ客は四ヶ月待ちなんだから、そうゆっくりもしてられないのよ。三日も休んだんだし、時田君にはそれなりに働いてもらわないとね」
所長はパネルで空調の電源を切り、時田をうながして部屋から出た。そのまま地下のガレージへとまっすぐ向かっていく。まったくの手ぶらであることを考えると、例によって準備は六合村がすべて整えているらしい。
「どんな話なんですか?」隣を歩きながら時田は訊ねる。
「お六合が車に資料を積み込んでるはずだから、それを見せてあげる。もっとも、今日はクライアントに会って話を聞くだけよ。下調べね。時田君の危険視《センサー》が使えるようになったから、今日はいつもよりスムーズに運ぶかも」そこで言葉を区切ると、含みのある視線で彼女は時田を一瞥した。「あなたの能力開発にはかなりの投資をしたんだから。私のためにキリキリ働いてもらうわよ」
「俺も経験値が欲しいですから。利害は一致します」
危険を伴う現場で、意識しながら目を使う。これは時田にとって一番の訓練になるはずだった。北条玲子も分かって部下の配置を考えている。それも、おそらく時田の雇用を決めたときから、ずっとだ。足手まといと知りつつ、白丘第一の件に関わらせたのもその一環だろう。三つしかない致死回避の人形御幣をひとつ使ってまで、彼女は時田の開眼に機会をくれたのである。
彼女に報いねばならない。
そして、いつかまた出会うであろうとき、トレーダーを止める。
時田のなかに根付いた、大きな目標だった。
おそらく、そんなものを持つのは生まれてはじめてのことだろう。夢や希望というより、性格的には命がけの仕事に近い。しかもそれに対して、自分から積極的に取り組もうというのである。かつての時田からは考えられないことだった。
半歩遅れて所長のあとを追いながら、ゆっくりと右手の拳を握り固める。指のそれぞれが発する体温と、爪が手のひらに食い込むかすかな感触。生ける者のみが感じられるものだ。トレーダーが切り落とそうとした腕、破ろうとした脾臓、奪おうとした命は結果としてまだ時田の手元にある。だから次がある。
負けて学ぶことも多い、とはアスリートがたびたび口にすることだが、それはやはりスポーツ選手の主張に過ぎないのかもしれなかった。三日前に体験したあの戦場では、敗北はすなわち死を意味した。そこからは学べるものなどなにもない。次を望むなら、勝つしかないのだ。
あの夜、確かに事件は一応の決着を見た。
だが、時田にとってはまだなにも終わっていない。
生還が次を生むというのなら、トレーダーを止めるとは彼女の抹殺を意味するのかもしれないのだ。では、それが求められたとき現実に自分はひとの命を奪えるのか――
答えを出せない問題もいまだに多い。生まれてはじめて命のやりとりをしたからといって、それが人間を即座に激変させるとは限らないのだ。
それでも不思議と不安を感じないのは、きっと先を歩いているあの背中の存在があるからなのだろうと思う。
時田はうつむきらながらこぼすように笑んだ。そして足を止め、今度は無人の廊下を振り返る。
うしろには、もう十五歳から歳をとることのなくなった人物の目もある。
報いなければならない背と、応えなければならない目だ。
今の時田をここに導いたのは、間違いなく彼女たちだった。それはとても幸福なことなのかもしれない。悪夢にうなされるほどの目にもあったが、今はそんな気がしていた。
唇の上だけで、心からの言葉を口にする。
――ありがとう。ずっと忘れない。
「時田君、なにぽけーっとしてんの。置いていくよ」
「それは困ります」
飛んできた鋭い声に、時田は苦笑しながら駆けていく。
「まったく、なにやってんだか」彼女は爪先でフロアを叩きながら言った。
「申し訳ありません」
「ちょっと、たるんでるんじゃないの」
「以後、気をつけますので」
「――ところでさ、訊こうと思ってたことがあるのよね」
「なんですか」
「この前言ってた、さだ子って誰?」
「えっ、貞子?」
「三日前、マンホールのところで言ってたでしょ。どこの子なの。あれ、意味が分からなかったのよね」
「所長、貞子知らないんですか」
「知らないから訊いてるんじゃない。なに、有名人なわけ。好きな女優とか?」
「まあ、女優と言えば女優なのかも」
「綺麗なひと?」
「いや、恐い女性ですよ。所長、いくら世俗に疎いからって映画くらい見ないと」
「どういう意味よ」
「あの、貞子っていうのはですね、元は小説でそれが映画化された作品に出てくる――」
あれから三日が過ぎ、時田弘二は十六度目の誕生日を迎えた。