「バンブルビィ飛行」 槙弘樹
25
頬を打たれた衝撃で時田は我に返った。
どれくらい夢うつつでいたのかは分からない。ただ、しばらく意識が飛んでいたのは確かなようだった。
目の前には、屈みこんだトレーダーの顔があった。錆びた香りが鼻をつく。浅黒い肌の所々に、浴びた返り血が紅いまだら模様を描いている。彼は楽しげに笑っていた。
「さあ、時田さん。ふたりきりになりました」
その声を聞いても、不思議と恐怖はなかった。先ほどまで苛まれていた腹の痛みも綺麗さっぱり消えている。
もう、どうでも良い――という境地が、感情と感覚を麻痺させているのかもしれない。
「奇妙です。私はスプリーンが破裂するように蹴りました。日本語では脾臓と言います」男は小首を傾げながら時田の顔を覗き込む。「それなのに、時田さんは元気そうです。なぜですか?」
そんなことは知ったことではなかった。興味もない。
すべては終わったのだ。
自分の存在が足枷になり、そのせいで北条玲子は死んだ。目の前で殺された。時田弘二の過失が殺害したとさえ言える。
彼女と一緒に、自分のなかにあった大部分のなにかが壊死していったのを時田は感じていた。
時間や生命と同じように、一度傷つけば元にはもどらないもの。失われたら取りもどせないもの。それが傷つき、失われていったのが分かった。
「あんたの勝ちだ」
四つ這いに近い体勢から、時田はその場に腰を落とした。悲鳴と嘔吐で喉を酷使したせいだろう。声が別人のようにかすれている。
「もう、良い。俺たちは終わったよ……」
それは自分でもおどろくほど冷ややかな語り口だった。
「諦めたのですか、時田サン」男がにっこりと笑う。「ですが、それは勘違いです。切り刻んでいけば、時田さんはまた元気に声をあげます。死を恐れ、痛みを避けようとします。そして終わらない苦痛がつづくと、今度は殺してくれと頼みます」
そうなのかもしれない。だが、いずれにせよ時田弘二がここまでであることには違いがないはずだ。
「じゃあ、ひと思いにやってよ。確かに苦しむのはごめんだ」
「そうはいきません」トレーダーは無垢な笑みを浮かべる。「私は時田サンにお聞きしたいことがいくつもあるのです」
そのとき、遠くでサイレンの音が聞こえた気がした。トレーダーも同じものを聞きつけたらしい。沈黙が訪れる。
ここに向かっている警察車両なのか、救急車なのかは分からない。あるいは、別件で違反車を追う警邏隊という可能性もある。いずれにせよ、サイレンが少しずつ近づいてきているのは錯覚ではなさそうだった。
「尋問はあきらめなよ」時田は小さく口元を綻ばせながら言った。「どうせ、俺にはそんなものに付き合う気力なんてない」
「気に入りません。私は気に入りませんね、時田サン」
「早くしないと、警察の前にティガが飛んでくるよ」
「――その忠告は、もう遅いな」
思わぬ方向から聞こえてきた予想外の声にも、時田は無感動だった。身体がひどく重い。すべてがどこか他人事のように感じられる。ゆっくりと顔を上げ、時田はのろのろと声の方へ視線を投げた。
ほぼ背後に位置する方向に、その人影はあった。距離があるせいで、月光のなかでは黒いシルエットとしてしか認識はできない。
だが、闇夜に映えるメタリックシルヴァーの固有色は、ティガ‐アデプトのものでしかあり得なかった。そのとなりには六合村らしき小柄な人物の姿も見える。
「なかなか派手にやってくれたようだな」
銃を片手にぶら下げたティガが、周囲にゆっくりと視線を巡らせながら歩み寄ってきた。
「夜の爆発って綺麗なんでしょうかねえ。ちょっと、見てみたかったです」
つづく六合村がのんびりとした口調で言う。
途端、冷え切っていた時田の全身に血の気が戻る。顔がカッと紅潮していくのが気味の悪いほどはっきりと感じられた。
「どうして……」信じられない思いで身体ごと彼女に向き直る。「六合村さん、早く逃げるんだ。状況が見えないのかよ! こいつは本当に危険なんです」
「ディセットは発見、保護回収したぞ」
被せるようにティガが言った。
その一言は、時田よりむしろトレーダーに大きな影響を及ぼす。口元に笑みを張り付かせた男の身体がぴくりと震えるのが分かった。
「今、保護と言いましたか――?」
「言ったな」ティガは目を細めて答えると、かたわらの六合村を一瞥した。「この式の協力もあって、なんとか間に合った」
「玲子さんに感謝してくださいね。私は、拠点や依代から離れると活動が難しいんですから。外部からの助力があればこその成果なのですよ」
ティガの隣で、六合村が誇らしげに胸を張る。
「むろん、感謝はしているさ。あれが助かったのは、渡されていた御幣のおかげだ。あれがなければ、ディセットはおそらく即死に近い状態だっただろう」
「――それは良かった」
不意に、すぐ真後ろからまた別の声がした。
これに飛び上がるほど驚愕させられたのは時田だけではない。トレーダーもまた、ティガと六合村の闖入に注意を奪われていたのである。そもそも、後ろにあるのは血の海に横たわる亡骸だけ。そんな共通認識が確かにできあがっていたのだ。
パニック状態に陥りながら、時田は背後に顔を向ける。一方のトレーダーはそれすら許されなかった。一瞬早く背後から二本の腕が伸び、彼の腰のあたりで組み合わされる。抵抗する暇も与えず、トレーダーの身体は引っこ抜くように持ち上げられていた。両足が浮き、行き場を求めて宙で暴れる。その首が優に二メートルを超える高さに達した瞬間、彼を抱えた人物は自身の身体を後ろ向きに反らした。逆さまになったトレーダーの身体が垂直に急降下し、頭からグシャリと地面に突き立てられる。
「なんという――」
この荒業には流石のティガも度肝を抜かれたらしい。
「おそろしくえげつない角度で落とすものだ。殺す気か」
「えげつないなんて日本語、良く知ってるじゃない」
トレーダーを投げた張本人は、身体を起こしながら軽い口調で応じた。彼女は使い物にならなくなったジャケットを不快そうに脱ぎ、タオル代わりにして首元の血を拭う。
「死体は情報源にならない」ティガが眉間にしわを寄せる。「そればかりか、素体としての価値も半減するのだぞ」
「良いでしょ。結果、死んでないんだから。――お六合、これ持ってて」
涼しい顔で言うと、彼女は用済みになった上着を六合村に向けて放った。そして足元を見下ろす。
「さて、と。日本語で言うところの形勢逆転ってやつみたいね。トレーダー」
「なぜ、あなたが……」
「時田君にも言ったけど、今夜の私はなかなかの不死身ぶりなのよ」
北条玲子が妖艶に微笑む。
「だけど、あなたの方もなかなかのものじゃない? あれだけ完璧に落とされながらその程度で済んだとはね」
そうは言え、髪を乱し、地に肩膝をついたトレーダーには端からも大きなダメージが見てとれた。左肩を押さえているあたり、脱臼した可能性もある。なにより、彼の顔からは眼鏡が失われていた。代わりに足元に転がっているのが、クラゲ型のクッションらしきものだった。これが落下寸前に展開され、彼の頭部と頚椎を保護したらしい。
「今のはなんですか……」トレーダーがうめくように問う。
「私たちは <マステミ> と呼んでる。第二本目の変形ってところね。――それはそうと、ティガ‐アデプト」所長は視線を固定したまま言った。「ディセットはどうだったの」
「大量の蟲に喰われて、右腕は完全に失われていた。意識不明の重態だ。身柄は例の証拠品と一緒に回収班へ預けてある。スリングウェシルの医療チームは優秀だからな。運が良ければ助かるだろう」
「そう」所長が小さくうなずく。「バックアップ要員として、外で彼を単独待機をさせたのは私だったしね。ちょっとは責任感じてたのよ」
「あれもその意味ではプロなのだ。自身を守るのは自身。それは理解していたはずだ。とは言え、我々が極めて貴重な才能を失わずに済んだのも事実。大変な借りを作ったと認識しているよ」
「いずれ利子つきで返してもらうから良いけどね」
所長はにっこり微笑むと、矛先をトレーダーにもどした。
「まあ、そういうわけだから。面子も揃ったみたいだし、警察も来つつあるみたいだし。そろそろ幕にしましょうか」
「迂闊な真似をするな」ティガがトレーダーに銃口を向け、静かに告げる。「この距離ならピンヘッドでいける。前回のような出力の加減がないことも忘れるな。ひざまずいたまま、頭の上でゆっくりと手を組め」
「分かりました。私はたくさんの道具を使ってしまいました。これからあなたたち全員を相手にすることはできません」
トレーダーは膝立ちになり、ティガの命じたとおり両手をゆっくりとした動作で掲げていく。
「したがって、私は負けを認めます」
彼は頭上で両手の指を組み合わせた。徐々にそれを首の後ろに向けて落としていく。指が後頭部の影に隠れようとした瞬間、時田はそこに嵌められた指輪のひとつに危険色を垣間見た。即死性はないが、回避を勧告する濡れたような煉瓦色――
「なんか来るぞ!」
叫ぶより早く、それは炸裂していた。トレーダーの全身が逆光の影に沈み、逆にその輪郭がすさまじい輝きを放ち出す。刹那、強烈な白光が世界を覆った。閉じた目蓋越しにも視界を焼き尽くさんとするその眩さに、時田は両手で双眸をかばう。
「あっ、玲子さん。トレーダーさんが逃げていきますよ」
どこからか、六合村が緊迫感をまるで伴わない声をあげた。
「どうしましょう。追いますか?」
「そんなの放っておきなさい」所長が早口に答える。「しかし、いったぁ……これ、閃光弾よね。まったく」
シャンプーが目に入ったような痛みは、時田同様、彼女にも訪れていたらしい。
だが、それもしばらくの辛抱だった。桁違いの光量であったにも関わらず、爆発の後遺症は意外なほどあっけなく消え去っていった。視力が完全にもどるまで、おそらく十秒もかからなかっただろう。夜中にいきなり部屋の電気をつけたときと比較しても、ずいぶんとあっさりしているように思えた。
それでも、閃光弾が必要最低限の仕事をしたことに異論を挟む者はないはずである。
時田が目を開けたとき、そこにもうトレーダーの姿はなかった。
「お六合、やつはどうした?」
周囲に油断なく気を配る所長は、臨戦態勢を解かずに問う。
「あちらの――」と六合村は西を指した。「校舎の向こう側に走っていったみたいです」
「裏門か。時田君、なにか見える?」
もちろん、共感覚の見せる危険色のことを言っているだろう。状況から考えて、もはや彼女がその存在を知っていたことは疑う余地がない。
時田は六合村が示した方向を重点的に、周囲を慎重に検分した。安全を確認すると、首を左右に振って上司にそれを伝える。
「それにしても、まさしく人間武器庫だな。あれは」
懐に銃をしまいながらティガがうなるように言った。呆れ混じりの視線で、立つ鳥が濁していったあとを見回す。
「医療用メスに青龍刀、鎌、包丁、ハンドボムにさっきのフラッシュバン。あそこに転がっているのはテイザーか?」
「地雷もリストに追加しといて」所長が横から口を入れる。
「深追いは避けるにしても」ティガは鼻を鳴らしてつづけた。「警察が来るまで間もない。やつがばら撒いていたものは回収して分析に回した方が良さそうだな」
「そうね。私たちも早めに消えるべきでしょう。お六合、ベースと車に行って機械の電源全部落としといて。痕跡消したら、目立たない場所に隠れてなさい」
「分かりました」
おどけた仕草で敬礼を見せると、六合村は跳ねるように走り出した。トレーダーがそうしたように、瞬く間に闇の向こうへ消えていく。
「しかし、やつはどのようにして物を変化させたのだ?」ティガが複雑な表情で誰にともなく訊ねた。
「そうね……」少し考えて、所長が答える。「イメージとしては、相を転移させているような感じだった」
「それは、フェイズ・トランジションのことを言っているのか? 水が状態変化して氷になるというような」
「だから、あくまでイメージの問題。私はそれを連想したってだけの話なんだけどね」お手上げといった様子で所長は首をすくめる。「相転移というより、むしろ相分離に近いのかも。でも、分離は両方残るしねえ。相というより、もはや系レヴェルの話だし。存在確率でも弄ってるのかな……なんか、その辺なのは間違いないと思うんだけど」最後はつぶやき声になりながら、所長は思案顔で鼻下に指を置く。「スーツのボタンや眼鏡、タイピン。それぞれに本来ありえない別の存在を重ね、形態《モード》化して切り替え可能な状態におく。もしそうなら、同一座標上で質量に質量を重ねるような荒業よね。肝は案外、それを爆発させずに保つ技術の方なのかもしれない」
「モードチェンジか。日本のマンガやアニメにはそういうものが多いな。車が人型ロボットに変形したり、戦闘機に手足が生えたりと」
「元々どっちにもなれる機能が搭載されていて、スイッチひとつで切り替えられる。そういう意味では、分かりやすい例かもね」
「フム――」小さくつぶやきながら、ティガはトレーダーの遺留品のひとつを拾いあげた。「このテイザーは自家製だな」言いながら、軍人が銃の分解整備をするように慣れた手つきで構造を把握していく。「爆発物も自分で作ったのだろう。爆発の威力は高いが、破片の飛び散り方が甘い。一般には見られないタイプだ」
「半径五メートル程度で高威力なの?」
「手榴弾というやつは、直撃しても映画のように人体を豪快に吹っ飛ばす力は持ってはいない。精々、軽く浮かせる程度だな。現行の手榴弾のほとんどは、人間ひとりが覆いかぶさるだけで無効化できるものなのだ」
「爆発そのものより、飛び散った破片を利用した方が効率が良いってことか」得心したように所長は何度か細かくうなずく。
「こうしてみると、構造が単純なものばかりだな」ティガは拾い集めた数々の武器に険しい視線を落した。「テイザーも爆弾も、独自設計で限界までデザインをシンプルにしている。あとはすべて刃物の類だ」
「銃のような複雑かつ精密なメカニズムを持つものは扱えないみたいね。そんなものが出せるなら、いの一番にアサルトライフル出して勝負決めてたでしょうし。同じ理由で有機物もモード化できないと考えて良いと思う。少なくとも腕をもう一本生やしたりするのは不可能でしょ。神経系のつじつま合わせなんてできっこない」
「私も同感だ」ティガが重々しくうなずきながら言う。「それにしたところで、質量保存は半ば無視しているようにも見える。制限があるにしても、応用の幅は恐ろしく広いな」
「眼鏡が、両手で抱えてあまるクッションになるわけだからね。ただ、手榴弾を三つ出してきたとき、九人を犠牲にしたとか言ってた気がするのよね。一個あたり人命三つ。科学で定義できてない生命なんて持ち出されると、質量保存がどうとかは」
「私ならコーヒーに刃物のモードを持たせて対象に飲ませたあと、胃の中で変化させる。完璧な暗殺だ。――やつは液相や気相も扱いこなすのだろうか?」
「さあね」と所長は両肩をすぼめる。「それより見て、このクッション」
言って、彼女は足元のそれを爪先でつついた。一般的な大きさの枕を三つ、内側がくぼんだ――いわゆる傘状に組み合わせたような代物である。
「先ほどの投げ技を防いだものだな」
「結構重い」所長が両手で抱え上げながら言った。「手触りからして、中身は特殊シリコンあたりかな」
「カヴァーは、おそらくアラミド繊維素材だ」所長からクッションを受け取り、ティガは手触りを確認する。「防刃・防弾能力を持たせているのだろう。本来は、銃撃や斬撃から頭部を守るための全方位型シールドとして想定されているのではないか?」
「面白いな、これ」再び自分の腕のなかに取り戻すと、所長はボール遊びのようにクッションを軽く弾ませる。「NIJベースでどれくらいいくと思う?」
「最低でも、3Aクラスの能力はありそうだが」
瞬間、所長は邪悪な笑みを浮かべた。
「出させたのは私なんだから、戦利品としてもらって帰る権利もこちらにあるわよね」
「なに――?」
「あと、ベース型の地雷も。なんせおたくのスタッフを助け出すために、私は一度殺されるのを我慢してあげたんだから。それぐらいやっても罰は当たんないと思うけどな」
「ぬう……」これにはさすがのティガも口をつぐむ。「貴様、ろくな死に方をせんぞ」
「さっき、ろくでもない死に方したばかりだから、しばらくは免除されるでしょう」
彼らのそんなやりとりを時田は夢半ばで聞いていた。ふたりの声がなぜだか遠い。すべてがぼんやりと聞こえる。視力は確かにもどっていたが、むしろ頭のなかに閃光弾の影響が残っているような感覚だった。真っ白なままなにも考えられない。
そんな機能しない頭脳が唯一気にしていたのが、北条玲子の格好だった。今の彼女はこの寒空にシャツ一枚の姿でいる。手榴弾の破片でズタズタになったジャケットが、六合村の手に渡ってすでに持ち去られていることを思い出す。
あれでは寒いのではないか。今すぐ、彼女に自分の上着を羽織らせなければならない――
だが立ち上がろうと膝に体重を乗せた瞬間、全身から力が零れ落ちていった。暗がりのなかうっかり階段に足をとられてしまったように、ガクンと身体が一気に下降する。バランスを立て直す余地と余力は微塵もなかった。地面がいきなり半回転し、ほとんど垂直に近くなる。エレヴェータで感じる眩暈そっくりの頭痛に襲われ、次の瞬間、時田の脳は衝撃に揺られた。その勢いで飛び出してしまったかのごとく、意識が急速に遠ざかっていく。
俺は、一体ここでなにをしたのだろう。
そんな思考と一緒に、時田の世界は暗転した。