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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



  24

 目蓋を開く。
 要領は運転教本のままだ。第一に視界全体を見渡し、危険の潜在箇所を経験則からピックアップしていく。
 ただ、時田弘二には蓄積してきたものがない。初心者ドライヴァーが各種ミラーの生む死角についての認識や、経験で掴む車体感覚に欠けるのと同じだ。
 だが、それを補うべきものが時田にはあった。
 色彩というクオリアを利用したその危機直感能力は、あらゆる事象からの超高速リスク抽出を可能とする。しかも並列してすべてを同時分類。常人の限界を遥かに凌駕する速度で、その危険水準《ハザードレヴェル》を把握する。
 そして、これらの感知力はたとえ闇夜のなかでもほとんど低下しない。明かりを消した寝室で、いつかディセットが気づかせてくれたことだ。細部の分析こそできないものの、暗がりに潜む危険因子をスターライトスコープなして根こそぎ引きずり出せる。
 あとは視界のなかに高リスクに分布された警戒色、危険色を放つものがあるか。それはどこか。これらをより早く、より正確に発見し、危険度の高いものから順に視線を寄せていけば良い。
 そして時田は、生まれてはじめて意識してそれを行った。
 共感覚が無意識に働く制御不能のものであることに変わりはない。だが、共感覚との向き合い方は変えられる。無関係に見えた世界同士を連結させるきっかけとしてなら活用できるのだ。
 だから今、それを試す。
 視界から入ってくる情報をより高度に解釈し、処理する。
 周辺状況はクリア。目だった危険色はなく、トレーダーが共犯を伏せている可能性はこれで消去できる。遠距離からの狙撃援護もない。瞬時にそれを確認した時田は、トレーダー本体とその周囲だけに改めて視野を絞った。
 一度目を閉じ、視点のシフトに備える。
 次に目蓋を開いた瞬間、そこに見るのは自分の景色ではない。そう念じながら共感覚を再度オープンにする。
 本当の勝負はここからだ。他人の視点――北条玲子の目から見た世界をシミュレートしながら世界を見る。かつてない試みだ。成功の保証はない。そんなことが原理的に可能かどうかも分からない。
 だが、試してみることはできる。なにも知らされないまま、取り返しのつかない結末だけを与えられるより何倍もましな話だ。
 目を開くと、戦況は既に次の局面へと移行していた。
 北条玲子とトレーダーの姿は十メートルほど先にある。ふたりの周囲には医療用メスのほか、調理用の包丁、複数の軍用ナイフ、国内では銃刀法違反になる発射型電撃銃《エアテイザー》などが散乱していた。どれもトレーダーが小物や頭髪などを変化させたものに違いない。
 現在、男が握っているのは大陸風の長柄武器だった。身長の倍はある長棒の先端に湾曲した刀身をつけた――おそらくは青龍刀と呼ばれるものの一種だろう。
 懐の深い武器に対抗するには、投擲できるナイフの類を持ち出すか、同等のリーチを持つ獲物で挑むしかないだろう。したがってトレーダーの選択は間違いとは言えない。が、いかんせん技量の差があり過ぎた。刃物を投げてもことごとく払い落とされ、同じ長柄の獲物では地力で到底及ばない。彼は防戦に回り、まともに組まず逃げ回っている状態にある。時おり振るわれる刃も、ほとんどが距離をとるための牽制に過ぎなかった。アクションが行われるコンマ何秒か前、切っ先が描くであろう軌跡が危険色を伴って見えるが、どれも致命傷に繋がり得るそれではなかった。
「見えてる……んだよな、これ」思わずつぶやく。「ぶん回される武器の軌道も色つきで見えるのか」
 ただしそれは、素人目の勝手な判断と、北条玲子ならこの程度の攻撃は捌ききれるだろう、という期待が影響したものだ。
 それでも、自分の力がありがたい。たとえバイアスつきであったとしても。
 心からそう思った。持ち主は自分の安全だけを考える人間だったが、目は違ったのだ。共感覚は、ずっと誰かを守るために役立てるときを待っていた。
「今夜は邪魔しないから。存分にやってくれ」
 囁きながら、時田は分析に集中していく。
 圧されて後退を余儀なくされているトレーダーと、追い込みをかける所長の構図はまだつづいていた。相手にもそれなりの技量がある場合、完全に防御に回られるとなかなかに攻め辛いものらしい。両者の攻防は一種の膠着状態に陥っているようにも見える。
 だが、それは擬態に他ならない。ある瞬間、時田はそのことに気づいた。
 トレーダーの後退方向に約十歩。グラウンドの砂に埋もれるようにして、酸化しかけた血の色を思わせる危険色が見える。地表に薄く広がっている関係上、最初は落とし穴かとも思ったが、違う。それは野球用のベースだった。ゴムのような素材でできた安物で、プロが使うものとは異なり薄いプレートタイプになっている。厚さはひとの指ほどもないため、周りで動き回るとすぐに砂をかぶって埋まっていく代物だ。
「所長、気をつけて!」
 気づくと、時田は声を張りあげていた。
「その先にある三塁《サード》ベースは、やつが仕込んだ罠だ。たぶん、地雷みたいな。踏むか近づくと作動するかもしれません」
 その声に反応したのは、所長ではなく罠の主の方だった。青龍刀を真横に一閃して相手を足止めすると、後ろに大きく跳び退って距離をとる。そして探るような無言の視線を時田に向けてきた。
「どういうことですか……?」
 男のささやくような声が風にのって時田に届く。
「後退を装った猿芝居には気づいてたけど」所長が楽しむように言った。「どうも時田君の言うことは当たりだったみたいね」
「なぜ分かったのです」
 今度は所長に顔を向けて、トレーダーは繰り返す。
「あんたは知らなくて良いことよ」所長は腰を落とし、棒を構えなおした。「言ったでしょ。これからこの世とさよならする人間に余分なものは持たせない主義なの、私は。情報も然りよ」
「ならば、力尽くでお聞きします」
 言いながら、トレーダーはすばやく投擲のモーションに入った。槍投げに近いフォームから、手にした青龍刀を所長めがけてブン投げる。それが所長に軽く回避されたとき、もう彼の手には次の武器が握られていた。
 右袖に三つ並んだカフスボタンであったそれは、それぞれ五倍以上に膨れ上がり、今は拳大の球体に姿を変えている。所長に回避行動を取らせることで稼いだ一瞬を使い、トレーダーは三つの黒球から安全ピンを同時に抜いた。その動作で、時田は敵が持ち出したものの正体を知る。
「時田君!」
 既に三つは所長めがけて放られている。
「ヤバイ、全部本物です」
 時田の共感覚は、視界の広い範囲を赤黒く色付けしていた。半径五メートルに及ぶ三個の歪なドーム型。一部分は互いに重なりあって色を濃くしている。中心部は即死の漆黒、その縁を鮮血色の重症区域が包み込んでいた。そこから四方八方に伸びるハリネズミの棘のような危険色の放射線は、恐らく飛散する手榴弾の破片だろう。
「二時方向が一番薄い。十メートル弱、急いで!」
 即死範囲の中心部にいる所長が、時田の叫びに躊躇なく反応する。
 だが、それは織りこみ済みの動きであったらしい。ハリウッド映画で良く見る、赤色をした銃のレーザー照準《サイト》が二本、所長の左胸に狙いを定めていた。
 実際にはレーザーサイトのように見える、糸状の危険色。トレーダーが構えたボゥガンから伸びるそれは、放たれた弓矢が描くことになる軌道だった。
 それでも移動速度をほとんど落とさず、二本のうち片方を払い落とした所長の手腕には驚嘆すべきだろう。だが彼女をしても、二本目まではどうしようもなかった。なんとか長棒で触れ、急所直撃こそまぬがれはする。だが、矢は勢いを保ったまま右の脇腹に深々と突き刺さった。
 瞬間、大地が震えた。伴われた三連の大轟音は、もはや耳朶で扱われるべき範疇をとうに超えている。それは空気を引き裂きながらばら撒かれた物理打撃そのものだった。足元を揺らされ、音に腹部を打たれた時田は、あわや転倒というところでなんとか持ちこたえた。そこへ追い討ちをかけるように、舞い上がった土砂が頭上から降り注ぐ。
 勝負を分けた瞬間があるとすれば、おそらくはここだった。
 体勢を整え、時田は砂埃のなかでまぶたを細目に開く。このとき無意識が最初に求めたのは北条玲子の視認だった。
 もし時田が訓練を積んだ人間であったなら、第一に行ったのは全体の状況把握であったのだろう。敵の位置、仲間の位置、それらの構図、すべてを俯瞰的に捉えようとしたはずだ。そのセオリーをパニックで忘却したことが、結果として致命的なミスとなる。
「動かないでください」
 その声が背後から聞こえてきたときには、もう遅かった。
 首筋に冷やりとした感覚が伝わる。なにか鋭利な物の先端が、薄皮一枚のところで止められているのが分かった。
 相手の姿を一瞬でも見失う。戦場で動きを止める。これらは今回のようなケースにおいて最悪の失策になるということらしい。
「終わりですね」
 その言葉は時田にかけられたものではなかった。
 向《むこ》う正面、約十五メートル。砂煙に巻かれた人影が見える。
 彼女は右脇に手をやり、突き刺さった矢を掴んだ。無造作に引き抜き、肩についた糸クズでも払うように放り捨てる。
 爆発などなかったかのように毅然と立つ、北条玲子の姿がそこにはあった。
「武器を捨ててください。北条サン」
「なんでよ」所長は心底不思議そうな顔をする。
「良いんですか。時田サン、死んじゃいますよ?」
 トレーダーが手に力を込めたのだろう。首筋のチクリとした感覚が鋭い痛みに変わった。
「ああ、そういうこと。なんか、映画みたいで良いわね」
 了解、了解――と軽い口調でつぶやきながら、所長は棒を足元に落とした。
「これでよろしいかしら?」
「大変、結構です」背後の声が満足そうに言った。「では、時田サン。今度はあなたです。彼女のところまで行きましょう。歩いてください」
「……所長、すみません」
 一言侘び、首筋の強制力がうながすままに時田は歩き出した。所長まで十メートル超の距離が半分になり、やがて数歩にまで縮まる。
 時田はその段に至って、ようやく彼女の足元に広がる血溜りに気づいた。手榴弾の爆発にやられたのだろう。パンツスーツはヤスリをかけたような荒れ方で、特に右足部分は酷いありさまだった。大腿部から膝下にかけての生地が大きく裂け、血だらけの地肌が覗いている。唇の端にも紅いものが見えた。
「ここで結構です。止まってください、時田サン」
 半歩後ろに影のごとく張り付いたトレーダーが、先に足を止めて命じた。拒否権はない。時田はおとなしく従う。
「あなたにはお聞きしたいことができました。少し、待っていてください」
 言葉の意味を考えるより早く、打ち抜くような衝撃が時田の腹部を襲っていた。意味不明なうめきが口から飛び出し、身体がくの字に曲がる。猛烈な吐き気に見舞われながら、気づくと時田は地面をのた打ち回っていた。鼻と口が胃液を必死に垂れ流す一方、喉は獣のような低い唸り声を絞り出そうと躍起になっている。地平線が斜めになった世界が涙で滲みはじめた。さまざまな体液でびしょ濡れになった顔には、化粧まぶしのように砂がはりついていく。
 転げまわりながら、時田は自分が膝蹴りを食らったことをやっと理解した。そして、トレーダーの気配が傍らから消えていることにも同時に気づく。
「この棒はとても痛かったです。ひとの痛みを理解するためには、自分も経験しなければなりません」
 這いつくばったままあごをあげると、浅黒い手が所長のスティックを拾いあげるのが見えた。
「アロゥが刺さったのはこの辺りですね」
 鈍い音が頭上から聞こえた。
「痛いですか? 私の痛みを感じますか、北条サン」
 振り回される棒が風を切る。何度も唸りをあげる。その度になにか柔らかいものを打つ音が響いた。時おり、押し殺した声もかすかに聞こえてくる。ずいぶんと長い間、そんな時間がつづいていた気がした。
 やがて、所長がついに膝を折った。巨木が倒れるようにゆっくりと血溜りに沈んでいく。
「残念ですが、もう時間がありません。私はボムを使ってしまいました。九人もの生命と引き換えにした、とても貴重な物です。あれは大きな音がします。大きな音は警察を呼びます。楽しい時間に終わりが近づいてしまいました」
 トレーダーは残念です、と繰り返してつづけた。
「北条サン、あなたは私の仕事を邪魔しました。たくさんの道具を浪費させました。何人もの命が無駄に使われました。とても許されることではありません」
 男はポケットからハンカチを引っ張り出し、手品のように草刈用の鎌に変化させた。三日月形に湾曲したその刃は、死神の獲物を連想させる。
「変ですね。思っていたより随分と小さい気がします」
 それでも刃渡り二十センチはあろうかという手の物を眺めて、トレーダーはかすかに眉根を寄せる。
「まあ、良いでしょう。さあ、お友達にあいさつしてください、北条サン。最後に会いたがっていたひとに会わせてあげます。紹介しましょう、ミスタ・ディセット‐ジャーニマンです。彼の尊い命は姿を変えて、このようになりました。――意味は分かりますか? 北条サン、聞こえていますか」
 一瞬にして時田の頭部に血液が集中した。それはすぐに反転し、今度は潮が引くように一気に下方へ流れ去っていく。
 その様子をうかがっていたトレーダーが満足そうな笑みを浮かべる。そして、倒れた所長の背を踏みつけた。動きを封じたまま、髪を掴んで首筋を伸ばす。
「では、時田サン。あなたはボスとここでお別れです。ちゃんと見送ってあげてくださいね?」
 やめろ――
 時田の発しようとした声は、言葉にならない空気の塊として漏れ出す。それと同時、トレーダーは鎌を躊躇なく振り下ろした。糸が切れるような、ぷつっという響きがやけにはっきりと聞こえる。
 力任せに叩き込まれた鎌は、所長の首筋に吸い込まれるように侵入していった。うなじの右側から頸部を貫通し、喉前部の皮膚を破って先端が飛び出す。切断された頚動脈が、冗談のような勢いで血飛沫を吹き散らした。伏した時田の頬に、そのうちの数滴が打ち付けられる。あたたかなその感覚は、眼前の光景が現実であることを強弁に主張していた。
 あり得ない眺めだった。
 あの北条玲子の目から光が消える。濁っていく。痙攣するようにびくんと身体が震え、それを最後に沈黙する。
 生命の炎が萎み、かすむ。紅いクオリアがかき消えていく。


to be continued...
つづく