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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



  22

 どこかで予期、覚悟があったせいだろう。
 何度か深呼吸を繰り返すと、自分でも不思議なほど時田は冷静さを取り戻すことができていた。
 あるいは単に感覚が麻痺しただけなのかもしれない。遺体の状態が、白骨という現実感を決定的に欠いたものであったことも無関係ではないだろう。
 どんな形であれ、ひとの死体を見るのははじめてだった。
 他人の死に、現実世界で直面した経験すらかつてない。
 そんな十代の若造の前に、生まれてはじめて見る遺体としていきなり同級生だった女の子の全身白骨が出てきたのだ。
 所長ならパソコンのフリーズ状態にでもたとえるだろうか。
 すなわち、神経回路のパンク。オーバーヒート。
 我がことながら無理もない話だ、とそう思う。
 竹島さつきの躯は、水面に浮かんでいるかのように自然な格好で横たわっていた。
 腕は胸の上で軽く組まれ、そこになにか封筒のようなものを抱きかかえている。
 あごから上には視線をやる気にはなれなかった。
 もし髑髏の空ろな双眸と目があってしまったら、むこう一週間、まともに食事ができるとは思えない。自己弁護としてそんなことを考えつつも、理由はそれだけではないな、と別の自分が告げていた。
「手になにか持ってるみたいね」
 遺書かな、とつぶやき、所長は片膝をついたまま時田を見上げた。
「取ってみても良い?」
「――なんで俺に訊くんです」
 問い返した言葉に、彼女は肩をすくめる。
「それもそうね」
 所長は遺体に向き直ると、どこからか出した黒い皮手袋を両手にはめた。そして、慎重な手つきで竹島の抱えた紙片を摘み上げる。
 初見の見立てどおり、それはやはり白い封筒だった。封印はされておらず、なかにはかなり分厚く感じられる枚数の便箋が三つ折で収められていた。
 所長は立ち上がると時田に不可解な一瞥をよこし、一瞬ためらうような仕草を見せながらも、結局それを黙読しはじめた。
 時田の数え間違いがなければ、彼女が紙をめくった回数は八回。
 もし遺書であるのなら、動機に関するかなり詳しい説明があるのだろう。
 しばらくして顔をあげた所長が、静かに口を開いた。
「やっぱり、これはある種の遺書みたいね」
「でも、自殺ってわけじゃないんでしょう? 俺を襲ってきた通り魔がこの件に無関係だとは思えない」
「無関係ではないけど、でもこれは事実上の自殺だと私は思う。そそのかされたにしてもね」
「どういうことです」
 わけが分からず、時田は問い返す。だが、所長は答えるかわりに腰に下げていた無線機を手に取った。家電量販店でスタッフ同士が使っているようなタイプのものだ。
「ディセット、聞こえる?」
 |どうぞ《オーヴァ》と結び、所長はスピーカーのボリュームを最大にした。かすかな雑音が走り、すぐにディセットの声が聞こえてくる。
「聞こえます。なにかありましたか」
 所長は遺体が見つかったことを告げ、状況を簡単に説明した。
「あなたたちが例の通り魔を交換屋《トレーダー》と呼ぶのは、だからなのね。依頼者が望む物を提供する代わりに、生命を要求する。それは報酬としてではなく、その物品を作るために必要な贄だから。そういうことなんでしょう?」
 一拍おいて、ディセットの低い声が返った。
「はい――その通りです」
「待った、ちょっと意味が分からない」時田は顔を思い切りしかめながら話をさえぎる。「所長、これは一体なんの話をしてんですか?」
「陰陽道にも <犬神> という似た系統の呪詛がある。生命力と情の強い大型の動物を拷問のような方法でなぶり殺しにして、発生した怨念を狙った相手に向けるっていう、高等呪術なんだけどね」
「トレーダーの場合は各種昆虫や蛆虫《マゴット》をはじめとした、大量の蟲を使うそうです」ディセットの声が言った。「依頼者は願いを叶えたり、誰かへの恨みを晴らすためにトレーダーと契約します。代償として支払うのは自分の肉体と命。依頼者は自らトレーダーの蟲にその身をさらし、生きながらに喰われていくのだそうです。そのときに生じた恐怖や痛み、怨念、目的への強い意志などを利用して、トレーダーは特殊な呪具を作り出すのだとか」
「生きながら? じゃあ、竹島もそうやって――」
 時田はここに来てはじめて吐き気をもよおした。遺体に向けかけた視線を慌ててよそへそらす。
「変形の蠱毒《こどく》みたいなものだったのか」所長がひとりごちる。「品種改良した特殊な蛆を使ってるんでしょうね。壊死した細胞のみを食う習性を利用した、マゴット治療《テラピィ》って医療技術が確立されてるくらいだから。蛆は、基本的に生きた細胞には手を出さないはず」
「竹島は納得してこうなったってわけですか。だから、所長は自殺だと?」
「そう。動機についてはこれに詳しく書いてある」言って、所長が手にした遺書を掲げてみせる。「時田君。名前こそ明記してはいないけど、あなたのことも書かれてあるわよ」
「俺の――?」
「覚悟があるなら読んでみるのね。もともと、この場でそれを読む正当な権利を持ってるのはあなただけだろうし」
 権利という言葉に背を押されたつもりはないが、時田は気づくとそれを受け取っていた。痺れにも似た感覚に支配された指で広げ読む。

 ――私の名前は竹島さつきです。

 そんな書き出しからはじまる九枚の便箋には、彼女の生涯が綴られていた。
 それは差別といじめの歴史だった。
 物心気づいたときにはもう、それははじまっていた。
 小学校に入ると、周囲の子どもたちは面白半分にトンボの羽をむしって遊ぶ無邪気さで、彼女の身体的特徴をはやしたてたという。
 竹島は自分に向けられた多種多様な蔑称をすべて記憶していた。列挙されているうちいくつか――たとえばカマキリ女など――には時田も聞き覚えがある。
 そして呼び方同様、彼女はさまざまな嫌がらせを何年にもわたって受けてきた。時田が垣間見てきたものは氷山の一角に過ぎず、所詮は男子生徒の視線でしかなかったらしい。読み進めていくうち、そのことが良く分かってくる。
 竹島をより深く傷つけていたのは、同性からのいじめであった。女子生徒たちのやり口は、時田が知る男子のそれのように表立ってはおらず、直接的な暴力が伴われないかわり、内容的には格段に陰湿で凄惨なものだった。
 席替えがあるたび、進級するたび、進学して周囲の顔ぶれが変わるたび、竹島は生活の改善を期待した。
 しかし、そのすべては裏切られた。
 誰にでも分かる外見的特長がある。その事実は、少々の環境変化では逃れられない呪縛を彼女にもたらしていたのだった。
 なぜ、こんな容姿に生まれついたのか。どうして自分なのか。
 常にそんな苦悩が彼女にはあったのだという。
 自殺を考えたことこそないが、生きる意味は見つけにくかった。自分を好きになったことなど一度もない。友達もいない。
 ――私は、携帯電話を持っていません。そのこと自体も惨めですが、持っていたとしても絶対に鳴らないと分かりきっていることに違う惨めさを感じたと思います。
 時田にはそんな一文が、彼女の境遇をなにより良く表現しているように思える。
 誰もいない場所にひとりきり。大勢のひとのなか、空気のようにひとりきり。彼女はどちらの孤独も知っていたのだ。
 だが、そんな毎日にも変化が訪れた。
 心なしか弾むような筆運びで竹島はそう語る。
 それは彼女が中学二年生のときだった。ある少年と同じクラスになり、二学期に席が隣り同士になった。
 ある日、その男子生徒が風邪で一日休むことがあった。
 竹島は翌日登校してきた彼に、休んでいた間のノートを見せてくれと頼まれたのだという。このこと自体は、他の生徒たちも当然のように行っているやりとりだ。別段、驚くに値しない。
 だが他人には当たり前の交流も、竹島さつきにとってはたいへんな衝撃だったらしい。
 なぜなら、彼は差し出したノートを笑顔で受け取った。昼になると、お礼と言って缶紅茶を持ってきた。返却の際、字が綺麗だと褒め言葉を口にした。それも、無理をして場をつなごうとする様子もなく。ただ、友人のひとりに何気なく接するように。
 自動販売機で売っている百円そこらの紅茶を、竹島は昼休み中かけて少しずつ大事に飲んだのだという。今まで味わったどんな紅茶より、それは美味しかった。彼女はそう回顧している。
 それからも、その男子生徒とはちょくちょく物の貸し借りをした。竹島の表現を借りれば「信じられないことに」何度か雑談や談笑したことさえあったらしい。定期考査や実力試験の前には、彼にノートの複製を必ず依頼された。
 教師の説明を聞くより、これを読むほうが頭に入ってくる。竹島さん、先生の才能あるよ――
 そんな風に言ってもらってからは、理解度や得手不得手を考えて、少年のために最適化されたノートを密かに作るようになった。それを渡して、喜んでもらえるのを楽しみにするようになった。
 生まれてはじめての経験だったのだ、と竹島は誇らしげに語っている。
 生まれてはじめてひとの役に立った。
 笑顔を向けられた。
 時間を忘れるような、なんでもないおしゃべりをした。
 学校に行くのを楽しみにしながら夜を過ごした。
 彼と話しているときはふつうの中学生で、名前と顔のある人間だった。
 家に帰って学校での出来事を思い出し、口元がほころんだのもかつてなかった経験だった。その回想がもたらす胸の高鳴りも。なにもかも。
 もちろん辛いことがなくなったわけではなく、むしろ人々は年齢を重ね、知恵をつけるごとに酷いやり方で自分を蝕んでいったけれど。
 それでもやはり、自分にとってあれは宝物の毎日だったのだ。竹島はそう振り返っている。
 だから中学三年生になったあるとき、小さなきっかけを利用して勇気をふりしぼった。この時間を幸福感を少しでも長く、と彼に進学先の志望校を訊いてみたのだ。ノートの貸し借りがあったせいで互いの学力は把握できていた。だから、その質問は自然に受け止められたのだろう。竹島はそう考えていた。
 答えを聞いてからは――自分よりランクがふたつも下だったが――彼と同じ学校に進むことを決めた。
 そして幸運にも、高校二年生になったとき同じクラスになることができた。彼はきっかけがあると時々話かけてくれ、おかげで最初の実力テストのときまたノートを見せてあげることができた。
 嬉しかった。
 新しいクラスでもいじめを受けたが、がんばれた。いつなにを聞かれても力になれるように、勉強にはげんだ。
 ――だが、そんな日々にもやがて終わりがおとずれる。
 父親の仕事の都合で、東京への引越しが決まったのだ。
 竹島も抵抗はしたようだが、子どもの都合でどうこうなる問題ではない。自身が不細工なのは、どこに行こうと――たとえ海外に行ったところで誰の目にも明らかなことなのだ。東京に越したところでいじめがなくなるわけがない。親は希望的観測にすがっていたが、竹島本人は無邪気にそんなものを信じる気にはなれなかったという。
 転校には絶望しかなかった。酷い嫌がらせを受けてもそうそう流れなくなっていた涙が、このときは溢れ出てきた。
 しかしその絶望が、まだ序の口に過ぎなかったことをのちに竹島は痛感する。
 夏休み、「近状報告を」と白丘第一の元担任に出した暑中見舞いに封書が返った。竹島の気持ちを理解していた担任なりの気遣いだったのだろう。元気にやっているか。友達はできたか。勉強にはついていけているか。さまざまなことが書かれていた。
 そしてその手紙を通じて、竹島は在籍していた二年四組の現状をはじめて知ったのだった。
 このときまで、あの牛乳パックの事件の裏側にあったことが竹島の耳に入ることは一度もなかったのだという。
 これには時田もうなずけるものがあった。あのとき、被害者である竹島本人は教室におらず、あとになってそれを報せてくれる情報源など彼女にはなかったからだ。
 だから、竹島にとっては日常の一部でしかなかったあの出来事に、例の男子生徒がからんでいたのは驚きの一言だった。
 そのときの心境を、本人はガンの告知にたとえて表現している。
 信じられない。なぜ。本当に? なにかの間違いではないのか。
 彼女は混乱した頭で何度も担任からの手紙を読み返した。自分のいなくなった二年四組は、和気あいあいとした明るいクラスになっているものとばかり思っていたのである。すべてを現実と受け止めるには、数日が必要だった。
 ようやく状況が整理できたとき、そこにあったのは焦土を見るような虚無感だった。
 それは大規模な森林火災と似ている。気づいたときにはもう手遅れ。ひとはそれが自然と鎮火するまで待つしかない。そしてなにもかもが失われ、最後は灰と黒煙の焼け野原が残される。
 ひとつ山火事との違いがあったとすれば、それは竹島の胸の中で蠢く小さななにかの存在だった。
 思えば、あのとき、もう自分は狂いはじめていたのかもしれない。
 彼女はそう振り返っている。
 竹島は自分の精神が歪んでいく感覚を味わった。そして胸に生れ落ちた蠢くなにかは、灼熱感を伴いながら彼女のなかで徐々に膨らんでいった。
 それが殺意と呼ばれるものであることに気がつくまで、そう長くはかからなかったという。
 自分に手を出してくるのは良い。こんな顔なのだ。きっと、ふつうに生まれてきたなら私もいじめる側に回っていただろう。彼女はそう認めつつ、しかし少し荒れはじめた字でこうつづけていた。
 でも、あのひとにまで同じ思いをさせることは絶対に許せない。
 私は、彼にまで手を出そうとする人間たちを許せそうにない。
 あのひとたちは知らないのだ。うれしくて涙が出ることもあるのだと、そんな泣き方もあるんだって教えてくれたひとが、踏みにじられていく痛み。それがどんなものか分からないのだ。
 想像する気もないのだ。
 もうあのひとたちに、これ以上なにを期待しろというのだろう。
 ――それは追い回されるだけの獲物が、はじめて自分にも牙が生えていることに気づいた瞬間だったのかもしれない。
 時を同じくして、その男は竹島の前に現れた。
 君の気持ちは良く分かる。我々の敵は人間の悪意だ。許してはならない種類の悪意だ。君はそれと戦わねばならない。守るべきを守るために、たとえ命を使ってでも。
 だから、その機会を提供しよう。
 まるで待ち構えていたかのようなタイミングで、そうもちかけてきた人物がいた。
 外国人風の、浅黒い肌の男だった。

 時田は胸を押されたように半歩さがり、土壁に背をつけた。
 三メートルほどの深さでそれほど気温が変わるとも思えないが、額に汗が浮かんでいるのが分かる。左手で拭うと、びっしょりとした感触があった。
「時田君、そんなに力入れたらグシャグシャになるわよ」
 所長の指摘で、自分が遺書を握りつぶしかけていたことに気づかされた。あわてて力を抜き、その手と紙を呆然と眺める。
「やっぱり、時田君に少しヘヴィブロウに過ぎたか」
「そう、だ……重い。こんなの、俺には重過ぎる」
 自分が気色ばんでいくのを止められないまま、時田は半ば叫ぶようにうったえた。
「ひとの死なんて、俺にはとても背負いきれない」
 もう一度、しわになった遺書に目を落とした。
 だが、何度くりかえして読もうと内容が変わることはない。知ってしまった以上、もう事実から逃れることはできない。
「あいつ――竹島はこんなことを思ってたんですね」
「全然、気づいてなかった?」
 時田は力なくうなずいて、それを認めた。
「生まれながらに余計なものがくっついてきたり、あるべきものが欠けてたり。そういうことはたまに起こる。俺もそうですから」
 もちろん、竹島の話と自分の共感覚のようなものが同列に並べられるものでないことは分かっている。だが、きっかけにはなった。彼女と自然に接するための潤滑油にはなり得た。
「だから、特別なことをしてるっていう意識は全然なかった。ただ、ふつうにしてた。他と同じように接してたんです」
「それが良かったのよ。たぶんね」
 おそらく、所長の指摘するとおりなのだろう。
 変に意識しなかったからこそ、竹島はよろこんだ。当たり前のように、ただ自然体で。そんな風に接してくれる相手だからこそ、時田は彼女にとっての特別だった。
 自然で当たり前で、ふつうの女の子。そんな存在でいられる日常。
 竹島さつきは、周囲の同世代が生まれながらに持っているものを夢見て、憧れてきた。
 ただ、それだけだった。
「人の夢と書いて儚《はかな》い、か――」
 所長のささやくような声に、なにかこみあげてくるものを感じた。
 時田はたまらずに顔をあげて、彼女に問う。
「俺の、せいだったんでしょうか」
 それにどんな返答を求めていたのか、自分でも分からない。
 だが、時田は繰り返し問うた。
「あいつが死ぬことを選んだのは、俺がこんな風になったから」
「それは違う」所長がきっぱりと言う。「自分で考え、自分で選んだ。死の責任はいつも本人にこそある」
「だけど」
 反射的に口を開いたが、言葉がつづかない。
「もちろん、時田君が無関係とは言わない」
 彼女はスーツから大きめのハンカチを取り出し、竹島に近づいた。手にした布を広げると、風を孕ませながら静かに遺体の頭部にかぶせる。それは同じ女性としての配慮であったのかもしれない。
「この子が死を選んだのは、究極的には自分のためよ」
 所長は膝を落とした格好のまま、背中越しに言った。
「あなたが被害にあいはじめたという事実は、間接的に彼女の思い出や守るべきものを冒涜する行為に相当した。彼女にとっての時田君は夢の日々の象徴だったから。でもそれは、他人に自分の理想を投影するという意味において恋愛に近いものがある。勝手に陶酔して、勝手な虚像を守るために勝手に死んだ。そんな愚かな命の使い方だったと、彼女の生き方を評価する人間だっているでしょうね」
「それは――」
 時田は思わず擁護の口を開きかける。
「だけどね」遮るように所長が言った。「だけど、この子は時田君のために死んだ。それも事実よ。あなたのことで、あなたを思いながら死んでいった人間がいた。生きながらにして蟲の大群に喰われ、それでも彼女がなにかを思いつづけていたとしたら、それはあなたのことをおいて他になかったんでしょう」
 その言葉を最後に、重たい沈黙がおりる。
 時田は思わず顔を伏せていた。
 竹島さつきが命がけで他人のことを考え、悩んでいたころ、自分は一体なにをしていたのか。それを思うと、とても真っ直ぐになにかを見る気にはなれなかった。
 思えば、時田はいつも自分のことだけに必死だった。悩みを持っているのは自分だけであり、その悩みは世界で一番重いものである。そんなふるまいではなかったか、と問われれば言葉につまるだろう。
「所長、ひとつ教えてください」
 時田は顔を伏せたまま言った。
「なに?」
「俺がもっとしっかりしていれば、こんなことにならずに済んだんでしょうか。自分が正しいと思ったことに全力を尽くして、そのことに胸を張れるような生き方をしてたら」
 時田は存在しない空の唾を無理やり飲み込んだ。
「俺がちゃんとしてたら、竹島は死なずに済んだんでしょうか」
「彼女の死の責任は彼女自身に帰属する。さっきも言ったけどね」
 立ち上がり、振り返って所長は言った。
「でも、時田君がもっとうまく立ち回っていたなら、竹島さつきはきっとまだ生きていたと私は思う」
 やはり、そうなのか。愕然としながら思う。
 もしも逃げ出さず、今も学校に通いつづけていたら。話し合いの機会を設けて、クラスメイトと和解していたら。そんなあり得ない可能性を模索せずにはいられない。
「でも、そんなことを考えたって無駄だし、無意味よ」
 見透かしたように所長が言う。
「でも、じゃあ……俺はどうしたら」
「さあね。私はあなたじゃないから」
 彼女は素っ気無く突き放す。
「――でも、そうね。私が時田君なら、彼女の死を解釈はしないと思う」
「解釈?」
「彼女は天国でこう望んでるだろうとか、きっと俺がこんな風に生きていくことを願っているはずだ、とかの解釈よ。そういうのをやりだすと、人間って自分の都合の良いようにしか物を捏造しない生き物じゃない?
 死んだ人間は墓にもいないけど、風になって生者を見守りもしない。遺志の幸せ解釈と思い出の美化は、命あるものの特権よ。でもそれは、所詮エゴでしかないのかもしれない。心理学が与える客観は、そんな解釈の可能性も提示する。もちろん、生前に明確な意思が残されていれば話は別だけどね。でもそれだって、最後に本音隠して格好つけただけかもしれないでしょ?」
「でも、だったら……もう、どうしようもないじゃないですか」
「どうかする必要もないと思うけど」所長は肩をすくめた。「解釈を抜きにしても、そのひとが死んだという事実と喪失がもたらす感情は残る。それだけ受け止めて生きるってのも手よ? 忘れないかわり、前向きになったり活用したりもしないってわけ。好みの問題だし、とてもお勧めはできないけど」
「すみません。俺には、良く理解できそうにないです」
「無理もない」所長は苦笑し、歩み寄って時田の肩を軽く叩いた。「時田君の立場なら、私だって頭真っ白よ」
「所長でも?」
「こう見えて繊細なのよ、私はね。まあ、生きてる人間には時間があるわけだし。今、急いで結論出す必要はないでしょ」
「そうかも、しれません」うつむきながら、時田はなんとか答えた。
 だが、いまなにかを肯定的に考えるのは、逃避にしかなりえない気がするのも事実だった。
「なんだったら、ちょっとひとりで考えてみる?」
「……良いんですか」
 少し驚いて、時田は顔を上げた。もしかしたら、今の北条玲子はあとにも先にも二度とないほど優しい状態なのかもしれない。
「私は外で待ってるから。あまり長い時間は提供してやれないけど、彼女とふたりになれるチャンスはこれがたぶん最後よ。大切に使うのね」
 言うと、時田に礼を言う暇《いとま》も与えず所長は歩き出した。ディセットに連絡するつもりなのだろう。腰から無線機を取り上げて口もとに持っていく。
「北条よりジャーニマン、聞こえる? これからもどるから、よろしくね」
 彼女は顔から無線を離し、応答を待つ。
 だが、帰ったのは無為に流れていく沈黙だった。
「デルタ、ドゥ・ユー・コピィ?」
 所長が再び呼びかける。付き合いが短くとも、ディセットが責任感の強い人間であることは誰にでも分かることだ。その彼が、この状況下でレスポンスを遅らせるというのはただ事ではない気がした。
 事態の異常性を感じ取って、時田は問う。
「あいつ、応じないんですか?」
「うん。おかしいわ」背中を向けたまま所長が言った。
「ディセット、いないの? 聞こえるなら返事をしなさい」
 彼女は声を張り上げ、直接地上に呼びかける。
 だが、その木霊が暗がりに染み込むようにして消えていっても、ディセットの声は返らなかった。
「もしかして――」
「時田君、悪いけど予定変更よ」所長が振り返る。「状況を確認したい。ここにひとりで置いていくわけにもいかなくなったから、ついて来て」
 時田はうなずいて返した。所長はマンホールにもどると、地上へ伸びるタラップを軽い身のこなしで上っていく。時田は一度、竹島を視界におさめ、すぐに所長のあとにつづいた。片手で苦労しながらタラップを上る。外が近づくにつれ、鈴虫の鳴き声や風にそよぐ木々のざわめきがやけに騒がしく聞こえはじめた。夜の竹林とは思いのほか賑やかな場所であったということらしい。
 地上では、所長が既に周囲を調べはじめていた。
 だが、やはりそこにディセット・ジャーニマンの姿はない。今度は時田も協力して無線と声で呼びかけてみたが、彼が姿を現すことはなかった。
「ひとりひとり消えていく。まるでホラー映画ね」
 口調こそ冗談めかしてはいたが、所長の目つきは険しかった。
「ティガに連絡してみませんか?」時田は提案する。「もしかしたら、トイレとかで校舎にもどったのかもしれないし。俺、確認してみますから、所長は六合村さんの方に連ら――」
「待って」
 制止の声と同時、周囲に走らせていた所長のライトがぴたりとその動きを止めた。
 闇を切り取った光の輪のなかに、見覚えのあるLEDライトが転がっている。
 歩み寄った所長が、無言でそれを拾いあげた。胸に重苦しい予感を抱きながら、時田も近づいて彼女の手元を覗き込む。
「どうも、彼に渡してあったものに間違いないみたいね」
 言いながら、所長は付着した土を指で軽く払う。それは見紛う余地もなく、先ほどまでディセットが使っていた北条警備保障所有のLEDライトだった。
「ねえ、時田君」所長が時田に視線を向ける。「この暗がりのなか、トイレに行くのにライトを置いていくと思う?」
「まさか……」
 そのとき、かたくなに沈黙を守っていた所長の無線機が自ら音を鳴らした。


to be continued...
つづく