「バンブルビィ飛行」 槙弘樹
21
三組の誰が使用していたものなのかは分からない。
教卓近くに位置するその机を、今、大のおとな五人が取り囲んでいた。視線の集まる先には、消しゴムがひとつだけ置かれている。
わずかに使った形跡があり、紙ケースは青と白と黒によるチェック柄。時田の共感覚が伝えてくるのは、ほとんど透明に近い茶色だった。包丁や油のはねるフライパンなどに見られる色である。
「これがねえ……」
その言葉は、ほとんど無意識に時田の口からこぼれ出していた。
「なんの変哲もない、ふつうの消しゴムのようにしか見えませんけど」
「まるで時田君のように無個性で面白みのない、非常に退屈な消しゴムね」
「悪かったですね、面白みのない退屈な人間で」
「あら、無個性を忘れていてよ。時田さん」
所長が冷たく言い放つ。
「――それにしても、どういう仕組みになってるんでしょうね、これは」
ディセットが不思議そうな顔でつぶやくが、それに答えられる人間はいなかった。六合村とティガは黙り込み、時田はもちろんコメントのしようもない。
「まあたぶん、極めて高度で複雑な咒《しゅ》が付与されてるんだとは思うけど」
ややあって、所長があごに手をやりながら言った。
「夕方、パッチの話はしたでしょ?」
「ああ、英語のプログラムを日本語のプログラムにしちゃうとかいう、あれのことですね」
「時田君にしては良く覚えてたじゃない。その通りよ」
近くの椅子を引いて、彼女は流れるような動作で腰を落とした。
「でも、ですよ? 英語を日本語に変えるのと、消しゴムを放射性物質に変えるのとでは、さすがに話が違いすぎませんか」
「パソコンの世界には体験版ソフトってやつがあってね。いわゆるお試し用ってやつだけど――そのヴァリエーションのひとつに、機能制限ってのがあるのよ。たとえば年賀状作成ソフトだと、他の機能は全部使えるけど印刷ができない、とかね。書いた文書を保存する機能がロックされてて使えない、利用できるデザインのパターンに限りがある、というような制限のつけ方もある」
「それがなんです?」時田は目をしばたく。
「技術のある人間はね、その制限を解除するパッチを作ることができたりするの。原付スクーターの三十キロ制限《リミッター》をはずしちゃうような感じかな」
「なんか犯罪っぽいですね」
所長はうなずいてそれを認めた。非正規的な側面を持つため、それらは不正《クラック》パッチと呼ばれることもあるのだという。
「――ともあれ、パッチにはそういう機能開放や制限解除の効果も持たせられるわけ。もちろん、プログラム側に本来そういう機能が搭載されていることが前提だけど」
「これは本来、放射性物質で、リミッターで制限されている状態が消しゴムの姿だということですか?」
ディセットが生徒の顔で所長の反応を仰ぐ。
「まあ、そんなところね。時田君のウィッキィネズミと同じ。本質は防護服だけど、外見上は着ぐるみとしてしか機能しない」
「でも、これは百パーセント消しゴムじゃないですか」時田は人差し指を突きつけながら言う。「なかに放射性物質が埋め込まれてるわけでもないみたいですし。外から着ぐるみかぶせたアレとは違いませんか?」
「だが現に、それは我々の目の前にある。一定の条件を満たしたときにのみ放射能を持つポリビニル・クロライドだ」
ティガの低い声は場に短い沈黙をもたらした。
現物がそこに存在しているという事実は、確かにあらゆる議論を一蹴してしまう。
「呪いって、やってることは遺伝子操作と同じだから、時田君もそういう風に考えてみれば?」所長がまとめるように言った。「自然が書いた遺伝子という名のプログラム設計図《コード》を、人間が自分の都合で書き換える。その結果、巨大野菜や通常の数倍速度で走るスーパーラットが生まれたり――場合によっては、もう元とは別の、新しい生物が出来上がるようなことがもう現実に起こってるわけでしょ」
「そういった成り立ちのことも大事ですけど、問題はこれをどうするかですね」
ためらいがちな口調で、ディセットが話の軌道修正にかかる。
「どうするって言っても、これって一種のオーヴァテクノロジだしなあ」時田は腕組みして小さな唸り声をあげた。「こんなん見つかりましたけど――なんてホイホイ学校には渡せないよ」
「まあ、そうね」所長がうなずく。
「実は先ほど、スリングウェシルのRI回収班から連絡があった。あと七十分ほどでここに到着するらしい。彼らなら安全にこれを管理できるはずだ。とりあえずは、連中に任せるということで良いか?」
ティガの確認に、所長は両肩をすくめて答えた。
「まあ、今のところそれがベターなのは認めるべきでしょうね。時田君の言うように、表向きにできるような代物じゃないし」
「では、回収班が到着するまで私がここで番をしよう。我々がこれを見つけ出したと知れば、トレーダーが証拠隠滅を図ってくる可能性もあるからな」
「うん。でも、ちょっと待って」
相棒を片手を制すと、ディセットは所長に向き直った。
「北条さん。これ、手にとってみても良いですか?」
「リスクを承知の上なら、私は別に構わないけど」
「じゃあ、少しだけ――失礼します」
一言ことわると、ディセットは慎重な手つきで消しゴムをつまみ上げた。そして、壊れ物を扱うように両手で優しく包む。それはなにか、見る者に儀式の前触れを思わせた。
次にディセットは、長い時間をかけて息を吐き、同じくらいゆっくりと吸い込んだ。何度か深呼吸を繰り返しながら、静かに目を閉じていく。
どれくらいそうしていたのかは分からない。そもそも、それがなにを意味する行為であったのかも理解の範疇にない。ただ時田は、ディセットが自らまぶたを開くまで黙して待ちつづけた。
やがて長い眠りから目覚めようとするかのように、ディセットの長いまつげがかすかに震えはじめる。
その青い瞳が再び見開かれたのを見計らい、ティガが短く訊いた。
「なにか分かったか?」
「うん、そうだね……」彼は曖昧に答え、時田に目を向けた。「時田さん、この近くにバンブーグルーヴはありますか? たぶん、敷地内のどこかだとは思うんですが」
「え、バンブーって竹のこと? 竹林なら、それっぽい場所がいくつかあるけど」
戸惑いながら、記憶のなかの学園俯瞰図を呼び起こす。
もともと白丘市そのものが、山を切り拓いた――といったイメージを強く持つ街だ。市とほぼ同時にできたこの学校にも、それを色濃く感じさせる場所が点在している。
「ほら、職員用玄関の正面に、航空写真を引き伸ばしたやつが飾ってあったろ? 暗かったから、ディセットは気づかなかったかな。あれ見れば分かるよ。木立くらいの小さい林なら、結構色んなところにあるだよね。この学校」
「そこに僕を連れて行ってください」
「え、でも竹がにょきにょき生えてるってだけなら、何ヶ所も似たようなところがあるけど」
「グラウンドをはさんで、校舎と向き合う位置のチクリンです。たぶん、近づけば分かると思いますから」
「じゃあ、コンクリ土台の上に広がってる林かな。あんなとこ、どうやって入ったもんか……ほとんど山に近いよ?」
「それより、そこになにがあるのか聞きたいわね」
黙って話を聞いていた所長が、落ち着いた口調で訊いた。
一瞬、ディセットは言葉を探すように黙り込む。その様子を見て、所長はさらに問い重ねた。
「単なる雑談として訊いてるわけじゃないんでしょう?」
「はい」金髪の少年は硬い表情でうなずく。「実はその、おそらくはそこに、この消しゴムの持ち主がいると思うんです」
彼は急いで、絶対にそうとは言えないが、とつけくわえた。
それでも所長は口笛でも鳴らそうかというように、唇を少し尖らせて見せる。明らかに興味をひかれた様子だった。
「なるほど、面白そうじゃない。そういうことなら私も付き合おうかな」
「えっ、もしかして今から行くんですか」
「なによ、時田君。怖気づいたの? 夜を待った理由については、前にも説明したはずよ」
「それはそうですけど」
「じゃあ、一度ベースにもどりましょう。強力なハンディライトがあるから。それと、ネットの地図で大雑把な地形を全員が確認しておいたほうが良い。お六合、先に行って準備しといてくれる?」
「分かりました」
にこりと微笑み、六合村は駆け足で教室の出口へと向かっていく。
その背がドアの向こうに消えると、所長はティガに顔をやった。
「ティガ‐アデプト。あなたは回収班が来るまでここにひとりで残ってもらうことになるけど。任せて大丈夫ね?」
「他人のことより、自分のを心配をするんだな。ディセットはその点で頼りにはならんぞ。天カスは言うに及ばず。お前は大丈夫なのか、ヒトカタ師」
「心配はご無用。備えもあるしね」
言って、所長は腰の後ろあたりをポンと叩いた。
その仕草で、そこにポシェットが常備されていることを時田は思い出す。中身はスイス・アーミィナイフや防災用品、救急用具などである。それらとは別に、護身用と称して伸縮式のスティックが忍ばせてあるのを見かけたことがあった。
「やつは打撃に強い耐性を持っている。気をつけろ。詳しい説明はディセットから受けると良い」
「分かった。じゃあ、ふたりとも。さっそく行くわよ」
言うが早いか、所長は歩きはじめていた。経験上、他人が追いつくのを彼女が待つことはあり得ない。時田はディセットを急かしながら、慌てて戸口につづく。
六合村が用意を整えていてくれたおかげで、ベースでの作業はスムーズだった。軍が制式採用していそうなLEDライトが全員に渡され、WEBの地図で周辺の地形を大雑把に確認する。
「あの、所長」
「ん――?」
「さっき、備えがあるって言ってましたよね。あれって薙刀《なぎなた》のことですか?」
暗い昇降口、ライトの明かりを頼りに履物をかえながら時田は訊ねた。
「ああ、これの話?」言って、所長はポシェットのあたりを指で弾く。「別に薙刀を専門にやってるわけじゃないし、取り入れてるのは現代武道になる前の技術だけどね」
週に二回ほど、「道場に行くから」という理由で所長が早引きしていくのは、事務所の全員が知っていることだった。
もともと警備会社と武道の関連性は浅くない。柔道のメダリストがスポンサーにつけているのは、多くの場合、警察か自衛隊か、警備会社だ。大手ともなれば、必ず武道系の部や道場を持っているとも聞く。
「薙刀《あれ》って、実戦では強いんですか?」
これを機に、いつか訊ねようと思っていたことを時田は口にした。
「まあ、テコの理屈であんまり力も要らない上、リーチもあるし。一般論として、敵に回したら相当厄介ではあるんじゃない?」
玄関のドアを押し開けながら、所長は振り返って時田を一瞥する。吹き込んでくる風は昼間から想像もできないほど冷たい。
「でも、実戦で使えるかなんてのは考えても無駄よ」
校舎から出ると、グラウンドの方へ足を向けながら所長は言う。
「そんなの状況や作戦上の制約、地形効果でいくらでも変わってくるんだから」
「どういうことですか?」
「たとえば薙刀みたいな長物系と剣道が戦ったら、ふつうはリーチの関係で長物がかなり有利だと私は思う。でも、場所が今から行くような竹林や室内だったらどうなる? 壁や木々が邪魔になって、長い武器は自在に振えない。リーチの強みはマイナスに作用して、逆にコンパクトに扱える剣の有利性が強調されることになる」
「あ、そっか」
「素手で拳銃相手と互角に立ち会いたいなら、エレヴェータのなかでやりあえば良い。大切なのは場所や状況や得物を含めた戦術上のバランスってことね」
「なるほどねえ」
夜のグラウンドを眺めるのは、時田にとって稀有な経験だった。月が大きく、雲もかかっていないため周囲は思いのほか明るい。月光に照らされたトラックは、青白い巨大なホットケーキのように見えた。
「で、向こう側に見えるのが問題の竹林よね?」
所長が、グラウンドの対岸に見える山を視線で示した。密集した地上数メートルの竹薮は、手前から奥に進むにつれ紺色から黒のグラデーションを強くしている。先のほうは夜の闇に溶け込んでいるため、どこまでつづているのか視認することはできない。
「どっか入りやすい場所はないの?」
「ないんじゃないですか」時田は即答した。「そもそも入ろうなんて人間は皆無ですから。この十年、あそこに入り込んだ人工物は野球部のホームランボールがせいぜいかと」
言いながら、時田たちはぞろぞろとそちらへ足を向けた。
近づくと、竹林は平均的な大人の背丈よりも高い場所に広がっていることが分かる。もともと小山の一部であった場所なのだ。川の真ん中に残された中州のような存在に近い。
幸い、周囲を固めているコントリートの壁には傾斜があり、時間をかければ素手で登ることが可能だった。それを先頭きって証明してみせたのが、紅一点の北条玲子である。彼女は軽く助走をつけて一メートルほど飛び上がると、何度か手足を動かすだけで壁を登りきっていた。
対して、もっとも苦戦したのがディセット‐ジャーニマンである。肩を痛め、左手一本で挑まなければならなかった時田より、彼はなお時間をかけた。
「平気?」
時田が声をかけると、ディセットは軽く咳き込みながらなんとかうなずき返した。ようやく上り終えたは良いが、まだ立ち上がれる状態ではないらしい。
「で、こっからは完全に勘が頼りってわけね」
土台の上に仁王立ちした所長が、鬱蒼と茂る竹林にライトを投げかけながらつぶやいた。
「ディセット、なにか助言はある?」
「ええ……はい」
立ち上がり、両膝に手をつきながらディセットは答える。揺れる肩をなんとか落ち着け、つばを飲み込んでからようやく二の句をついだ。
「進むのは大変そうですけど、もうそんなに遠くないと思います。良かったら、ここからは僕が先頭に立ちますが」
「そうね。そうしてちょうだい」
とは言え、その「進む」というのがまた難題だった。
そもそも、この竹林には道が存在しない。ひとの都合などお構いなしに伸び放題の青竹は、時に人幅など問題にならないほど密集していた。加えて、日陰に埋まった発育不良の竹の子が災いしている。おかげで、暗がりのなかでは地が波打っているようにすら感じられる足場の悪さだった。ふつうに立っているだけでも捻挫が怖い。
「ところで、ディセット。さっきの話だけど」
竹林を進みはじめてしばらく、所長が口を開いた。
「はい?」渡された鉈で枝葉を振り払いながら、ディセットが一瞬だけ振り返る。
「ティガ‐アデプトが言ってたでしょ。例の通り魔が打撃に耐性持ってるって。あれ、どういうことなの?」
「ああ、それは」ディセットが鉈を持つ手を下げた。「彼は <トレーダー> という異名を生んだ代名詞的な特性とは別に、もうひとつ珍しい体質を持ってるんです。たぶん、そのことかと」
「体質って、どんな?」
ジャケットに付着した葉をつまみ払いながら所長は問う。
「遺伝子疾患の一種だと言われていまして、肉体の組織を――日本語ではどう言えば良いのか――つまり、骨に変えられるんです。ごめんなさい。こちらの言葉ではどう訳すのか分かりません。FOPという病気と同じメカニズムだと言われていて……」
「それ、もしかして化骨筋炎《かこつきんえん》じゃないの?」
所長が面食らったような表情で問い返す。
時田も違う意味で同じような顔をしていた。
「所長、なんですかその……過酷禁煙?」
「進行性化骨筋炎。簡単に言うなら、全身の筋肉やその他の組織が徐々に骨に変わっていっちゃう、世界でも数えるほどしか確認されていない超奇病よ」
「えっ、骨?」
「珍しいわりに結構名前の売れた病気なのよね。難病指定を巡ってちょくちょくメディアでも紹介されてたみたいだし。最近は、骨化性線維異形成症ともいうんだったかな」
「文字どおり骨になっちゃうんですか? 骨みたいに硬くなるとかいう、比喩的な意味じゃなくて」
「本当に骨になるの。全身が少しずつね」
そのため、関節の周りが固まって永久に稼動しなくなることもあるらしい。最終的には臓器――心臓にも骨化が進み、死に至る。
「だから、患者の寿命はかなり短かったはず。だったわよね?」
「ええ」ディセットが神妙な顔つきでうなずく。「日本人の平均寿命からすると半分くらいしか生きられないと言われています」
「ちょっとした衝撃でも進行を早めちゃうことがあるから、近くで暴れたり、呼ぶときにポンと肩を叩くのも厳禁。大声出して驚かせるのも避けた方が良いらしいのよね、あれ。本人も周囲も色々と大変みたいよ」
「そんなすごい病気があったとは……」
共感覚なんぞ大したことはない、というティガの言葉を思い出す。今の時田はそれに迷いなくうなずけそうだった。
「トレーダーは、自分の筋肉を骨にできるんです。お話を聞く限り、骨化というんですね。日本語では」ディセットが言った。
「つまり、やつは進行性化骨筋炎《FOP》の患者だということ?」
「いえ、FOPとは違って、トレーダーは自分の意思で骨化をキャンセルできると言われています。骨にしたり、元の筋肉にもどしたりを自在に、しかもほとんど瞬時に行えるみたいなんです」
「そんなデタラメな」さすがの所長も思わず足を止める。「自由意志で、しかも可逆的にってのはすごいわね。本当なの?」
「確かなことは言えません。ただ、FOPと同じメカニズムを使っているのだろう、という仮説があるだけで。実際は全然別の現象なのかもしれませんし。でも、難病の治療に役立つデータが得られる可能性が高いので、その点でもスリングウェシルの研究者たちは彼に興味を持っているそうです」
「FOPの患者はちょっとした負荷で骨折することがあるって聞くけど、通り魔は違うのかな?」
特に他人の意見を求めたわけではないらしい。所長はひとりごちると、なにか思案するように口をつぐんだ。そしてまた黙々と竹林を進みはじめる。
「なんにしても、殴られそうになった瞬間、そこを骨にしてガードできるってわけですよね」
理解の範疇を超えた話だが、時田にはそれが容易にイメージができた。あの化け物が、ティガの銃撃を受けても無傷でいられたのはそのせいなのだろう。
「どうします、所長。そりゃ、打撃系に強いのも当然ですよ。お得意の薙刀も、骨の鎧には効かないんじゃないですか?」
時田のその声に返ったのは、言葉ではなく鼻先を襲う衝撃だった。
一瞬、殴られたのかとも思ったが、感じが違う。急に立ち止まった所長に激突したのが原因であるらしい。
不平の声をあげようと思ったとき、彼女の肩越しに開けた小さな広場が見えた。
そこが目的地ということなのか、先頭のディセットはすでに辺りの検分に入っている。
「ここ、みたいですね――」
LEDライトをゆっくりと周囲にめぐらせながら彼がつぶやく。
そこは竹林全体を台風とするなら、さしずめ中心部の「目」に当たる空間のようだった。スプーンでくり抜いたように、眼前の一帯だけ竹がほとんど生えていない。広さはテニスコートの半分程度。完全な更地ではなく、地中には巨大な石がごろごろと埋まっていた。ひとの手で均《なら》された場所ではなく、自然発生した空白地帯なのだろう。
その中心部に、放置された巨大な土管が数本、そして造りかけのマンホールが野ざらしにされていた。
マンホールはコンクリート部分が五十センチほど露出しており、シルエットだけなら井戸のようにも見える。蓋はされておらず、それらしいものが近くに転がっていた。
「電線共同溝《CCBOX》を引くつもりだったのか、それともふつうの下水管か。いずれであれ、良さそうな空き地を見つけたんで手を入れてみたけど、思いのほか土壌の質が悪くて放り投げた……って感じね」
所長が自分のライトで工事跡を照らし出しながら言った。まさに同じ印象が時田にもある。
だがそんなことは、もう問題ではなかった。近くで所長とディセットが話をつづけているのが分かるが、中身は頭に届いてこない。
時田はただ、ぽっかりと空いたマンホールの口から視線を逸らせずにいた。
「どうしたの、時田君」
部下の異変に気づいたのか、所長が怪訝そうな視線がよせてくる。
「そうやってぼーっとしてると、またお六合にまんぼう扱いされるわよ」
「所長、あのマンホールはヤバイです」
頭が言葉をまとめきるより早く、本当が口を動かしていた。
「あれには近寄らない方が良い」
「ほう。一応訊いとくけど、そのこころは――?」
一言でいえば、色だ。血煙を思わせるような黒紅色が、穴からあふれ出すように立ちのぼっている。だがそれは、共感覚を通した情報であるため他人には極めて伝えにくい。
「なんと言うか、根拠を聞かれるとただの勘でしかないんですけど」
しかたなく、時田はもごもごとなんとかそう言った。
「まあ、要するに霊感のお告げってやつね」
「霊感?」
「一種の経験則を私はそう呼んでるんだけど――科学的な裏づけのある感覚よ? まあ、蓄積されたデータに由来する、微妙な違和感のことね。職人の指先感覚みたいなものかな」
「それで、どうしますか?」
自分の役割は道案内のみと割り切っていたのだろう。指揮権を再び所長にもどす形で、ディセットが所長に判断を求める。
「どうもこうも、ここまで来て手ぶらで帰るわけにもいかないでしょ。子どものつかいじゃないんだから」
宣言しなから、所長はマンホールに向かっていく。
確かに彼女の言うとおりだった。この先になにがあるのかは分からないが、それを確認するために来たのだ。ここで引き返すわけにはいかない。
「さあて、なにが出るか」
所長は身を乗り出し、井戸状になったマンホールを覗き込む。
時田もライトの光の輪を落としながら、隣でそれにならった。
照らし出された内部は、思いのほか深かった。コンクリート部分は二メートル程度だが、そこからさらに土肌むき出しの地下空洞がつづいている。合わせた深度は三メートル近くになるだろう。
「これはどういうこと?」
地下に落ちていく所長の声が、マンホールのなかでかすかに反響する。
「この穴に時田君を落とせ、というお告げと解釈すべきかな。すると、美しい天女が純金製の時田君とふつうの小汚い時田君を持って現れる。落としたのはどっちかと聞かれて、正直に答えた私は金の時田君をもらうってエンディングね」
「もらわれた純金の俺はどう扱われるんですか?」
「デザインが気に入らないから、恵まれない子どもたちのために寄付するかな。あるいは、溶かして金の延べ棒に変えて大金持ちになるか。名をとるか実をとるか、難しいところね」
「ここにはなにもないから早くお家に帰りなさい、というお告げかもしれませんよ」
「じゃあ、本当になにもないか、ちょっと時田君、下りてみなさい」
「えっ、俺がですか?」
天女のくだりは、この展開に持ち込むための罠であったのかもしれない。時田はふとそう思った。北条玲子ならそれくらいはやる。
「こういうのは下っ端の仕事と相場は決まってんの。良いからキリキリ下りる。さっさとしないと、蹴落として蓋閉めて帰るわよ」
「そんな貞子な」
一応は抵抗してみるが、所長の決定が覆ることはそうざらにない。
どうしたところで下りざるを得ないと判断した時田は、意を決した。ライトのひもに手首を通し、ひとつ息を吐いて縁に足をかける。幸い内部には鉄製のタラップがあり、縄やはしごの必要はない。
片手であるということを考え、足場の安定を第一に進んでいく。中ほどまでたどり着いたところで、所長があとにつづいてきた。時田が底について場所を空けると同時、軽やかに身を躍らせて着地を決める。ただ、いくら待てどもディセットが下りてくる気配はない。
「こっからは俺たちふたりだけですか?」
「そうよ。洞窟探査《ケイヴィング》なんかでも、有事に備えて地上入口にバックアップ要員を残すのは基本でしょう」
「なるほど」良く分からないながら、時田は一応そうつぶやく。
地下内部のイメージは下水管などのなかというより、ある種の坑道に近いものがあった。断面にすればL字型に見えるのだろう。土を大雑把に掘った穴は、片方にしか伸びていない。
時田は手首にぶらさげていたライトを握りなおし、奥に向かって光を投じた。穴の幅は大人ふたりがようやく並んで歩ける程度。距離も大したことがなく、精々数歩分くらいしかないようだった。
その一番奥に、彼女は横たわっていた。
最初に分かったのは、ライトの輪に照らし出される見慣れた制服。そして地面に広がった豊かな黒髪だった。
瞬間、のどの筋肉がひきつるように固まった。空気を絞り出したような声にならない悲鳴が、笛の音のように小さく鳴る。
だが、身を凍りつかせる時田をよそに所長は物怖じしない足取りでそちらに歩み寄ろうとしていた。そして仰向けになった制服姿の傍らまで近づくとゆっくり膝を折る。
ようやく硬直状態から開放された時田は、よろよろとその背に近づいた。所長の横に並び、立ったままそれを見下ろす。
遺体は完全に白骨化していた。
欠損した箇所はなく、破損の類も見た限りでは存在しない。
長い黒髪と白丘第一高校指定のスカートは、その人物が女性であったことを物語っている。そして未発達な短い顎は、個人の特定すら容易にしていた。
時田は胸に感じた鈍い痛みで、ようやく自分の左手が肉を巻き添えにしてシャツの胸倉を握り締めていたことに気づいた。
動悸が酷い。空気が薄いのか、呼吸がやけに苦しかった。
「ここで眠ってたのね、彼女は」
やがて、遺体に視線を落としたまま所長がささやいた。
「この子が行方不明になっていた――」
「竹島です」
彼女にみなまで言わせず、時田は言葉をかぶせた。
その名をこの場で最初に唱えるべきは、他の誰でもなく自分である。そんな気がしていた。
「俺のクラスメイトでした。彼女は、竹島さつきです」