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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



  18

 三人はアパートのエントランス前で待っていた。
 約束の五分がフルに使われたのかは分からない。それより早めに下りてきたような気もしたし、倍以上の間、彼らを待たせていた感じもする。いずれにせよ、所長とティガ、ディセットの姿はそこにあった。
「時田さん、やっぱり来たんですね」
 最初に声をかけてきたのは、やはりディセットだった。相貌に明らかな喜色を浮かべて駆け寄ってくる。
「まあね」
 応じながら、時田は所長に目をやった。彼女の顔に特別な表情はない。拍子抜けするほど平然としている。
「じゃ、行きましょうか」
 所長は一言誰にともなく告げ、すぐに時田へ背を向けた。そのまま煉瓦敷きの前庭を歩きはじめる。ティガが数歩遅れてつづき、時田とディセットは置き去りにされる形になりつつあった。
 完全に予想外の反応である。時田は半ば呆然と遠ざかるふたつの背を見つめていた。声のかけようもない。
「とても、なんと言うか――あっさりしてるんですね」
 横に並んだディセットが、時田の心情を代弁するようにつぶやく。
「まったくだ」
「北条さん、うれしくないわけではないと思うんですけど」
「なんだろうねえ……待ってたわ、好きよとかささやきつつ、走ってきて抱きしめろとまでは言わないけどさ」勝手にため息がもれた。「でも、もうちょっとこうさあ……なあ、ディセット君。あの反応はひととしてどうなの?」
 彼の口元に困ったような微笑が浮かぶ。
「他の感情ならともかく、あまり人前で大喜びするタイプではなさそうですからね。北条さんは」
「確かにそうなんだけどね」
「日本人はよく感情を隠すじゃないですか。北条さんも、時々そういうタイプになるんでしょうね」
「まったくもって難儀なひとだよ」
「それでも彼女の所にいるって決めたんでしょう?」
 ディセットがうれしそうに微笑んだ。まるで自分のことのような喜びようは、どこか六合村のそれと重なるところがある。
「俺なんかの手に負えるひとじゃないことは分かってるけどね」
 言って、時田は再び嘆息した。同時に意図せず苦笑する。それは、はっきりと自覚できるほど愚かな選択だった。火を手で掴もうというのは愚挙以外なにものでもない。結果は分かりきっている。
「しかし、振り返りもせんとずんずん行くな、あのふたり」
 時田は笑いながらディセットに顔を向けた。
「俺たちも行こうか。このままだと置いていかれそうだ」
「そうですね」
 ふたりでのんびりと歩き出した。ディセットがそうすれば歩調を合わせようと思っていたが、彼が足を速めようとする気配はない。つかず離れずの距離を保って所長とティガを追う。
「それで、所長が聞きたがってた最後の件はどうなの?」
 しばらくして時田は訊ねた。
「例の通り魔の話ですか?」
「うん。ティガの様子からするに、なにかは掴んでるんだろ」
「一応、本部に問い合わせてみたんです。とは言っても、僕ではなくティガが、ですけど」
 時田は無言で話の先をうながす。
「結論から言うと、たぶんこれだろうという該当データは見つかったみたいですよ」
「GBH《しょうがパン》の関係者?」
「いえ、組織には属していない――こういう言い方は変ですけど――その意味では普通の犯罪者ですね。何件かの第一級謀殺容疑でアメリカから国際手配されてます」
「要するに殺人罪ね。で、結局のところは何者なのさ」
「リック・アーチャー、ロベルト・アッチソン、エリオ・レリューコフなど、色んな名前とプロフィールを使い分けているようですけど、本名、国籍、目的は不明です。幾つかの手口から、むかしどこかの国の特殊部隊にいたのではないか、とも言われてます」
 確かに、あの男は時田にワイヤートラップをしかけてきた。その際、ベトナム戦争で使われたものだと解説も披露している。従軍経験くらいはあったのかもしれない。
「で、具体的にはどんなことやらかしたの。やっぱり通り魔?」
「悩みを抱えている被害者に近づき、必要としている物を提供するのと引き換えに、彼らを殺したり重症を負わせたりする――というのが主なやり口です」
「なんだそりゃ。なんでそんなことすんのさ?」
「反社会性の人格障害だと言われてはいますね。むかし風に言い換えるならサイコパスだと。なんにしても理解は難しいですよ」
「望みを叶えるかわりに魂をもらう気でいる精神異常者か。なんか、キリスト教文化圏でいうところの悪魔みたいじゃない?」
「そういう指摘をするひとは珍しくありません。でも、彼は自分の犯罪をビジネスライクに進めて行くことでも良く知られてるんです。だから一部関係者の間では、トレーダーと呼ばれているようですね。日本語に訳すなら――なんでしょう。交換屋、かな?」
「じゃあさ、学校にしかけられた放射性物質もそいつが調達したってことになんの? で、誰かに渡したとか」
「この件にトレーダーが本当に関わっているなら、その可能性は高いでしょう。少なくともティガはそう考えてるみたいです」
「そういやあの通り魔、俺を襲ってきたとき業務妨害がどうとか言ってたもんなあ」時田は無意識に一瞬、足を止める。「日本語を間違えてるだけだと思ってたけど、もしかしたら本当に仕事のつもりでやってるのかもしれない」
 時田はしゃべりながら考えをまとめいていく。再び歩き出しながらつづけた。
「そのトレーダーって呼ばれてるやつは、自分から被害者に近づいていくんだろ。じゃあさ、今回はそれが学校に恨みを持ってる誰かだったとしたらどうよ? 放射性物質を提供したり、色々と破壊工作に協力する契約を結んでさ。成功したら報酬として、そいつの首をバッサリ」
「それでいくと、北条警備保障は確かに邪魔な存在ですね」ディセットが首肯しながら言う。「自分の犯罪を、契約の伴うビジネスそのものだと考えているのなら、業務妨害という言葉が出てくるのもうなずけます」
 そのとき、遥か前方を歩いていたはずのティガがすぐ近くに見えた。自動販売機の前で立ち止まっている。すでにコインは投入済みのようで、並べられた商品のサンプルを難しい顔で眺めていた。
「なにやってんの、おっさん。さっきコーヒー飲んでたのに」
 追いついた時田は半ば呆れ混じりの声をかける。
「良く見ろ。これは飲料ではなく菓子の販売機だ。こんな物まであるのだな」
 ティガはあごでサンプルを示しながら言った。
「この国には本当に自動販売機が多い。一ブロック歩くたびに見かける」
「確かに海外ではあまり見ないわね」
 所長が同調する。その口ぶりから察するに、彼女は海外旅行を経験したことがあるようだった。
「治安の問題もありますよね。中東や南米、その他でも治安の悪いところなら、自動販売機は置いた瞬間に襲撃されて商品とお金を抜き取られちゃいますから」
 近年、国内で「安全神話の崩壊」という言葉が良く使われるようになったが、それでも日本はまだまだ安全で平和で、治安の非常に良い国家であることに変わりはない。それが世界を見てきたディセットの印象であるらしい。
「見ろ、ディセット。 <ミカド> があるぞ」
「ミカドってなに。ポッキーのこと?」
 所長が怪訝そうな表情で問う。確かに、ティガの視線の先には見慣れた赤い紙箱のサンプルが展示されている。
「そうだ」ティガがうなずいた。「ヨーロッパで売られている有名な菓子だ。パッケージを見る限り、こちらではポッキーと呼んでいるのか。日本でも売られているは思わなかった」
「なに言ってるの。製造メーカーを良く見なさい。それは日本の企業が開発した商品よ。日本のお菓子がヨーロッパでも売られてる、の間違いでしょ」
 ボタンを押し、受取口から商品を取り出したティガが刹那、動きを止める。かがめていた上体を起こすと、彼は改めてパッケージを点検しだした。
「確かに、製造元はこの国の企業名になっているな」
「おっさん、ミカドって名前にはなんか意味があんの?」
 時田は訊いた。ミカドと耳にして最初に思い浮かぶのは、同じ発音の「帝《みかど》」だ。大方、海外で売り出す際、なにか日本的な響きの言葉を商品名にしたのだろう、というのが時田の予想だった。場合によっては、サムライだとかゲイシャだとかいう名前の菓子にされていたのかもしれない。
「ミカドは、ヨーロッパ諸国で広く親しまれている子どもの遊びだ。竹で作った細い棒を使うゲームでな。その棒がこいつに似ているから、ミカドという商品名になったのだ」
 包装を解き、ティガは細いチョコスティックを全員に勧めながら言った。時田も数本、紙の箱からそれを抜き取る。
「ポッキーって、なかなか世界的《ワールドワイド》な製品だったのね」
 所長が珍しく感心したような口調でつぶやく。
「ねえ、ティガ。なんだかチョコレートの口溶けが違わない?」
 ディセットのその言葉に、ティガはすぐにうなずいた。
「味そのものも違う。どうも、ミルクを混ぜているようだ。それに、日本はヨーロッパと比較して平均気温がかなり高いからな。おそらく、暑さを計算して溶けにくいチョコレートを使っているのだろう。国によって細かく調整しているのかもしれんな」
「はあ、なるほどねえ」時田は感嘆の吐息をもらす。「外国人の視点を一個入れるだけで、色々と話がふくらむもんだな」
 自動販売機など、もはや背景の一部だ。個数などカウントはおろか、意識することすらない。菓子も、ティガとディセットがいなければ、ただ単に腹を膨らませて終わる存在でしかなかった。
 同じ景色を見ていても、得られる感覚は異なる。最近、このことを痛感させられる事例に良く出会っているような気がした。
「だが、なんといっても日本の文化と言えばマンガだ」
 ティガがチョコスティックを四本まとめて噛み砕きながら器用に言った。
「今日も、ブッコフに行って大量に買い込んだものよ。ユーズドとはいえ単行本が一冊一ユーロもしないとは、まさに天国。買い過ぎたせいで、ついにホテルの部屋に置けなくなったくらいだ。――そういうわけで、ボウズ。お前の部屋のスペースを少し借りたぞ」
「それでホテル待機のはずのおっさんがウチに来てたのか。部屋に置けなくなったって、あんたどんだけ買い込んだんだよ」
「約千二百冊ほどだ」
 噛み砕いた菓子が気管に入り込んだ。咳き込む時田の背を、ディセットがかいがいしくなでてくれる。
「アホですか、あんたは。今度は持って帰るのに莫大な金がかかるだろ。故郷《くに》でマンガ喫茶でもはじめる気か、おっさん」
「フン、せっかく日本語を覚えたのだ。能力は最大限生かしてこそ意味がある」
「ヨーロッパでも、大学の授業で日本語を専攻する生徒が増えているんですよ」ディセットが補足するように言った。「その動機を支えているのが、マンガやアニメといった日本のサブカルチャーへの興味なんです」
「まったく。ただでさえ狭いウチの空間を勝手に占有するとは」
「まあ、そう言うな。お前にはこれを買ってきてやったぞ。場所代として受け取っておけ」
 ティガがスラックスの後部ポケットから新書サイズの薄い冊子を引っ張り出す。表紙には「免許をとろう・ポケット版」とあった。
「なんだよ、これ。運転免許の学科用マニュアル?」
 裏を返すと値札が貼られたままだった。薄れた黒インクで五十円と記されている。
「珍しいから買ってみたのだ」
「珍しいって?」所長が訊く。
「こうした質の高いマニュアルもそうだが、練習場の整備された教習所や体系化されたカリュラムなどは、世界的に見ても日本にしかないものなのだ。似たものが存在しても、他国の場合、こうまで徹底はされていない」
「そう言えば、アメリカなんかでは親を隣に乗せて何回か練習するだけで免許取れるって聞いたことあるもんなあ」
 つぶやきながら、時田はぱらぱらと斜め読みしていく。後半にさしかかったとき、ティガの太い指が横から伸びてきた。ページをめくる手をさえぎりながら彼が言う。
「ここのシミュレーションなどは特に面白いと思わんか?」
「なに? 学科試験用の練習問題だろ。これ」
「そうだ」
「次のような場合、どのようなことに気をつけて運転しますか――?」
 読みあげつつ、時田は一コマ漫画風の絵に注視する。
 それは運転席から見た雨の日の道路を描いたものだった。アスファルトの通りには水たまりが目立つ。右手前方には小学生のランドセル姿がふたつ。左側には対向してくる徒歩の女性がいた。いずれも傘を差しており、それに遮られて顔は見えない。
 時田はしばらく考え、裏面の答えを見た。
「子どもが水たまりをさけるため、急に道路の真ん中へ飛び出してくるかも」、「歩行者が雨の音や傘で、自分の車に気がついていないかも」。解説には、「歩行者の動きに注意し、危険な行動の兆しに早く気づくようにしよう。子どもの急な行動にそなえて速度を落とすと共に、間隔を多くとろう」とある。
「――なるほどねえ。良く出来てる。けど、俺はまだ免許取る予定ないよ」
「だが、いずれは必要になるのだろう。とっておけ」
「まあ、そう言うならもらっとくけどさ」時田は本を閉じてジーンズのポケットにねじり込んだ。「でも、床が抜けるのが心配だから、なるべく早めにウチの本は撤去してくれよな」
「近日中に手配しよう」
「まったく、二千冊なんてほんとに読めるのかねえ」
 それからは若干、歩行速度を速めて学校に向かった。ゆっくりしていては生徒の下校時刻と重なるおそれが出てきたためである。
 もとよりティガとディセットは隠密行動を行っている身の上だ。時田も、変に目立ってうわさのネタになることは避けたい。
 だが、放課後になれば金髪碧眼のディセットは嫌でも人目をひくだろう。結局、白丘第一高校にたどり着いたのは十六時になる数分前だったが、時田たちは念のために裏口から敷地内に入らざるを得なかった。もっとも人気のないルートを時田が案内し、こそ泥のように破棄された本校舎の勝手口に向かう。
「で、これからどうするのだ?」
 たどり着いた昇降口にティガの低い声が響いた。足元の来客用スリッパは、土足で上がりこもうとした彼のために時田が無断で借用してきたものだ。
「約束どおり、現場の二年四組のクラスに案内しましょう」
 自前のサンダルに履き替えた所長が、全員に向かい合う位置から言った。
「その前に、これを貸してあげるから肌身離さず持っておくようにね」
 言葉と共に差し出されたのは、人数分のお守りだった。神社で良く見かけるような、ごくふつうの形状をしている。朱色でやや大きく、無地である点が一般的なお守りとの差異だろう。
「店から持ってきたんですか?」
 ひとつを受け取りながら時田は問う。
「まさか。これは女子高生の小遣いで買えるような物じゃないのよ。なにせ、償物《あがもの》としては最上位に近い人形《ヒトカタ》御幣だからね。それで一度だけ大禍を回避できる」
「疑問だったのだが、アガモノとはなんだ?」
 ティガが訝しげに目を細めた。
「生身の人間にかわってリスクを背負ってくれる――いわば身代わりのことよ。正月の注連縄《しめなわ》やヒナ人形、いざなぎ流の幣《へい》と呼ばれる物もその一種ね。本来は陰陽道の呪術だけど、神道や仏教の日蓮宗なんかもこれの影響を受けてる」
「スケープゴートか」
「一種のね。これは、私でさえひとつ組み上げるのに丸一ヶ月はかかる代物よ。ごく少量市場に回すこともあるけど、そのときにつく価格を聞いたら時田君、目玉が飛び出るかもね」
「これで放射線被曝を防げるわけだな?」
「致死線量《リーサルドース》でなければ大丈夫でしょう」
「こういったものは現代のオンミョウ・プリーストにも作れるのか」
「陰陽道自体は高知県東部にある香美ってところで、細々と生き延びてはいる。さっきもちょっと言った <いざなぎ流> ってやつがそうよ。ここでの陰陽師は太夫《たゆう》と呼ばれていて、彼らは人間にとってのあらゆるネガティヴ要因――すなわち呪詛を償物に封じ込めて浄化させる役割を担っている。取り分けっていう儀式なんだけど、効き目については……まあ、想像におまかせってところね」
「待った、待った」時田は慌てて割って入った。「なんで、みんな所長のヨタ話をあっさり受け入れちゃってるのさ。あり得ないでしょ、お守りが身代わりになってくれるなんて」
「ヨタ話とは失礼ね」所長の鋭い視線が時田を射抜く。「人形御幣だったら――十五分で作れる手抜き版だけど――ショップにも出してるじゃないの。言っとくけど、私は効き目のない物を売り出したりはしないわよ。詐欺師じゃないんだから」
「じゃあ、なんですか。撫物《なでもの》は本当に効果があるとでも? あぶらとり紙じゃないんだ。災難や病気は紙に移して取り除くことはできないんですよ」
「それを誰が証明したのよ」
「科学的に考えれば当然のことじゃないですか」
「あのね、時田君。こういう話を知ってる? もう千何百年もむかし――日本という土地が大和朝廷によって統一された頃のことだけどね。当時のトップだった天武天皇が、宮廷に陰陽寮ってのを設置したのよ。そのとき、万物のメカニズムを説明する非常に整理された最先端理論として、陰陽道は旧来の思想体系を駆逐した。彼らが得た陰陽五行説にはきちんとした法則があり、公式があり、解答があった。あらゆる事象と現象を論理的に説明する、一般人にも理解のしやすいものだった。当時の人々にとって、それは立派な科学だったのよ」
「また、そうやって唐突に難しいことを言い出して。それで煙にまこうったって、そうはいきませんよ」
 時田の反撃に、所長は余裕の表情で肩をすぼめて見せる。
「千年《ミレニアム》単位の長期スパンで見た場合、科学という概念は一種の流行に過ぎないことが分かる。時代によって支持を得る髪型やファッションが変化するように、科学という言葉が指し示すものの中身も姿を変えていく。現代科学にだって、既にその兆候は見えるでしょ? 量子力学の登場は科学と哲学とを急速に接近させて、部分的にその境界を曖昧にしつつある。数学や天文学の最先端だって、学者の妄想が正しいか間違ってるかを証明するための研究そのものじゃない。最近の科学は、ちょっと前まで非科学的としていた分野を取り込んで別のなにかに姿を変えつつあるってこと。
 結局ね、その時代の人間は、そのとき一番流通している論理体系を科学だと思って信じてんのよ。それで全てが説明できると思って、思考の根拠にしてるわけ。だから千年後、私たちが信仰してる科学には別の名前がつけられてる可能性が高い。千年前の科学が陰陽道っていうラベルで今、語られてるようにね」
「なにか、言いくるめられてる感じがするのは気のせいか」
 低く唸って時田はうつむく。視界の端に、にやにやと笑って状況を見つめるティガの姿が見えた。
「ゲーデルの不完全性定理は、現代科学では解明不可能なものが存在することを数学的に立証してしまった。時田君の言う科学ってやつは、実際のところなかなか大したものよ。だけど、所詮は世界を客観視するための視点のひとつでしかあり得ない。でも、人間ごときの客観が森羅万象を説明し得るって考えにそもそも無理があると思わない?」
「六合村さんが言ってたのはそのことですか?」
「ん――」所長が片眉を持ち上げる。「お六合からなにか聞いたの?」
「呪いの九割はひとの本能的な習性とか心理を利用した一種のトリックで、科学的に説明のつくものだって。でも、わずかながらそういうのとは種類の違う呪いがこの世にはあるって言ってました」
「それは興味深い話だな」
 ティガは神妙な顔でささやき、黙して所長の反応を待つ。
「そうね。呪いには確かに二種類ある。多くは、時田君のいうように人間に直接作用させるタイプね。言葉や心理トリックを使って、他人の言動を制限したり望んだ方向へ誘導したりする。もうひとつは、対して世界に作用するワンランク高度な呪いと言えるでしょう。時田君が知りたがってるのはこっちの方ね?」
「たぶん。でも、世界に作用するってどういうことですか」
「パソコンを扱いはじめて初心者を卒業するとね、パッチっていう修正プログラムに出くわすようになる。要するに、そのパッチみたいなものだって言うと分かりやすいと思うんだけど――」
 理解できるか、という視線が所長から時田へ送られる。
 文字通り、お手上げな話だった。
「俺が機械オンチなの知ってるでしょ。現役高校生のくせに、携帯電話すら使いこなしてない男ですよ」
「パッチというのはプログラムに新しい機能を加えたり、不具合を修正したりするためのものだ。設計図の一部を書き換えてしまう、自動実行装置の類だと考えれば良い」
 ティガが横から説明的な口調で言った。
「そうね」所長がうなずく。「日本では、外国語のソフトを日本語にしてしまうパッチ――その名も日本語化パッチなんかを良く見るわね。このパッチを適応すれば、言葉が分からずに使えなかった英語のソフトが、あら不思議。たちまち日本語になってしまいます……ってわけ。これなら中卒の時田君も安心して扱えるでしょ?」
「じゃあなんですか。世界に作用する呪いって、世界を作り出してる設計図を書き換えて、好き勝手にしちゃうってことですか?」
「まあ、そんなとこね」
「でも、そんなこと言い出したらなんでもありでしょ。神にも悪魔にもなれるじゃないですか。死人だって生き返る」
「そうではない」ティガが見かねたように口を出した。「パッチは万能の存在ではないのだ。もともと、洋服に空いた穴などを防ぐための <あて布> を意味する言葉だからな。その場しのぎの処置――一種のつぎはぎに過ぎん。やれることには限界があるし、元のプログラムが採用している言語の制約から逃れられるわけではない」
「その通り。良く、法の網の目をくぐるとか法律の抜け道を使うとか言うでしょ。あれと一緒。決められたルールのなかで、盲点を探しながらうまくやろうってだけの話よ。死んだ人間が生き返らないっていう世界の大原則は崩せない」
 そこで言葉を区切ると、話は終わったと言わんばかりに所長は身を翻した。先導するように階段へ向かって歩き出す。
「まあ、だまされたと思って持ってなさい。それで効き目があればラッキーってことで良いじゃない」
「まあ、確かに」
 その部分だけは納得し、時田は護符をポケットに収める。タイミングを揃えたようにティガとディセットも同じ仕草を見せていた。
「……ちょっと待てよ」
 乱れた服の裾を直しているとき、ふとそのことに気づいた。
「今の話の流れだと、なんか所長が陰陽師っぽいことにならないか?」
「なにを今さら言っておるのだ、お前は」
 心底呆れた、という表情でティガ言う。
「あの娘は、その筋で良く知られた手練だぞ」
 ショップに並べてあった護符の類が所長謹製の品であることにも本来驚くべきだったのだ。このところ驚愕の事態が連続発生しているせいで、感覚が鈍化しつつあるのかもしれない。
「なにしてるの。ぐずぐずしてると三人まとめてぶっ飛ばすわよ」
 引き返してきたのだろう。所長が廊下の先の角から顔だけ覗かせて睨みをきかせる。彼女の罵倒に免疫のないディセットが、かわいそうなほど怯えたのが見て取れた。
「あの、所長」
「なによ」
 走って追いつくと、彼女は階段をのぼりながら背中で応えた。
「ティガたちが、所長は陰陽師なんだって言ってますけど……これって本当なんですか?」
 我ながら莫迦《ばか》げた問いだとは思う。しかし、他に適当な言葉を見つけることができない。
「別にそんなものを名乗る気はないけどね」
 一瞬だけ時田を振り返って所長は言った。
「一種の研究家みたいなものかな。学者の家系で代々陰陽道をテーマにしてきたから、私も自然とそうなってただけの話でね。土御門やいざなぎ流と家系的に関係があるわけでもないし」
 遁甲、相地、卜筮《ぼくぜい》、望気、侯星、暦――
 陰陽師に課せられた任務のうち、その八割は軍事、政治経済、気象、吉凶などの観察・予測・リスク管理にあったと所長は説く。
「今でも他国がミサイル実験すると軍事専門家が出てきて状況分析するし、永田町でなにか起これば政治評論家がコメント出して、これからの展望を語るでしょう。株価が下がればエコノミストが今後の市場の動きを占う。そういうことを、かつては陰陽師がまとめてやってたわけ。天文|博士《はくじ》や暦博士、漏刻博士に代表される専門部署を作ってね」
「そういえば、陰陽師は今でいう政府の官僚だったってさっき言ってましたね。一種の国家公務員だと」
 時田の隣に並んだディセットが優等生らしく指摘する。
「そう。だけど、私には占筮や易と呼ばれるその方面の才能がない。皆無と言えるほどないのよね。そんな人間を陰陽師とはとても呼べない」
「でも――」
「そうね。占術や易の才能が悲しいほどないかわり、私のそれはひとつの方面に凝縮・特化されてる。陰陽師としては落ちこぼれでも、その分野では土御門とだって張り合って見せるわよ」
「だから、あなたは陰陽師として扱われることはほとんどない」
 ディセットが真っ直ぐに伸びた所長の背に声を投げる。
「代わりに、その大才は新しい呼称を作らせたんですね」
「周りの連中が勝手に呼び出しただけのことよ」
 さして関心を抱いた様子もなく所長は言った。
「なに。所長、なんて呼ばれてるわけ?」
 その問いに、ディセットは時田へ顔を向ける。
「僕らが把握している限り、北条さんを示す言葉としてもっとも頻繁に用いられるのは、 <ヒトカタ師> という呼称です」


to be continued...
つづく