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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



  17

 時田はなぜか居間のソファに正座していた。隣ではディセットが怯えた様子で小さくなっている。ふたりして眺めているのは北条玲子とティガ‐アデプトによる対峙の構図だった。炎と白銀。この機を逃せば二度とお目にかかれない取り合わせかもしれない。だが、望んでお目にかかりたいとは到底思えないマッチアップでもある。
「時田さん、あのふたりどうにかなりませんか」
「無理だね」
 小声でささやくディセットに、時田はきっぱりと断言した。
 世界でもっとも偉そうな女性の暫定王座。そして同男性部門のトップ。よりにもよって、このふたりが向かい合っているのだ。
「あれは最悪のツートップですよ、ディセット君」
「そんなこと言って、北条玲子さんを連れてきたのは時田さんじゃないですか」
「俺の意思じゃない。女王陛下の御意に従っただけなのだ。だいたい、なんだってティガがここにいるんだよ。今日はあのおっさん、ホテル待機のローテーションじゃなかったっけ?」
「あのひとにそういうルールは通用しないんです」
「今さらながら、会わせてはいけないふたりを会わせてしまったような気がする」
 時田はディセットと揃ってダイニングに視線をもどした。
 王者らしく、固有色保有《ユニーククオリア》のふたりは尊大な態度で席上にいた。所長は長い脚を膝上あたりで組み合わせ、ティガは右の足首を左のももに置く格好で互いに踏ん反り返っている。
「なるほど、スリングウェシルとはね――」
 手にしていたカップを置き、北条玲子が低くつぶやいた。中身はディセットと時田が共同で献上したブレンドコーヒーだ。
「エンクィスト財団、GBH……聞いたことはあったけど、業界にある都市伝説の類だと思ってた」
「誤解がとけたようでなによりだ」
「で、その話は客観的な事実で証明できるの?」
「これが、私のパスポートだ」
 ティガが姿勢を崩し、スラックスから手帳大の冊子を取り出す。所長はそれを無言で受け取った。雑誌でも読み流すようにぱらぱらと頁をめくっていく。
「今回はそれを使って入国した。出るときもだ」ティガが言う。
「フランス国籍で、氏名はティガ‐アデプト。あからさまな偽名なのに、それがそのまま載ってるわけね。確かに、私には真贋の判別がつかない出来ではある」
 所長は興味をなくしたようにパスポートを閉じると、そのままティガに返した。
「でもこれじゃあ、あなたたちが公文書偽造の犯罪者だって証明にしかならないと思うけど? そういうものを軽く用意できる組織の後ろ盾があり、それがスリングウェシルに他ならないと論理を展開するつもりにしてもね」
「信じる信じないはそちらの勝手だ」
「来日した目的は?」
「それを話す義理はない」
「じゃあ、訊き方を変えましょう。私は今、この近くにあるハイスクールで起こった事件を追ってる。犯人は施設内の少なくとも一箇所以上にレイディオアクティヴ・マテリアルをしかけたと思われ、これによって死者が既に四名出た。さらに犯人と目される男は、そこの――」
 と彼女は時田を目で示す。
「私の部下を襲い、北条警備保障が調査に乗り出すのを牽制しようともしている。その襲撃の際、犯人はペンのようなものを小型の手斧《アクス》に形状変化させたという報告があるんだけど、これらはあなたたちの活動となんらかの関連性を持つ?」
「レイディオアクティヴだと?」
 はじめてティガがそれらしい反応を見せた。時田の隣に控えたディセットも目を見開いて驚愕をあらわにする。
「あの、時田さん。今日のお仕事でなにか分かったんですか?」
「うん」所長たちの邪魔にならないよう声量を絞って答える。「なんとかメータってやつで学校内を調べまわったんだ。放射能の反応を見るために」
「それで、放射性物質が見つかったんですか?」
「いや、そのものは見つかってない。異常な数値が出ただけ。俺の同僚は、既に実行犯によって撤去されたあとなんじゃないかって言ってた」
 耳をかたむけると、所長とティガもほぼ同様のやりとりを交わしているようだった。明らかに興味を持ったらしい。ティガから質問を飛ばすのはこの場が設けられてからはじめてのことである。
「それは施設の一部分に放射能が付与されたのか。それとも放射性物質が置かれたのか?」ティガが脚を下ろしながら問う。
「さあね。私はこれから現場に行ってそれを確認するつもりだけど――どう、立ち会いたい?」
「可能なのか」
「可能よ」所長がにやりとする。「情報提供に関する協定を結ぶ気があるならね」
 ティガはじっと所長を見つめたまま背もたれに身体を寄せた。丹田のあたりで両手の太い指を組み、深く息をつく。
 実際にはたいした間ではなかったのだろう。だが、時田には長く感じられる沈黙がつづいた。
 やがて、ティガが無音の時を破る。彼は静かに一言告げた。
「なにが知りたいのだ」
「大きく三つ。あなたたちの来日目的。この街に関するスリングウェシルの認識。そして例の通り魔に関する情報。これらについて知ることができれば、私もそれなりのもので応じる用意はある」
 隣からディセットが固唾を飲む気配は伝わる。業務上の上下関係という意味において、彼はティガに一歩譲る立場にあるらしい。所長の提案にのるかそるかを決める権限もティガにあるのだろう。
「ひとつ目とふたつ目の質問については、当然ながら深い関連性がある」
 やがてティガが口を開いた。好奇心をたたえた猫のような瞳で所長はうなずく。
「でしょうね」
「まずはそれから話そう」言うと、ティガは卓上で両手の指を組み合わせた。「スリングウェシルがこの街に興味を持ったのは三年前だ。白丘市に危険因子が集まりつつあることが問題になった。その時点ではまだ兆候に過ぎなかったが、去年あたりから無視できないレヴェルに至りはじめてな。とは言え、組織が生まれたわけではない。力を持った個がなにかに引き寄せられるように集まり、あるいは発生しはじめたのだ」
「危険因子ってなんのこと」
「ジンジャーブレッド・ハウス《GBH》が商品価値を見出す対象のことだ。一種の異能者だな」
「異能の定義は?」
「簡単に言えば突出した天賦の才能だ。分野や方向性は問わない。自閉症でも性格破綻者でも良い。たとえば過去二十年間、まったく睡眠をとっていない人間。氷点下に裸でもまったく寒さを感じない人間。痛覚を刺激されると笑い出す人間。これらは科学が認めているものの、説明まではしきれていない存在だ。彼らは重病人でありながら、一方で超能力者に等しくもある」
「そんな人間がこの街に何人もいるって?」
 所長は苦笑交じりにティガの顔を覗き込む。返ったのは無言の肯定だった。
「まあ確かに、思い当たる節がないでもないわね」
「ある意味、当然だ。自身がそうであるし、現在追っている例の通り魔とやらも該当者である可能性が非常に高い」
「じゃあ、こういうこと? 白丘市が突然、変人の巣窟になりはじめた。そうなると、変人コレクターが目をつけてやってくるかもしれない。そこで、変人コレクターと敵対してるあんたたちは先手を打つ意味で白丘市にやって来た。目的は街の監視ってとこかな?」
「そんなところだ。だが、目的の部分に関しては違う」
「白丘市の監視のために来たんじゃないってこと?」
「我々が興味を持っているのは、なにが異能者たちを集めているか。異能者たちが集まったのはなぜか、だ。もともと強力な異能者には社交性に欠く人間が多い。代表例として好んで用いられるサヴァン症候群の患者を見ても明らかなようにな。さっきも言ったが、彼らは重度の自閉症や社会不適合者であることも珍しくない。そんな連中が自ら集まって共同体《コミュニティ》形成などすると思うか? 通常、馴れ合うことなどあり得ない。それにもかかかわらず、この白丘市には異能者が大勢ひしめいている」
「当然、それには原因があるってわけね」
 太い首の上で角ばったティガの顔がゆっくり上下される。
「そう、有力視されている仮説はある。我々が <シンギュラリティ> と呼んでいる存在がそうだ」
「日本語にすると、特異点? 数学や物理、天文学の世界でたまに使うあれのことよね。分野によって微妙に意味も変わるけど……この場合のそれはなにを指すの?」
「極めて稀に、そうと自覚しないまま異能者を周囲に集めてしまう人間が現れる。それが我々のいう特異点だ。比率として女性であることが多いため、 <ピュセル> と別称されることもある」
 ピュセル。その言葉に、時田は一瞬思考を捕らわれた。身近でないくせ、響きに覚えがある。ごく最近、誰かの口から聞いた言葉であるような気がした。
「ディセット、ちょっと良い?」
「なんですか」
「何語か知らないけど、ピュセルってどういう意味?」
「フランス語や英語で <乙女> という意味の言葉です」彼はすぐに答えた。「女の子の名前に使われることもたまにありますよ。心身共に清らかな女性っていうイメージですね」
「日本でいうところの大和撫子みたいなもんか」
「僕は、おとぎ話に出てくるお姫さまを思い浮かべます。彼女たちは一様に綺麗で、聡明で、そして優しい女性たちでしょう? だから誰からも愛され、ヒロインとして成り立っている。フランスにはピュセルと呼ばれた実在の英雄がいましたが、彼女は現在、聖女と崇められて銅像があちこちに立てられてますよ」
「――で、そのピュセルだか特異点だか言われてる女性は、どうやって逸材を集めてるわけ?」
 所長がコーヒーカップを持ち上げながら訊ねた。
「逆だ。まず、異能者がなぜだか一箇所に集まり出す。そこで連中の相関関係を表にしてみるのだ。マンガの単行本に良くあるだろう。キャラクター紹介を兼ねたグラフのようなものだ」
 イメージはつく。だが時田は、むしろ刑事ドラマを連想した。現実の警察が実際にそうしているかは知らない。だがドラマのなかの彼らは、捜査会議に必ずホワイトボードを持ち込む。そこには事件関係者の名前を書き、「被害者」「愛人」「動機」などというラベルつきの棒線で互いを繋いでいくのだ。
「人的ネットワークを二次元の表にしていくと、最後は蜘蛛の巣状の図形になることが多い。その中心にあるが特異点。すなわちピュセルだ」
 ティガが重々しく告げた。
「我々は、集団の中心に現れた人物を特異点ではないかと考えはじめる。そして過去のデータをもとに抽出した数十という条件をチェックしていき、すべてに該当していればその人物をピュセルと認定する。彼女たちが異能者どもをどのように引き寄せているかなど知らん。研究している部署はあるが、確かなことは分かっていない。ピュセルの発見は常に後手だ。ひとが集まったあと、結果として彼女たちの存在が明らかになる」
「ピュセル、ねえ」所長は頬杖をつきながら、もう一方の手でカップを受け皿にもどす。「男受けしやすくて、周りに取り巻きをはべらせるのが好きな娘なら結構いると思うけど。それとは違うの?」
「完全に違う。指摘どおり、異性を大量に引き寄せる人間なら大勢いるものだ。しかし、それはただのアイドルに過ぎん」
「確かにね」所長は冷ややかな苦笑を見せた。
「対してピュセルは、誘い寄せる人間に同性異性を問わない。かわりにその時代、その土地に存在する天才、鬼才、異能者を根こそぎかき集める。たとえその才能が開花前であってもお構いなしだ。可能性さえあればその辺のボウズを惹きつけ、潜在能力を限界まで引き出して英雄化させる。――そしてなにより重要なのは、開花した逸材たちから刺激を受け、ピュセル自らも伸びるという点だ。この相乗効果と好循環を恒久的に維持できることこそが、ピュセルであることの最大要件だと言える」
「ピュセル自身は特別な人間じゃない可能性もあるの?」
「神がかり的な男運の良さに加え、人間と才を見誤らない絶対的な目の正確さ。これはこれで立派な才能と言えるだろうがな。その点を除けば、どこにでもいる地味な娘ということはあり得るだろう。実際、この街にいるピュセルの有力候補は、そういったあまり目立たないタイプの少女だ」
「アンタたちは、その子を探しに来た。それが来日目的?」
「そうだ。白丘市の動静を観察し、特異点の発見に尽力する。より具体的に言うなら、ピュセルの可能性があるふたりの女性について調べ、必要があるならば保護する。それが我々の仕事だ」
「ふたり? 特異点ってのはそんなにゴロゴロ発生し得るの?」
「冗談ではない。極めて異常な事態だ」ティガは憤慨したように鼻を鳴らす。「世が世なら英雄をごっそり持って行くのがピュセルだぞ。発生自体、ひとつの地域にひと世代でひとり。その程度が望ましいのだ。大量発生すれば、それだけで乱世に繋がる。彼女らは個としては好ましい存在だが、その特性ゆえに生まれながらのトラブルメイカーでもあるからな」
 なるほど、とつぶやき、所長がにやりとする。
「名探偵は善良で貴重な存在だけど、行く先々で凄惨な殺人事件を呼び起こす厄介な死神でもある。そういうことね」
「なにを他人事のように語っておるか」ティガが憤然と言った。
「なによ」
「ピュセルと思わしきはふたり。ひとりは坂本雅美という十七歳の娘。そしてもうひとりは――北条玲子、お前なのだぞ」
 これは所長にとっても予想外だったらしい。彼女は口を閉ざし、数度目をしばたいた。
「私はなにもしてないと思うけど?」
「言ったろう。特別なことをせずとも、存在そのものが物を呼ぶということもある。周囲に自然とひとが集まるタイプの人間は、一般社会のなかでも良く見られるものだ」
「なんか怪しげな話になってきましたよ、ディセット氏」
 時田は思わず隣に視線をやる。
「所長がピセなんとかだってのはホントなの?」
「まだ断定はできません」彼は難しい表情で言った。「もうひとりのサカモト・マサミという少女の方は間違いなさそうなんですけど」
「そっちはどんな感じのひと?」
「白丘市の名門私立高校に通っている高校三年生です。北条玲子さんの後輩にあたる女性ですね。モリオカ出身なんですけど、生徒会役員を務めている関係で寮生活を送ってるそうです」
 そこで言葉を切ると、ディセットは時田と正面から目を合わせた。
「実はこの生徒会に、ティガの言っていた異能者が固まってるんですよ。時田さんはご存知かなあ――今年の三月、高校生の男の子が学校から飛び降りて亡くなった事件があったでしょう?」
「ああ、あったね。確か自殺だったと思うけど」
 岩手内陸部の田舎町にあって、久々に近辺を騒がした事件だった。現場が地理的に近い関係で、時田も道を横切って行くパトカーを何度か目撃している。
「あれは自殺は自殺でも、裏に色々と事情があった事件だったらしいんですよ。どこでどう繋がったのかは知りませんけど、最終的には池谷元法務大臣のスキャンダルにまで発展したとか。それを裏で演出していたのが、サカモト・マサミさんを筆頭とする白丘明芳学園だったと言われています」
「高校生が現職の国会議員――しかも与党の派閥幹部を潰したってこと?」
「特異点が集める異能者というのは、そういうひとたちなんです。僕ら凡人とはスケールが違うんですよ」
 時田とディセットとの会話は、椅子の鳴る音で中断された。そちらに目をやると、所長とティガが席を立とうとしている。
「あれ、話は終わり?」思わず時田は問う。
「すべて話してしまっては、こちらが報酬を全額先払いしてしまうことになるからな」カッターシャツのしわを伸ばしながらティガが言った。「前金を半分、残りは物を受け取ってから。それが取引の基本というものだ」
 所長は肩をすくめてその言い分を認める。「それは良いとして、足はどうする? 私のクルマには事実上、ふたりしか乗れない」
「タクシーは?」時田は軽く挙手しながら提案した。
「いや」ティガが首を振る。「無用に他人を巻き込みたくない。夜に学校に向かえというのも奇妙に思われるだろう。下手すると通報される危険もある」
「だったら、おっさん。歩いて行くか? 三十分もあれば着くけど」
 時田が自転車で通学していたのは時間短縮のために過ぎない。
「まあ、それでも良いけどね。道すがら話すことは色々とあるわけだし」
 所長は自他ともに認める自動車嫌いだった。利便性は認めるものの、排気ガスの存在がどうにも許せないらしい。環境汚染うんぬんではなく匂いが駄目なのだという。
「式は呼ばんのか。車の運転までさせているのだろう」
 ティガの言葉に所長は一瞬無言の間を作った。が、やがて何事もなかったように口を開く。
「お六合は無理よ。夜の運転には不安が残る。学校の方に待機させてるしね。おとなしく歩きましょ」
 所長は返事をまたず玄関へ向かって歩きはじめた。小さく嘆息しティガがつづく。
「何ヶ月も学校休んでたのに、今日はこれで二度目だよ」
 時田は肩を落としながら彼らのあとを追う。
「ああ、そうだ。時田君」
 廊下に出たとき、すでにパンプスを履きはじめていた所長が顔をあげた。
「五分待つから、あなたは少し状況を整理してから身の振り方を決めなさい」
 その声に思わず足を止める。よほど怪訝そうな表情をしていたのだろう。時田が訊ねるより早く、所長は自ら言葉をつぎはじめた。
「なにか厄介事に出くわしたとき、人間って二種類に分かれると思うのよ。あきらめて良い理由を探す者と、問題を克服する手段を探す者にね」
 彼女と真正面から視線がぶつかる。
「今回の仕事を通じて、私は非正規雇用《アルバイト》という立場の時田君にトラウマを与えるようなきっかけを作ってしまった。ミスだったと思ってる」
「所長のせいじゃありませんよ。通り魔のやったことは、通り魔にすべて責任がある」
「それでも、よ」語尾を強調するように所長は言った。「とにかく、責任者としてこれ以上、状態を悪化させるわけにはいかないの。だから、時田君は自己分析をしてみなさい。それでもし、自分が克服型ではなく妥協型の人間だと思うなら、ここから先は着いて来ないほうが良い」
 短い沈黙がおりた。遠くに原付バイクの駆動音が聞こえる。今年四月、郵便局は郵政公社と名を変えた。だが、局員の駆るスーパーカブのエンジン音はまったく変化がない。
 やがてエンジン音のこだまが静けさに溶けて消えかけたころ、時田は言った。
「それは、事務所を辞めろということですか」
「そう受け取ってもらっても良い」所長は即答する。「悪夢を消す手段はふたつ。戦って原因を駆除するか、寝かせて忘れてしまうか。後者に属する人間なら、あなたは私の部下には向かない。これからもつき合わせると、間違いなくより不幸にしてしまう」
「それを五分で見極めろと――?」
 自分のものとは思えぬほど、それは落ち着いた声だった。低く、抑揚がなくて、なにより不思議と良く響いた。
「理性的に考えて、最後は感情で判断するのね。五分でまとめられないのなら、タイムアップよ。近日中に見舞金と未払い分の給与、それとカウンセラーの連絡先を書いたメモを送る」
 靴を履き終えた彼女は、その場で軽くかかとを鳴らした。言うべきことは言ったということだろう。時田に背を向け、ドアノブに手をかける。そのまま一度も振り返らず出て行った。
 ティガもほとんど同様に扉の向こうへ去って行く。
 唯一、ディセットだけが心配そうな顔つきで時田を振り返った。とはいえ、かける言葉など見つかるはずもない。結局は彼も無言で踵を返す道を選んだ。彼は外に出ると、壊れ物のようにドアをゆっくりと閉めていった。
 そして静寂だけが残る。
 忙しい日常のなか、不意にぽっかりと現れたスケジュールの空白。そんな沈黙だった。
 困難に直面したとき、あきらめる理由を考えるか、それとも乗り越える手段を考えるか。
 改めて自問するまでもないことのように思えた。
 時田弘二は明らかな前者である。多くの人間がそうだ。そうあることに慣れ、やがて「あきらめを知ることこそ大人」と信じ込んで自分を保つ。前者であることを正当化するようになる。水が高いところから低いところへ向かうように、楽な方へ流されていく。それが人間という生き物なのだろう。
 だから、時田は学校を去った。クラスのためという言い訳を見つけ、困難から背を向けた。一度、距離を置くのも手。離れてこそ見えるなにかもある。自らの力で復帰するのが不可能と知りつつ、そんな聞こえだけ格好の良い言葉を使った。
 問題が生じるたび、あきらめて良い理由と言い訳を探しつづけてきた人生。それは確かなのかもしれない。
 だがもうひとつ、結論が決まりきっている問いがある。
 このまま北条玲子のもとを去って後悔はないのか。彼女や和泉、六合村たちとの日々に楽しさがなかったか。失うことに耐えられるのか――そういう問いだ。
 学園生活を捨てるとき、時田にあまり迷いはなかった。だが、今回は違う。五分も必要ない。迷いなく即答できるだろう。
 時給の高さなど本当は関係ない。なんなら五百円でも、無給でも構わない。賃金の安さに不平をたれながら、それでも時田は勤めつづけるだろう。北条玲子が全国各所へ飛ぶたび、不満顔を装いつつ着いて行くだろう。
 赤は危険。赤は止まれ。
 それは、この世で最も確かな警戒色。
 彼女に出会ったそのとき、たぶん時田はおとなしく足を止めておくべきだった。素直に引き返していれば、通り魔をどうこう言うまでもなく、ありふれた日常のなかにまだいられたはずである。トラウマなどとは無縁の生活を送れていたに違いない。
 だがそれでも、北条警備保障での日々は楽しかったと思う。
 確かに、何度も酷い目にあった。肩と背中はまだ痛む。あの日の夜を思うたび肌は粟立つ。もう一度、昨夜の出来事を遭遇したら、きっと耐えられないだろうという確信もあった。トラウマになっているというなら、そうなのかもしれない。
 だが、それでも事務所を辞めようなどという思いには至らなかった。頭をかすめたことすらなかった。
 なぜなら所長と出会ったあの日、柔らかな黄昏色から鮮やかな真紅へ揺らめき変わる大きな火柱を見た。
 刻みつけられた炎のクオリアは、もう永遠に消えることはない。
 その輝きは、死の予感と共に見たあの闇色の絶望すら眩く照らし出すだろう。


to be continued...
つづく