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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



  16

 少しはましになっているかと思いきや、車に揺られるのは相も変わらず苦痛の時間だった。
 打撲傷の痛みとは、ある時点まで回復より悪化の方向へ傾くものらしい。右肩上がりのグラフもやがては下降線へと転じるのだろうが、そのポイントが訪れるのはまだ先のことになりそうだった。
「時田さん、肩が痛むんですか」
「俺、痛そうな顔してました?」時田は訊《たず》ねる。
「いえ、はっきりそうとは。でも、ちょっと難しそうな顔してるように見えましたよ。辛かったらスピード落としますから、言ってくださいね」
 運転席から投げかけられる声は、今朝、似たシチュエーションで聞いた同種のそれより随分とやわらかで優しい。発した人物の表情も心から相手を気遣ったものだった。
「――考え事してたんです。痛みのせいで集中しにくいですけどね」
「あ、私で良かったら知恵を貸しますよ」六合村は視線を前に戻しながら言う。「時田さんはどんなことを考えてたんですか?」
「色々ですけど、特にさっきの電話のことですね」
 首でも傾げたのか、ふわふわとした彼女の髪が微かに揺れた。
「どの部分でしょう?」
「所長が昨日言ってたんです。呪いは実効性のある確かな力なんだって。同じことをまた聞かされまして。だから、通り魔がやってたことも現実なんだって」
「ああ、なるほどー」聴いた瞬間、六合村はにこりとした。「まだそのことが気にかかってたんですね、時田さんは」
「そう言えば、昨日のときは六合村さんも一緒にいましたよね」
 そして、北条玲子に同調する立場にあった。
 あれは確か、白丘第一高校で起こっている事件について時田が自分なりの見解を披露したときのことだ。
 偶然として考えるには被害が連続しており、規模も大き過ぎる。かと言って、噂になっている呪いの話を鵜呑みにするわけにもいかない。なぜなら、そんなものは存在しないからだ。したがって今回の事件は、何者かが未知の手段で起こしたある種の犯罪なのだろう――
 そんな話のなかで、北条玲子はこう断言したのである。
 時田の分析はある一点を除いて正しい、と。
「あのときは詳しく聞けませんでしたけど、放射能探知機とかPCとか科学機器を山のように導入してるくせ、所長はなんでその辺のことに肯定的なんですかね?」
「それはきっと、呪ったり呪われたりを実際に体験したからですよ」
「まあ、敵は多そうなひとですよね」
 時田は軽く苦笑しながら納得する。何事もそつなくこなす天才肌でありながら、「天より二物――」を地で行くあの頭のキレ。さらには二十代そこそこで自分の会社を持ち、自信と尊厳に満ちた生き方も実現してもいる。加えてかけ根なしの佳人とくればやっかみも買うだろう。なにより、他者との摩擦をまるでおそれないあの性格だ。脇役に回された同性たちから呪われてもまったくおかしくない。
「でもあのひと、十倍呪詛返しとか平気でできそうだしなあ。こっちもうかつに呪えませんよね」
「なにをノホホンと言ってますか。呪いは冗談抜きで存在するんですよ? 時田さんだって心当たりがあるはずです」
「そんなもん、ありゃしませんよ」
 さきほど呼び寄せた笑みを口元に残したまま、時田は肩をすぼめて一蹴する。
「六合村さん、また俺をだまそうとしてるでしょ」
「酷いですねえ、私は真剣ですよ。良く考えてみてください。たとえばひとを自由に操ったり、殺し合わせたりできる呪いのお札とか――時田さんも覚えがあるでしょう?」
「だからないですって。あったらお目にかかりたい」
「じゃあ、お財布のなかを覗いてみると良いですよ」
 しばらく考えて、時田はようやく理解した。一種のナゾナゾだと考えれば分かりやすい。
 人間を操作したり、時にはそれを巡って殺気走らせたりすることもある呪いのお札。
 なるほど、確かにそういう解釈も成り立つのだろう。
「ビアスの <悪魔の辞典> みたいなもんですね」
 時田はにやりとしながら首肯する。
「確かに、万札を何枚かチラつかせれば、ひとに言うこと聞かせるのはもちろん、人殺しだってやるやつが出てくるかもしれない」
「そう、正解は紙幣です。でも、たとえば日本円の場合、あれはペラペラの紙切れに <日本銀行券> って印刷してるだけのものでしょう? トイレットペーパーと物質的には大差がありません。だけど、福沢諭吉さんの肖像が描かれていると価値は激変します。紙切れの数で幸せになったり、不幸になったり、高価な物と交換できるようになったり、争いを起こしたり。手に入れるためにはなんだってするってひとも珍しくありません。ひとの心を惑わし、堕落させ、破滅に導く力を持つんです。
 つまりですね、貨幣システムはそれと意識されなくなるほど浸透した超国家的な呪詛《ズソ》システムなんですよ。紙幣はその象徴たる咒符《じゅふ》なんです。 <日本銀行券> と書かれた紙には強力な影響力がある。集めたら強くなれる。なんでも手に入る。とても大切な物だ。だからがんばって集め、がんばって増やしなさい。お金っていうのは、そんな暗示の秘められたお札《ふだ》であり呪いの石なんです」
 時田は無意識にうなずきながら聞いている自分に気づいた。
 確かに一万円札そのものは――六合村の表現を借りれば――トイレットペーパーより使えない印刷物だ。だが、そこに強力な信用と説得力、そして強制力が付与されれば大変な価値を持つようになる。少なくともガムを包んで捨てるために使う者は存在しなくなる。
 だから今、あそこには人間があんなに集《たか》っているのだ。
 車窓から見える都市銀行の支店を眺めながら、時田はそう結論した。
「お金というシステムは国家や社会、そしてそれを構成する人々が同時に見る夢です」
 六合村が信号待ちのため車を減速させながら言った。経費節減のためか、あるいは環境保全のためか。停車すると彼女はサイドブレーキを引いてエンジンまで切る。静けさの訪れた車内でつづけた。
「言葉が違うだけで、その実態は立派な呪いだと思いませんか? 怪しげな魅力と魔力を持つあたり、ほとんど黒魔術の領域ですよ。お金の存在って」
「金は夢……か」
「そして似たような夢はたくさんあります。宗教も人類にかけられた強大な呪いのひとつですしね。国境も、民族意識もそうです。言ってしまえば、概念そのものが既に呪いなんですよ」
 車道を横切る歩行者用信号が点滅をはじめ、やがて赤に変わった。六合村はおもむろにエンジンを再始動させ、サイドブレーキを落とす。やがて進み出した流れにそって車は緩やかに滑り出した。
「今お話したお金や宗教なんかは、比較的|大規模《マクロ》な呪いの例です。でも、個人《ミクロ》単位の呪いだってもちろん存在してるんですよ」
「まあ、呪いっていうと個人の恨みとか復讐とか、そういう感情の問題ってイメージがありますからね。むしろそっちの方が馴染みやすいかも」
 時田の言葉にそうですね、と微笑み返して六合村は話をつづけた。
「呪いの基本は、相手の信じる力を利用してその行動を厳しく制限したり、一定の方向に誘導したり、不利益を与えたりすることにあります。そのためには人間の特性やクセ、脳にある一種のバグ、土着の文化、慣習や状況の心理を勉強しておくと結構、役に立つんですよ」
「俺、いつも所長にポンコツ扱いされてる頭の出来なんで、もう少しやさしい説明をしていただけると助かるんですけど」
「んー、時田さんに分かりやすいっていうと、やっぱり色彩ですかね?」
 思わず身体が反応した。
 聞きようによっては、時田の持つ共感覚の存在を示唆する言葉のようにも受け取ることができる。
「それ――」
「たとえばですね」
 時田が質《ただ》そうとした瞬間、六合村が遮るように言葉をかぶせた。
「アメリカ心理学協会が発行している <サイコロジカル・サイエンス> っていう専門誌があるんですが、そこにドイツのミュンスター大学研究チームが面白い記事を載せてるんですよ。彼らは韓国格闘技《テコンドー》の試合でそれぞれの選手が赤と青のユニフォームを着た場合、その色の差が判定に影響し得るかを調べたんです」
 実験の結果、差は明らかに生じた。赤いユニフォームを着た選手は平均で十三ポイント、青の選手より有利な判定を受けたのだという。試合のヴィデオを複数の審判に見せ、次に青の選手をデジタル加工で赤に変えてもう一度見せると、点数が増えたのだ。逆に赤の選手を青に変えると、同じヴィデオのなかでも点数が減ったのだという。
「これを信じるなら、意図的に赤いユニフォームを着るようにすれば良いんです。それで審判団に、自分の有利になるよう判定せよという呪いをかけたことになります。十三ポイント稼げる可能性があるなら、やっておいて損はないですよね?」
 とはいえ、 <サイコロジカル・サイエンス誌> は権威がある一方、変わった記事を載せることでも良く知られているのだ、と六合村は笑った。
「そういや、大統領選挙のときTV演説する候補者は必ず赤いネクタイを締めるんだとかいう話を聞いたことがありますよ。カメラ写りや大衆への心理効果を考えた慣習的な作戦なんだとか」
「色だけじゃありませんよ。スーパーのジャガイモ売り場で、こっそりカレーの匂いを漂わせるんです。するとジャガイモの売り上げが確実に上がるという科学的な研究結果があります。匂いがすると、今日はカレーにしようか……ってみんな思考を誘導されちゃうんですね。それで材料になるジャガイモが目の前にあるから、つい手が伸びてしまう」
「ジャガイモを買わせる呪いってわけですか」
「嗅覚は本能にダイレクトで働きかける感覚ですから、これは非常に有効な手段として色んな場所で応用されてます」
 確かに、食料が腐っていないかはまず匂いで確認しようとするのが人間だ。眠っているとき火事に気づくのも、鼻が煙や物の燃えるきな臭さを察知してくれるからだろう。
「人間の習性や心理、脳や記憶の仕組みを科学的に研究したひとたちが、こういった呪いを考案して実績をあげてるわけですよ。マクロスケールでは社会倫理学。ミクロスケールでは行動心理学および脳神経学。呪いに共通している部分はもうお分かりでしょう?」
「ひとの心ですか――?」
「そうです」六合村がうれしそうにうなずく。「呪いの九割は人間の精神や心理に作用する、科学的にも説明のつけやすい現象です。そもそも、心理学や脳神経学は呪術の末裔――直系の子孫なんだっていうのが玲子さんの主張なんですよ。錬金術が現代科学の祖であるのと同じように。両者は親和性が非常に高く、やってることはほぼ一緒でしょう? 現に優秀な呪術師である玲子さんは、現代社会において表向き優秀な心理学者として認知されています」
「え、呪術師って……」
 ふと店に置いてあるオカルトグッズの数々を思い出す。
「それにあのひと、学生時代は心理学専攻してたんですか?」
 彼女が正確に何歳なのかは知らないが、大学を出たとほとんど同時に起業して今に至るのであろうことは想像に難くない。そこを考えると経営や商学、経済系を学んでいたとばかり思っていた。
「ええ」ウィンカーを出しながら六合村はこくりとうなずく。「家系が代々心理学者さんみたいなものをされているので、蓄積してきた膨大なデータを継承している上に、本人もあの通り研究者向きの性格ですから。身内からの紹介もあって、中学生くらいのときからその畑のひとたちと色々やりとりしていたみたいですよ。時田さんが関東方面に連行されることが多いのは、仕事のついでにシンポジウムや学会に顔出せるからでもあるんです」
「それは初耳だなあ。――もうひとつ。さっき、呪いの九割はひとの心理をつくものだって言ってましたけど、残りの一割ってのはなんです?」
「その質問は、是非とも玲子さんに直接ぶつけてみてください」
 六合村は含み笑いを見せながら応じた。
「やっぱり、本人の口から聞くべきことだと思うんですよ」
 目的地が近づいてきたからか、彼女はそう告げて話を締めくくる。
 車は幹線道路を外れて久しく、助手席からの眺めは閑静な住宅街のそれに変わっていた。登校や通勤のため主に自転車で通ることの多い道を、こうして自動車で辿るのは時田にとって珍しい経験だった。見慣れた道筋もどこか新鮮に映る。
「時田さんのお宅、この辺なんですよね。霞台北だとは聞いてるんですが、道はあってますか?」
「ああ、はい」答えながら、六合村が住所でしか位置を知らないことを思い出す。「もう二、三分ってとこです。ちょい先にドラッグストアがありますよね。あれを右折です」
「例の通り魔のひとが出現したのはどの辺りでしょう?」
 指示されたコーナーでステアリングを回しながら六合村が訊く。
 即答はできなかった。突如として硬化したのどに言葉が絡まるような感覚がある。ワンテンポ遅れて、時田はようやく答えた。
「――ここから二個目の十字路を左折してください。入った通りがそうですよ」
「また待ち受けてたら、このまま轢《ひ》いちゃいましょう」
「それで片付くと良いんですけどね」
 時田の言葉を最後に、会話の空白がもたらす沈黙がおりた。ただエンジン音だけが木霊するなか、車は二つ目の十字路にさしかかる。六合村が左右を確認しながらウィンカーを出した。
 それを幸運とするべきなのかは分からない。問題の道に人影はなかった。運転席から見えない位置で、時田は左手に握っていた汗を拭う。よせば良いのに、視線はワイヤーの括りつけてあった電柱に向かっていた。すれ違いざま、そこに細い溝がうっすらと刻まれているのが見えた。肌に残った糸による絞《し》め跡にも似た傷だ。
 電柱は人の精神より折れにくく、傷つきにくい。その厳然たる事実を再確認した瞬間だった。
 昨夜は通り抜けるのに五分を要した。だが、今日は五秒で事足りる。現場はすぐに遠ざかり、次の角を曲がった時点でサイドミラーからも消え去った。
「あ、もしかしてあれですか?」
 やがて見えてきた五階建ての賃貸マンションに六合村が目を細める。時田がそうだと答えると、彼女はブレーキを軽く踏んで徐行の手前まで速度を落とした。
「もっと大規模な集合団地を想像してたんですけど、わりにふつうのアパートって感じじゃないですか」
「住んでる人間がふつうですからね。それより、もうこの辺で良いですよ」
「そうですか? エントランスはまだ先みたいですけど」
 言いながらも、六合村は車を路肩に寄せて停める。
「経路はいくつかあるんで。ここで降りても距離は同じです」
「大丈夫です? 距離とはいえ、油断してると危ないですよ」
 シートベルトを外し、時田はドアを開く。
「六合村さんこそ気をつけて帰ってください。相手は常識の通用しないやつです。車に乗ってるからって絶対に安心とは限りませんから」
「相変わらず心配性ですね」
「女性に送らせるなんてことになってすみませんでした。明日は俺が昼メシおごりますから。どうせ、弁当になるんでしょうけど」
「自転車はどうします? 事務所に置いたままですよね」
「幸い、親にもらった二本の脚が残ってますんで。通り魔も腕しか狙ってなかったみたいだし」
 もう一度、手間をかけさせたことを詫びてから、時田はドアを閉めた。窓の向こうで六合村が挨拶代わりの微笑を浮かべる。時田はそれに会釈で応え、動き出したテールランプが視界の外に消え去るまで彼女を見送った。
 腕時計の示す時刻は一時半を少し回った程度。敷地内の小さな公園には、談笑する女性たちの姿が見える。ベビィカーを引いた少女のような母親と、犬を連れた年配の主婦の組み合わせだった。湿布の匂いでもかぎつけたか、主婦のブルドッグが時田を振り向く。ここ数日、時田が触れてきたものとは真逆の明るい話題なのだろう。若い母親のあげる楽しげな笑い声がかすかに聞こえてきた。
 ふだんなら目にとめることもない日常的情景だった。だが、今はなぜだか目を話せない。ただの蜂が、神秘を満載した研究対象に見えはじめるのはこんなときなのだろうか。そんなことを思う。
 ぼんやりと彼女たちを眺めたまま、時田は右肩に手をやった。
 瞬間、自分の指より早く、別の手がそこに触れた。打撲傷が当たり前のように激痛を全身に伝播させる。
「残念ながら、あなたの昨夜の体験は現実よ」
 声にならない悲鳴というものを初めてあげ、初めて聞いた。ほんど恐慌状態に陥りながら背後の相手から距離をとる。もつれる脚で懸命にバランスを取り、なんとか身体を反転させた。
 そこに立っていたのは北条玲子だった。
「確かに、血生臭い話がウソに見えるほど平和な光景よね」
 彼女は公園の方へ遠い視線を投げながらつぶやく。遊んでいた友人が夕暮れ時に母に連れられ帰っていく――そんな光景を見送る孤児《みなしご》のような表情にも見えた。
「なんで所長がこんなとこにいるんですか」
 右手の甲で額を拭いながら問う。一瞬で浮かび上がった脂汗がぬるりとした感触を伝えてきた。
 所長は肩をすくめて言った。
「色々と聞きたいことがあってね」
「なにを?」
「どうもピースが足りない気がしてるのよ。考えてみると、時田君の話やここ数日の言動には疑問に思える点が多いでしょ。ちょっと気になってね」
 言葉が終わるより早く、所長は手に提げていた白い紙袋を下手に放った。時田は反射的にそれを抱きとめる。
「親類の家に伝わってる軟膏よ。その打撲傷には良く効くでしょう。用法を書いたメモを一緒に入れてるから、良く読んで使いなさい」
「あ……どうも。ありがとうございます」
「それから、驚かせたことは謝っとく。必要な確認だったとはいえ、意図的だったからね。ちょっとしたテストのつもりだったんだけど、やっぱり時田君、昨夜の件が心的外傷になってるじゃない」
「そりゃショックはありますけど」
「精神的な傷ってね、本人にあまり自覚がないことも多いの。なのに身体や言動にだけそれらしい反応が出る。理由もないのに動悸がしたり、息苦しくなったりね」
「まさか、それを心配してここまで来てくれたんですか?」
「そこまで暇じゃないわよ」所長は苦笑で応える。「私は――そうね、チャンスを提供しに来ただけ」
「チャンスって、なんの?」
 直接は答えず、所長はかわりにアパートの中層階を仰ぐ。視線の先は三階の一番西側に固定されていた。数字で言えば六号室。時田家の部屋である。
「時田君、母親とふたり暮らしのはずよね?」
「そう、ですけど……」
 言いかけて、時田は彼女の意図を理解した。
 もしかすると、既になにかしらの調べをつけておいたのかもしれない。裏を取って逃げ場を奪う。その後、本人の口から真実を語らせる。それが、攻勢に転じた彼女の良くとる戦術だった。
「通り魔は往来で襲ってきた。ワイヤートラップなんて大がかりな趣向まで凝らして」
 六号室から時田に視線をもどし所長は言った。静かな口調だった。
「なのに時田君はこう証言してる。その男はクルマが近づいて来たと知ったらさっさと退いて行ったってね。でも、どうよ。目撃されたら逃げるつもりの人間が、誰がいつ通りかかってもおかしくない道の真ん中なんて襲撃場所に選ぶ? むしろ、多少の邪魔者はターゲットと一緒にまとめて消す。騒ぎは大きくなった方が面白い。そういう心理が、選択されたロケーションと手口からは見えるのに」
 彼女が心理学の――最低でも――学士クラスであることを思い出した。特に行動心理学を専門とする者は、ときに微かな表情の変化や無意識の仕草から相手の本音を読み取ることができるという。
「通り魔はなぜ逃げたのか。最初に話を聞いたとき、私にはそこが引っかかった。で、考えてみたのよ。時田君が実力で相手を排除できた可能性は無視して良い。かといって、クルマが通りかかったからというのは説得力に乏しい。だったら、なにが起こった?」
 時田が口を開くより早く、所長は自ら言葉をついだ。
「そこでこういう仮説を立ててみた。男は引かざるを得ない状況に置かれたのではないか。その状況は第三者によってもたらされたのではないか……ってね」
「仮にそんな人間がいたとして、所長はそのひとになにか用でも?」
「良い質問ね」
 所長が目を細める。そして右手の人差し指から薬指までの三本を立てた。真ん中の一本だけを揺らす。
「行間を読むのよ」
「行間?」
「時田君を襲った通り魔は自信家よ。だから大胆な襲撃方法を選択できた。私はそう見る。じゃあ、そんな手合いに撤退を考えさせるほどの人物って何者? 仮に実在したとしたら、それは通り魔と同等の役者じゃないと話が合わない」
 確かにティガ‐アデプトはそれにふさわしい存在だろう。
 片や夜よりも暗い闇色。片や金属的な光沢を放つ眩いばかりの銀色。あんな二色の激突は見たことがない。どちらも、別の色と混じり合ったところが想像できない。
「通り魔に関して色々調べてみたけど、はっきりとした情報はなにもないのよね。少なくとも表には出てない」所長は植え込みを囲う赤レンガの壁に腰かける。「ただ、街の有力者や消息筋を当たってみると、なかには異変を感じとっている者もいた。ここ最近、見ない顔の妙な連中がうろついてるらしいってね。それが時田君を襲った通り魔を指しているのかは分からない。でも、なにかを知っている可能性はある」
「白丘第一の事件が人為的に起こされたんなら、それはもうテロに近いですからね。実行犯は最凶クラスの犯罪者ってことになるんでしょう。そういうのが動けば、周囲が騒がしくなるってのは分かります」
 犯罪者も大物になれば支援者や敵対者がつくものだろう。治安維持系当局のマークもきつくなる。そういうビッグネームが白丘市に入ってきたのなら、関係者がぞろぞろと着いてきてもおかしくないということだ。
「まあ、私の考えはだいたいそんなところよ。時田君を助けた第三者がいるなら、そいつは通り魔をマークしていた人間である可能性が高いと私は考えた。ドラマじゃあるまいし、都合良くスター級の役者が通りかかったとも思えないからね」
「そのスター級を俺がかくまってるとする根拠は?」
 所長が微笑む。
「名前に時の字が入ってるからかは知らないけど、時田君って時間には正確な方でしょ。なのに、ここ数日は妙に出勤時間が早いって噂なのよね。理由を訊いたお六合に、変な男に無理やり早起きさせられてるからだって言ったそうじゃない。あれはジョークのために考えた完全なフィクション?」
 時田は全身から力を抜いた。
 チェックをかけられていること自体は最初から気づいていた。今までのやりとりは、それを確認するプロセスに過ぎない。
「その様子だと、私の読みもまんざらじゃなかったみたいね」
「認めます」両手を軽く掲げて見せながら時田は言った。
「じゃあ、時田君の部屋に招待してくれる?」


to be continued...
つづく