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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹



  15

 時田はコンビニで買った高菜弁当をかき込んでいた。視線は、五分前から運転席備えつけの多目的モニタに固定している。
 九インチ液晶に映し出されているのは、車体後部のリアルタイム映像だった。小さなテーブル席に腰かける女学生の姿が見える。角度の関係で映ってはいないが、その対面の席には六合村が座っているはずだった。画面の端に、彼女の広げたランチボックスが申し訳程度に顔を見せている。
 時田はボリュームを最大にして、篭りがちな彼女たちの会話に耳をすませた。
 正午、事務所のキャンピングカーを訪れた女生徒は、自らを福田|梨絵《りえ》と名乗った。入学直後から女子剣道部に所属していたらしい。そのことと関係があるのか少年に見えるほど頭髪を短く刈り込んでいた。亡くなった犠牲者のひとり梅田麻衣とは同じ剣道部ということもあり、かねてから懇意にしていたのだという。
「麻衣ちゃんとは家が近くて、親同士も仲が良かったから幼稚園のころからずっと一緒でした。学年はひとつ違ったけど、同級生の友達みたいにずっと……」
 それがこんなことになって、と福田はうつむく。彼女は手元に置いた箸をまだ一度も握っていない。六合村も昼食のことは頭にないようだった。
「じゃあ、その先輩さんのためにいつも花を持っていってたんですか?」
「いつもじゃありませんけど、三日に一度は様子を見に――」
 いわく、頻繁に覗きに行くのには理由がある。あの教室に置いた花が異様に枯れやすいからであるらしい。
「あの教室はもう使ってないそうですね?」
 少女はその言葉にこくりとうなずいて言った。
「いまはグラウンドの反対側にプレハブを建てて、そこで授業をしてます。水沢の姉妹校に臨時校舎が出来つつあって、来月からはそっちに移るかもって聞きました」
「はあー、たいへんですねえ。生徒のみなさんは、そういう環境の変化についてどう思ってるんでしょう」
「刺激になるって喜んでるひとも一部にはいるみたいです。夏休みボケの時期だし……でも、休んでる生徒も多いし、塾も理解してるから朝からそっちに行ってる子も結構います。親に学校行くなって言われてる生徒もいるみたいで」
「今回の事件そのものについてはどういう認識ですか?」
 六合村が問うと、少女はしばらく考え込んだ。
「やっぱり、偶然にしてはつづき過ぎてるんじゃないかって話は友達としたりします」
「福田さんもそう思いますか?」
 また思案顔で黙り込み、しばらくして女生徒はうなずいた。
「私は呪いとかは信じてないけど、でもなにかは起こってるんだと思います。ガス漏れとか、なにかの空気感染とか……良く分かりませんけど」
「呪いっておっしゃいましたけど、なにか噂があるんですか?」
 分かっていながら六合村は敢えて訊ねる。生徒の口から彼女たちなりの言葉でそれを聞き出したいのだろう。
「はい。でも、呪いの話には三つぐらいパターンがあって」
「へえー、色々あるんですね。聞かせてくださるなら、どれからでもかまいませんよ。有力視されてる順でも良いですし、信じられ方に優劣がないなら福田さんが思いついた順でも」
「えっと……有力視とは違うかもしれませんけど、一番良く聞くのは二年四組でいじめられて、学校に来れなくなったひとの仕業だっていう説です」
「ああ、なるほど。被害は二年四組に集中してるそうですからねえ。でも支持されてるってことは、なにかしらの根拠があるお話なんでしょうか」
 六合村の言葉を、福田はこくりとして認める。
「そういうひとが本当にいたっていう話は聞いてます。麻衣ちゃんは同じクラスだったから、ちょっと気にしてたみたいで。部活の帰り道とかに少し話を聞いたことがあります」
「つまり動機を持っていそうな生徒さんが実際にいるんですね?」
「麻衣ちゃんはそう言ってました」
 消え入りそうな声で告げると、福田はそのまま顔を伏せた。時田からは良く判断できないが、目元か鼻元あたりに時おり指を当てているのが見える。彼女が幼馴染であり部活の先輩であった存在を失ってから、まだ幾らも経っていない。そのことを改めて思い起こさせる仕草だった。
「つまり、その辞めてしまった生徒さんが一種の復讐として今回のことをやらかしてる、という構図なわけですか」
「でも、麻衣ちゃんはいじめなんてしてません」
 弾かれたように顔をあげ、福田が早口に弁明する。それは、ここに来てもっとも熱の篭った言葉だった。
「むしろ、見て見ぬふりしてる自分をあんまり良く思ってない感じでした。剣道だ武道だ言ってるくせに、私は勇気がないって。だから、麻衣ちゃんはなにも悪いことしてない。私、ちゃんと知ってます」
「では、その辞められた方はどなたを狙ったんでしょう?」
「あ、いえ――正確には、転校したり不登校になったりしただけで、退学したとかじゃなかったと思います」
「あれ、いじめを受けてた方はふたりいたんですか?」
 六合村はさも「はじめて聞いた」といったリアクションを披露する。
「なんか、女性不信になりそう……」
 時田は箸を置いて眉間をつまんだ。
 そんな外野の事情をよそに、六合村は無邪気な表情で話を進めていく。
「そのおふたりは、それぞれどんな方だったんですか?」
 この問いに、福田は自分も詳しくは知らないのだが――と前置きした上で語りはじめた。それが容姿ゆえに冷遇された少女と、他ならぬ時田の話になったことは言うまでもない。
 詳しくないというのは謙遜であったらしく、福田の話はかなりの細部にまで及んだものだった。事実を客観的にひろっているという面においても評価できる。改めて他人の口から聞くと、やはり当事者としてはあまり気分の良い話ではなかった。
「名前は、女子の方が竹島さんっていったと思います。男子の方は、ちょっと覚えてません」
「なるほど。では、転校してしまった竹島さん犯人説と、登校拒否になってしまったひょんたれボウズな方の犯行説とで、ふたつ分の呪い話ができてるわけですね」
「だれがひょんたれボウズか」
 時田は画面越しに六合村をにらむ。
「それで、福田さんはどちらの説を支持されてるんですか?」
 その六合村が問い重ねた。ほぼ同時、テーブルに置かれた電子ケトルが勝手に動き出した。おそらくカメラの死角にいる六合村の仕業だろう。見えないところでお茶を淹れたらしく、彼女は紙コップを福田に勧めた。剣道少女は小さく会釈してそれを受け取る。
「私は……なにが正しいのか分かりません。呪いとか、非科学的なことはあまり信じない方だし」
「ああ、最初にそうおっしゃってましたね」六合村の声が思い出したように言った。「でも、今起こっていることに科学的《ロジカル》な説明がつかないのも事実みたいです。だから、呪いのお話を信じる方が多いのではないでしょうか」
「はい」首肯しながらも、福田は表情を曇らせる。「それに、転校していった女子の先輩には、引越し先で行方不明になったっていう噂があって――」
「えっ?」
 このとき六合村が示した反応は本物だった。
「行方不明って、いなくなっちゃったんですか? いつ?」
「私は、詳しいことはなにも。本当の話かどうかも知りません。個人的には話を盛り上げるための演出じゃないかって疑ってますけど。でも、そういう話は時々聞いたりします」
「んー、それはちょっと気になるお話ですね。なにか関連性があるんでしょうか」
 竹島が行方不明という話は、時田にとっても寝耳に水だった。
 だが、彼女がもし今回の事件の延長線上に位置しており、さらに被害者のひとりとして行方不明になったのなら、竹島の呪い説は否定されることになるだろう。
 自然、彼女の犯行を信じていた論者たちは、時田の犯行説に鞍替えすることになったのかもしれない。病院で会った倉川亜希子はその一派であった可能性もある。
「ええと、呪いのうわさは三つあるというお話でしたよね。最後のひとつは誰を犯人としたものなんですか?」
 時田はその六合村の声で我に返り、止まっていた箸を再び動かしはじめた。画面のなかでは質問に応じるため、福田が軽く居住まいを正そうとしている。
「三番目のやつは、むかしこの辺が墓地だったとか病院だったとか、その手のものです」
「ははあ、定番のたたり説ですね」
「そうです。なんか、三年の霊感があるっていう先輩がそういうことを言い出してるそうで。私は信じてませんし、他の人も大抵はそうだと思います。どっちかっていうと、その霊感がどうとか言ってるひとたちが注目を集めるために必死に広げたがってるデマというか。そんな感じじゃないかと」
 口にするのも馬鹿らしい、といった表情で福田は語る。
 気の弱そうな外見と振る舞いとは裏腹に、彼女はこうした与太話に対してはっきりとした拒絶体質《アレルギー》を持っているようだった。
 それからしばらく、細かな確認を幾つか行った六合村は参考人を解放した。結局、福田は弁当を半分以上食べ残した。出された紅茶の紙コップにも口をつけるところは見せていない。あれで午後の授業に耐え切れるのかと心配にさえなる。
 そんな彼女の後姿が十分に遠ざかっていくのを確認した後、六合村が運転席へ通じる内線を入れてきた。このクルマは運転席と架装の居住区画《キャビン》とが完全に仕切られている。フルコンタイプでは珍しい構造なのかもしれない。内線はそのために連絡用として取り付けられた、玄関用インターフォンに近い形状の装置だった。
「時田さん、見てました? もうこっちに来て大丈夫ですよ」
「了解です」
 一声返し、時田は後部のキャビンに回る。
 マイクロバスほどの広がりを持つ内部には、入り口正面に四人がけのテーブル席があった。その奥に冷蔵庫やキッチンシンク、シャワーつきトイレなどが備えられている。警備会社の改造車らしく、各種通信機器やレーダー、複数の端末と液晶ディスプレイなども目につく。コンセントの数も多い。
 所長によると、このクルマは「事務室車」という特殊カテゴリーに登録してあるという。そのため普通車と比較してそこそこの節税も期待できるらしい。
「時田さん、なにか飲みます?」
 シンクに福田の残していったお茶を流しながら六合村が言う。
「じゃ、紅茶を」
「水が少なくなってるから、補充しなきゃですね」
「俺がさっき、三度もシャワー浴びましたからねえ」
 これは北条所長が残した指示によるものだった。身体に付着した放射線の影響を洗い落とすためである。防護服のおかげでまったく心配はなかったのだが、念には念を入れろということらしい。
 ちなみにウィッキーネズミの着ぐるみは、六合村が用意した含鉛の特殊ケースに封印されたようだった。そのまま廃棄するものとばかり思っていたが、六合村によるとそうではないらしい。アイソトープ関連業者に洗浄を頼めば、内側の防護服部分のみあと二、三回は使えるとの話だった。
「――で、時田さん。福田梨絵さんをどう見ました?」
 六合村は淹れたてのオレンジペコーを運んでくると、時田の向かいに腰を落とした。礼を言ってカップを受け取る。最初の一口を味わいながら時田は思考をまとめた。
「そうですね。基本的にやさしくて良い子なんだと思いますよ。あと、意外にかなり論理派っぽいですよね。おかげで分析は色々と参考になる部分もあったかと。新情報も少ないながら掴めたし、話を聞いといて良かったんでは? 個人的には、やっぱり竹島が行方不明って部分が一番気になるなあ」
 正直な感想を並べたつりだったが、返ったのは盛大なため息だった。
「まったく、ダメですねえ。時田さんは女の子に甘過ぎます」
「どういう意味です?」
「福田さんは、私たちが仕事に入ったその日、封鎖されてるはずの二年四組にドンピシャのタイミングで居合わせたんですよ。しかも施錠されてるって聞いてた教室のなかに」
「だから、それは花のメンテのためでしょ」
 なぜか枯れやすいため手入れが欠かせない、という彼女の証言は、植物が放射能の影響を受けているとすればつじつまも合う。
「合鍵まで作ってですか? 学校側は封鎖した棟を定期的に巡回してるそうです。その上で頻繁に出入りしてるとなると、あの方、確実に無断でスペア用意してますよ。お花の面倒を見るためだけに、ふつうそこまでしますかねえ?」
「それは……」
「なかよしのお友だちがなくなって間もないのに、分析が冷静かつ的確過ぎるのも気になります。福田梨絵さんはどうにもちょっと引っかかるところがありますね」
「そうかなあ」
 だが、女性のなかには無垢な笑顔を浮かべながら演技のできる者もいる。それはつい今しがた六合村に学ばせてもらったばかりではあった。
「なんだか、ますます複雑になってきましたねえ」
 つぶやきながら、六合村は観葉植物の鉢裏に手を回す。腕が引かれたとき、彼女の手に握られていたのは小型のヴォイスレコーダだった。
「とりあえず、玲子さんには報告を入れて指示を仰がないと」
 そこに福田の話が録音されているのを確認し、六合村はレコーダのスイッチを切る。瞬間、それがなにかの合図であったかのように遠くで聞きなれたチャイムベルが鳴りはじめた。
「――さて。時田さん、ウェストミンスターの鐘も鳴りましたし、お昼休みはおしまいです」
「そのようですね」
「では、楽しいお仕事の現場にまいりましょう」
「まあ、刺激的ではありますけどね」
 時田は応じ、外へ出ていく六合村につづく。弾むような足取りで歩く彼女に対し、時田は見知った顔に遭遇しないよう周囲を警戒しながら歩かねばならない。そのまま真っすぐ、本校舎に設置した拠点へと移動した。
「問題はですね、二年四組やその周辺で計測された放射線量が小さいことだと思うんですよ」
 ベースに着くなり六合村は電子機器のスイッチを入れて回る。改めて見回してみると、なんの変哲もない多目的会議室であった空間は、もはや完全に警備用モニタ室に染まりきっていた。そこにかつての面影はまったくない。
「まあ、確かにそうですよね。放射能汚染が本当にヤバかったんなら、もうちょっと色にもあからさまに出てたでしょうし。ウィッキーとアクリル板のせいで視界がアレだったとはいえ、四組の教室に危険色が漂ってるようには見えなかった」
「はい――? 色ってなんですか」
 コンーソールに腰を落としながら六合村が不思議そうな顔をする。
 それで、時田は自らのうかつな発言に気づいた。
「放射線は目には見えないから色もないですよ?」
「あ、そうでしたっけ」相手が意味を取り違えてくれたのを幸いと、時田はなんとか笑ってごまかす。「いや、なんか勘違いしてたみたいです。気にしないでください」
 福田梨絵と教室ではじめて出会ったあと、午前中の時田と六合村は校舎の至るところで放射線量を調べて回った。
 結果として判明したのは、やはり一番強く汚染されていたのが二年四組であるという事実である。両脇にあたる二年三組と五組、直下に位置する一年四組がそれに次ぐ、という形だ。
 とはいえ、これら次点のポイントでは線量計の数値もぐっと落ちた。放射線の影響は距離が離れるほど弱くなる。また、コンクリートは放射線を通しにくい性質をもつという。これらの事情を加味すると、理にかなった計測結果といえるのだろう。
「数字を信じるなら、すべての元凶は二年四組にあったと考えるべきですよね」六合村は鉤爪状に曲げた人差し指を口元にあててつぶやく。「信じられないお話ですけど、あそこに超危険なγ線を発する――放射能を持ったなにかがあったわけです」
「いわゆる放射性物質ってやつですか」
 時田は手近なパイプ椅子に腰かけながら小さくうなる。
 自分で言っておきながら、その放射性物質とやらに具体的なイメージがまったく伴わないのだ。ウランだかプルトニウムだとかいう聞きかじりの固有名詞こそ浮かんでくるが、それがどんなものだかは理解できていない。固体なのか、大きさはどの程度なのか、簡単に持ち運びできるものなのか。そして色は。ひとつだけ分かるのは、個人が望んで入手できる可能性がゼロに等しいことだけだ。
「なんで田舎の学校に放射性物質なんかがあるのかっていう根本的な疑問を別にすれば、まずおかしいのは四組で出た数値なんですよ」
 六合村はぽよぽよとした柔らかそうな眉をしかめる。
「もちろん数字自体は異常そのもので、その危さときたら放射能管理区域の指定を受けてしかるべき域に達してると言えます」
「でも、死人が出るほどじゃなかったわけですね?」
 教室でも六合村はそんなことを口走っていた。四組の汚染はそれほどのものではなく、即座に危険なほど被曝するおそれはない。時田の記憶が正しければ、そんな内容の言葉だったはずだ。
「そうなんですよねー。二年四組には十分間くらいいましたけど、それでどれくらい被曝したかといえば〇・二ミリSv《シーベルト》程度。これって確か、病院で撮るレントゲン写真くらいの数字ですよ」
 気になって、時田は印刷機《プリンタ》の給紙口からA4のコピィ用紙を一枚失敬した。デスクに戻り、備品のペン立てから筆記具をつまみ上げる。
「所長がダッシュで逃げろって言ってたのは、なにシーベルトからでしたっけ?」
 ボールペンをノックしながら訊く。
「一ミリSvジャストですね」
 その程度なら紙とペンは必要ない。五をかけて五十分。
 つまり、あの教室に五十分間とどまらないと所長が警告したレヴェルの被曝はなかったことになる。ウィッキーネズミの加護を得ていた時田なら、いくらいてもノーダメージでいられた可能性さえあった。
「自然界からも放射線は出てますから、ふつうに生活していても人間は被曝するものらしいんですよ。その年間平均値が確か二・四ミリSvだったと思います。で、原子力発電所とかで放射能を浴びながら仕事をするひとがいるでしょう? あの方たちが一年間にさらされて良い限界が五十ミリSvってことになってるんですよ。日本の基準では」
「良くそんな細かい数字まで覚えてますね」
「フフフ、私は一度頭にメモしたら忘れないタイプなのですよ」
 六合村がかわいそうなほど膨らみのない胸を張る。
 時田は手元に視線を落とし、コピィ紙にペンを走らせた。
「――ええと、十分間で〇・二ミリだから、一時間で六倍の一・二ミリ。仮に十時間あの教室で過ごすとして、一日あたり十二ミリSvになるわけですよね」
 さらに一ヶ月を三十日、土日の休みが四回あるとした場合、生徒がひと月に教室で過ごす時間は――
「十二ミリかける二十二日分だから……ええとニーヨンニーヨンで二百六十四か」瞬間、時田は仰け反る。「うわ、たった一ヶ月で二百六十四ミリ? なんか国の制限値、軽く超えちゃってますけど」
「でも、急性放射線障害になり出すのは千ミリSvくらいかららしいですよ。この段階で生徒のみなさんが訴えていた視力の低下や吐き気、体調不良などが明確に出てくるわけです」
「ひとが死ぬのは?」時田はペンを持つ手を止めて問う。
「確か、二千ミリSvで死亡率が五パーセントくらいだったと思います。四千ミリで約半分の五十パーセント。七千を超えると助かった例はちょっと存在しないみたいですね。致死線量といって、LDであらわされるとかなんとか。私と玲子さんが調べたのはその辺までです」
 時田は背もたれに身体を預け、どこか遠くその言葉を聞いていた。
 指先でペンを弄り回しながら思索にふける。
 二千ミリSvから死人が出るというのなら、最低でも七ヶ月間は毎日あの教室で過ごす必要があるわけだ。
 だが、今は九月。七ヶ月前に教室のどこかに放射性物質がしかけられたとしても、それは春休み以前の話であった計算になる。しかもそれから今日に至るまでは夏休みが丸ごと含まれるのだ。実際に時田のクラスメイトが二年四組の教室を使ったのは、精々が四ヶ月程度といったところだろう。
「俺も六月までは毎日この学校に来てた。二年四組の教室を使いはじめたのが四月。その時点ですでに放射性物資が設置されていたなら、俺も二ヶ月以上――五百ミリSvを軽く超える被曝をしてたことになりますね。原発なんかで働くひとの十年分だ」
「そうとは限りませんよ。私が思うに、あそこに残ってる放射能は残り香みたいなものなんじゃないでしょうか?」
「なんですか、それ」時田は身を起こして六合村と視線を合わせる。
「放射性物質を香水の入った瓶、有害な放射線をそこから漂い出る匂いだとするわけです」
「ああ、なるほど。そういうことですか」
「そうです。たぶん、ある時点で香水の瓶は撤去されたんじゃないでしょうか。でも、放たれた匂いまでは消えずに壁や家具なんかに染み込んで残ってるんです。それが、今の二年四組の状態なんですよ。今日出た数値が単に残り香の強さを計測したものに過ぎないとしたら」
 確かに、それなら様々なことに説明がつく。時間が短すぎるという問題も、数ヶ月でひとびとに致死線量をもたらしたメカニズムについての問題もクリアできるだろう。
「被害の報告が出はじめたのは、学校が夏休みに入ってからでしたよね」
 六合村が書類の束から青いバインダーを抜き出し、表紙をめくりながら言った。どこか見覚えのあるそのファイルは、時田が昨日の朝に所長から渡され、車のなかでざっと目を通した例の資料らしい。
「やっぱりそうです」六合村が紙面に視線を落としたままつぶやいた。「最初に入院した生徒さんは、二年四組の内田雅人という男子学生さん。これが七月二十七日のことです。夏休み中のことですね」
 それから立てつづけに入院患者が発生しているのだが、やはり一ヶ月を超える長期休業中というのが大きかった。情報がなかなか回らず、そのために事実の客観的把握がずいぶんと遅れることになったのだ。
「もともと頭が痛い、疲れが取れない、集中できないといった症状は夏バテとして処理されやすいものですからねえ」
「言えてますね。具合が悪くなっても、今年の夏風邪は性質《たち》が悪いってことで片付けられそうな感じです」
 実際、ウチの母親ならそれで済まそうとするだろう。時田は自信を持ってそう言いきれた。
「その辺も、被害の拡大を許してしまった要因のひとつだと言われているようです」
 もっとも、本当に夏バテや夏風邪であった可能性も否定できず、学校と彼らの症状との因果関係も未だ解明はされていない。六合村はそう補足し、資料を読み進めていく。
「報告によると、学校側が異変に気づいたのはようやく八月に入ってからだったようです。――あの、時田さん。白丘第一には特進クラスというのがあるんですよね?」
「そういや、そんなのもあったな。成績が優秀で、かつ大学進学を希望している生徒だけが入れる特別クラスってやつです。連中、夏休みも学校出てきて勉強してたはずですよ」
「時田さんは特進クラスだったんですか?」
「いやあ、まさか。成績が散々で希望してもどこにも進学できそうにない生徒用の特別クラスには入れたでしょうけど。特進とは違う理由で夏休みに学校来なきゃいけないんですよね。留年をしないための補講に強制参加させられるんで」
「そういう休み中も登校していた生徒さんたちが教室でバタバタ倒れ出したので、学校も異変を察知できたんですね」
「で、その倒れた連中は二年四組の生徒ばっかだった、と」
「その通りです」
 六合村が赤いマーカーをはずし、資料の一部にチェックを入れだした。興味を引かれた時田は、椅子ごと移動して彼女の手元を覗き込む。そこに広げられていたのは、どの生徒がどの席に座っていたかを示す――いわゆる座席表の類だった。
「こことそのお隣。それからこことここと、そのうしろ。とまあ、こんな具合です。見ての通り、重症者と死亡者はちょっと窓側に寄った教壇近くの席に固まってるんですよね」
 彼女の言うとおり、特に酷い症状に見舞われた人間はある一帯に固まって存在している。被害の輪はそこを中心点に放射状に――石を投げ込んだ池に生じる波紋のごとき広がりを見せていた。中心部ほど症状も深刻でより死に近く、外に離れるほど程度は軽くなる。一部に例外はあるものの、おおむね法則だった被害状況が見て取れる。
「あれ、でもこれ、俺が知ってる席順とちょっと違うような」
 時田は思わず首をひねる。
「俺の名前、真ん中の列の最後尾にありますけど、前はもっと前の方に座ってましたよ。ちょうど、ヤバイ被害が出てるあたりでしたもん」
「いじめられていた竹島さんが転校して、時田さんも来なくなっちゃいましたからね。空席が前の方にふたつあるのも雰囲気悪いってことで、衣替えが本格的になり出したのをきっかけに席替えをしたそうですよ。心機一転、みんなで明るくやり直すつもりだったんじゃないですか?」
「もしかして、その頃に放射性物質も現れたとか」
「うーん」六合村は唇を尖らせて腕を組む。「時田さんの身体にまったく異常がない事実を見ると、その可能性は高いかもしれませんね。席替えがあった梅雨明けから夏休みがはじまる七月下旬まで、約ひと月超。この間に超強力な放射性物質が教室に置かれ、生徒の方々の細胞を破壊した。あり得ないことではないと思います」
「問題は、誰がどうやってなにを持ち込んだか。そして、それはもう本当に撤去されたのか、ですね」
 最後の疑問については、六合村の主張する「残り香説」の成立もかかってくる。
「はい。でも今のところは、誰がどうやってなにを――という部分については調べることができません。ですが、放射性物質まだあるのかないのかについては分かると思いますよ」
「午前中、色々がんばりましたからね」
「その通りです。時田さんもご存知のように、二年四組には例の線量計《サーベイメータ》とPCのセットを置いてきました。あれは空間放射線量計《エリアモニタ》にもなるんです。バッテリも六百時間持つそうですから、計測データはPCから無線LANを経由して、ここの端末に随時送られてきます」
 六合村が、ずらりと並べられた液晶ディスプレイのひとつを指し示す。そこには既に二種類のウィンドウが表示されていた。ひとつは波線のデータグラフになっており、もうひとつが測定履歴《ログ》の類らしい。
「俺が色々やらされた配線はそれだったわけですか」
「はい。――それでですね。私の仮説が正しいなら、放射線量は徐々に弱くなっていくはずなんです。匂いと同じで、距離が離れたり時間が経ったりすると薄れていくものだそうですから。逆に言うと、少しでも強くなることがあれば、なにかの異常が発生したことになります」
「じゃあ、それを監視するのが俺たちの当面の仕事になるわけですか」
「はい。時田さんに配線とソフト設定をがんばってもらったことによって、異常が出たらアラームが鳴るようになりました。携帯型バイブレータを振動させることもできます。これならキャンピングカーのなかからでも変化を察知できますよ」
「そのためにあのデカブツを持ち込んだんですね。俺はあそこで寝泊りして、異常がないか常に見張ることになる――と」
 時田が思わず嘆息する一方、六合村は邪気のない笑顔を浮かべた。
「時田さん、お泊りセットは持ってきてますよね?」
「ええ、まあ」
 もともと着替えを用意しておけ、とは所長に言われていたことだ。
 それに従ったからこそ、放射線に汚染された可能性のある下着を躊躇なく捨てられたのだ。
「そう言えば、所長はどこ行ったんですかね? 午前中、フラッと出て行ったきり戻らないけど」
 その声がスイッチになったかのように、ジーンズのポケットで甲高い電子音が鳴り出した。
 自分からはほとんどかけないことを考えて選択した、時田愛用のプリペイド式携帯電話だ。基本料がまったく必要なく、受信に関しても完全無料。メールを含め自分から送信・通話する場合は一般的なプランより料金が割高になるが、その頻度が低ければ非常に安いコストで運用できる。時田は半年ごとに五千円のカードを買うことで十分やりくりできていた。
「はい。時田です」
 ディスプレイに「ショチョウ」と表示されているのを確認し、時田は電話を耳に当てる。
「ご苦労さま、私よ」
 臣下を形ばかり労う女王のような声が返った。
「お疲れさまです。所長、今どこですか? 色々分かって、こっちじゃ大変なんですよ」
「なに。まさかの放射能が出たとか?」
「そのまさかです」
 時田は午前中の出来事について大雑把に報告した。そのまま席を立ち、エリアモニタのログが表示されたディスプレイへ歩み寄る。六合村に読み方のレクチャーを受けながら、これについても簡単に状況を説明した。
「今のところ目に見えた変化はないですけど、六合村さんは異常な数値だって言ってます」
「そのようね。念のために線量計《サーベイメータ》持たせて正解だった。――でも本当に反応が出たとなると、一個じゃ足りないな」
「ええ。万全を期すなら、二年四組以外の場所もモニタリングすべきだって六合村さんは言ってます」
 これには自分も同意見だ、と付け加えた。
「分かってるけど、線量計って需要がないから店の在庫も少ないのよね。棚卸表《リスト》確認したら半ダースしかないし。あれ、結構高いのよ。売り物を開封して中古品にしちゃうのは気が引けるわ」
 経費としてクライアントに別請求しようにも、先方がそれだけの追加料金を払えるかは微妙なところだという。
「じゃあ、どうするんです?」
「考えとく。中古にしちゃっても、関係機関への|貸出し《リース》で稼ぐって手が残ってるしね。放射能関係の調査はどっかの専門機関と契約させて別口でやらせる方が良いかもしれない。依頼先には幾つか心当たりもあることだし」
「仲介して紹介料《リベート》取る気でしょう」
「フッ……」認めたも同然の笑みが返る。「ところで、二年四組には予定通り監視カメラもつけた?」
「はい。そこは指示通りです。四組を中心に周りの教室や廊下、主だった通用口にも取り付けてます」
「よろしい。じゃあ、秒間一コマの二十四時間録画モードにして、時田君は今から自宅に帰りなさい」
「えっ?」思わず電話を握りなおす。
「機材積んでた事務所のバンがあるでしょ。それでお六合に自宅まで送ってもらうようにね。彼女にもそう伝えて」
「でも、泊り込みの予定じゃなかったんですか? 不審者が現れたとき学校の敷地内にいないと、現行犯での身柄確保は難しいと思いますけど」
「なによ。そんなにお泊りしたいの?」
「いや、そういうわけでは」
「私も午前中、遊んでたわけじゃないのよ」所長が言った。「時田君がやられたっていう通り魔について調べてたんだけど――」
「なにか分かったんですか?」
「はっきりしたことはなにも。ただ、思ってたよりヤバイやつである可能性が極めて高くなった。正直、お六合だけじゃ手に負えないかもしれない」
「それは正しい認識ですよ」
 昨夜出会った暗黒の感覚《クオリア》が脳裏に蘇る。
 ただそれだけのことで発狂がはじまりそうな気がする。本能的な危機を感じるほど動悸が激しい。時田は唾をなんども飲み込み、乾きはじめた喉を潤した。なるべく平静を装った声で訊く。
「でも、なんだって所長、そんな急に物分りが良くなったんですか。朝まではわりと余裕だったくせに」
「情報量が変わったからよ」
「情報って?」
「時田君、そいつがスーツの懐から物理的にありえないサイズの手斧を引っ張り出したって言ったでしょ。最初はペンみたいに見えた小さな物が、巨大化してそういう形になったように見えたって」
「言いましたけど」改めて他人の口から聞かされる度、ばかげた夢だとしか思えなくなってくる証言だ。「だからあれは暗かったしパニクってたしで、我ながら信憑性ないんですって」
「それが、そうでもなくなってきたとしたら?」
 思いもよらないほど低い声が返る。
「はい?」
「君は自分の目をもう少し信じなさい、ということよ。たぶんそのとき、時田君が見たままのことがそこでは行われてた」
「見たままって……」
 折りたたみ式のナイフなら、刃を展開したとき元の長さの倍近い武器にもなり得るだろう。
 だが、あの肉斬り包丁は話が別だった。そもそも折りたためるようなサイズではないし、二つ折りにできたとしても結局はスーツの内ポケットに入りきれないからだ。
「そんなのあり得るわけないじゃないですか」
「昨日、訊かれたときに私、言ったでしょ」
「なにをですか?」
 所長は落ち着いた口調で告げた。
「呪いは実在する――ってね」


to be continued...
つづく