「バンブルビィ飛行」 槙弘樹
13
石でも踏みつけたのか、時田は車体がかすかに上下するのを感じた。
それだけで全身に灼熱感にも似た痛みが走る。なんとか噛み殺そうとするが、目じりに涙が薄く浮かびかけた。
こうなってくると、エンジン音が牙剥く猛獣の唸り声にも聞こえてくる。たかだか打撲と内出血でここまで身体が痛むのははじめての経験だった。
「なに、時田君。さっきからその顔は」
「え、顔――どっか変ですか?」
横からかけられた声に、時田はつとめて平静を装いつつ返した。
が、北条玲子はそんな駆け引きが通用する相手ではない。
「変ね」と即座に断言される。「顔が変なのはいつものことだけど、今日は特別おかしい」
言いたいだけ言うと、彼女はステアリングを握ったままチラチラと疑惑の視線を向けてくる。時田はどうしても引きつらずにはいられない笑みを浮かべ、ほとんど無意識に顔を背けた。
「なによ。やっぱり、半分やめたつもりの学校には今さら行きづらいってわけ?」
よほど苦い表情をしていたのだろう。所長が再び追求してくる。
「不登校児童を無理に学校にいかせようとすると、発熱したり頭痛腹痛を起こすケースもあるらしいけど。時田君もそのクチ?」
「そんなんじゃありませんよ」
「じゃあなに」
食い下がってくる所長に、時田は車窓の風景を眺めたまま言葉を探した。
「……あの、所長。念のためにお聞きしますけど、今回の白丘第一の件ってどうしても受けなきゃいけないんですか?」
「ふうん」所長はなにか得心したようにつぶやく。「どうも、見慣れた景色が見えてきたことによる憂鬱の類で言ってるわけじゃなさそうね」
彼女の言うとおり、事務所の改造キャンピングカーは時田がかつて通学路として使っていた通りに入っていた。
見覚えのあるガードレールの傷。数十メートル間隔で三つ並ぶ信号。その変わり方の法則、歩行者用ボタンの反応速度。行きがけに弁当を買うため良く寄ったコンビニエンスストア。
どれも見覚えのあるものばかりだった。視界に収めた瞬間、なにかしらの思い出と連動して記憶が蘇ってくる。
いま通り過ぎた小さなオートショップは、寡黙な職人肌の親父が経営している便利な店だ。パンク修理を今どき五百円で請け負ってくれるため、第一の生徒からも人気が高い。空気入れも手動式を無料で貸してくれたのを覚えている。
最後に見てから約三月。親しんだ通学路の眺めに変化はほとんどなかった。
「で、もう着いちゃうけど――なにがそんなに不安なわけよ、時田君は。ちゃんと聞くから、話したいことがあるなら言いなさい。こう見えて私、ひとの直感には一応の注意を払うタイプだしね」
信号つきの十字路を大きく右へステアリングを切りながら所長が言った。「もう着く」という言葉に誇張はなく、白丘第一へ至るまでのコーナーはこれを含めあとふたつ。すでに進行方向右手には、敷地を縁取る建築物のはざまから校舎の一部が見え隠れしはじめていた。
「あの、所長様。正直に話しますんで、怒らないで聞いてくださいね?」
時田は覚悟を半ば決め、横目で暴君の顔色をうかがう。
「なによ。私が温厚でのんびり屋さんな性格なのは知ってるでしょ」
「恐ろしい勘違い発言をさらりとなさる」
「良いから言ってみなさい。お姉さん、怒ったりしないから」
「本当に?」
「さっさと言わないと拳骨で脳天陥没させるわよ」
「なんかめちゃくちゃなこと言い出しましたよ、このひと」
どちらにせよ、機嫌を悪くした彼女から八つ当たりを食らわされることは避けられないのだろう。そんな確信に近い予感を抱きながら、時田はしかたなく切り出す。
「じゃあ言いますけど……実は夕べですね、わたくし帰宅途中に謎の変質者に襲われまして」
「なんですって?」
「いや、だから変質者に――」
「はぁ」
所長は疲労感を隠そうともしない嘆息で時田をさえぎった。
「なに、今度はなにをやらかしたのよ? また駅のトイレで着替えて、コートの下の貧相な裸体を会社帰りのOLに見せて歩いたとかじゃないでしょうね。断っとくけど、別に素直に懺悔したからってカツ丼はおごらないわよ」
「所長、ひとの話ぜんぜん聞く気ないでしょ。俺は変質者に襲われた被害者。実行犯じゃありませんって。なんで、さも当然のように露出狂扱いになってんですか」
「なによ、時田君がやらかしたんじゃないの?」
所長は汚物に向けるような視線を時田に突き刺す。まるで信じる気のない顔だった。
「どうせ、あれでしょ。これは友達のことなんだけど――なんて相談持ちかけといて、実は自分の話でしたってパターン。あれみたいに、自分の犯罪をあたかも他人の犯行のように話して観測気球代わりにしてるんじゃないの?」
「だから違うって言ってるじゃないですか。あと、俺がカツ丼おごればなんでもしゃべるひとっぽい認識もいい加減改めてくださいよ」
「ふうん。時田君のくせに、今日はなかなか自信たっぷりじゃない」
「正真正銘の潔白だからです」
「まあそこまで言うんなら、一応信じるふりくらいはしてあげても良いけどさ。で、その謎の変質者がどうしたって?」
「いやそれが恐るべきことに、道に罠はって俺を待ち受けてたんですよ。通り道とかを予め調べといたんだと思うんですけど」
「罠ってなに。バナナの皮とか?」
「……所長。俺のこと本気でバカだと思ってますね」
釈然としないものを感じながらも、時田は昨夜の出来事についてできるだけ詳細に話した。もちろん、ティガ‐アデプトの介入に関してだけはその一切を省く。本人から口止めされていることもあるが、なにより簡単に説明できることではない。
代わりに、助かったのは付近住人の運転する車が現れてくれたからだ――という説明でなんとかストーリーをまとめきった。そもそもティガの存在が非常識的なおかげもあって、それでもなんとか格好のつく話にはなったはずである。
不気味なのは、所長が最後までおとなしくそれを聞いていたことだった。このようの場合、彼女が一言も口を挟まず終始無言を貫くことは稀である。しかも、今回は時田が語り終えても長く沈黙を保ったまま動かない。表情も、話が進むうち徐々に削げ落ちていった感じがあった。
結局、所長がまともな反応を見せたのは、数分して白丘第一高校の校門を潜ったあとだった。職員用駐車場の空きスペースにクルマを停めると、エンジンを切ってようやく時田に顔を向けてくる。そして穏やかにも聞こえる声で訊いた。
「その男、具体的にはどんなやつだったって?」
「見た目は――そうですね。パリっとしたスーツ姿で、身長は俺くらいだったかと」
一刻も早く忘れるに限る情報だったが、時田はあえて記憶の糸を辿る。夢にまで出てきたのだ。心的外傷として強く焼き付けられたその光景から、一部の映像を切り取ってくることはたやすい。
「日本人?」
「いえ、どうでしょう。肌は色黒で、インド系とかラテン系とか、そういう感じの色づきだったと思います。顔立ちも日本人だとしてもハーフっぽくて、完全な円形レンズの眼鏡をかけてました。フレームはかなり細いタイプ。歳は――ちょっと分かりません。俺より上だとは思いますけど、そんなに歳食ってる感じではなかったです」
「スーツの胸元から斧を出したっていうのは?」
所長は降車する気配を見せない。ハンドルに両肘を乗せる格好で淡々と質問を重ねていく。
「肉屋が業務用で使うようなドデカイやつでした。あれが、どうやってポケットに収まってたのか未だに分かりませんよ。刃渡りは楽に二十センチ越えてたし、物理的に隠せるはずないんですけどね。前がとまらないだろうし、仮にボタンがとめられても刃物が盛り上がって見えると思うんですけど」
「最初はペンみたいな小物だったのが、突然、巨大化したように見えたって言わなかった?」
「ええ、でもまあ、俺の見間違いなんでしょうけどね。正気を失う寸前だったし、極度のパニック状態だったし。しかも夜で辺り暗かったしで、証言としての信憑性は我ながら疑わしいですよ」
「そう……」
聞くべきことはすべて聞き出したということだろう。ここにきてやっと、所長はドアに手をかけた。時田もシートベルトを解除し、あとにつづいて助手席から降りる。
外から眺めるフルコン型キャンピングカーの図体は、改めて巨大だった。北条警備保障の誇る最大スケールの移動手段である。これが駆り出されたということは、しばらく泊り込みで調査と警備を行うつもりなのだと解釈して良い。
「しかし、良いんですか? こんなところに停めちゃって」
学校のすぐ横には、来客用に設けられた駐車場という名の更地がある。立場的にはそちらに駐車するのが妥当である気もした。
「良いのよ。許可はとってあるから」
「ってことは、やっぱりこの仕事請けるんですね」
「当ったり前でしょ。犯罪者に手を出すなと言われて、はいそうですかって手を引く警備会社がどこにいるの?」
北条玲子は仁王立ちに近い格好で、眼前に聳え立つ本校舎を睨み上げる。
「それは至極ごもっともではあるんですが、命あっての物種とも言いますし。この件は特殊すぎるから……って理由で断っても、そう事務所の評判に傷がつくことはないと思うんですけど」
「やれるかと訊かれて、簡単にNOと答えるのはプロじゃない。お前には無理だと言われて、退き下がるようなら女とはいえない」
時田は両肩を落とし、深く嘆息する。
「まあ、そうなりますよね。予想はしてたけど」
「それに、その通り魔は圧力かければ私が尻尾巻くタイプだと考えてたわけでしょ」彼女が振り返る。「二度とそういう勘違いさんがでてこないように、誤解はきっちり解いて、修正しておかないと。その男には、なんで私を知ってたのかを含め色々と聞きたいこともあるしね。それはもう、色々と」
修正うんぬんはともかく、最後の部分については時田も同感だった。
なぜ、あの眼鏡の男は北条玲子や時田弘二のことを知っていたのか。白丘第一に踏み込まれると、彼にとってなにが不利益になるのか。それは呪い騒ぎとなにか関連があるのか。
この件に関わるなら、是非にもそこをはっきりさせる必要がある。
「まあ、そういうわけで」所長は身体ごと時田に向き直って言った。「さっそく仕事よ。私はこれから関係者に会ってくるから、時田君はこの場で待機ね」
「え、駐車場でですか?」
「私たちが乗ってきたのは改造キャンピングカーよ。監視モニタシステムと最低限の通信機器は搭載してるけど、それ以上の物は積んでない」
「あ、そう言えば」
「しばらくしたら、機材を積んだ別の車でお六合が来るから。彼女を待って設置を手伝いなさい」
言って、彼女は時田の右肩に軽く手を置く。
瞬間、身体を突き抜けていった激痛を隠し通すには、多大な精神力が必要とされた。
「その身体じゃ、重たい荷物は運べないでしょ。お六合はああ見えて馬鹿力だから、力仕事は彼女に任せることね。時田君はケーブルの配線と現場の観察でもやっておけば良いから」
「気づいてたんですか?」
今朝起きたとき、時田の肩はあがらなくなっていた。
無理に動かそうとすると、涙が出るほどの鋭い痛みが走る。
昨夜の事故の代償だった。
鏡で見てみると、右の肩口から背中のなかほどまでが冗談のように腫れ上がっていた。転倒した際、アスファルトにしこたま叩きつけられ、さらに擦ったのが悪かったのだろう。肌はどす黒く変色し、やすりで削ったように荒れ果てていた。
「クルマが揺れるだけで痛いんでしょ。苦労して誤魔化そうとしてたみたいだけど、まあ、あれじゃ無駄な努力ね。罠に引っかかって自転車から投げ出されたって話も聞いたし。合わせて考えれば大体の想像はつくってもんよ」
「そんなにバレバレでしたか」
「気づかないふりしてあげても良かったけど、業務に差し障るようじゃあ看過もできないしね。まあ、しばらくは無理しないようにしなさい」
時田は信じられない思いで彼女の言葉を聞いていた。
あの北条玲子が、部下を思いやるような発言をしている。その事実自体が奇跡にも等しい出来事だった。
「ひとの身体を気づかうなんて、所長にもひととして良い部分がまだ残ってたんですね」
時田の言葉に、北条玲子は咲くような笑顔を披露してくれた。
「無理させて、高価な機材を落とされでもしたら大損害じゃない。部下は故障したら新しいのを雇えば良い話だけど、機械の修理には大変なコストがかかるのよ?」
責任者へ挨拶を入れておく必要があるのだろう。姿勢の良い北条玲子の後姿が本校舎に消えていって、きっかり五分。話の通り、見覚えのあるワゴン車が校門を潜って滑り込んできた。セダン以外を運転しているのを見るのははじめてだが、ドライヴァーズシートには確かに六合村の小柄な身体が収まっている。
「ああいう人権の概念を解さない冷血漢が、子どもたちを地雷原に放ったりするんだ」
「え、なにか言いました?」
開いたドア越しに六合村が顔をのぞかせる。
「いえ、こっちの話です」
「そうですか。それより、お待たせしちゃってごめんなさい」
彼女は慇懃に頭を下げ、そのままトランクの方へ回りこんでいく。
「いえ、大して待ってませんよ。しかしまた、色々持ってきましたね」
彼女の肩越しに覗き込むと、車内には業務用のセキュリティ関連機材が満載されていた。よく見ればその恐るべき重さに耐えかねて、後部座席の車体が不自然に大きく沈み込んでいるのが分かる。
「時田さん、右手のお加減はいかがですか? 出かける前、玲子さんが怪我してるみたいだって言ってましたけど」
「くわ、事務所にいたときにもう気づかれてたのか」
「さっきの電話では、いつもどおりほとんど使い物になりそうにない、とか」
「酷い言われようですね。事実とは言え、もう少しソフトな表現はなかったのか」
「身内だと認めたひとには特に厳しいですからね。玲子さん」
「いや、全人類に対して等しく容赦ないですよ。あのひとは」
六合村はそのことばに嫣然と微笑み、ひとつ息を吸い込んで腕まくりする。
「さあ、じゃあはじめましょうか。玲子さんから指示はもらってます。時田さん、腕は台車も押せないくらい痛いですか?」
「まさか。でもこの学校、エレヴェータがないですからねえ。さすがに階段は無理です」
「大丈夫ですよ。ベースキャンプは一階の会議室に置く予定ですから。まず、大物をそこに運び込んじゃいましょう」
言いながら、彼女は組み立て式キャビネットのフレームや液晶モニタを次々と抱え、下ろした台車へ置き並べていく。そのすべてを笑顔でこなしていくあたり、「ああ見えて馬鹿力」という所長の言葉もまんざらハッタリではなかったらしい。
実際、時田単独なら一時間はたっぷりかけたであろうキャンプ設営を、六合村は実にその半分の時間で成し遂げた。配線関係は時田が担当したとはいえ、これが記録的なタイムであったことは言うまでもない。片方の手にひとつずつスリムタワーのPCを鷲づかみにしたその姿は圧巻のひとことであった。
「――お、早いな。もう出来上がってるじゃない」
設営が終わってしばらく、六合村と持ち込んだティセットで一服しているときだった。部屋のドアがノックもなしにいきなり開かれた。室内を見回しながら入ってきたのは、言うまでもなく北条玲子である。
「感心、感心。配線ももう終わってるの?」
一番近くのキャビネットに寄り、彼女は液晶モニタとPCの電源を入れた。マザーボードのメーカーロゴが表示され、OSの読み込みがはじまったのを確認すると満足そうにひとつうなずく。
「よろしい」彼女は部屋中央の長テーブルに寄り、パイプ椅子のひとつを引く。「じゃあ、学校側にも着任の確認入れてきたことだし、このへんで一度、今後の方針について少し話ときましょうか。――お六合、私のぶんもお茶入れてくれる?」
「はい」六合村がにっこり笑って席を立つ。
「で、これからだけど。時田君の話を信じるなら、通り魔の存在には十分な注意を払っておかなきゃならない。まずこれは基本として確認しておきましょう」
「えっ、通り魔ってなんのことですか?」
ティポットを傾けながら、六合村が同じような角度で首をかしげる。
「そうか、お六合はまだ知らないんだっけ」
六合村から淹れたての紅茶を受け取ると、所長は一口味わってから再度口を開いた。
「それがね、昨日の帰り道、時田君が生意気にも刺客の襲撃を受けたっていうのよ。しかも、この白丘第一の件から手を引けっていうメッセージつきでね」
所長はつづく言葉で事の詳細を語りはじめた。要点が良く整理してあり、時田が自らの口で説明するより話を掴みやすい。
「私のことをそこそこ知ってたみたいだし、どうもその通り魔、今回の呪い騒動に関係ありそうな感じなのよね」と、彼女は結んだ。
「はあー、そんなことになってたんですか」
六合村が大きな目をさらに大きく見開く。
「じゃあ、時田さんの腕の怪我ってそのときに?」
「ああ、あれね」所長は両肩をすくめて皮肉な笑みを浮かべる。「あれは通り魔にやられたとは言っても、バナナの皮を踏んで勝手に転んだだけなのよね。本人は通り魔がしかけたトラップだって強弁に主張してるけど実際はどうだか。――でもだめよ、お六合。ここはだまされたふりをしてあげるの。それが淑女の嗜みってもんだから。でないと、時田君の必死ぶりが哀れすぎるじゃないの」
「そうですね。今どきバナナの皮とはさすが時田さん。期待通りですね。ププ」
六合村は左手で上品に口元を覆い、目を三日月形にして笑う。
「いやいやいや、そこは違いますから」これには、さすがの時田も訂正に入る。「と言うか、あんたら本人を前に丸聞こえだって分かってて、良くもそこまで言いたい放題言えますよね。六合村さんもバナナ皮の話なんかあっさり信じないでくださいよ。所長のでっちあげなんですから」
「見苦しいわよ、時田君」
言下のもと、北条玲子が無慈悲に告げた。
「――とにかく、相手は殺人をまったく躊躇しないイカレたやつよ。警告が意味を成さなかったことを知れば、またなんらかのアクションを必ず起こしてくるでしょう。そこで、時田君」
「はい」時田は居住まいを正して応じる。
「私は安全なところに身を隠してるから、あなたは全力で囮になるのよ。目立つ動きをしてやつをおびき出し、その目的や武装に関する情報を引き出すの。大丈夫、時田君の死は無駄にしないわ」
「ちょっと待たんかい」
念のためなにかの比喩表現である可能性、聞き間違いである可能性などを検証してみたが、儚い期待は三秒で破れ去った。どう考えても、北条玲子の言葉にはひと通りの解釈しかありえない。
「それは、俺に死ねと言ってるのでは?」
「なによ、不満なの? 警備会社のうら若き美人社長を生命と引きかえに救った悲劇の英雄――まさに男として考えれ得る最高の死にざまじゃない。こんなチャンス、もう二度とないかもよ」
「そんな嫌なチャンスはいりませんよ」
「ハッ、相変わらずのチキンっぷりよね。これだから時田系の男は」
所長は両肩をすくめ、呆れたようにため息をつく。
「なんか、ひとの名前をダメ男の総称みたいに使ってません?」
「まあまあ」六合村が諌めるように割って入る。「それよりどうしますか、玲子さん? 時田系の方が囮としてすら使えないとなると、方針を変えなきゃだめですよ」
「しょうがない。時田君には、お六合――あなたをつけましょ」
「え、俺が六合村さんを守らなきゃいけないんですか?」
正直なところ、自分の面倒だけで手いっぱいだった。昨夜もティガの介入がなければ殺されていたのである。
「だれがポン時にそんな期待をするのよ」
「そのポン時って俺のことですか。ポンコツと苗字をつなげて略しちゃった言葉ですか」
「君がお六合を守るんじゃなくて、お六合に君を守らせるの」
所長は時田の言葉を完璧に無視してつづけた。
「この子、こう見えて時田系もやし男の五千倍はタフだから、せいぜいぬれ落ち葉みたいにくっついて離れないことね。死にたくないならどんなときも必ず二人組みで行動すんのよ。移動するときは尾行に気をつけながら、毎回ルートを変えること」
「そこまでするんですか……」
努めて不安の表情を抑制しながら時田は訊く。
「真面目な話、あの男、また襲ってきますかね?」
「可能性は極めて高い」所長は神妙な顔つきで即答した。「来ないはずがない、と言いかえても良いくらいよ。時期や手口の予測はつかないけどね。調査と警備の都合上、私たちはこれから夜の学校をうろつく機会が増える。そういうときは特に注意が必要だと考えた方が良い。人殺しには絶好の時間帯とロケーションなんだし」
「それにしても、その通り魔の方って結局のところ何者なんでしょうねえ」
答えを求めての問いというより、単に疑問が口をついて出たという調子で六合村がつぶやく。
「まず、問題はそこですよね」時田はうなずいて同調を示した。「所長のことを色々言ってましたけど、知り合いとかそういうパターンは? 色々と恨み買ってそうだし、敵も無闇に多そうだし」
「まさか。私を本当に理解している人間なら、脅しや警告が効かないことくらい理解してるはずでしょ?」
「まあ、それは確かに」
事実、彼女はケンカを売られたと認識し、引っ込むどころかさらに火勢を強めた。リスクやトラブルは、北条玲子にとって起爆剤にしかなり得ない。
「とにかく、通り魔の素性については私の方で調べてみるから。あなたたちは、最大の被害を出してる二年四組の教室を調べてみて。――お六合、作業は手はず通りに進めるようにね」
「はい。お任せくださいまし」
「よし、ならそういうことで」
所長は紅茶を飲み干すと、景気良く手を打ち鳴らして立ち上がった。
「それじゃあ、さっそく仕事にとりかかりましょう。私も準備まではつき合うから。お六合、例の装備を用意してくれる?」
「了解です」
六合村は嬉しそうに微笑んで部屋の隅へぱたぱたと駆けて行く。いつの間に運び込んだのか、そこには巨大なダンボール箱が置かれていた。丸まった人間なら十分に納まりそうなサイズがある。
「あの、装備って?」
「ヌフフ、私が夜なべして改良を施したすばらしいアイテムなのですよ」
箱を抱えてもどりながら、六合村が例によって妙齢の女性としてどうかと思われる笑い声をあげた。小柄な彼女の身体はダンボールの影にすっぽり隠れ、歩み寄ってくるその光景は箱に足が生えて歩いているようにしか見えない。
「時田君。今後、校内の移動に際しては常にあれを身に着けてもらうから。そこのところよろしくね」
「え、あれって?」
「これのことですよ、時田さん」
床に箱を置いた六合村が、封を解いていそいそと中身を取り出す。
卓上に置かれたその物体は、箱のサイズから予想された通り巨大な代物だった。折りたたみ式の会議用デスクが強い負荷に抗議の悲鳴をあげる。
「あの、なんですかこれ」
「なにって、知らないの? 東京デスティニーランドの大人気マスコットキャラ、ウィッキーネズミじゃない」
ゲストでも紹介するような口調で所長が言う。
「いや……と言うより、着ぐるみですよね」
時田は、言われるとかろうじてネズミに見えなくもない、その奇天烈な生物の全身スーツを凝視する。
ウィッキーネズミは、具合の悪そうな紫色をした不健康極まりない二足歩行型のげっ歯類だった。身体のあちこちに円形の脱毛が見られる上、左右に三本ずつあるヒゲは重力に屈服しきっている。二本の前歯は虫歯で欠け、半開きの目も腐った魚のように淀みにごっていた。
公式設定によると、近代化がもたらす水質・土壌汚染によって誕生してしまった悲劇の突然変異ネズミが彼であるらしい。デスティニーグループは「環境破壊に警鐘を鳴らす新しいタイプのスーパーマスコット」を謳っているが、顔面にチアノーゼが見られる以上、むしろウィッキーネズミは自分の生命維持を優先して考える必要がありそうだった。
「こいつって確か、チビっこたちを完全無視して若い女性客のみ好んで追いまわすとかなんとか……なんか、そういうマスコットにあるまじき性格設定もあいまって、全国的にかなり嫌がられてるキャラじゃありませんでしたっけ」
女子高生たちは例外的に喜ぶこともあるそうだが、一部の女性団体からは抗議の声があがっているとも聞く。無理からぬ話だった。
「時田君。今日は、これを常に着用して仕事をしなさい」
「嫌がらせだな? 嫌がらせでしょう!」
「大丈夫。私はあなたとウィッキーネズミに同じ匂いを感じる。きっとミラクル・ジャストフィット間違いなしよ」
所長が素敵な笑顔で言う。
「こんな畜生と一緒にしないでくださいよ。大体、なんで着ぐるみなんですか。もはやまったく意味が分かりませんって」
「ええい、グチグチとやかましい」
一喝すると、所長は面倒そうに腕を組む。
「学生じゃないんだから、下っ端は上司の言うことにヘコヘコしたがってればいいの。社会に出たらね、上が白と言えばカラスも白になるのよ。とにかく着ろったら、おとなしく着なさい」
「そうですよ、時田さん。玲子さんは時田さんのためを思っていってるんですから。γはだめでも、αやβならこれで防げますし。死にたくなかったら着ておくべきです」
六合村はにこやかに告げると、さあ、と着ぐるみを両手で突き出してくる。
「ちょっと待った。今、ごくナチュラルに死ぬとか口走りませんでした?」
「いやですねえ、そんなわけないじゃないですか」
六合村が可愛らしい笑くぼで答える。
「じゃあ、そこは敢えて追求しないにしてもです。その前のアルファとかガンマってのは? なんかプロレス技を彷彿とさせるべらぼうに嫌な響きなんですけど」
「――時田君、実力行使されたいの?」
所長が冷ややかな口調と表情で言う。
彼女は腕を組んだ格好のまま、右の人差し指で三等筋あたりをトントンと叩いていた。
「言っとくけど、それは素肌の上に直接着るのよ。下着くらいはつけといても良いけどね。それを知った上でなお、自分からは着られないって言うなら、良いでしょう。手伝ってあげようじゃないの」
「さあさあ、時田さん。あんまりゆっくりしてると、玲子さんとふたりで身包み引っぺがしちゃいますよ?」
左右の五指を不気味に蠢かせながら近づいてくる六合村の姿に、時田は抵抗の無意味を悟った。