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「バンブルビィ飛行」 槙弘樹

  11

 乾いた金属音が夜のしじまに響き渡る。
 同じ経験を時田はそう遠くない過去に一度得ていた。
 目を閉じ、直後に襲ってくるであろう衝撃と激痛とに備える。だが、いつまでたっても覚悟したものは訪れない。そんな経験だ。
 もう遠く感じられる記憶だが、実際には今日の午前――TUT病院での出来事だった。
 そのときと同様、時田はゆっくりとまぶたを開き、しばたいた。何度目かで、涙でにじみ歪んだ視界がなんとか晴れる。
 そこには手首を押さえた男の姿があった。彼が振り下ろそうとしていたブッチャーナイフはその遥か後方のアスファルト上に転がっている。先ほどの金属音の正体だ。
「ふつうなら手首から先が吹っ飛んでなくなるはずなんだが」
 聞き覚えのあるその声は、驚くほど近くから聞こえた。
 時田は打たれたように頭上を振り仰ぐ。
「どうも、この界隈には妙な連中が集まりつつあるな。ほとんどセサミストリートだ。次は八フィートのカナリアか?」
 見る者を無駄に威圧するその強面を、この瞬間ほど心強く感じたことはなかった。
 全てを塗りつぶそうかという闇色を前にしてなお、存在感を微塵も損なわれないメタリック・シルヴァー。そんな色を放つ男など、時田の知る限りこの世にひとりしか存在しない。
「帰りが遅いから様子を見に来てみれば、ひとの都合も考えず変態などに襲われよって。お前を待っていたせいで、ディナーが冷めてしまったではないか」
 ティガ‐アデプトは目だけ動かして弱者の世界を睥睨する。
 通常なら頭にくるだけの罵詈雑言も、今の時田には祝福の鐘のように心地良かった。発狂するほどの恐怖はいつの間にか消え、気づくと身体の強張りもずいぶんと緩んでいる。
「殺されるなら殺されるで、事前に連絡のひとつも入れんか、この愚か者。そんなだからお前はいつまで経っても天カスなのだ」
「ティガのおっさん……」
「まあ、良い。ディセットが待っている。早々に帰るぞ」
 興味を失ったように時田から視線を外すと、ティガは右手を前へ突き出した。驚くべきことに、そこには拳銃らしきものが握られている。胴体が丸くずんぐりとしており、武器というよりは工具として用いられる電動式ドライヴァーのようにも見えた。
「あなたは誰ですか?」
 黒色の男が、右手で眼鏡の位置を正しながら言った。
「興味深いものを持っています。それは <スリングウェシル> の支給品ではないですか?」
「なるほど。お前もただの通り魔ではないというわけか」
「 <スリングウェシル> は、中世ヨーロッパの手工芸系《クラフト》ギルドで実際に使われていた、徒弟制とクラスシステムを導入していると聞きました。あなたは、どのクラスの第三位《ティガ》なのですか? アプレンティス以下には、とても思えそうにありません。ジャーニマンですか。それともクラフツマン?」
「お互い、聞きたいことが色々とあるようだ」
 ティガのその言葉に、男は笑みを深める。
「尋問は強者の特権です。これは日本語で弱肉強食と言います。私の日本語、間違ってますか?」
「少なくとも、私をクラフツマン程度と見たのは間違いだったな。日本語ともども、そこの天カスと一緒に再教育してやるからありがたく思え」
 自らの言葉が終わるか終わらないか、ティガは武器のトリガーを引いていた。回数は、二度。
 しかし、その先制攻撃は明らかな失敗だった。少なくとも時田の目にはそう映る。
 なぜなら、消音装置《サイレンサ》もついていないのに銃声がまったく轟かない。マズルフラッシュの閃光も、排出された薬莢がアスファルトを打つ音も、弾丸が飛び出した様子も、本来あるべき一切が伴われていなかった。
 弾詰まりか。銃の故障か――
 背筋の凍るような戦慄に時田が身を強張らせる一方、当のティガはまったく動じない。
 その理由を時田が知ったのは、敵の身体で見えない圧力が弾けた瞬間だった。重たい鈍器が肉を打つような、低い衝撃音が一度。周囲にくぐもった響きをもたらす。
 ティガの銃から弾丸が射出されていないことは間違いない。
 だが、別の「なにか」は確かに放たれていたのだ。
 それでも、撃たれた男の口元には消えない笑みがあった。着弾の瞬間、跳ねるように身体が揺れはしたが、それを除いてはダメージを受けた素振りもない。殺意の黒色が薄れる気配もない。
 それすらも想定の範囲内であったのか。もともと自分の武器が高い威力を持っていないことを知っていた可能性もある。いずれであれティガは表情ひとつ変えず、なおもトリガーを絞りつづけた。最初の二連射《ダブルタップ》からほとんど間を置かずに次の一発。さらに二発。
 その容赦のなさは、味方であるはずの時田をも恐怖させるに十分だった。たとえ敵でないと承知してはいても、人間を躊躇いなく殺せる精神《メンタル》には意思を無関係に嫌悪と拒絶反応とを示してしまう。本能がそうさせる。先ほどまで一方的に抱いていた彼への安心感は、とうに霧散してしまっていた。
 と、不意にティガの背中が金色に輝き出すのを時田は見た。
 一瞬驚くが、すぐにそれが後方から伸びてきた自動車のヘッドライトによるものだと気づく。
 今度は交差する通りを横切っていく流れではない。対面から確実にこちらへと向かってくる光だった。
 それがなにを意味するかに気づいた瞬間、時田は感電したように顔をあげた。
「やばい!」
 麻痺していた声帯にいきなり負担をかけたせいか、のどに鋭い痛みが走る。
「ティガのおっさん、まだワイヤーが張ったままだ」
「分かっている。どの道、倒れたお前の自転車に気づいて止まるだろう。念のために、いま切断するから離れていろ」
 時田があわてて遠ざかると、ティガはワイヤーに銃を向けた。直後、無音で見えない弾丸が放たれる。張り詰めた弦を弾いたような音が周囲に木霊した。次いで聞こえた風を切る音は、鉄の糸が切断された証拠だ。
 入れ替わるようにエンジンの唸りが近づき、現れた軽ワゴン車が時田の自転車手前で停まる。
「ここ、通りたいんですけど。どうかしましたか?」
 運転席から中年の女性が首を出して言った。
 視界の端でティガが素早く銃を懐にもどすのを認めつつ、時田は自転車に駆け寄る。
「すみません。ちょっとコケちゃって」
 ハンドルを握って車体を起こしながら、時田は曖昧に微笑んでみせる。が、相手はにこりともしない。
「大丈夫ですか?」と、形ばかりの言葉をかけてきた。
「ええ、今どけますんで。ホント、すみません」
 ヘッドライトに照らされた時田の愛車は、前輪のタイヤが無残に裂け、フレームも大きく歪んでいた。折れたスポークはワイヤーに引っかかったときの強烈な衝撃を物語っている。
 とはいえ、クルマの女性は気に留めた様子もなかった。自転車の損傷に気づきすらしなかったのだろう。時田が路肩に引くと、さっさと窓を閉じてアクセルを踏み込む。そのまま二ブロックほど走り、テールランプの明かりは右折のウィンカーと共に角の向こうへと消えていった。
 それを見届けてしばらく、時田はようやく自分の置かれていた状況を思い出した。
「そういや、あいつは――?」
「今ごろなにを言っている。私が銃口をワイヤーに移した時点で、さっさと歩み去って行ったぞ」
 ティガが暗がりの彼方に視線をやる。口調こそ穏やかにも聞こえるが、その双眸は獲物を定めた猛禽のものだった。
「何者だったのだ、あの変態は」
「そんなの……」
 時田はティガと同じ方向に視線を投げる。
 あの夜闇の向こうから、あの男がゆっくりと姿を現すのではないか。そんな恐怖がまだ抜けない。
「それは、俺が訊きたいよ」


to be continued...
つづく